春を運ぶ四月の風が落ち着いた頃。

 

慌しく迎えた短大生活に幾分慣れ始めると、少しだけももこにも余裕が出てきた。とはいえ、実家から電車で通っているのだから、ご飯も掃除も母親任せ。相変わらず自由は少ないが、その代わり負担も少ない。
そんなももこも、時代の流れに飛び乗って携帯電話を持つようになった。
そこで思い立って電話した先は、やはり春から都内の有名大学に進学あそばした彼氏様だ。

 

「そっちはどうだい、花輪クン。あたしゃようやく慣れてきたとこだよ」
「僕は高校の時から寮に入ってこっちに来ていたからね。と言っても、やはりひとり暮らしは大変かな」
声を聴いたのは三月の頭以来。そのあとはももこも和彦も、新生活の準備と順応にだいぶ時間を使ってしまったから、会う事はおろか電話さえもなかなか出来ないでいた。
もっとも、ももこが実家住みなので、家電話で話す内容があからさまに筒抜ける恥ずかしさもあったのだけれど。その点、新しく買った携帯電話は、場所も時間も選ばず喋ってもいい。
「ところでさ、花輪クンって卒業旅行はどっか行ったの?」
「卒業旅行、かい?」
三月にももこが忙しかった理由のひとつである。
「あれ絶対行ったほうがいいよね! あたしもたまちゃんととし子ちゃんと行ってきたんだけどさぁ」
「ふぅん。ちなみにどこへ?」
「熱海」
「オゥ、随分……」
「近くても、面白かったからいいんだよ!」
本当はもう少し遠くへと繰り出したかったが、予算の関係や遠出をする勇気の問題もあった。生まれて此方、親とは別行動で旅行に行くなど当然した事がない。
だけれどもその初めてが楽しくて、距離なんて関係なかった。
「花輪クンだと、卒業旅行でも海外とか行っちゃいそうだよね!」
 しかし反応は、
「残念ながら、卒業旅行は行っていないな」
「え、なんで? もったいなくない?」
「そういう機会はなかったかな。なにせみんな、卒業することにそれほど浮かれていなかったから」
「浮かれてないんだ……」
ももこにはちょっぴり想像出来ない。

怒涛の受験が終わったら、次は進学準備。バタバタとした年明けが三月まで続いて、そんな一瞬の息抜きのような卒業式は、酷く心に沁みて自然と涙が出た。感慨深いとはこういうことか。そしてひとつの区切りは、否が応でも自分が大人への一歩を踏み出したことを自覚させたのだ。

「じゃあさ、第二ボタンの取り合いとかは?」
「第二ボタン? ?────ああ、中学の時みたいなアレかい、セニョリータ?」
中学の時のアレで思い出すのは、学生服と言わず中に来ているワイシャツと言わず、挙句の果てにズボンのボタンまで全て奪われてボロボロになっていた和彦の姿だ。あれは笑いを通り越して哀れだった。天下の花輪和彦を哀れと思うだなんて、後にも先にも恐らくあの瞬間だけだろう。
しかしアレは、高校では起きなかったと言われた。さすが紳士淑女の通う有名校なだけあって、みなさまお行儀がよろしくていらっしゃる。
「だから今度は、さくらクンにあげられるよ。ボクの第二ボタン」
「お、おう。ありがとう……」
中学の卒業式の時に漏らしたももこの呟きを聞かれていたのか。三年越しにそんなことを言われて、耳まで熱くなった気がした。
「それで? なぜ卒業旅行の話が出てきたのかなベイビィ」
「え? 旅行?」
ああ、そう言えば。
「いやね、たまちゃんたちと旅行に行くだけでもこんなに楽しいなら、きっと花輪クンと行ったらもっと楽しいのかな〜って」
本当に思いつきだ。友達とでさえ楽しかった旅行は、きっと彼氏となった和彦と行ったらもっと楽しいだろうなという、思いつき。別にだから一緒に、というわけではなくて?────。
しかしいざ口から出してみると、一緒に旅行に行こうと誘っているようなものじゃないのか? そのせいか、受話器の向こう側は息を飲んだ気配のあと、沈黙してしまった。

