あなたの色に染まれない│宝山万秋 さま
「大兄上、髪結って!」
「ま、またなのか。なにも拙者でなくとも、小間使いにでも頼んだ方がよほどうまいだろう?」
「嫌。この髪型は大兄上が決めたんだから、大兄上が結ってくれなきゃだめなの」
若い娘らしい破綻した理論だが、こうなるともう関平は逆らえない。
仕方なしに妹の差し出す櫛を受け取った。
こんなやり取りが起こるようになったきっかけは、しばらく昔、彼女が今よりもうちょっとだけ幼かったころのことだった。
「髪型を変えたいの。もっと、大人っぽくしたいの」
もうこんな頭はうんざりだとばかりに、団子に結った髪をくしゃくしゃかき回して銀屏は兄たちにからんだ。
彼らは皆その話題に、三者三様乗り気はなかったが、しかしこれが末っ子の強みというか、彼女の話の途中で勝手に席を立つようなことは、一応、彼らはしない。
「今のままで、十分かわいらしいよ。急いで大人の女性になる必要などないと私は思うな」
極上の笑顔つきでそう言ったのはもちろん、すぐ上の兄だ。
城内の娘たちならば、その一言できゃあきゃあ騒いでごまかされたろう。しかしさすがに見飽きている。それに、こちとら実の妹だ。色仕掛けは効かない。
自ら髪を花で飾っているぐらいの彼なのだから、妹の髪型に関してもっと実のある提言があってしかるべきだ。つまり、愛想は例によっていいが、関心は特にないということだ。
そこで次兄に視線を移すと、彼は読んでいる書物から斜めに少しだけ顔を上げて彼女を一瞥、そして速やかに元に戻した。
それはごく短くさりげない動作で、しかもその間彼はなにも言わず表情すら変えなかったが、しかしたったそれだけで、口で言うよりずっと明瞭に、「馬鹿馬鹿しい」と彼女に伝えた、
まったく、人をむかつかせることに関してはこの兄は間違いなく天才だと、銀屏はそう思う。
すると、やはりこの人しかいない。
「ねえ、大兄上」
「えっ、いやしかし。拙者は、そうしたことにはとんとうとくて」
そんなのはとうから分かっている。それでも、いや、それだからこそ他の二人よりよほどましなのだ。
「なんでもいいの。どんなんでもいいの。大兄上の好きな髪型にする」
「だが拙者はどうも」
「大人っぽくて、かっこいいのがいいの。ね」
「…。大人っぽくて、かっこいい…?」
どうやらその言葉は奇跡的に兄の琴線に触れたらしい。
「では、こういう。この辺りがこんな風になっていて、それで、」
なにやら身振り手振りで伝えようとしてくるが、一向に要領を得ない。
「はい、大兄上。私にやってみて」
髪結い道具一式を差し出す。
「いやそんな」
「ね。いいから」
なにがいいからなのか。要するに彼に拒否権はないのだ。
不承不承ながら関平は櫛を取った。
左側頭の髪をひとつかみ手に取ると、道具類の中から結い紐を一本選び、それで髪を螺旋状に巻いていった。
そしてその髪束を環状にして側頭に留める。
見よう見まねのぎこちない手つきで、何度もやり直した挙句ではあったがどうにかやりおおせると、正面から眺めて「うん」、と関平はうなずいた。
その顔は照れくさそうながら満足気で、銀屏はすっかりうれしくなった。
「どう? 小兄上」
「とても大人っぽくなったね。まるでつぼみがあでやかに開いたようだよ」
そう言って、関索は自分の髪飾りの花を少し分けてくれた。
しかしだ。この兄の評価はあてにはならない。
女と見れば必ずほめるのだ彼は。牝馬だろうが乳牛だろうがほめるに違いない。
とりあえずほめられておきたかったので聞いてみただけだ。
一方、関興はなにか怪訝らしい顔をしていた。
批評家としては次兄の方が圧倒的に信用できる──九分九厘けなされるとしても。しかし先ほどのことがあるので、銀屏は関興を無視した。そして鏡をのぞき、自分で満足することにした。
──うん、いいかも。
「大兄上、こっちも結って」
おろしたままになっている右側の髪を指す。
「えっ、そちらもするのか」
「片方だけじゃ釣りあいがおかしくない? 両方した方がいいもの」
関平はそのままにしたい気配だったが、具体的に理由を説明できずにいる。
その時関興は兄の様子を見て、やはりな、と言いたげに皮肉っぽく、こっそりちょっと笑ったが、そうするうちに関平は折れて妹の言う通りにした。
