「ただいま……」 
誰にともあてたわけでもない帰宅の合図は、玄関で待っていた西城が受け止めた。 
「お帰りなさいませ、若旦那様」 
「なにか変わりは?」 
「ございません」 
「────そう……」 
もしかして彼女がひょっこり帰ってきていないかという、勝手な希望を抱いている自分に苦笑した。そんな都合のいいことがあるものか。 
「お食事の用意はどうしましょうか」 
「軽く何かつまめるものを」 
「畏まりました」 
はぁ、と落としたため息はきっと聞かれているだろう。しかしそれに対して西城は何も言わない。 
若き主人の心情を推し量れるほどに、このふたりの歴史は長いのだ。 
「酷くお疲れのようです。少し早いですが湯を沸かしますか?」 
「────まだいいかな。心を落ち着けたい」 
暗に人払いを命じると、これ以上は何も聞かずに西城は無言で会釈をして下がっていった。 
西城が悪い訳ではない。 
ただ仕事が終わったあとは、なるべくひとと関わりあいになりたくないのが今の本音だった。 



足が重い。 
のそりのそりと階段を上りながら片手でネクタイを緩めた。するりと首元が楽になる。だがそこには目に見えない枷が嵌められていることを、物心ついた時から和彦は知っていた。 
自由とは程遠いこの立場。 
権力とは責任だ。その責任から逃げられるわけもなく、そして逃げる気もない。この身体はとうの昔に 覚悟を積み重ねて中身を作ったはずだ。 
それでも時々思うのは────。 


自室の前に立ち、綺麗になったドアノブを見下ろす。 
ももこに叩き壊されたドアノブは、見栄えが悪いからと新しいものに替えられた。確かに子爵夫婦が帰ってきた時にあのザマだと一悶着ありそうだ。 
和彦にしてみれば、ある意味教訓として残しておいてもよかったのだけれど。 
あの日から和彦はドアに鍵をかけなくなった。 
鍵をかけないことで、外の世界と繋がり続けられる気がした。ひとりにはならない。ももこがいつでも和彦のところに来てくれるように。 
それも今や無駄なことになるかもしれないが……。 

しばらくドアの前で佇んでいた和彦だったが、そのまま中には入らずに長い廊下を歩き出す。向かった先は、主のいないももこの部屋だった。 
不在にも関わらず彼女の部屋には鍵が掛かっていなかった。それがあまりにも彼女らしくて、小さく笑いながらそっと部屋の中へ。 
同じ建物の中なのに、この部屋にはももこの香りが満ちていた。柔らかな花の香りが和彦をも優しく包んでくれた。 
細々とした可愛らしい置物や、絵筆。 
そう言えば、先日も机の上で描きものをしていたようだった。 
彼女が座っていた椅子に深く腰かけながら、ぐるりと部屋を見渡す。彼女にはどんな世界が見えているのかを、それで知れればいいのに。 
しかしそれは、ももこが和彦の世界を理解しきれないのと同じように、和彦にとっても彼女の世界を完全には理解することは無理なのだ。それは分かっている。だからこそ、可能な限り寄り添っていきたい。 
ふと、文箱の隙間から紙が少しだけはみ出しているのを見つけた。 
直すべきかそのまま見て見ぬふりをしようか迷う。多分東京で描いていたような落書きがたくさん詰まっているだろうから、直す為にはそれらを見てしまうわけで……。 
誰が見ているわけではないが、一応周囲を確認しつつ、悪いと思いながらわくわくしと文箱に手を掛けた。 
そっと開けて──── 


和彦は息を飲む。 


そこには何枚も何枚も、和彦の姿が描かれていたからだ。 
顔だけのものから全身を描いたものまで。いつ描かれたものなのか全くわからない。
ほとんどラフ画にも関わらずその人物は明らかに和彦だとわかる絵だった。 

「────ッ」 
それは甘い衝撃だった。 
時折挟まる風景画や静物画よりも、めくってもめくってもももこの描く和彦が現れる比率が多い事実に、思わずにやける口元を押さえる。 


難しい表情をしている自分。 
遠くを見ているような自分。 
笑っている自分。 
笑っている、笑っている、笑っている────。 


いつの間にか和彦の頬を涙の筋が濡らしていた。 
ずっと聴こえなかった、もしくは聴こうとしてこなかった彼女の声が囁いてくるようで、嬉しくて嬉しくて胸が痛いほど。 
なぜ気づかなかったのだろう。 
なぜ寄り添おうとしてこなかったのだろう。 
夫婦という関係にあぐらをかいて、曖昧な態度を取り続けた自分。 
離婚を切り出されて狼狽えたけれど、それを最初にやっていたのは誰であろう和彦ではないか。その言葉はあのももこでさえも躊躇わせるほど強いものだったのだと、どうして今まで気づかなかったのだろう。 
「ももこ……」 
一度口にした名前は、和彦の気持ちの堰を切る。 
「ももこ……。ももこ、キミは────もも、戻ってきれくれ……」 
彼女の代わりに、彼女が描いた絵の数々を胸に抱いた。これではまだ足りない。ももこの温もりをこの腕は欲している。 
「キミがいないと……僕はもう、ダメなんだ……」 
もう間違わない。嫌われる恐怖に躊躇う時間は、とうの昔に過ぎていた。 
例え拒絶されようと、伝えないで後悔するよりも伝えて後悔することの方が絶対にいいに決まってる。 
心はもう決まった。 
和彦は勢いよく立ち上がると、大股で部屋を出た。 



「ヒデじい! 僕はさくらの家に行ってくる」 
「ではただちに馬を用意しますので、少々お待ちくださいませ」 
馬など。これからすぐ動かせるか様子を見て鞍を付けてなど、準備を待つより走った方が絶対に早い。 
「このまま走るから構うな! いってくるッ」 
言うが早いか、いても立ってもいられずに駆け出した。その背中に向けて、にこやかに微笑む西城が深く深く頭を下げた。 

予見していたわけではない。 
しかしやはり和彦には、包み込むように寄り添ってくれるももこが必要なのだとわかっていたから。 
「お早くお戻りなさいませ。若旦那様、若奥様」 
そう呟きながら、すでに見えなくなった和彦の背中の跡を、西城はいつまでも見送っていたのだった。



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