和彦は我が耳を疑った。 
「……待ってくれ、今──」 
「このままズルズル暮らしていても、いいことなんかない! だから」 
「どうして急にッ」 
「それは昨夜の自分が一番よくご存知なんじゃないの?」 
呆然としている和彦の首筋に視線をやりながら言い捨てると、ももこはさっさと寝台を降りて脱衣場に入っていった。 
身支度をしている音を聞きながら、ぼんやりと己の首筋に手を当てる。 
そこはぷっくりと肉が盛り上がっており、よく考えれば昨夜蚊に刺された箇所だった。それがなんだと言うのだ。 
わけがわからない。 
それでも確かなことはひとつ。ももこが本気で離婚を申し出ているということだ。 
「そんなこと、認められるわけないじゃないか……」 
絶望的な呟きを他所に、身支度を整えたももこは硬い表情のまま荷物をまとめて部屋を出ていってしまった。 
事態が把握出来ない和彦は、苦い顔のままいつまでもそこで動けずに座り込んでいる……。 




※ 




子爵夫妻に形ばかりの挨拶を終え屋敷の外に出ると、すでにマークが馬車の前に佇んでいた。 
「マーク! 来てくれたんだね」 
「もちろんだとも、モモコ」 
駆け寄っていく彼女を引き留めたい。同時に軽率にももこの名前を呼ぶ彼が憎らしい。 
それはきちんと彼女を名前で呼べないジレンマも相まって、和彦の胸を焦がすには十分だった。 
そして、 

「キミが心配だよ……」 
背中に手を回し、ももこをそっと抱きしめるマークを見た瞬間、和彦は無意識に拳を振り上げ──── 

「マーク!」 
「ッ!」 
悲鳴にも似たももこの叫びで和彦は我に返った。 
燃えるような熱さを宿した己の右手と、地面にうずくまるマーク。そしてそのマークに泣きながら駆け寄るももこの姿を目にすると、胸が鈍い音をたてて軋んだ。 

なぜ夫である自分ではなく、他の男に駆け寄るのか。 
なぜ易々と抱きすくめられていられるのか。 
なぜ? なぜ? ────だが聞きたくない……。 

「どうしてこんな酷いことをするのさ!」 
「じゃあなぜこいつに抱かれるんだ? まさかこいつのことを気にかけているのかい?」 
「マークは親切にしてくれたもん!」 
「親切にされたぐらいで簡単に抱かれるなんて、キミの貞操観念はどうかしている!」 
「キスマークつけて朝帰りしてくるひとに言われたくない!」 
キッと睨まれた和彦だったが、咄嗟に出てきたももこの言葉を上手く飲み込めなかった。 
そんなものがつくことなど、絶対にしていない。 
「何かの間違いだ」 
「じゃああたしたちも、あたしとマークの仲も、花輪クンが思っているような変な関係じゃないから!」 
お互いでお互いを勘ぐった有様がこれか。 
ももこの泣き顔に心を痛める和彦も真実で、傷ついた表情の和彦に罪悪感を感じるももこも本物なのだ。しかし一度絡まった紐は、長い時間をかけなければ解くことは出来ないものである。 



「────帰るぞ」 
そう言いながらももこの腕を乱暴にとると、和彦は彼女を馬車に押し込めながらマークに一瞥を投げつける。 
「僕たちは夫婦だ。それは変わらない」 
それがどんな形であろうとも。 
「そういう考え方がモモコを苦しめてるって、まだわかんないの? 伝えるモン伝えないと、結局なにも変わらないんだよ」 
「言われなくてもわかっているさ」 
苦々しく吐き捨てて、和彦も馬車に乗った。 
こちらをちらりとも見ないももこの隣に座り、断りもなく左手を握り込んでも、彼女の肩が僅かに跳ねただけでやはり視線もくれなかった。 


────苦しい。 


どんなにももこに恋をしても、報われないのなら伝える意味が無い。 
離婚を願う彼女に気持ちを告げたところでそれが更にももこを苦しめるのであれば、そんなものは思いやりでも優しさでもない。ただの独り善がりだ。 
それでも手放したくなかった。ずっと傍に置いておきたかった。 



道中のふたりは当然のことながらお互い無言だった。 
重苦しい雰囲気に胸も重くなったが、繋いだ手だけはずっと離さなかった。 
まるで唯一の希望のような繋がりだった……。 











