Chapter 04. が死んだ。 兄ではあったが顔も声も知らない。その一方で細々とした仕草や口調はすべて覚えた。それが、同じ顔を持って生まれた「妹」の果たすべき義務だった。もしも彼が死なないままであったなら、そうやって妹のままでいただろう。 「お待たせしました。此方へ」 呼ばれるままに立ち上がれば、じゃらり、両腕をつないだ鎖が鳴る。 薄い帳が開かれる。 「お入りください」 幇という単語が民衆の正義だったのは既に過去のことである、チャイニーズマフィアと訳したほうが世間一般の通りは良いと教育係は言った。世界は机上の地図であり、それをひとつひとつなぞりながら日の射さない部屋の中で「旅行」をしてきた。地図の中心にあったのは、香港。兄が生まれた場所であり、そして死んだ場所。 帳の向こう、円卓の奥に人が座っていた。 無意識に息を呑む。その椅子の意味くらい知っている。座るのは、香港の、頂点に立つ男だ。兄が座るはずだった場所、世界の中心にある椅子に座る男。 当初、兄の世襲が非難されたのは、あまりに異例な若さだったからだ。対抗者として引っ張り出された人物も若いとは聞いていたが、それでも自分たちより10は年上だと思い込んでいた。資質と年齢は必ずしもイコールで結ばれるわけではない。知っている。兄という非凡な実例があった。…そんな非凡が二つも並んだ!? 「こんにちは、。俺は劉小豪。はじめましてと言うべきか」 困惑をよそに、大陸系幇の大半を纏め上げる白龍会の頭は、このうえなく親しげな笑顔を浮かべた。 「こちらにおいで」 「私のようなものが近づくわけには」 「構わないよ。それとも、兄を殺した男の隣は、恐ろしい?」 「はい」 図星だった。 なら感情を露呈させるようなことはしないと思ったが、同時に隠す必要も無いことに気がついた。どのみちはいなくなったのだし、劉は影武者と取り違えることなく本人を殺したのだ。腹立たしいことだが区別はついていた。 正直に頷くと何がおかしいのか劉は低く笑う。 「あれはそんなに素直だったかな。…まあ、いいさ」 「私を殺しますか」 「それを相談するために呼んだんだ。、君たちの祖国について少し確認させてくれ」 「…母親の、ですか」 が少し眉を寄せた。 劉は目を細めて、あいかわらず微笑んだままささやく。 「君たちの父親は先代白龍会会長。母親は日本の娼婦で、その父親が韓国人。既に両親の戸籍からは除外されて中国籍を取得している。半島名李玲綴、4年前に死亡。これで、間違いないね」 「死亡していることだけは保障します」 「母親の両親に会ったことはある?」 「ありません」 「日本語は?」 「こちらの言葉と同程度に使えます」 「俺が行けと言ったら」 「もしもそれが、私の生きる手段になるならば行きます」 突然脈絡をふみはずした言葉にも澱まず、彼女は答えた。 劉が、すっと表情を消す。 「では渡ってもらおう。ただし君のための居場所じゃない。は法的にまだ生きている」 「承知しています」 は、両親の子供として戸籍を与えられた。兄だったから。 は、戸籍を持たない黒該子として生まれた。妹だったから。 兄が死線と同義の頂点に立つ限り、影武者を務めるはずだった妹。もうその機会はめぐってこない。けれどこれから兄という庇護を失い、生きていくためには戸籍がいる。危険すぎる今から抜け出すためには、どうしても必要だ。 そして劉が持ちかけるこの取引も、ただの善意などではないのだ。を次代へと推した者達は少なくない。暗殺という形で王座を奪ったことが知れ渡れば劉の立場も危うくなる。 だからは暗殺などされなかった。が生きていても白龍会の頭には劉が納まった。 別人として生まれ変わるためには死ななければならない。もともと兄の影として生きるべき身だったのだから、いまさら何も変わらないと思った。 そうして、は、もう一度だけ蘇ることになる。 日の射さない部屋の地図から、秘密を抱えたまま、海を越え。 貴方が何もかも赦したって血脈からは逃れられない。 |