「少し休むかい?」 
「う……。いや、もう少しだから我慢するよ」 
「そう。無理するんじゃないよ」 
ガタガタガタ 
馬車に揺られて快適とも言い難い旅も、もう少しでひと区切り。 
大正に入って道路法が施行されるも、日本全部の道路が整うのはまだまだ当分先のことのようだ。 
和彦は仕事柄各地を飛び回るのに慣れているらしいが、ももこにとっては地元を離れるのは初めてのことだ。自然と目に映るもの全てが新鮮に思え、あっちを見ては歓声を上げ、こっちを見ては感嘆の声を漏らすももこ。そんな彼女を見ているのが、和彦にとっては一番のお楽しみということは胸の内だけの秘密である。 

そして東京に着いてからのももこは、あまりの驚きに言葉をなくしてただぽかんとすることしか出来なかった。 
豪華絢爛煌びやかとは、まさに首都東京の他に似合いの都市はないだろう。 
「本当にこんなところ、あるんだねぇ……」 
「さあ、別宅まではあと少しだよベイビィ」 
別宅と言えど、子爵が住む屋敷は地元のそれと遜色ない豪奢な造りだった。豪華なのは結構だけれど、なんだか迷いそうで怖い。 
「お手をどうぞ、マダム」 
ようやく馬車から降りる際、恭しく和彦が手を差し出す。彼がいつも被る山高帽子のせいで和彦の表情が見えないが、やや躊躇いながらその手に手を重ねるとぐいと引っぱられた。悲鳴をあげる間もなく脇を抱え上げられ、無事に着地。 
「こ、子どもじゃないし!」 
地に足が着いてから抗議と称して胸を拳で叩くと、一向に応えた様子のない和彦が寧ろ機嫌よくももこのみだれ髪を掬って耳にかける。耳朶に指が触れ、そのままするりと頬を撫でられた。 
「さあ両親に挨拶に行こう。思いがけず遅くてなっしまった」 
「はぐからさないでよねッ」 
「僕は僕のしたいようにする。キミもキミのしたいようにすればいいじゃないか」 
それは頬を撫でたり赤ちゃん抱っこをするのは和彦がしたいと思うからしているということなのだろうか?
わからない。この男は知れば知るほど何を考えているのかわからない。 
こんな時は余計なことを考えたらダメだ。あるがままに受け入れて、流れに逆らわないように粛々と進めばいい。 
そうは思うのだが……。 




「遠いところからよく来たな。和彦、ももこさん」 
「今日はゆっくり休んでくださいね」 
一度きりしか会っていない花輪子爵とその夫人だったが、庶民出のももこのことはそれほど悪く思っていないようである。 
和彦は隣に座るももこの手をしっかりと握りながら頭を下げた。 
「ありがとうございます。それではお言葉に甘えます。行こう、ももこ」 
「ぇ、あ。御前を失礼します!」 
握られた手の大きさと硬さに気をとられて、慌てて和彦に合わせて挨拶した。 
引っ張られるように居間を出ると、使用人が案内する部屋に入る。広々としていて、別に寝室がある部屋だったが……。 
「──あれ? あたしの部屋は?」 
「彼女の部屋は?」 
使用人に問えば、滞在中はふたりでこの部屋を使うようにと言われてしまった。広い。広いけれど、ちょっと待て。 
繋いだままだった手をバッと振り払ってバタバタと続きの部屋を確認すると、部屋の中央に鎮座するベッドを見て、ももこはへなへなと力が抜けた。 
「これはまた……」 
ももこの後ろから同じく寝室を見た和彦の声も驚きを隠せていない。 
部屋の入口にもたれた和彦を見上げながら、ももこは頬を真っ赤にして口を真一文に結んだ。 
「あたし、ソファに寝る!」 
「おバカさん。いくらさくら嬢が相手でも、女性にそんなことはさせられない」 
「でも、寝台これしかないんだよ?」 
「キミが構わなければ、僕は一緒でもいいけど?」 
「こ、困るわよ! あたし、まだ生娘なんだか、ら……」
尻つぼみになっていく言葉を聞きながら、和彦はとうとう笑いを堪えることが出来ずに噴き出した。腹を抱えてまで笑うほどおかしなことを言っただろうか? 
頭の上で次々と疑問符が湧き上がるももこの小柄な身体が、不意に和彦によって抱き上げられる。背中と膝裏に手を回される不安定な態勢に、思わず必死にしがみついた。 
どうするつもりなのか? 
笑いながらゆっくりと歩く和彦は、ベッドまでくるとそっとももこを横たえてその上に覆いかぶさった。ももこの逃げ道は、もうない────。 
整った顔が真顔になった。
綺麗な男の真顔は妙に迫力があるものだ。蛇に睨まれた蛙よろしく、ももこは息を飲んで和彦から視線を外せない。 
和彦はゆっくりとももこの頬を撫でると、指の先で耳朶を弄ぶ。むず痒い感覚に思わず首を竦めると、じりじりと和彦がももこに覆いかぶさって、被さって────潰された。 
「おもーッ! くるし、い!」 
じたばたともがけばもがくほど和彦の笑いは大きくなっていく。 
「早く! どけ、て!」 
「さくら嬢は絶対寝相が悪そうだからね。先に潰させてもらったよ」 
「はぁ? どんな言いがかりだよ! そんなの、一緒に寝てみないとわかんないじゃないのさッ」 
売り言葉に買い言葉。 
そして啖呵をきったあと、あ、とももこは口を押さえた。これでは一緒の寝台で寝ることを了承したも同然だ。 
「決まりだ。一緒に寝よう」 
「待って待って! 今のナシ!」 
「女に二言は?」 
真顔で指を突きつけられて、思わずその指を噛んでしまうももこであった。 





