北九州の実業家からの寄付を元に建てられたばかりの美術館は、建物の壮麗さと目新しさもあいまって、平日にも関わらずなかなかの人混みである。 そして人々の服装も、ももこのように着物を着ている人もいれば斬新な洋装に身を包んでいるご婦人方も多かった。さすが東京、日本の都である。 「ほら、作品が見えるかい?」 先程からつま先立ちをしているももこに手を貸しながら、和彦はいつか転んでしまわないかと内心落ち着かないでいる。フラフラと足元が定まっていないのだ。 「び、微妙……」 「もう少し人が引いてから観に来ようか? 閉館一時間前ならこんなに人もいないだろうし」 「────はぁ。そうしよっかな……」 来場からまだ間もないのにすでに疲れてしまったようだ。常につま先立ちの筋肉トレーニングをしているようなものだから、つらないだけまだマシだったかもしれない。 「もう、あたしゃ歩きたくないよ……」 「西洋のおとぎ話みたいに抱き上げようか?」 それは優しさではなく、むしろ罰ゲーム。 ブンブンと激しく首を振ると、笑いながら和彦が近場に喫茶店を見つけてくれた。そこに入ってお冷を口に含むと、すーっと疲れが引いていくようだから不思議である。 「キミは何を飲むのかな?」 「え。こんなとこ入ったことないからわかんないよ。あたしが飲めそうなもの、あるかい?」 広げられたメニュー表を見ても、チンプンカンプン。緑茶ぐらいおいとくれ。 「ミルクホールなんてどうだろう?」 「なにそれ、なんか甘そうな響きだね」 「じゃあキミはそれで。僕はアメリカンにしよう」 給仕の女の子たちもみんな垢抜けている。ももこはぽかんと口を開けながら彼女たちの後ろ姿を眺めつつ、無意識に手提げからメモ紙を出し、その立ち居振る舞いのひとつひとつをデッサンしていく。いつでも絵がかけるように、出かける際には常にメモ紙と鉛筆は欠かせないのだ。 「見せて」 「やだ」 「ちょっとだけ」 「だめ」 「キミが描く絵を見てみたい」 「恥ずかしいから無理」 だけれど描くのは止められない。下手でもなんでも、だって描くのが好きなんだもの。 そのうち注文した飲み物がやって来て、慌ててメモと鉛筆を仕舞った。 ももこの目の前に出てきたのは温かい白い飲み物、向かいの和彦の手元には香りのよい珈琲が置かれた。 「……牛乳?」 「そうだね」 「え、牛乳?」 「美味しいと思うけど」 子どもの飲み物か! しかし口をつけてみると確かに美味しかったので、それ以上の文句は飲み込んだ。 「ねえねえ。花輪クンは東京の高等学校に行ってたんでしょ? この辺は詳しいの?」 そう問うと、長い足を組み直して腕を組みながら考えるポーズ。 「それほどでもないかな」 「ふ〜ん。遊んだりは?」 「芝居小屋とか行ったかな。歌舞伎とか、なかなか面白いよ」 「それならあたしゃ、落語がいいなぁ……」 ももこらしい答えに、和彦がくすりと笑う。 なんとも穏やかな時間だ。なんでもない話題を語り合い、自然に微笑みあえるふたり。 ソリが合わなかったのが嘘のような、心地のよい空気であった。 このまま本当の夫婦になれそうな、そんな予感がももこの胸の奥をくすぐる。そうなったらきっと────。 「────あら。もしかして花輪クン?」 不意に和彦を呼び止める声が聞こえた。 鈴の鳴るような可憐な声に振り向けば、くりんとした大きな瞳が印象的なスラリとした洋装の女性がこちらを向いていた。長い髪の毛に緩くパーマをあて、時代の最先端をいってそうなファッションは美人の彼女によく似合っていた。 「もしかして、城ヶ崎クンかい?」 「もしかしなくてもそうよ。奇遇ね、ひとり?」 ちらりとももこを見ながら言う。存在を確認したのにわざわざ無視するのだから、余程いい根性をしているのだろう。 「いや、連れがいるけど?」 「……そうみたいね」 今度は堂々と真正面からももこを上から下まで見定めるように。好意的ではなさそうな視線に、眉を寄せながら一応ぺこりと頭を下げた。 「こちらは?」 「僕の妻だ。知ってるだろ、結婚したの?」 「ももこです」 ももこには興味なさそうな彼女だったが、飲んでいるミルクホールを見て口の端を上げた。 