──空腹で倒れそうだ……。

和彦はとっぷり暮れるまで飲まず食わずで事務仕事をしていたものだから、軽く眩暈をもよおしている。それも明日の出張に備えたものだから仕方ないのだけれど、それにしても疲れた。
同じ部署のお局様が飴をくれたが、結局帰り道でコンビニに寄ってしまった。買い食いなんて学生みたいだな、なんてこっそり笑いながら、セットでさくらももこのことを思い出した。……いやいや、もうよそう。
今日は家事代行サービスが家に来ているはずだから、家に帰れば何かしら食べるものはあるだろう。自宅まで頑張れ、和彦。
職場から乗り換えて三十分、駅からすぐのところにあるマンションの一室が和彦の城である。
マンションの明かりを見るとホッとした。
そして広いエントランスを通り、自室のパスワードを入力しようとした時だった。


「────いた!花輪くんだ!」
「は?」


突然掛けられた声にも驚いたが、間髪おかずに振り返る暇もなく背中に衝撃が走った。何かが突進してきたのだ。
「……! だ、誰だ?」
「あたしだよぉ。もう忘れちゃったのかい、セニョール?」
混乱の極み。
状況に追いつけない頭を置き去りに、恐る恐る飛びついてきた人物を見やると、心臓がぎゅっと掴まれた。気がした。
「久しぶりだね、花輪くん!」
「さくらクン……」
逢えば懐かしさが込げてくると思っていた。
しかし実際は、あまりに変わりのない彼女の佇まいに、彼女だけが長い年月をひとっ飛びにここまでやってきたのかと思わされる。
何も変わらない。肌のふくよかさも、髪の毛の色も長さも、相変わらず全身で嬉しいと弾ける笑い方も。
少しだけ変わったのは────。
「レディ、無闇やたらと男に抱きつくものじゃないな」
優しく身体を話すと、彼女は小首を傾げながら、ひひひと笑った。
「変わってないねぇ、花輪くんは」
「そりゃあ大人ですから。で、今日はどうしたんだい突然? よく僕の住んでるところが分かったね」
同窓会にも来なかったのに。今のももこと和彦に接点などないのだ。
「永沢から教えてもらったのさ」
「あぁ……、そう言えば彼も同窓会に来てたっけ」
名刺の交換をして、今度改めて飲もうという話をして────。
「しかしなぜ僕のところに?」
「いや〜、実は物凄〜く頼みずらいんだけど、アンタしか頼みの綱がなくってさ……」
「深刻なのかい?」
出来れば力になってあげたい。
彼女は和彦が自由を味わうきっかけをくれたのだから、その恩返しになればいい。
しかしももこの申し出は、和彦の予想を遥かに上回って大気圏を突き抜けるほどに度肝を抜くものだった。


「花輪くん……。どうかあたしを、アンタの家に住まわせておくれよ」
「────え?」







事の顛末はこういうことである。
高校卒業後、ももこはプロの漫画家になるべく日々精進していたのだが、何年経っても箸にも棒にもかからないていたらくに、とうとう母が激怒したらしい。いいだけ親のスネを齧って好き勝手やっているのだから当然なのだろうが、それにしても働くか家を出るか見合いをしろとは究極の三択なのではないか。
「穂波クンはどうしたんだい?真っ先に浮かびそうなのに」
「たまちゃんは高校卒業してから、アメリカに留学してそのまんまなんだよ。そしてもう結婚しちゃうんだよ〜」
それはびっくりである。どおりで彼女も同窓会に来ていなかったわけだ。
「とりあえず部屋を探そうと思うんだけど、急だからまだ全然見に行けなくてさ。たまたま永沢に会ったら、花輪くんがいいとこに住んでるから行ってみるといいっていうから……。お願いだよ、新しい部屋が決まるまであたしのこと置いてくれないかい?」
永沢、なんて口の軽い男なのだろう。
「僕は構わないが……」
サイフォンのコーヒーをカップに淹れながら考える。
いくら大人同士と言えど、なんの関係も持たない男女がひとつ屋根の下に何日も過ごしていいものなのだろうか。
もちろん和彦の理性は揺るがない自信はあるのだが、もし万が一間違いが起こった場合はどうしたらいい? 男女の同居は同棲、そのままなし崩し的に関係を結んでも文句は言えないわけで。
ポーカーフェイスを決め込んでいたはずなのに、こちらの迷いが滲んだのか。眉を寄せたももこがカップに口をつけながらしゅんとしている。
「ごめん、彼女ぐらいいるよね。花輪くん、カッコよくなっちゃったし」
「……さくらクンから見て、カッコよくなってるのかな僕は?」
少し、胸の奥が疼く。
「え〜、カッコよくない? なんか大人になっちゃって、やっぱり都会は違うのかねぇ」
そういう解釈か。やっぱり彼女は彼女のままだ。
嬉しい気持ちと残念な感情が入り交じってしまったが、試すように和彦は提案を持ちかけた。
「────あいにく僕は今、フリーだ。だからさくらクンが気にならないのなら、ここに同居してもいいよ」
「え?」
さあ、選ぶんだ。
ももこが和彦のことをどう思っているかなど知らない。けれども和彦は、ただももこに逢いたかった。
もしももこが少しでも和彦を異性として意識してくれるのならば、僅かでもいい、躊躇を見せて欲しい。そしてそれを見せたならば、もれなく摘んであげるから。
「好きなだけいればいい。僕は出張も多いからよく家を空けるし、ひと部屋あげるからさくらクンの好きにすればいい」
「光熱費とか家賃……」
「僕を誰だと思ってるんだい、ベイビー?」
さあどうする? こんな好条件など、彼女の人生においてこの先もないはずだ。ちらりと上目遣いで和彦を伺うももこは、いくら容姿が変わっていないと言えど、それなりに年相応なオンナの仕草を見せてくれる。
隣りあっていなかった長い時間、彼女にどんなゆかいなことがあったのか知りたくなってきた。どんな人間と出会い、笑って泣いて怒ったのか。
まるで恋をしたように、ももこのことが知りたいと思った。思ってしまったのだ。
「もしかして、彼氏がいるのなら……」
「ないないない! それはないってばッ」
そもそも彼氏がいるのなら、画材道具一式持って東京まで出てはこないだろう。
さり気なく相手も現在フリーなことを確認するあたり、和彦の恋愛経験が垣間見えるというものだ。
「じゃ、じゃあ……ここに居させてもらっても、いい、かな?」
今更おずおずとしている様子がおかしかった。最初に大胆な提案をしたのは彼女の方だというのに、さすがに友達とはいえ、なんでもない男と住むのはとんでもないことだと気づいたのだろう。
「ようこそ、さくらクン。よろしくね」
さっと手を差し出すと、突き出された手と和彦の顔を見比べる。吸い寄せられた小さな手を握り込むと、ももこはほんの少し頬を上気させたように見えた。


そうしてふたりの奇妙な同居生活が始まったのだ────。



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