まずい。なんて迂闊なのか。女の方から初めての旅行に誘うとか、引かれないだろうか?
ましてや二人は、ももこの実家住みも相まって未だに清い関係なのだから。

静寂が重たい。黙っている間中、口の中がカラカラになる。潤したくても、何かを飲むのは憚る。
「?────ぁの、」
先に耐えきれなくなったのはももこの方。
冗談だってとふざけておしまい。それでいいじゃない。

それなのに、

「キミに捧げる第二ボタンは、ふたりで行く旅行の時に持って行けばいいのかな? ハニー」
「……旅行?」
一瞬思考が止まった。直前まで話していた、会話の内容が?────。
「行かない?」
「行く!」
誘われて即答。たぶん何も考えていなかった。考えられなかった。ただ和彦からの言葉に頷いて、少し経ってから言葉の重みに身体が熱くなった。
「行き先と宿泊先は僕が決めても?」
「いい! 任せる、お願い!」
「オーケー、ハニー」

 

 

通話ボタンを切ってから、彼の言葉を反芻してぼうっとする。もう何度も何度も。
旅行って言ったよね? ふたりで、初めての旅行。
どこに行くんだろう。何をしよう、何を見よう。きっと和彦となら、なんでも楽しめる。そうなる予感しかしない。

そして行き着く、どこに泊まるんだろうの疑問。

「……やっぱり、一応お付き合いしてる訳だし……」

手を繋ぐのは温かくてくすぐったくて好き。
最近ようやく歯と歯をぶつけなくなった口づけも、凄く恥ずかしいのに目を瞑れば、好き。初めて触れたトキメキは、今でもすぐに思い出せる。直接感じる熱も、すぐそこで聴こえる息遣いも。
抱きしめられる時の切ないような、満たされたような。ぎゅうっと力を込めると、同じかそれ以上のもどかしさが伝わってくるのが好き。粘土みたいにくっつけばいいのに。でもくっついてしまったら、きっとお互いがわからなくなってしまうからこのままで。
今まではそこまでで十分だった。

でも、その先は?────。

高校を卒業したばかりの自分たちに、その先を進む権利なんてあるんだろうか? 和彦も、もしかしたらその先を意識して旅行に同意してくれたのか?
繋ぐ果ての、交わり。

お付き合い初心者のももこにとってそれは、小説や大人向けの漫画の知識しかなくて、悶々とする頭を勢いよくクッションに埋めた。そうしたって煩悩は消えるわけでもないのだけれど、うやむやにぼんやりさせることぐらいは?────出来るわけがない。

「あああああッ、あたしゃ変態か!」
発狂とはまさに今、この状態だ。
これはひとりで考えるよりも誰かに相談するしかない。というよりは、しなければももこの何かが崩壊しそうだ。
「そうだ、たまちゃん! たまちゃんに電話ッ……」
親友に聞いたとて、なんの解決策が出てこようか。

しかしたまえの言葉は実にあっさりと、そしてアドバイスは的確だった。
「明後日、可愛い下着買いに行こっか」
「え? え? 可愛い……?」
「セクシーでもいいけど、まるちゃんに着せるならやっぱり可愛い系だと思うの」
他の種類は今回の反応を見てから揃えばいいし、なんて簡単に言ってのけるたまえに、ももこは受話器越しに驚愕の眼差しを投げかけた。

 いつの間にそんな大人になっちゃったのさ、たまちゃん……!