情緒もへったくれもない。確かにその通り。 
ももこは自分について考える。 
部屋に備え付けの浴槽に浸かりながら、ぼんやり思い浮かべるのは、先程の破顔した和彦の笑顔だ。 
本当に最近、よく笑顔を見るようになった。そしてその度にももこまでウキウキと嬉しくなってしまう。 
初めましてはいけ好かないキザな男だったのに、今やどうだろう? 嫌いではない。寧ろ──── 



……好き 



頭がぼーっとしてきたのは、きっと湯あたりだ。慌てて湯船から出て身体を拭く。拭きながら脱衣場の大きな姿見に映る我が身を眺めながら、思わずへッ、と笑ってしまった。 
膨らみに欠ける身体付きは、どこまでいっても幼児体型。肌の色だって決して白いとは言えず、良くいえば健康美だが明け透けにいえば子供っぽさが抜けない。これが人妻だというのだから、お天道様だって笑ってしまう。 
はあ、とため息をつきながら襦袢を羽織る。ああそうだ、今日と明日は彼が隣で寝ているのだっけ。 
胸当てをした方がいいのだろうか、と考えて馬鹿馬鹿しいと自嘲した。 
関係ない。こんな幼児体型に欲情するほど、不自由はしていないだろう。なにせ堂々と妾を作ると宣言していたのだもの。 

浴室を出ると、ベッドの上にはすでに和彦が寝転がっていた。こちら側に背を向けているので、起きているのかわからないが。 
「花輪クン……?」 
小声で呼んでみるも反応はない。 
ベッドによじ登って顔を覗いてみると、彼は穏やかな寝息を立てて眠り込んでいた。まつ毛が長くて影が出来ている。本当に羨ましいほど美しい男だ。 
「……ちゃんとお布団かけないと、風邪ひいちゃうよ?」 
一応問いかけるも、当然のことながら返事はない。 
「……」 
読み掛けの洋書をサイドテーブルに移し、足元に寄せられた夏掛け布団を腹の上まで引き上げる段階で和彦が寝返りを打ち、ももこの方を向いた。
一瞬どきりとしたものの、やはり深く寝入っているらしい。 
ランプの火を落として暗くすると、月明かりだけがカーテンの隙間から室内を照らした。もう誰も、この部屋の中を覗くことは出来ない。 
自分も横になってみると、広いと思っていたベッドは案外狭かった。つまり和彦が近い。 
恐らく彼がほぼ中央を独占しているからだろうが、わざわざ起こしてまで場所をズレてもらうほど、ももこは狭量ではない。今日のところは貸しにしてやろう。 
小柄なももこだから、するりと空いているスペースに身体を入れられた。 
もちろん和彦には背を向けているが、すぐ後ろから聴こえる寝息が気になってなかなか眠れないでいた。イビキがうるさいわけじゃないのに────。 
「人の気も知らないで……」 
きっとももこの苦しい胸の内を打ち明けたところで、彼にとっては立て板に水なのだ。むしろ離婚を視野に入れているのに、めんどくさいことを言いやがったと思われるかもしれない。 

────だったら言わない。 

ずっと口を閉じているのは辛いことかもしれないけれど、情けをかけられて離れるのが辛くなる方がきっと堪える。だからこのままで……。 




────そう思っていたのに。 

ぎゃ────ッ! 
心の中で上げた絶叫は、決して寝ている彼には伝わらないだろうが、実際叫ばないだけ感謝してほしい。 
なぜなら、 
「……余計寝られないよ……」 
背後から両腕を回され、柔らかく囲われたせいだった。 
背中に当たる逞しい筋肉の硬さにドキドキしつつ、必死に目を瞑りながら般若心経を唱える。 
するとどうだろう。 
般若心経の効果かは定かではないが、案外あっさり眠りにつけた。 
よくよく考えてみれば人肌が気持ちよくて微睡みを呼んだのだろうが、そんなことはどうでもよかった。 






翌朝もももこを抱きしめたままの和彦の手が、ももこの膨らみを包んでいたとかいないとか。不可抗力を怒られたのは、別の話。



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