Chapter 01.

 
 綺麗な放物線を描いて白球が飛ぶ。
 快晴の空に響く金属音に、ぽつんと窓際の席に座っていた生徒が顔を上げる。手元にはピルケース、机の上にはプリントが二枚。しばらくぼんやりと歓声を聞いて、やがて再びに片方の紙面に視線を落とした。
「怎、…どうしよう」
 無意識に言いかけた言葉に気がついて如月は反射的に言い直す。ここは日本だ。
 入部届、と書かれた下、記名欄も部活欄もしっかりと埋まっている。決定事項にどうしようも何もないのだが、それでも、まだためらっている。男子校の、野球部。しばらく前に船の中で、呆れたように言われた台詞を思い出す。
        だってあんた女でしょ無理!
「女ねえ…」
 もう体温と馴染んでしまったピルケースをながめて、溜息を吐く。
 制服の上から下腹部の傷痕を撫でて、もうひとつ。
 臓器が無くなったら、もっと色々大変なことになるんじゃないかと思ったけれど、抗生物質やら何やらで薬漬けになっただけだ。熱が高かったのは最初の三日。死線を越えたら驚くほど普通の日常が待っていた。
 上半身裸になっても、たぶん誰も女だとは思わないだろう。胸の下に傷。乳房のほとんどは脂肪の塊だというのは本当だった。抜き取ってしまったら、ほらこんなに薄っぺらい。
(「俺」はこんなにも正しく雄の形だ)
 
 受容するべきだ。
 
 これから庇護を求める人に近づく。そのことに対する口実として。
「…悪い人じゃなさそうだし?」
 菖蒲、監督。事前に聞いた話の中では「小宇(シャオウー)」と呼ばれていた。
 言葉を交わした感触で、この人となら上手くやれそうだと感じた。監視者と対象物だけじゃない関係を築けたらいいと思った。誰でもいいわけじゃなくて、あのひとは、自分と同じにおいがしたから。
 いいかげんに覚悟を決めよう、とプリントに手を伸ばした瞬間だった。
 
 

 ば
  ばた 
 
 忙しい足音がして教室のドアが開かれた。お世辞にも丁寧とはいえないその動作で、びしゃん!と酷い音がする。一年教室に入ってきて迷わず机の中に手を突っ込むのだから、たぶんクラスメイトなのだろう。
 だが、しかし。
「…あの」
「あン?」
「誰だっけ」
 隣の席なのだが、まったく、見覚えがない。
 少年というには随分大人びた(態度がでかいとも言う)クラスメイトは物凄く厭そうな顔をして、みやなぎ、と短く言った。
「みやなぎ…あー、もしかして野球部希望?こういう字?」
 机の上から一枚をとりあげて、鼻先につきつける。
 一瞬の沈黙のあと、御柳はおそろしい勢いでプリントをひったくった。
「なんでおまえが俺の入部届持ってんだよ!?」
「掃除前に落ちてたから拾っておいたんだよ」
「さっさと渡せっつーの」
「無理。俺、その名前読めなかったし、聞いたら皆いないって言うし、だいたい君と野球部のイメージにギャップがありすぎ」
「…てめーまさかコレを引き回したとか言わねーよな?」
 うさんくさそうに見下ろす御柳に肩をすくめる。
「そこまでバイタリティないもんで、2人で止まった」
「ハッ」
 苦笑まじりの台詞を嘲笑とも溜息ともつかない呼吸で切り捨てて、御柳は黒板横の時計に目を走らせた。
「あと5分…クソったれ!」 
「え、何かあんの」
「入部テスト!」
 ほとんど怒鳴るように言って御柳はまた教室を飛び出していく。
 後姿を呆然と見送ったは、もういちど、自分のプリントに視線を落とす。
「…入部テスト…野球部…」
 数秒後、ドアは三度目の乱行に悲鳴を上げることになる。
「ちょっと待て御柳、俺も行く       !」
 先程より軽い足音が過ぎ去ると、カーテンが春の風に音も無く揺れる。
 やがてグラウンドからは賑やかな声が聞こえた。
 
 
 その全てが偶然だったとしても同じマウンドに立つ日々が来る。

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