※    




「待った?」
「いや、全然」

待ち合わせは東京と清水の間ぐらいにある駅の改札。
一泊旅行だから荷物は少ないけれど、それにしたって彼の身軽さには目を見張った。対するももこの、なんと荷物の多いことか。仕方ない、女子には用意するものが多いだから。
行き先も宿泊先も全て和彦任せ。申し出たのは彼の方だし、移動費から宿泊費まで持つからと言われたら乗るしかないのが貧乏性の悲しい性である。というか、ハイソな彼の選ぶ宿など、果たしてももこが支払えるランクなのかという不安もあったし。

「それでは参りましょうか、プリンセス」
「頼むからプリンセスとか、むず痒いこというのは止めとくれよ。いつも通りでお願い」
「では、ハニー?」
「よろしい。で、どこに行くの?」
まずはデートの定番、遊園地。それから海岸線を散策して、お宿は有名温泉地だそうな。
「遊園地とか、花輪クンのイメージじゃないねぇ」
「そうかい? メリーゴーラウンドの白馬は僕のものだと思っいたよ」
「ぶッ?────。違いないかも! 予約席の札でも掛けといてもらおうよ」
「僕はキミのこと以外は欲張りじゃないから、それは謹んで辞退するよ」
「?────ぅん」 
何気なく口にした独占欲に、ももこの心臓がぴょこんと跳ねた。
こういう風に、彼は日常の中でさらりとももこに愛を伝えてくる。まるで急に、飛び道具のような告白はいつまで経っても慣れるわけがないのだ。

さあ、行こうか。

そう言って差し出された手のひらをじっと眺めた。大きくて皺のない手。見た目とは裏腹に意外と硬い皮膚をしていると知ったのは、付き合い始めてから。女と自分とは明らかに違うゴツゴツとした手を知ってから、ももこはその手が大好きになった。

長い指はよく悪戯にももこの黒髪をひと房絡めては遊ぶ。頬を掠めては確かめるように撫でる。優しくて、ドキドキする指?────。

 
大好きだなぁ。

 
どうして昔はただの友達でいられたのだろう?
隣にいるとこんなにも嬉しいのに。見つめられると泣きそうなくらい恥ずかしいのに。遠距離で始まったふたりだから、ずっと傍にいられるこんな時は落ち着かない。
今日と明日、果たしてももこの心臓はもってくれるのかな……?

 
そして

 
彼も同じ気持ちでいてくれるのだろうか?

 
見上げた先の瞳と視線が交わった。鳶色の瞳にはももこが反射していて?────。

 くしゃり
「?────ッ」

破顔という言葉はこんな時に使うのかも。
和彦が見せた取り繕わない全開の笑顔のせいで、のっけからももこは何も無い所で蹴つまずいて危うく転ぶことろだった。


 

 ※


 

正直、晴天とは言い難い空模様だったが、雨が降らなかったからそれだけでもよしとしよう。
遊園地で力一杯遊んだ。声を上げて笑う花輪和彦などというレアなモノを見て、せっかくだから写真を撮ればよかったなどと悔しかったり、お化け屋敷ではお互いの手のひらが必要以上に汗ばんでいたり。
二人でひとつのソフトクリームは十段重ね。やれ倒れるだとか早く食べてだとか言いながら食べるスイーツも格別だ。二人がかりにも関わらず結局指を汚してしまい、もったいなくてぺろぺろ舐めていると、横からウェットティッシュで拭われてしまった。
「ああん、もったいない!」
「────レディがまるでドッグのようだ。止めなさい」
「ふぁ〜い」
気のない返事をしつつも拭われる指を名残惜しそうに見つめるももこに、和彦が思わず噴き出してしまった。
いつかアンタのとこにもったいないオバケが出るんだからね!

それから重苦しかった色の雲が和らいだ海岸線を少しだけ歩いた。じっとりと湿った砂を踏みしめる。
海なんて故郷で飽きるほど見てきたはずなのに、二人で並んで見る水平線は不思議と初めて見るもののように感じられた。
きっと一緒に同じ風景を見てくれる人が特別だから。一緒に────。

