なんとも言えない面持ちで、ももこは渡された生ビールのジョッキをぐいっと煽った。その隣には花輪和彦が赤ら顔ですでに船を漕ぎ始めている。
まだ開始一時間も経ってないぞ。酔っ払うには早すぎるんじゃないのか? 弱すぎるにも程がある!



現場は中学生卒業以来の同窓会。
案内の葉書に書かれた場所の店名は初めて聞くすこぶるシャレオツなネーミングだったから、さぞかし小洒落たレストランなのだろうと少しだけお洒落をしてきたのに。
左を向いたら壁におすすめメニューの張り紙多数。
右を向いたらビール会社のレトロなポスター。しかも可愛い子ちゃんが水着姿で、なかなかのナイスバディ……じゃなくて!
とにかく洋風な店名とは裏腹に、漂う炭とタレの香りが食欲をそそる大衆居酒屋だったのだ。一次会の会費が飲み放題のくせに安い時点で疑うべきであった。
そうじゃなかったらみんなみたいにめちゃくちゃ普段着で来たのに! 出版社の表彰式の為に買ったちょっといいワンピースも着てこなかったのに! 気合い入れて髪も顔も作ってこなかったのにー!



と、まあ今更愚痴を叫んだところで時すでに遅し。ならば飲み放題に乗っかってガンガン酒を飲んでやろうというところなのだが、いかんせん心配の種がすぐ横にいらっしゃる。

花輪和彦。

なぜか小中と同じ学校に通っていた、生粋のおぼっちゃまの彼も、ももこと同じように上等なスーツに身を包んでいる。いや、彼に限ってはこれが普段着なのかもしれないが。




ストライプのスリーピーススーツを着こなした彼とは、偶然この店の前で再会した。

昔から背は高かった印象はあるものの、久しぶりに会った彼はただ上背があるだけではなく、しっかりとした身体つきの大人の男に進化を遂げていたのだ。かっちりとしたスーツに、つま先が尖った深い色の革靴がこれ以上なく似合っている。いい歳の取り方をしているなと思った。
お互い上から下まで満遍なく確認してしばし間を置くと、彼の方から屈託のない笑顔つきで名前を確認されたのが最初。

「失礼。もしかしてレディは、さくらももこクンかな?」
「そういうアンタは、花輪クン? でしょ」
「ご名答。やはり隠しきれないのかな、高貴なオーラみたいなものが」
「……アンタは相変わらずだね……」

そうそう、子どもの頃からキザでちょっとズレた人だった。
あれから十年は経つというのに本当に変わらないのだなと思うと、それが妙に嬉しかったり。

「さくらクンはずっと清水かい?」
「ううん、今は東京にいるよ。漫画描いてるんだ、あたし」
「漫画家? 素敵じゃないか! 僕も今は都内に住んでいるのだけれど、もしかしたらどこかですれ違っているのかもしれないね」
狭くて広い東京だ。そんなわけがない。
けれども彼のこういう所が、今になって憎めない愛すべき個性なのだとわかるから歳はとるものである。
「そのワンピース、素敵な色だね。襟ぐりも繊細なデザインでよく似合ってる」
「あたし自身はセンシティブに程遠いけどね。ふふ、ありがとう。花輪クンは────」
店のドアを開けようと把手に掛けられた左手に目がいった。薬指にシルバーの細いリング。ああ……。
「……結婚」
「うん?」
「してるの?」
一瞬動作を止めてぽかんとした彼は、ようやく合点がいったかのように、ああ、と相槌をうった。
「これ?」
そう言って左手のかざすと、指輪が鈍く煌めいた。眩しい。結婚適齢期真っ只中に置いても縁のないももこにとっては、目に痛いほど眩しい。
「ま、まあするよね、結婚ぐらい。この歳になったら同級生半分くらいは既婚者だっていうし」
「さくらクン、」
何かを言おうと口を開いた和彦を置いて、ももこが先に店の中に入ると────冒頭のような店内が広がっていたというわけ。




