まる子がいなくても毎日朝が来ることに変わりはなかった。
日々は味気なく無駄に時間だけが過ぎ、和彦は仕方なく食事をし、仕事をし、夜になれば寝る。無駄な時間は人生の贅沢などとあの子は言ったが、彼女がいなければ無味なことを再確認するだけだった。
唯一ももこの残していった荷物を毎日確認して、なにも変わっていないことに安堵し、その時だけは人間らしい感情が蘇る。
一緒に過ごしていた時間が愛おしすぎて、旅行に行った思い出が鮮やかすぎて、ぽっかりと空いた穴をいつまでも埋められずにいるのが現状だ。
興信所でも使おうかと一瞬考えたものの、無理強いをして連れ戻すのもなんだか違う気がして。
結局何も出来ずに無為な時間だけが流れていった。











『さくら?アイツ、なんかしたのかい?』
思い切って、とうとう永沢に電話をかけてみた。最初に彼女に和彦のことを紹介した彼ならば、なにかしらの情報を持っている気がしたからだ。
「随分前に彼女に僕のことを教えただろう? 今頃になってなぜなのか気になってね」
『そんなこと。キミも煮え切らないやつだけど、さくらも輪をかけて生煮えのやつだからね。きっかけがあるならちょっと弾みをつけてやろうかと思っただけさ』
彼によれば、まる子も最初は和彦を頼ることに難色を示していたらしい。前途ある同級生のところに得体の知れない女が転がり込んだら、和彦の世間体的にも外聞が悪いのではないかと考えたのだという。恋人でもない男のところに一時的とは言え同居願いをするのも、道徳観念的にどうなんだと説教されたらしい。
『でもよ、どうせキミもさくらのことが好きなまんまだっただろ』
「え」
『同窓会の時も、物凄く気にしてたもんな。さくらが来ないと知った時のキミの落胆ぶりときたら、録画してどっかに投稿したいぐらい面白かったよ』
一体どこに投稿するというのか。というか、そんなにあからさまに感情を表に出していたかと思うと逆に恥ずかしくなってきた。
『アイツだって、たぶんキミのことが好きだと思ったからさ』
「それは……どうかな?」
あの瞬間、想いが通じあったと思った。身体を重ねた時も好かれていると感じはしたが、その顛末がこの体たらくである。
『さくらはああ見えて気にしいだからな、キミに迷惑でもかかると思ったんだろう。自分はずっと忘れられなくて、なんだかんだ他のヤツと付き合ったことなかったし』
────ああ……。そうか、だからあの身体はまだ。
こんな時だけれどニヤける。やっぱり想われていたんだと改めて感じて嬉しくないわけがないじゃないか。
「とにかく彼女を見かけたら、僕に連絡をくれたまえ」
『そしてキミはどうするつもりだい?』
「僕は────」
緩めたネクタイを締め直し、スーツの上着を羽織った。
「外堀でも埋めにいくとするよ」
『外堀?』
聞き返してきた永沢に応える前に通話を切り、早速レンタカーの手配を始める和彦だった。







「まったくアンタは、急に帰ってきたと思ったらゴロゴロしてばっかり!」
「仕方ないじゃんか〜、だってやることないんだもん」
ももこの母・すみれは床に寝転がるももこを仁王立ちで見下ろしながらため息をついた。
一ヶ月前に家出をした挙句、昔の級友である花輪和彦の家に転がり込んでいると聞いた時には、目ん玉が飛び出るかと思った。
まさか花輪のお坊っちゃんに迷惑を掛けていると思わなくて、こちらからご実家に詫びの電話を入れようかと悩んだくらいだ。
結果としてももことは別に和彦からも連絡が入ったものだから、すみれにはもう何も言えなくなった。
だいたいがふたりともいい大人なのだ。何か間違いを起こすも起こさないもふたり次第なのだと、口を出すのを止めた。
そして数日前、そのももこがふらりと帰ってきた。
表情も冴えず、元気がない様子だから心配をしたけれど、何も言わなかった。ももこもいつまでも子どもではないのだ、言いたくないことのひとつやふたつあるだろう。
しかし帰ってきたからと言って何をするわけでもなくただゴロゴロとしているのは頂けない。そのことだけは言わせて欲しい。
「働く気がないんなら、さっさと見合いでもして嫁に行きなさいー!」
「そんな簡単に嫁に行けるわけないし、あたしゃ漫画家やってるんだってばー!」
そんな時だ。