 
この時点で、はたと気づく。
そう言えば一緒に宿泊するお宿の部屋は、果たして一緒の部屋なのだろうかと。

 
「そろそろ日も暮れてきたし、行こうかハニー」
「あ、……うん。そうだね」
しっかりと握りこまれた手に引かれながら。
辿りついたのは予想通りというか、老舗ではないが気安くももこが泊まれないような、ちょっと高級そうなお宿だった。
うへぇ、と色気なく呻くももこをちらと見た和彦が苦笑した。なにを考えているのかは、恐らく見透かされているのだろう。
「ここは花輪グループと多少噛んでる旅館なんだ。ヒデじいに今回の旅行を相談したら、この旅館の様子を見てきてほしいって────」
「ちょ、ちょッ、ちょっとタンマ! もしかしてこの旅行のこと、ヒデじいには……」
「もちろん知ってるよ」
もちろんじゃないし!
「ヒデじいを味方につけておいた方が後々上手いこといくからね。まあ僕のプライバシーなんて、昔からあってないようなものだし」
和彦のプライバシーはないかもしれないが、ももこのプライバシーは考慮して欲しい!
いくら元々同級生だと言っても、ヒデじいはふたりがお付き合いをしていることを知っているし(恐らく)、そのふたりが一緒に旅行にいくことで起こりうる、色々な間違いの可能性も十二分に理解しているだろう。
それを! すべて! ももこを無視して話を進めるかフツー!
「……余計なことをしてしまったようだね……」
余計なことと気づくのが遅い。
ジト目のももこに睨まれながらチェックを終えた和彦は、手に持っていた鍵をももこに渡した。しかしもう一方の手にも同じような鍵が握られていて────。
「これは?」
「それは、キミの部屋の鍵。こっちは僕の部屋の鍵だ」

つまり、

「別々の部屋……」 
「そりゃあ────」
少し頬を染めながら和彦が頭を?く。
「一応僕らはまだ高校を卒業したてで、尚且つまだ独り立ちもしていない学生だしね」
もっともな話だ。
「でも夜遅くまで、さくらクンと一緒にいられるし」
なにせひとつ屋根の下に泊まるのだから。
「その、─────」
「……もういいよ」
「さくらクン?」
「あたしゃ散々歩き回って疲れちゃったから、早く部屋に行きたいんだ」
「それは気づかなくてすまないね、ハニー。荷物は持ってもらえるから渡したまえ」
慣れたように傍に控える仲居に自分とももこの荷物を預け、エレベーターは三階へ。高さで景色を楽しむのではなく、視界の広さで自然を愛せるような建物の作りは、木造の趣きも相まってとても心を落ち着かせる様式であった。
ももこと和彦の部屋は隣同士で、先にももこが部屋の中に通される。そして見開いた目から目ん玉が転げ落ちるかと言うくらい、驚きに極限まで目をひんむいた。
「え、と……。ここ、ひとり部屋じゃない、ですよね……? なんか間違ってません?」
「花輪様よりご予約いただいた内容によりますと、こちらで間違いございません」
ごゆっくりおくつろぎ下さい。
そう言って仲居が下がっていくと、この広い部屋にはももこひとりだけが残された。
絶対間違っている。だってももこの家の茶の間よりもありそうな部屋の向こう側には、陽が落ちかけた風情のある景色が大窓の向こう側に広がっていて、しかもしかもベランダには露天風呂らしきものまで見えるではないか! これが噂の客室露天風呂というやつか!
さくら家での家族旅行ではまずお目にかかれないほどの豪華な部屋である。目ん玉が飛び出ると同時に顎が外れるかと思った。
これはももこのチョイスでは絶対に選ばない。ヒデじいに頼まれたのもあるが、あの花輪和彦ならではの部屋選びである。
「……まいったねぇ……」
こんな部屋を宛てがわれては、もしかしたらの同室に淡い期待を抱いていた裏返しの落胆も、持ち直すしかない。せっかくの豪華な宿に豪華な部屋だ、楽しまなければもったいない気がしてきた。
「こりゃあ大浴場もわくわくしちゃうねぇ!」
そうと決まれば夕食の前に軽く風呂だ。入り足りなければ寝る前にもう一度でも二度でも入ればいい。