「それにしても花輪のやつ、酒に弱すぎだブー」
ブー太郎じゃないが、確かにももこも心配になるほど弱い。
駆けつけ一杯も飲まないうちに白い肌がみるみる染まって、二杯目までなかなか辿り着けないのだ。対するももこは、すでに四杯目のジョッキを空けていた。
ここでもう飲めない、なんて可愛らしいことが言えれはいいのだろいけれど、言えないのがももこだし、案の定ペースと酒量に周りの男性陣たちが引き始めている。せっかくの飲み放題なのに、なぜに男の目などを気にしなくてはならないのか!
「こんなんで仕事大丈夫なのかな、彼」
永沢の言葉に、先程もらった名刺を眺めた。そこには花輪物産における和彦の役職が書かれているわけなのだが……。
「飲み会とかあったら、事前にヨーグルトとか食ってそうだよな」
「そこまでしてッ」
「いやぁ、仕事での飲みでヨーグルト準備してる花輪とかウケるわ」
「おいらはカスピ海ヨーグルト作ってるブー!」
ぎゃはははは、と下品な笑いが沸き起こる中、ふらりと立ち上がる話題の人物。
「は、花輪クン、大丈夫?」
思わず声をかけると、へにゃりと笑いながら小さく頭を振った。
「大丈夫、じゃない」
「ダメじゃん!」
「うん。だからもう、帰るよ諸君」
会費はすでに払っている。着てきたコートを脇に抱えつつ歩く千鳥足が見ていられなくて、ももこも咄嗟にコートを引っ掴んだ。
「なんだ。さくらも帰んのか?」
「うん! ちょっとさアレ、心配じゃない?」
「送り狼になんなよ〜」
「どっちがだい!」
だいたいこの人、左手に結婚指輪してるし!
追いかけてしまったのは、弾みだ。別にそれ以上でもそれ以下でもなくて。この心配は友達としての心配。────なんだと、思う。


「花輪クン!」
店を出たすぐのところをフラフラ歩いていた和彦だったが、ももこが名前を呼ぶと足を止めておもむろに振り向いた。それからふわりと笑った彼を見て、

──── 一瞬、ちくりと胸が傷んだ。

子どもの頃の面影を残す笑顔と、薬指の指輪。

「どうしたんだい、ベイビィ?」
言葉とは裏腹に幸せそうに笑う和彦。酔いの上機嫌がそんな顔をさせているのかもしれないけれど、どうしてそんなに嬉しそうなの?
「────だって。酔っ払った花輪クン、心配だから」
心配だ。いつでも幸福なはずの彼が大切な人にもっと愛されればいいのにと願ってしまうくらい、ずっと昔から、

────花輪和彦という人間を好もしく思っていたからなのだと、今さらながらに感じた。

そんなももこをぼんやりと眺めながら、あどけない顔でこくんと首を傾げながら言う。
「キミの方がよっぽど心配な顔色だ」
「そんなこと、ないよ?」
今頃気づいた恋心は、けれども昔のものだ。だから例え彼が結婚していても、今のももこがショックを受ける理由などないはずなのに。
「ベイビィ……」
ももこに向かっておもむろに伸ばされたのは、左手。そこで光る指輪につい視線がいった。
「……ねぇ。花輪クンてさ、いつ結婚したの? 友達なんだから披露宴くらい呼んでくれてもいいじゃんよ?」
出来るだけ茶化して。自分をも欺いて。
何でもないことだし、結婚してしまった彼とどうこうなりたいわけじゃない。
ただ、昔の自分に引導を渡してやりたかっただけ。

────なのに。

「ああ、コレ? これはただのファッションリング」
「ふぁ?」
「僕みたいなイケメンで高学歴高収入の男は、いろんな所でレディたちがほっといてくれなくてね。仕方なく虫除けでしているのさ」
自分でイケメンというか。いや、確かに顔は整ってる上に背の高さはカッコ良さ三割増しだと聞いたことがある。だからってなぁ……。
「そんなこと言ってたら、あたしみたいに婚期逃しちゃうんだからね。独身貴族なんて、カッコいいのは字面だけだっつーの!」
吐き出すように悪態を投げつけるも、心のどこかでほっとした自分もいてムシャクシャする。
彼を好きだったのは、小中学生だった自分。今は目の前の仕事に一生懸命で、恋愛が締切を延ばしてくれるわけじゃないの。
もうこんなやつ、心配じゃない。全然平気じゃないのさ!

