和彦の部屋のドアを壊した一件から、なぜだかふたりの関係は緩和したようにももこは思う。 
本当は気まずいはずなのに、彼がやけに穏やかになったように感じるのだ。時折見せる優しそうな微笑みに、不覚にも胸が高鳴ってみたり。 
だがしかし気を引き締めなければいけない。いつかは離婚を言い渡されるのだ。ここで情が湧いてはミイラがみミイラとり、それもちょっと違うけれど、とにかく安易に惚れてはいけない。 
元々身分違いなのだから、惚れた腫れたが存在する間柄ではないのを肝に命じなければ。 

和彦がももこに好意を抱くはずはない。 
例えどれだけももこが彼を憎く思っていなくても────。 





※ 





「ベイビィ、お土産だよ」 
一週間の出張から帰ってきた和彦は酷く上機嫌で、ももこの手のひらに可愛らしい匂い袋を落としてくれた。 
「あ、ありがとう……。なんかいいことでもあったのかい?」 
「いや、別に?」 
お土産なんて、以前は買ってくることなどなかったのに。むしろいつも居たのかとでもいうような態度を取られていただけに、こっちの方が調子が崩れる。
お〜い、どうした天下の花輪和彦が。 
「仕事はうまく行ったの」 
和彦が外した外套を受け取りながら聞くと、ははっと笑って手の甲でももこの頬をひと撫でしてきた。もしかして出張で中身が入れ違ってしまったんだろうか? 神隠しかよ! 
「僕を誰だと思ってるんだい?」 
こういう高飛車なところはいつも通りなのに。 
「花輪和彦様かな」 
「その通りだ、ハニー」 
「さあさあ、とりあえず手洗いうがいしてきなよ! そしたら珈琲でも淹れてもらお。ね?」 
鼻歌でも歌い出しそうなその様子に、逆に不安になるのはなぜだろう。もしかして変な物でも食べたのだろうか? 
散々失礼なことを疑われているなどとは夢にも思わない和彦は、ももこの危惧した鼻歌を歌いながらスーツの上着をハンガーにかけた。 



「そう言えば、さくら嬢は絵画が好きなんだっけ?」 
以前とは違って、風呂上がりに一緒に過ごすことも多くなった。寝る少し前まで今日あったことやくだらない話なんかをポツポツと話す。 
視点が違うと新たな発見があるもので、ひとりで過ごす時間よりもふたりで過ごす時間の方が楽しいと、お互い感じ始めているのだろう。 
「まあ描く方が好きだけど、観るもの好きだねぇ」 
それがどうかしたの? と団扇で扇ぎながら小首を傾げる。 
そろそろ季節は夏に差し掛かり、夜もだいぶ熱くなってきた。薄い襦袢を寝巻きにしているももこだが、和彦の手前軽く羽織りを引っ掛けているせいか湯上りの熱がなかなか引かない。おかげで頬はいつまでも火照ったままだ。 
対する和彦は外国で購入したパジャマを着ているが、日本人にしては手足の長い彼にはよく似合っている。 
動きやすいのか、彼は専ら洋装を着用していた。和装を見たのは、婚儀の際の紋付袴ぐらいなものか。 
「東京の美術館で、いま印象派展をやっているようでね」 
「え、ホントかい? 気になるけど、東京だと日帰りは無理だねぇ」 
遠距離の移動も馬車が主流のこの時代、東京に行くだけでも大移動になる。一泊二泊は覚悟しなくてはならない。 
「もちろん日帰りはありえないさ、ハニー。二泊三日の予定で前後日を移動に当てて、中日を美術鑑賞に東京巡りと洒落こんではどうだろう?」 
「そんなこと言うけど、一体どこに泊まるのさ」 
「忘れているようだけど、東京には両親の別宅がある。たまには一緒に訪れて、せいぜい夫婦仲はいいと安心させてやろうじゃないか」 
なるほど、それは名案かもしれない。 
「花輪クン、頭いいねぇ」 
「僕を誰だと思っているんだい、ハニー?」 
褒められるのが嫌いではない様子の和彦は、得意顔でウィスキーの入ったグラスを揺らした。 
しかしももこは、じいっと和彦の顔を見つめると、自分が座っているソファの距離を詰めてひとりがけに座る和彦に近づいた。 
「ねぇ」 
「なんだい、さくら嬢」 
「ず〜っと気になってんだけどさ、あたし」 
「なんなりと」 
「その、ハニーって、どんな意味なの?」 
「ッ!」 
丁度グラスに口をつけたタイミングでなされた質問は、和彦を盛大に噎せさせるには十分の威力だった。 
ブハッと琥珀色のアルコールをマーライオンさながら噴き出すと、わあ、と驚きつつも慌ててももこが手ぬぐいを和彦に預けて、自分はテーブルなどを拭いた。 
「あたし、そんな変なこと聞いちゃった?」 
「な、なにを……」 
「だって最近よく言ってんじゃん。ハニーって」 
「そ、そうかな?」 
まさか無意識だとは言えまい。言えるわけがない。 
「────悪い意味ではないから、安心したまえ」 
「あたしゃ気になって気になってさぁ! でも悪い意味じゃないんなら、まあいっか」 
片付けをひと通り済ますと、じゃあ先に寝るね、とももこはドアに向かう。 
「おやすみ、花輪クン」 
「おやすみ、さくら嬢」 
パタンとドアが閉まった後、しばらく微動だにしなかった和彦はきっちり五分経ってからはぁ、と深い深いため息を落とした。 





