「はぁ〜……。やっぱり自分の実家が一番だよね〜!」 
縁側で大きく伸びをしながら後ろに倒れ込むと、それを見た姉の咲子がわが子のおしめを取り替えながら眉をひそめた。
ついこの間生まれたばかりの赤子は、笑うも泣くもふにゃふにゃと声を上げるのが可愛らしい。 
寝転びながらその子の頬をつついていると、上から呆れたような姉の声が降ってきた。 
「ほ〜んと、あんたみたいなのが花輪家の若夫人だなんて、世も末よね」 
「そりゃあおじいちゃんに文句いうとこだわ」 
ははは、と笑いながら。 
そしてふと、小さくこぼす。「なんでお姉ちゃんじゃなくてあたしなんだろう……」
「あ? なんか言ったかい?」 
「ううん、なんでもないよ。お母さん、今日のご飯なぁに?」 
これ以上姉になにかを突っ込まれる前に、帯に挟んでいたタスキで着物の袖を留めながら立ち上がった。 

素足で触れる床板の硬さ。 
あの家では絨毯が敷き詰められていて、いつも草履を履いていなくてはならなかった。 

家の中を易々と吹き抜ける風の爽やかさ。 
きっちりと閉められた窓の向こうを、何度恋しく思っただろう。 

外のも家の中のも、常に聴こえる物音やざわめきが心地良い。 
静寂こそが好ましく、使用人までも音を立てずに仕事をしていた。 

懐かしさと身につき始めた日常とが、同時にももこの内側を満たす。どちらも好きで、愛おしい生活たち。 
「今日はカレイの煮付け。あんた、捌いといてちょうだいな」 
「はいは〜い」 
昔は魚を捌きすぎてもう嫌だと思っていたのに、今はそれが嬉しいなんて不思議。 

花輪の家では当然のことながら、身の回りのことは全て使用人の仕事となる。 
だから最初の頃、調理場にすら入れなかった時は、楽が出来る嬉しさと同時に手持ち無沙汰で落ち着かなかったものだ。 
今もまだ慣れない。調理の様子を眺めながら、自分も包丁を握りたくて仕方ない時もある。 

しばらくぶりに捌いたカレイはぬるぬるとしていたが、その感触が面白い。自分で料理をするのは改めて楽しい。 
そして自分で作ったものを、いつかあの人に食べさせたいと思った。 


「お母さん、終わったよ」 
「じゃあ今度は煮付けてもらおうかね」 
竈の火加減を見ながらスミレが何の気なしに言った言葉に、ももこの顔が引きつった。 
「あ、あたしゃ捌くのは習ったけど、味付けまでは習ってないよ……」 
「仕方ないでしょ、あんたは全部仕込む前に嫁に行っちまったんだから」 
機会というものは測れないから、こればかりは仕方ない。 
「じゃあ今、教えてよ」 
例え調理場に立つことが出来るか分からないけれども、母の味をいつでも思い出したいから。 
もちろんだよ。そう呟く母の背中が、不思議と小さく見えた気がした。 
「酒をちゃんと沸かして酒気を飛ばすんだよ。それが甘さを生むからね」 
「ははぁ、なるほどねぇ。砂糖だけが甘さじゃないんだね」 
「砂糖ばっかりばかすか入れちゃったら、ただベタベタ甘いだけじゃないのさ」 
「勉強になるね。お姉ちゃんにもこうやって教えたの?」 
「そうだよ。まあ、あの子は普通の恋愛して結婚したから、ゆっくり教えられたんだけどさ」 
「……」 
酒の酒気が飛んだところで、他の調味料と生姜を入れる。煮汁が沸騰したところに、切れ目を入れたカレイを入れた。 
「……お母さんは」視線は鍋に落としたまま。「あたしの結婚、本当は反対だった?」 
魚を入れて煮汁が沸いたところで落し蓋をして火力を弱める。 
「どうかねぇ……そうだったかもしれないね」 
そんなことは言わなかった癖に。 
「言ってくれればよかったのに」 
「言えないよ。西城さんにも、和彦さんを支えて欲しいからって頭下げられちゃったしさ」 
「初めて聞いたよ」 
「言わなかったもん。それに、結局はあんたのことだしね」 
それは一見突き放したような物言いにも聞こえたが、そうではない。十分にももこを大人として信じていた結果の言葉だと、今ならわかる。 
「でも、お母さんはあんたが和彦さんと出会えてよかったと思ってるよ。今は」 
「ええ? なんでさ」 
「ももこがオンナの顔になってきたから」 
一緒に眺めていた鍋を火から下ろした。 
そしてお互いの表情を読む。 
スミレは優しい顔をしていた。いつも小言が多くて怒っている印象だからか、とても不思議な感じがしたけれど、いま向き合っている母はとても慈愛に満ちているように感じた。 
ではももこはどのように見えるのか。 
「オンナの顔って、なにさ」 
「いい苦労をしてるってことさ」 
苦労にいいも悪いもあるものか。 
「花輪家に恋愛結婚でもなく嫁ぐって言うのは、生半可なことではないわね。それこそ格差がありすぎて夫婦間が崩壊しかねないでしょうよ」 
「……」 
事実それに近いことが起きているが、いくら実母といえど易々と真実は語れなかった。だが深い本質の部分で母はなにかに感づいているのかもしれない。 
「和彦さんは、元々ももことは住む世界もなにもかもが違ってるんだから、あんたと重なってるところが少ないのは当たり前よね」 
「……」 
「でもね、お母さんはももこなら、そういう壁も全部乗り越えて和彦さんともやっていけると思ったから」 
「────違ったら、やっぱり違うまんまだよ……」 
「じゃあすり合わせればいいじゃないのさ」 
笑顔でそう言ってのける母は、優しくも力強かった。 
「庶民同士の結婚だって、全部がすんなりいくもんじゃないよ。お父さんとお母さんだって、すり合わせてすり合わせて、ようやく夫婦としての形を作ったんだから」 
「……」 
スミレの言葉は重かった。 



果たして自分と和彦は意志のすり合わせなどしたことがあっただろうか。 
それよりも、圧倒的に言葉が足りない。 
最初の関係にこだわり過ぎて、どれだけ距離が近くなろうとそれ以上は踏み出せずにいたのではないだろうか? 

離婚を前提とした結婚。 

それは今もなお、ももこを縛り続けて重い足枷となっていた。 
そしてその認識のせいで、和彦のことさえも信じられずにいたのではないか? 
優しい仕草も言葉も笑顔も、いつかは別れると思うからこそ素直に受け入れられなかったのではなかろうか。 

ちきんと話し合おう。 
和彦の気持ちはどこにあるのかはひとまず置いておいて、ももこの心を彼に伝えて感じてもらおう。 
好きな気持ちを孤独に抱えていても、消えるわけがないのだ。 



「────お母さん。ありがとね、色々と」 
野菜を切りながらこっそりと呟くと、しっかり母には伝わっていたようで頭を撫でられた。 
「お母さんはももことこういう話が出来るのが、とても嬉しいよ」 
その言葉に堪らず視界が滲んだが、なんでもないふりをして野菜を切り続けていたら、スミレも見ないふりをしてくれた。 
同じ台所で並びながら夕餉の支度をする。 
母娘として、女同士として初めて話をしたが、まだまだ並ぶには及ばない。 
だから少しずつ少しずつ、学んで笑いあえればいい。 



煮魚はぐつぐつと煮詰めればいいという訳でもない。熱を冷まして味を染み込ませる時間も必要なのだ。 
つまり、そういうことなのだ。



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