それほど酔ってもいなさそうな和彦の脇をすり抜けて歩きだそうとした刹那、しかし男の大きな手がコート越しでも細いももこの腕をしっかりと掴んだ。

「な────?」
「結婚指輪、してみたい?」



ナニヲイッテンダ、コヤツハ?



呆気にとられたももこの手から手袋を外すと、己の薬指にしていたシルバーリングをおもむろに嵌めだす。もちろん男の薬指にハマっていた物はブカブカで、笑いながら今度は親指に嵌めてみるも大きい。
「残念。明日は暇かな? 一緒に買いに行こう」
「は? え? ちょ、はぁ?」
この人はなにをどうしたいんだ?
恐らく困惑が顔に出ていたのだろう。少しだけ笑うと、手に取っているももこの手の甲にちゅっと音をたてて和彦が唇で触れた。
「ちょーッ!」
「嫌だったかな?」
「嫌っていうか、────いきなり過ぎてわけわかんないよ……!」
「……僕は、決めてたんだ」
それまで酒の余韻かへにゃりとしていた和彦だったが、急に真剣な顔つきになってももこを見下ろしてきた。
「決めてたって、なにを」
「今日、さくらクンに会ってトキメイたら、今度こそちゃんと告白しようって」
「ぅ、え……」
あまりの驚きに変な声が出た。
そんなことを言われるだなんで、全く予想だしていなかったのだから仕方ない。
そしてひとつ引っ掛かることが───。

「今度こそ……?」
聞き捨てならないそ、その台詞。
すると照れたように鼻の頭を掻き、視線を宙にさ迷わせたまま口を開いた。
「────、あ〜……。話せば長くなるんだが、ベイビィ?」
「ハッキリして」
強く出れば、和彦は観念したように肩を落しつつ呟いた。
「実はね、好きだったんだ。さくらクンのことが、小学生の時から」
「え?」
思いもかけない変化球に、堪らず言葉を取り落とす。
酔っ払って言ってるんだろうか? ファッションリングの結婚指輪も、実はホントの結婚指輪だとか言わないよね?
「だから結婚なんてしてないし、結婚したいのはキミだからさくらクン!」
「えええええッ?」
いよいよリアルが分からなくなってきた。

この男は昔ももこの事が好きだったけれど、焼けぼっくいが爆発を起こして今も好きだとぬかしている、らしい……。
頭は大丈夫か? 酔っ払いすぎて自分が何を口走っているのか理解しているのかが心配だけど。

結婚したいのはキミ、なんて言われたら、単純にものすごく嬉しいと思うぐらいには、ももこも酔っていたのかもしれない……。

「花輪クン、めちゃくちゃ酔ってるでしょ」
「酔ってるけど、さくらクンへの気持ちは本当だよ、ハニー」
「もぉ〜、プレイボーイは言うことが違うね」
「キミという人は……」
ため息混じりで顔をひと撫でした後、突然抱きすくめられてももこは目を白黒させてしまった。
身体の大きな和彦に包まれると、小柄な身体はすっぽりと隠れてしまう。温かい。ぎゅうっと抱きしめられる力強さが心地よかった。

そんなことをされたら……。

突然の抱擁に生ビール四杯の頭が急にいっぱいいっぱいになって何も考えられなくなる。あの程度で酔っ払うことなんてまずないのに、急速に酔いが回ってしまったよう。
いや、酔っているのはアルコールのせいだけではなく、和彦に酔っているのかもしれない。
ならば思い切ってこの酔いに身を任せてもいいじゃない。
「……じゃあ、結婚しちゃおっか?」
意外にもその言葉は、笑顔とともにするりと出てきた。




────笑いながら、それこそ冗談交じりで言ってしまった言葉がその後にたちまち現実のものになるだなんで。

少なくともこの時のももこには想像も出来なかったのだ。





                                                             了












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