銀屏はうれしくて、早速みんなに見せて回った。
家族に家人、遊び友達のところにも行った。
しかしその幸せも、張家の従姉に会うまでの束の間のものだった。
そう。兄がしてくれたその髪は、兄がしつこく片思いしている幼馴染が当時していた髪型だったのだ。
そしてそれは左頭だけだった。
乙女心を深く傷つけられた銀屏は、それから仕返しとしてちょくちょく関平に髪を結わせることにしたのだ。それで今朝もこうしてやってきた。
兄は嫌がるというわけではないが、女性の髪をいじることに抵抗があるらしく腰が引けている。それにぶきっちょの彼は髪結いが一向に上達せず、いつまでたってもぎこちなく櫛を使っている。今では銀屏が自分でやった方がよっぽど早いしうまい。
でもそれでいいのだ。
兄が快く引き受けててきぱきと結ってくれるようなら意趣返しにならない。
しかしこれぐらいではいまだ制裁が十分でないと考えている彼女は、「あーあ」と大きく嘆息し、毛先を指でくるくる巻いていじりながら言った。
「髪、切ろうかな。ばっさり短くしちゃおうかなあ」
「えっ?」
「だって大兄上。この髪型、本当は短い髪でするんじゃない?」
──それにどうせ平兄上は短髪の方が好きなんでしょう?
続けてそう言ってやるつもりだった。勘の鈍い兄には、いい加減、それくらい言ってやらなければ通じないのだ。
彼女はかなりとげとげしい気分になっていた。
しかし結局、続きは言わずじまいで終わった。
「反対だ! 拙者は反対だ!」
兄が断固としてそう言い放ったからだ。
いつも妹の言いなりの兄が、かつてないような強い調子で重ねて言った、
「そんな、そんな長くて立派な髪を切るだなんて、拙者は絶対に反対だ!」
「大兄上」
その日、彼女はうきうきして夜がふけても眠れず、寝床に上がってせっせと髪をすいていた。
──大兄上があんな風に思ってたなんて。
兄は自分のことなどどうでもいいのだと思っていた。
いや、兄は優しいし、妹を大事にしてくれる。いくらでもわがままを聞いてくれる。
でも兄はいつでも父に夢中で、妹には別に頓着ないんだろうと思って、だからちょっとひがんで意地悪くなっていた。
だけど考え違いだったのだ。
──でも、”立派な髪”なんて、変なほめ方。大兄上ってば。ふふ。
しかしそれは仕方ないことだ。兄は女性の髪をほめたことなんかないのだ。
そんな彼が一生懸命考えて繰り出したに違いないへんてこなほめ言葉がむしろ嬉しい。
自分のために考えてくれたのだ。慣れないまねをして。自分のためだけに。
三番目の兄のように、歯の浮くような定番の美辞麗句で流暢に女性をほめたたえるようになられてはむしろ困る。今ちょっと想像しただけで胸焼けした。
──大兄上はあれでいいの。
あの要領の悪い兄が好きなのだから。
──これからは、髪ちゃんと手入れしようっと。
だって、兄が見ているのだから。
特に理由もなく伸ばしていた髪は放ったらかしで、よく見れば毛先が赤茶けてしまっている。
──どうしたらいいかな。
もっと美しく、かつ艶やかにできないものか。
──そういえば、父上のひげって傷んでるってことないけど、なにか特別なことでもしてるのかな。
父のひげはいつも大変きれいだ。
銀屏はその様を思い浮かべた。
そう。父のひげはいつもとってもつやつやだ。
あんなに長くて、それで、黒々としていて、
「立派…」
兄の謎の語彙の出どころが不意に分かって、銀屏は唖然とした。
花も恥らううら若き乙女の髪を称賛するに、父親のひげをほめる言葉を流用するとは、なんと不届きな兄だろう。
銀屏は腹を立て、もういっそのこと丸坊主にでもなって兄を嘆かせてやろうかと思った。
でもできなかった。
兄が自分の髪型を見てとってもうれしそうにするので、できなかった。
それに考えようによっては、兄は用いうる最上級の言葉でほめてくれたのだとも、言えなくもない。
そんなわけで、銀屏は正面切って兄を責めることもできず、ただ彼を背後からにらんで呪詛するのみだ。
──もう! 大兄上の馬鹿! 鈍感!
と。
しかしそれが兄のいいところなのだから、始末が悪いのだ。
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