馬鹿にされているのかもしれない……。思わず俯き気味に視線をそらしてしまった。 「城ヶ崎姫子です。彼とはずっと前からの知り合いで、────あぁ。こっちよ、こずえ」 「え……?」 城ヶ崎女史が口にした名前に和彦が僅かに動揺したのを、ももこは見逃さなかった。ちらりと横目で見ると、緊張をはらんだ表情をしながらも若干頬が上気しているようにも見える。 こんな顔の和彦は、ももこの記憶の中にはなかった。 「堀クン……」 城ヶ崎女史に呼ばれて近づいてきた黒髪の女性。城ヶ崎女史とは対照的な着物姿に色白で涼しげな目元が印象的な、日本人形のような美女だった。 「和彦さん、お久しぶりです」 「久しぶり……。元気だったかい?」 「────……」 なんだなんだ、この雰囲気は。まるでももこが空気ではないか。 この三人が昔からの顔馴染みなのは会話の内容からわかった。しかしそれはももこを弾く理由にはならない。 むしろ城ヶ崎女史からは、ももこを締め出そうという意図が見え隠れしているような気さえした。 気まずい……。 それでもひとり勝手にこの場を離れるのも感じが悪いような気がして出来ない。 嗚呼、どうすれば────。 そんな時、天は助けを差し向ける。 「ヘイ! カズ、モモコ!」 喫茶店中に轟くような聞き覚えのある声に、咄嗟に反応して顔を上げた。その目がキラキラと煌めく金髪を捉える。 「マーク?」 「覚えててくれたんだね、モモコ〜!」 覚えてなくても、ここは知った顔に飛びつきたいものだ。 味方じゃなくても知り合いは味方にカウントされる。ばっと立ち上がると一足飛びにマークのところまで駆けつけて、ぐいっと腕に掴まった。 「あたし、マークに美術館とか案内してもらうから!」 「オー、情熱的だネ!」 「そ、そうかい?」 ももこの提案にあからさまにほっとする和彦を見て、胸がチクリと傷んだ。 何よりも和彦と彼女たちを、特に堀こずえと呼ばれた女性と残しておくことに不安がないとはいえない。 しかし楽しい思い出話に水を差すのは、それも違うと思った。 「じゃあマーク。悪いけれど美術鑑賞が終ったら、彼女を子爵邸まで送り届けてくれないかい?」 心なしか嬉しそうに見えるのは、錯覚だと思いたい。 目を見られなくて逸らしたままぎゅっとマークの袖を掴むことで、逃げ出したい脚をどうにかその場に踏みとどまらせた。 「お安い御用さ! さあ行こうか、モモコ」 「う、うん……」 こうするのが正解なのか間違っているのかは、今はわからない。そんな事よりもただここを立ち去りたくて────。 ※ 子爵邸に送り届けられたのは夕飯前だった。 さすがに本邸のようには自由に出来ないので、その辺はマークも汲んでくれたらしい。 彼とはいろんな話をした。 彼女たちは和彦とマークの通っていた学校の近場にあった女学校生だったのが縁で親しくなったこと。堀こずえとは特に親密だったという。 ももこはついぽろりと、いつか離婚を考えていることなども喋ってしまったが、軽そうな外見とは裏腹に、マークは親身になってももこの話を聞いてくれた。 言葉がとまらなくて、涙が溢れて、最後には子どものように抱きしめて宥めてもらった。 「明日出発する時も見送りに行くよ」 そう言ってくれたのは、別れ際のももこの顔があまりにも酷かったからだろう。 小さく頷くと、あやすように頭を撫でられた。 食欲はなかったが出された物をなんとか詰め込んで、ぼうっとしながら風呂から出た時はすでに夜の十時。 和彦はまだ帰ってきていない。 待っていようか、どうしようか。例え待っていたとしても、彼がこの上なく幸せそうな顔をしていたら、きっとももこは普通ではいられないだろう。泣いて喚いて手当り次第手元の物を投げつけていると思う。自分はそんな人間だ。 彼女はそんな子どもっぽいことはしないのだろうな。 「……」 考えがまとまらない。頭の中に嵐が来たみたい。もうダメ、ひとりでいるのが辛い。いつか帰ってくる和彦の顔を見るのが辛い────。 いつの間にかももこは寝ていた。 時刻は夜中の二時手前。 しかし広いベッドをわけあう相手は、まだ帰ってきてはいなかった───……。 |