切り替えの早さに定評のある自分であるが、こんな時でも役にたってよかったと、自分でも思うももこであった。









大浴場は想像以上、露天風呂は期待以上。
このまま雨を連れてくると思われた雲は一掃、すっきりと晴れた夜空にはキラキラと優しい光を降り注いでくれるお月様が浮かんでいた。海がすぐそこだから、穏やかなさざ波が聴こえてくるのもいい。ああ、連れて来てくれた和彦に感謝だ。
存分に湯船を堪能したけれど、また後で来よう。朝風呂もいい。そう思ったのに思いの外ゆっくり浸かってしまい、のぼせ気味になって浴場を出た。
すると和彦はすでに外で待っていた。乾ききっていないしっとりとした長めの前髪を無造作に後ろに流しているのだとか、見慣れない浴衣姿だとかが妙に色っぽくて、ももこは更にのぼせてしまう。おーい、どういうことだ。
「お待たせ〜」
「随分ゆっくりだったね。そんなにいい湯だったのかい?」
「うん、すっごい良かった! 連れて来てくれてありがとう、花輪クン」
「キミが喜んでくれるなら、それだけで甲斐があったよ……」
少しだけ視線を逸らしながら、さり気なくももこの羽織りの衿を直してくれる。紳士だ。ももこが和彦に感じたように、和彦も少しは、その、ムラっとこないものなのか。
そこで我が身を振り返った。ちびっこで幼児体型、その上童顔の自分にその気になれよとは随分乱暴な話かもしれない。自分でそう思いながら、こっそり落ち込んだ。

 
夕飯は半個室で仕切られた食事処で和食のコースだという。
本来であれは部屋食を選択しそうな和彦であるが、ヒデじいに頼まれた従業員と利用客の様子を見るにはこちらの方がいいらしい。どのみちお品書きなどついた料理を食べたことのないももこにとっては、それだけでテンションが上がった。
「これ、おいひい〜」
「頬張りすぎだよ、セニョリータ」
「いや〜、あまりにも美味しくてつい……」
「ハニー、口の端についてる」 
「おお、いつもすまないねぇ」
会話をしながらも彼はさり気なく周りの様子に目を配っている。
室内の雰囲気。さり気なく流れる音楽は利用客の会話を邪魔しない程度に間を持たせてくれる。それから客の表情と、従業員の動き。満足を引き出す努力が成されているかどうか。
「……」
「どうかしたかい?」
「ううん。なんでもない」

こうして向けられる甘い表情は、いわゆる彼氏の顔で。
でも時折周りを伺う真面目な顔は、きっと仕事をする時の顔なのだろう。

そう思うと、もっともっと和彦の色々な表情を見てみたいと思う。そしてその度にかなり高い確率で、ももこは和彦に恋をする────……。




 ※


 

「このあとどうする?」
「あたし観たいテレビある!」
そんなわけで和彦の部屋でテレビを観る事になったのだが────。
「……おーまいがー」
「そんなこと言われてもね、ベイビィ……」
どこの旅館でも利用客が食事処に夕食に出かける間に寝具を用意するのは当たり前のことで、ご多分に漏れずふたりの部屋にも布団が敷かれていたのだ。
広い部屋に、しかもひとりで使うから寝具もひとつ。決して狭いということはないが、ただそこに布団が敷いてあるという視覚的破壊力は、ももこの心拍数を間違いなく上げた。
「ここには座れるから、こっちで観るといい」
いそいそと隅に片付けられた座卓をズラし、テレビをももこが観やすいように角度を調節してくれて。お茶受けの温泉まんじゅうと熱いお茶を用意してくれた。
「いや〜、……なんか気まずいし。あたしさ、自分の部屋で観るからいいよ」
落ち着かない中でお笑い番組もないだろう。
立ったままのももこが踵を返そうと背中を向けた瞬間、和彦の大きな手が彼女の細い手首を掴んだ。反動でたたらを踏む。
突然のことに驚きながら和彦を振り返ると、真剣な眼差しの彼と視線がかち合った。
先程見た仕事の顔ではない。もっとこう、────熱を感じ取れるような、内側に激しさを押さえ付けているような何かを堪えている感じ。握られたら手首から伝う温度が、じりじりとももこの感覚を焦がす。
「花輪、クン────?」
「行かないでくれ」
懇願よりももっと強い。要求。
繋がる手には、更に力が籠った。
「もっとキミと一緒にいたい。隣にいたいんだ、お願いだよ」
「いっつも隣じゃん」
「そうじゃなくてッ」

