タイミングというものは、意外なところから意外な拍子でやってくる。 同居を始めてそろそろ一ヶ月が経とうかという頃だ。 「花輪くん、おかえり〜」 「ただいま、さくらクン」 いつものように玄関口での出迎えが最早定番となっていた和彦だったが、今日はなんだかいつもと違う気がした。 「……?」 匂いが、する。甘辛い。幸せを孕んだ香り。 「えっへっへ〜」 笑うももこの指先が、今日は墨に汚れていなかった。 日頃、漫画原稿を描いている彼女の指先は夢を叶える努力の痕跡に染まっているのに、今日は。 「どうしたんだい?」 ネクタイを緩めながらリビングに入ると、隣接するキッチンでは小鍋から湯気が上がっているではないか。家事代行職員が作り置きしたものは、必ずタッパーに入れてレンジで温めるだけの状態にしておくのに。 なぜかは、彼女の表情を見てわかった。 「もしかして、夕食────」 「いや〜、あたしもやる時ぁやるんだからね!」 そう言いながら小鍋の中身を大皿に盛って食事の準備を始める姿に、和彦の心がじわじわと満たされていくようで。 急いで部屋着に着替える頃には、すっかり食卓は整っていた。 大きめに野菜を切った肉じゃが、ほうれん草の胡麻和え、きんぴらごぼうに冷奴、きゅうりの浅漬けとワカメと長ネギの味噌汁────。 「これは……」 「花輪くんの口に合うかどうかわかんないけど、あたしがそろそろレンチンご飯に飽きてきちゃってさぁ」 美味しかったんだけど、どうせなら出来立てが食べたいじゃん。そう言いながら手を合わせて、頂きます。 和彦も、ももこに習って手を合わせたけれど、その手が小さく震えていることに彼女は気づいていなかっただろう。 ひと口、じゃがいもを口に運ぶ。少し甘めの味付けは、口の中でほろりと崩れて身体に沁みるよう。 「どう? 食べられる?」 「────美味しいよ。さくらクンにこんな特技があったなんてね」 「特技ってほどでもないけど、ちょっとくらいはなんか作るかな。お母さんがうるさかったし」 ももこにあって、和彦にないものだ。 「僕は初めてかもね、母の味」 「花輪くんは……」 そっか。そう呟いて、まる子はにっこりと笑った。 「じゃあ今度からあたしが作れる時は作ってあげるよ。ただし締切近くはナシね!」 この日からももこの味付けが、和彦の母の味になった。 食事を終えて二人で食器の片付けをし、食後のコーヒーに口をつけたあたりで和彦が提案を持ちかけた。 「ところでさくらクン」 「はいはい、なんだい花輪くん」 ふたりで過ごす夜も随分慣れたものだ。膝頭の距離が縮まった。 「急なんだけど、来週から夏休みを貰えたんだ」 いわゆるリフレッシュ休暇というやつが約一週間。来週の中日である水曜日から始まるという。 「いいじゃんいいじゃん」 「それでね、例年なら海外にでも行こうと思うんだけれど、今年は伊豆の別荘でゆっくりしようかと思っているんだ」 「行っといでよ〜。普段一生懸命仕事してんだからさぁ」 あたしは原稿してるし、というももこを見つめながら和彦は唇を薄く舐めた。緊張しながら己に言い聞かせる。さあ、ここからが本題だ。 「さくらクンも一緒に行かないかい?」 放たれた言葉はしばしの時間を要してようやく彼女の脳に届いたらしい。 「あ、あたしゃ原稿やるし……」 「もしキミが嫌じゃなければでいいんだ」 強気になんてなれない。もしここで引かれたら追いかけないのが、ふたりの生活を守る為のルールだ。 同居をしているのと、連れ立って旅行をするのとでは明らかに意識が違う。 同居は生活のスタイルだが、旅行は意味を生む。非日常に乗り出す相手は、どうでもいい人間を選べない。例えば意識している人間だとか。 和彦はこの一ヶ月で十分ももこを意識し始めてきた。昔と変わらない天真爛漫さと、成長することで一層深くなった思いやりと。 触れたい。抱きしめたい。 それらを赦されるかどうかの距離をまずは測る必要があった。 今回の伊豆旅行は、まさにその試金石なのだ。 ももこはまだ迷っていた。その迷いも理解出来る。しかしお互い、もう少しだけ踏み込んでもいいんじゃないか? 「あたしは────」 ごくりと喉がなる音がやけに耳についた。緊張している。ただし和彦だけではない。 「花輪くんの邪魔にならないなら、行ってみようかな。ほら、滅多に行かない場所だしね!」 詰めていた息をようやくほどいた。肩から力が抜けて、初めて自分が力んでいたことに気づいた。 「オーケー。じゃあ来週の水曜日から二泊三日でどうたい?」 「楽しみだねぇ、温泉!」 「あぁ、物凄く楽しみだ」 そうやってせいぜい和彦を意識して欲しい。 賽は投げられた────。 |