花輪本邸に帰ってきてからというもの、和彦は長く家を空けることが多くなった気がする。 
顔を見たくない。見たら好きの気持ちが苦しくなってしまうから。それなのに見られないと一日気分が沈んでしまう。 
恋とはかくも複雑で厄介なものだと、この歳になってようやくわかった。 
身を焦がすような激しい恋などいらない。だからせめて、以前と同じようにふたりで他愛のないことで笑い合いたかった。 

「若奥様、お加減は大丈夫ですか?」 
西城に心配されるほど酷い顔色をしてもいるのだろうか? 
「大丈夫だよ、西城さん」 
「しかし……」 
「和彦さんがいない間はあたしがここの女主人なんだから、ちゃんとしないとね」 
男が外に仕事をしている間、女は家を守らなければならない。それがひいては夫の為になるのだ。 
昔はそんなこと、全く考えたことなかったのにな。 
ももこは自嘲しながら家の中を見渡した。 
和彦のいるこの家を出たいと思う傍ら、彼の家を守りたい。 
そこに矛盾があるのは知っていても、和彦の妻としての責任は結婚してから少しずつももこの身体に染み付いていったのだ。 





「ももこは?」 
「自室で読書をされているようですが」 
「────そうか」 
東京から帰ってきてからというもの、ももこと顔を合せる時間がめっきりと減った。 
「ただいま」も「おかえり」もなくなった生活はなんとも味気なく、ただ時間だけが過ぎて行くだけの意味のない日々にしか思えない。 
どうしてこうなってしまったのか。 

素直に好きだと伝えたら、彼女はどんな顔をするだろう。 
苦しい。ももこの笑顔を久しく見ていない。彼女に触れて、名前を呼んでほしい。 
ひとつ屋根の下にいながら、こんなにも不自由な恋をすることになるとは思わなかった。夫婦なのに通わない想いがあるのを知らなかった。 
仕事の疲れ以上に和彦も心が疲れている。しかし癒してくれる彼女はいま、隣にいない。 

「ぼっ……若旦那様、少々お疲れのように見えますが」 
和彦が生まれた時から教育係として常に傍らに控えてくれている西城には、得意のポーカーフェイスもお見通しのようだ。 
細いため息を漏らしながら、うん、と頷く。 
「少しね」 
「若奥様と同じですね」 
「彼女は僕と違って簡単に外には出られないから、可哀想だな……」 
「そのことでご提案がございます。若奥様を、一度里下がりさせてあげてはいかがでしょう?」 
結婚から家に入ったきり、確かに今まで実家に帰らせたことがなかった。 
心も疲弊している今だからこそ、彼女にも気の休まる場所で英気を養う必要があるだろう。────自分がその場所になれない歯痒さはこの際棚上げにした。 
「────僕から彼女に話してくるよ」 
「よろしくお願い致します」 
重い腰を浮かせて、ゆっくりと階段を上がっていった。 



ももこの部屋の前まで来て、そう言えば本当に久しくに顔を見るなと思った。笑った顔などなおさら記憶の向こう側だ。 
コンコン、と軽くノックをすれば返ってくる声さえ懐かしい。 
入るよ、と断ると返事はなくなった。 

ガチャリ 

ももこは基本的に部屋の鍵をかけないので、ドアはすんなりと開いた。 
ももこは何やらガサガサと文箱の中に隠していたが、恐らく描きかけの絵なのだろう。彼女は絵を描くことを好むが、ひとに見られるのは嫌いらしいから。 
「キミに話がある」 
我ながら声が固い。あの一件以来、まともに会話をしていなかった。 
「……なんですか?」 
足元に視線を落としたまま身体だけ和彦の方に向いている彼女。 
ひと目見てやつれたと思った。それほどまでに思い詰めさせてしまったのか、罪悪感が和彦の胸を刺した。 
「たまに、さくらの実家に帰ってみないかい?」 
その時、急に顔を上げたももこと目が合った。 
目の下に想像以上の疲れが見えた。可哀想だと思いつつ、それを自分が思うおこがましさも感じている。 
「それは────」 
「キミが望む離婚ではないけれど」 
刺した釘が痛かったようで、ももこは顔を顰めた。 
「数日、気持ちを整える為に環境を変えた方がいいと思うんだ」 
「……わかりました」 



これが一番いい方法なのだ。 
出口の見つからないふたりには、今はそれしか選択出来なかった。



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