あ、と短い悲鳴が空気に混じる。

力任せに引き寄せられたももこが、抵抗も出来ずに和彦の胸の中に飛び込んだ。薄い浴衣越しに触る胸板の硬さは、掌と同じくらい熱い。そして耳朶に伝わる彼の心音がとてつもなく速く感じられた。

ドキドキドキドキ。

鼓動は果たして和彦のものなのか、ももこのものなのか分からないぐらい今のふたりは近い。
「花輪クン……」
「────すまない。もう少しだけ」
華奢なももこの身体など容易く囚われる。すっぽりと収まってみて改めて感じるのは、和彦の身体の大きさ。そして逞しさと、熱さ────。
人目があるから普段は滅多にしない抱擁は、少しだけ気恥しいけれどもそれに目をつぶるくらいには気持ちがいいし、とても嬉しい。ぎゅうっと力を篭められると、彼に自分が必要とされている歓びにうち震えそうになるのだ。
なんでも持っていて与えてくれるのはいつも和彦の方。そんな彼がももこを必要としてくれるなんて、物凄く嬉しい。
背中に回していた腕を和彦の首に巻いたタイミングで口づけが降ってきた。
触れるだけの啄むような熱の交換は、次第に深くなっていく。最近覚えたディープキスに、初めは戸惑いしかなかったけれども。
舌を絡めることに夢中になると、やがて頭がぼうっとなって何も考えられなくなる。粘膜をかき混ぜ、歯茎を擽られるのが気持ちいいなんて不思議。
「ん……ふ」
角度を変えた隙間に漏れた声が、いつもより少しだけ大きくなった。
うっすらと目を開けると、なぜか和彦と視線が絡まる。もしかしてずっと見られていたのかと思うと、羞恥に熱が上がった。

そして改めて気づく。
この部屋にはふたりだけしかいないということに。

「は、ぁ」
漏らした声が更に大きくなってしまった。だって彼にしか聴かれないから。それにつられたのかキスが一層激しくなる。

もうだめ、そんなにされたら────。

 不意に肩を押されて、ももこは呆気なく敷かれていた布団の上に転がった。柔らかな心地を背に受けながら、頭を空っぽにしたまま天井を見上げる。
「────ももこ」
彼の声で名前を呼ばれる。さくらクン、ではなく、ももこ、と。それだけで自分の名前が特別な気がして、胸の奥がきゅんとした。

ああ、でもだめだ。だってふたりはまだ、学生でももこには別に部屋があって今まさに戻ろうと─────……。

「一緒にいてよ、ももこ」
覆いかぶさるように見下ろしてきた和彦は、ぞくりとするほど艶があった。ももこの知らない和彦がそこにいた。
「でもさ、せっかくあたしの部屋を用意してくれてるのに、使わないと勿体ない、じゃん……」
「部屋を別にしたのは、ヒデじいの手前」
言葉とともに落とされる口づけ。ヒデじいの手前?
「いつまでも大人のいいなりになんて、なっていられないよ」
優等生の彼からは信じられない発言。
目を見張ると、やや怯んだように視線を逸らされる。それから躊躇いながらも、おずおずとももこを見つめてきた瞳の奥には、吸い込まれそうなほど深い色が輝いていた。

決意のある瞳に、予感が走る。

「その、ももこが嫌じゃなければ……─────夜もずっと一緒にい……」
「嫌じゃない」
即答と同時に引き寄せた彼は、慌てたように両肘をついた。顔と顔の距離が近い。それ以上を、今まさに許そうとしている─────。

またキスをして、ちょっぴり笑って。
小さい頃から変わらない、成長して緩やかに変わっていったふたり。

「ふたりで、子どもから卒業しよう?」



それが初めて共に過ごす夜の始まりだった。

 


 ※


 

あとから考えれば、部屋が別々なことに独りよがりなあてが外れたももこが新品の下着を身につけていなかったことは、個人的には一生の不覚であった……。

 

 

                                              了







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