あふ、とひとつ欠伸をしながら伸びをする。 
緩んだ襟元の肌には、小さな鬱血の痕があった────。 




※ 




昨夜は城ヶ崎に連れられて懐かしいの同級生たちと 呑み明かした。 
普段だったら絶対行かないようなあばら家のような居酒屋で外すハメは格別で、さしもの和彦も調子に乗ってついつい杯を重ねてしまった。その結果かなり酔いが回ってしまい、日付が変わる前に帰るつもりが足元も覚束無いせいでそれも出来なくなったのだ。 
帰りが遅いことをももこは心配していまいか、心配してくれればいいなと思った。
話題は昔話から最近の話まで、もちろん結婚したばかりの和彦も槍玉にあげられた。そしてももこが庶民の出であることを聞くと、みな一様にして石を飲み込んだような奇妙な顔をして見せた。 
「それは……よっぽど美人だったんだろう」 
「さっき見かけたけど、凄く子ども臭かったわ」 
「城ヶ崎女史は辛口だから」 
「じゃあ床上手なのか?」 
ははは、と笑う友人たちに合わせて和彦も笑う。 
言えない、そういう関係には及んでいないなどと口が避けても言えやしない。 
「だが俺は、てっきり堀さんとまとまると思ってたぞ。家柄にしても釣り合うし」 
「悔しいが美男美女だしな」 
それは昔を知るみんなの共通認識だったようで、実は和彦もそうなるものだと思っていた。 
堀こずえは良家の子女、物腰優雅で知識も教養もある女性だ。和彦もそれとなく気持ちを預けていたし、それはこずえも同じだったと思う。 
決定的な関係ではないにしろ、ふたりの仲はほぼ公認のようになっていたのだ。 
しかし父から言い渡されたのは、祖父の遺言で選ばれた庶民の女との婚姻。和彦の意思などお構い無しの縁組に、半ばヤケになってしまったのも仕方がないではないか。 

でも今は、それで良かったのだと思う。 
ももこに出逢ってから心の壁を壊されて、ようやく和彦は周りの世界と繋がれたような気になったから。 
そして彼女の笑顔の理由になりたいと、他者のために尽くしたいと初めて願えるようになったからだ。 


「なんだよ、新妻のこと考えて思い出し笑いか」 
「天下の花輪和彦がこれじゃあ、世も末だな」 
「大げさだよ、諸君」 
「女が関わると、男ってこうも変わるのね」 
ひとり醒めた目で城ヶ崎が呟く。 
「……どういう意味かな」 
「格好悪いって言ってるのよ。あなたはもっと高潔な人間かと思ってた」 
「姫子さん、飲みすぎよ」 
目が座っている城ヶ崎をこずえがたしなめたが、そんなことで止まる城ヶ崎ではない。 
「こずえも、トンビにこの人カッ攫われて悔しくないの? 私は悔しいわ。花輪クンがこんなに人並みにくだらなくなって」 
「城ヶ崎クン、キミは僕を買い被りすぎだ。僕はキミが思っているほど聖人君子ではないし、たいしたことない男だよ」 
和彦の方もイライラしてきた。自分のことを言われるのは幼少のころから慣れているから受け流すことも出来るが、ももこが関わるとなると話は別だ。 
彼女にはなんの非がないのに、ももこの与り知らぬところでももこを蔑むのは卑怯の極みである。 
怒りは酔いさえ醒させ、冷静で冷徹な自分が覗き始めた。 
────いけない。 
隠せる部分までさらけ出されそうになり、和彦は足元を確かめながら席を立った。よろけていないのならば帰れる。 
「諸君、悪いが先に帰らせて頂くよ」 
「新妻は流石に寝てると思うけどな!」 
やんやと見送られながらフラフラと外に出ると、その後からこずえが追いかけてきた。 
「和彦さん」 
「やあ、キミも帰るのかい? 夜道はレディにとって危険極まりない。ついでに送るよ」 
「いいえ。今日はそもそも城ヶ崎さんのお家に泊まらせてもらう予定だったので」 
なるほど。堀家のご令嬢がこんな夜更けまで出歩いていることを許されるわけがないか。城ヶ崎女史なら裏をかいて夜遊びしていそうだが。 
そうかと和彦が呟くと、しばらく沈黙が降った。 
こずえと一緒になってもいいと思ったのは、こんな時の沈黙が辛くなかったからだ。言葉がなくても他人と同じ空間に居られることは貴重だと思う。 
ただ今は、沈黙が耐えられるだけでは物足りない。一緒にいることが嬉しくなければダメなのだ。 
「遅くなりましたが、ご結婚、おめでとうございます」 
「ありがとう、堀クン」 
「……和彦さんがそんな顔をするだなんて、きっと素敵な方なんでしょうね」 
「────自覚はないのだが」 
こずえは着物の袖で口元を押さえながら、くすくすと笑った。そしてそれがおさまると、少し寂しそうに笑う。 
「正直申しますと、和彦さんが結婚したことを聞いた時、相手の方をお恨みしましたわ。私の和彦さんを、って」 
「そもそも僕らはなんの約束もしていなかったじゃないか」 
「……今思えば、甘えていたんでしょうね」 
和彦に。周りに。自分の後ろ盾たる家柄に。 
なにも言わなくても、いつも周りが察してくれたから。 
だけれど大事なことは、口に出さなければ伝わらないのだ。 
「ひとつ、お願いしてもよろしいかしら?」 
「叶えられる範囲であれば、なんなりと」 
するとこずえは、寂しそうな顔のまま和彦の胸に身を投げ出した。縋りつく指が麻のスーツに皺を残す。 
「このまま一晩、和彦さんを私に預けて下さい」 
「出来ません。不貞を働く理由がない」 
「接吻を」 
「熱は残せません」 
「抱きしめて下さいまし……」 
「あいにく僕の腕は、すでに彼女を抱きしめる為だけにあるんです」 
いくらこずえが身体を預けてこようと、和彦の腕は両脇からぴくりとも動かなかった。 
ここで情けをかけるのはこずえの為にならない。 
なによりも喫茶店でももこを見たのに和彦に迫るなど、ももこ相手になら勝機があると考えたなら、その浅ましさに怒りさえ覚えた。 
勝ち負けで、人の上下で現実が動くわけではないのに。 
「女が勇気を出しているのに……」 
「勇気を出すなら、外堀を埋めることよりも気持ちのひとつでも言葉にすればよかったのです」 
そうすれば、あるいはふたりの未来は変わったのかもしれない。 
そしてこずえは昔の自分は甘えていたと言いながら、周りに忖度を求めるところは何も変わっていなかった。昔の和彦であれば汲んだかもしれない心情も、今の和彦には何ら伝わらないのに。 
「────もう、何もかもが遅いんですね」 
ふたりの間に隙間が出来た。離れた体温を名残惜しいとは思わない。 
「戻った方がいい、蚊が酷いから。僕も今さっき刺された」 
「……もう、お会いすることもございませんでしょう」 
「僕はむしろ会わなくてもいい」 
そう吐き捨てると、和彦は山高帽子を目深に被り、さっさと踵を返した。 