ピンポーン


大声の応酬の最中、呑気な玄関のチャイムが鳴った。
あらあらと言いながら玄関に向かう母を尻目に、ももこは不貞腐れたように再びごろ寝を始める。
こっちとら売れなくても漫画家なのだ。一応仕事はしている。そして結婚なんて────。
ポロリと涙がひと粒落ちた。なぜ。いや、見て見ぬ振りをしてるだけで、そんなの分かってる。
本当に自分の方を向いて欲しかったのなら、もっと違う方法があったはずだ。
ももこは馬鹿だ。和彦も馬鹿だ。子どもの頃の感情に引きずられて、大人らしく配慮のある関係を築くのを止めてしまった。


────でも、後悔なんてしていない。


無意識に下腹部をさすっていた。排卵日ではなかったけれど、ももこのナカに確かに吐き出された和彦の跡────。
「まる子ー!」
玄関から母の慌てた声が響いた。こんな夜遅くに近所迷惑極まりないじゃないか。
「早く! ちょっと来なさいッ」
え、なんだろう。なんだかよくわからないけれど、凄く狼狽えている。こんな母は滅多にない。
「は、はいぃ!」
急かされて転げそうになりながら玄関に向かあうと、広い土間に佇んでいる人物を見て心臓がきゅっと痛んだ。

濃紺の仕立てのいいスーツに身を包んだ長身の彼は、立っているだけで育ちの良さが滲み出ている。切れ長の瞳は優しげに見えて、実は我が強い。色素の薄い髪の毛を右に流して整えた髪型は、昔からちっとも変わっていなかった。
だから久しぶりに彼を見た時、あの頃の気持ちが蘇ってきた。
胸が甘い疼きで溢れてきた。
「花輪くん……」
あの日久しぶりに見たのに、ちっとも変わっていなくて嬉しかった。
自分から逃げ出した癖に、今も彼に逢えたことが嬉しくて堪らない。
「さくらクン、ここにいたんだね」
ほっとしたような彼は、同時に泣き出しそうな弱さを見せている。大の大人がと思うのに、そんな顔をさせているのが自分なのかもしれないことが嬉しくもあり申し訳なくて、まっすぐと見返せなかった。
「なんで花輪くんがいるの」
しかもこんな時間に。午後十時三十分。東京から静岡まで約二時間半の距離を。
「今日はさくらクンのご両親にお話があってね」
「うちの親に?」
と言っても、父のヒロシなんかは半分船を漕いでいるのだが。
「うん。キミがここにいるとは思わなかったが、ちょうどいい。お父様を呼んできてくれるかな?」
言われるままに寝ぼけた父を呼ぶと、高級なスーツなのも構わずに土間に膝をついた和彦に、親子で目を剥いた。
「ちょ、花輪くん?」
ももこの戸惑いにいいからと手で制すると、更に手をついて土下座したではないか。
「さくらクンのお父様、お母様」
ちょっとちょっとちょっと。
しかし和彦は止まらなかった。


「どうかお嬢さんと結婚させて下さい」


いきなりの申し出に、家族三人で思わず変な声を上げてしまったことを許して欲しい。
「ちょちょ、花輪くん、なにいってんのさ!」
「キミが僕から逃げ回るなら、逃げられないようにするだけだが?」
「てかプロポーズとかされてないしッ」
「だから今するよ」
まるでおとぎ話の一場面のように恭しくまる子の手をとると、その薬指に想いの丈を込めて口づけを落とす。


「どうか僕の妻になって下さい、ももこさん」



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