ドアをぶち破られた時(後に椅子で襲撃されたのだと知ってゾッとしたのは内緒だ)、同時に彼女との間に引いていた線をひとっ飛びに越えられて目と鼻の先までももこが近付いてきたような錯覚に陥った。 
今までそんなに近い距離まで誰かの心が入ってきた経験などなく酷く狼狽えてしまったが、落ち着いてみればそれは却ってよかったことなのかもしれない。本当のももこは、いつだって和彦に歩み寄ろうとしてくれていたのだから。 

かつて和彦も同じように歩み寄ろうとした人たちがいた。 
父と母。 
けれども父は和彦を厳格に育てる為に、母は父に習って強く育って欲しいと願った為に、和彦を突き放した記憶が根付いている。物心ついた時にはすでに両親のことをそう理解していたから、恐らくあながち間違いではないのだろう。 
やがて子爵だった祖父が亡くなったことに伴い、父が子爵の位を継いでからは、この広い屋敷で和彦はいつもひとりだった。ひとりに慣れた。だから誰かに必要以上に踏み込まれるのを嫌がり、恐れた。 

きっと結婚相手がももこであろうとなかろうと、婚儀の日の気持ちは変わらなかっただろう。 
誰かひとりに自分の全てを預けるなんて、もし裏切られたらと思うと、そんな恐ろしいことは絶対に出来ない。子爵家の娘だろうが伯爵家の娘だろうが、皇女だろうが他人はどこまでいっても他人なのだから。 
自分にはひとりで生きていくことに耐えられ、その為に必要なはずの強さも身につけたはずなのに…… 

マークの明るさに引き出されて、今まで見たこともないようなとびきりの笑顔で輝くももこを見た瞬間、 

────色々なものが脆く崩れていくのを感じた。 

それを繕う為に部屋に閉じ篭ったのに、結局は壊したはずの彼女に心を救われたのだ。 



ハニー 
ハニー 
可愛いひと 
踏まれても揉まれても、最後には笑って許してくれる甘いひと 



婚儀の当日に釘さしのように宣言した言葉が今は疎ましい。 
声を聴きたい。触れてみたい。手を繋ぎたい。 
抱きしめて、全てを奪って捧げたい……。 
そう思えるほどに和彦の心は今、まっすぐとももこに向いていると自覚したのだった。



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