何よりも早くももこに逢って、今は気持ちを伝えたい────……。 





子爵邸に着くと、さすがにももこは眠っていた。 
目の下に少し疲れたような跡が見え、時折眉を寄せている。もしかしたら悪夢にうなされているのかもしれないが、揺らして起こすべきか迷うところだ。 
軽く湯を使い寝巻きに着替えると、ももこの傍らに腰を下ろした。手の甲で頬の感触を確かめる。まろい頬だ。 
「────ももこ」 
面と向かって彼女の名を呼ぶのは初めてかもしれない。例え寝ていても、だ。 
「ももこ」 
呼ぶだけで胸の奥からなにかがじんわりと溢れてくるような、泣きたくなるような感情。 
「もも、……好きだよ」 
一度口にしてしまうと、どうしようもなく堪らなくなった。 


好きだよ。ももこが好きだ。キミに伝えたいんだ。 


起きたら、きっと。 
触れていた頬にそっと口づけを落とし、和彦もようやく眠りについた……。 




※ 




目が醒めた。 
寝返りをうち、半分寝ぼけた和彦の耳にどこからかすすり泣きの声が聴こえる。 
「……もも……?」 
妻の名前を呼ぼうとするも、前日に飲み過ぎたせいで喉が渇いて引きつった。掠れて声が思うように出ない。 
「花輪クン……」 
目を開けると、隣でももこが土下座をしながら泣いているのが見えた。なぜ? 
「────どうし、た?」 
「お願いです」 
顔を上げないままのももこ。その声に切迫感を感じた和彦も、慌てて飛び起きた。 
「なにがあったんだい、ハニー?」 
「お願い、です……」 
苦しそうに言いながらようやく顔を上げたももこは、すでに涙でぐしゃぐしゃだった。 
何が起こったのかわからなくて狼狽えている和彦。その彼に、ももこは声を絞り出して決定的な言葉を差し出した。 
「別れて下さい」 
「────え。は?」 
「どうぞ、離婚して下さい……。お願いです」 





とても静かな朝だった。 
雀のさえずりが透明な空気にバラバラと爽やかな色を残し、清々しい朝陽が建物の中まで隅々と幸せを届けてくれる一日の始まりであった。 
切り裂くような言葉がなければ、きらきらしい朝陽に照らされながらはらはらと涙を流すももこは、とても儚く美しかった……。



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