最初にガンガンと玄関を叩く音に気づいたのはももこだった。 

夕飯時のこんな時間に来客とは、怪しい。 
「ちょっと見てきてちょうだいな」 
「こ、こういうのは男のお父さんが行けばいいじゃないのさッ」 
「馬鹿野郎。俺ァ、もう晩酌始めちまったんだよぅ」 
晩御飯が出揃う前に手酌で一杯二杯が瞬く間に胃袋の中に消えていく。 
この親は。 
口の中で悪態をつきながら、変な輩が立っていて襲ってきても応戦出来るように、箒を構えながらももこは声をかけた。 
「もし! ど、どちらさまですか?」 
「僕だ。花輪和彦です!」 
「え? 花輪クン?」 
確かに聴き慣れた声である。 
しかし酷く息がきれた様子で、かつ慌てているようだ。あの和彦がこんなにも乱れているだなんて、もしかして、ももこがいない間に花輪の家で何かがあったのだろうか? 
「ちょ、ちょっと待ってね!」 
持っていた箒を放り投げると、ガタガタと立て付けの悪い玄関を開いた途端、 

肩で息をしている和彦が立っていて、 
驚きと逢えた喜びに胸が詰まって立ち尽くすももこを、 
強い力で引き寄せられて、隙間なく抱きしめられた────。 



「────、花輪、ク……」 
「僕が悪かったんだ!」 
問う前に和彦が言葉を上乗せしてきた。 
「キミが、ももこがどう思っているかだなんて考えもしないで。いつも自分の尺度を押し付けるだけで……」 
ももこの肩に額を埋めながら紡ぐ和彦の言葉は、まるで懺悔のようだと思った。心の底から後悔をした苦しさが、声の端々に滲んでいる気がする。 
同時に辛かったのはももこだけじゃなかったのだと気づいて、思わず目頭が熱くなった。 
一人相撲かと思っていたけれど、そうじゃない。ちゃんと和彦も悩んで考えて、その末にももこの元にやって来てくれたのだ。 

夫婦は擦り寄って形を作っていく。 

まさにスミレが言ったそのままに、今ふたりは最初の山を一緒に越えようとしている最中なのかもしれなかった。 
抱きしめられる力強さが、苦しいけれど嬉しい。
貴方が大好きだよ。
ももこも想いを込めて、和彦の背中に両手を回した。 
「離婚なんて、考えたくない」 
「うん」 
「ももこだけがいいんだって、わかってくれ」 
面と向かって初めて名前を呼ばれた。自分の名前に色がつき香りがつき、温もりが灯った瞬間に立ち会った。 
震えるぐらいの幸福が怖いほど。 
だからももこも、同じように和彦の名を呼ぶ。あなたも同じくらい、幸せを感じてくれればいいと願いながら。 
「わかってるよ、和彦さん」 
「……ッ」 
弾かれたように身体を離した和彦は、酷く驚いているようだった。やがて頬に朱がさし、顔をクシャクシャにしながら両膝をついてももこを見上げて来る。 
「もう一度」 
「名前を? 何回だって呼んであげるよ。和彦さんって」 
「……足りないな。もっと」 
「和彦さん。和彦さん、和彦さん。────淋しかったんだよ、和彦さん」 
「うん。すまない。でも、もうひとりにはしないから」 
改めてそんなことを言われると、くすぐったくて堪らない。 
だから照れ隠しに、とびきりぶっきらぼうに意地悪をしたくなった。 
「それってなんなのよ! 好きか嫌いか、はっきりしなさいってばッ」 
曖昧な気持ちは不安になるから。 
きちんとした言葉でももこを肯定してほしい。 
すると薄く笑いながら、和彦はおどけて首を傾げた。 
「嫌いではないな」 
「じゃああたしと同じで、好きってことでいい?」 
さらりと告白するも、一瞬真顔になった和彦は、しかし首を振った。 
え? と、ももこは不安になる。首を降るのはどういう意味か。 
不安な気持ちが顔に出たのだろう。和彦は優しくももこの頬を両手で包みながら、真っ直ぐと心を差し出してきた。 
「好きとか嫌いとかを通り越して、僕はただキミを愛しているんだ」 
告げられた台詞の中身を咀嚼しようとしても、うまく頭が回らなくて。 
代わりに涙が溢れてきたももこの唇に、己の熱を移しながら和彦はもう一度繰り返す。 



「ももこを愛してる。だからもう一度、僕と結婚するつもりでついてきてほしい」 



今度は、届いた。 
上手く返事が出来なくて、泣きながら顔を歪めて微笑むももこ。 
それを見た和彦はこれ以上なく幸せが滲んだ笑みを浮かべながら、そっと誓いにも似た接吻を贈ったのだ。 





「お前ら、玄関先で何やってるんだよおい! 近所迷惑だから、さっさと中に入ってこい!」 
突然響いたヒロシの怒鳴り声に、ふたり一緒に飛び上がったのもいい笑い話。 
「今日はももこが作った煮物だからな、美味いかどうか知らんが、それ食ったらふたりともとっとと帰りやがれってんだ!」 
口下手な父がさっさと背中を見せながら言ったことに、ももこと和彦は顔を見合わせた。 
なんだかんだ心配させていたことに、改めて申し訳ない気持ちでいっぱいになった。 
「お父さん……」 
「ありがとうございます、お義父さん」 
それから和彦はももこの耳元でもう一度愛を囁いて、両親に見られないように口づけを繰り返し。 
手を繋いで寄り添いながら招かれた居間に消えていったのだった。 









「ねえねえ、和彦さん」 
「なんだい、ももこ?」 
「あたしの部屋、入った?」 
「────え」 
「机の上の文箱が開いててさぁ」 
「うん……」 
「中に入ってた紙がくしゃってされてたの」 
「…………」 
「和彦さん、知らない?」 
「────凄く、知ってます……」 




※ 




夫婦といえど、完全に分かり合えるわけではない。 
夫婦といえど、すべてを知らなければいけないわけではない。 

ただ少しだけ寄り添えれば。 
心の休まる場所になれれば。 
笑顔の理由になれれば。 



それだけでふたりにとっては幸せなのである────……。 







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