ヘイ、カズ! その声を聞いた時の和彦の顔は、きっと眉間に箸を挟めるほどの顰めっ面だっただろう。 「マーク……」 「そんな顔すんなよ〜。新婚なら、もっと幸せそうな顔しろって!」 バシバシと背中を叩かれて思わずむせた。 この金髪の友人はアメリカ人の両親の都合で日本に留学してきた、尋常小学校からの悪友である。注目すべきは、あくまで和彦は親友とは呼ばない点だ。「しかし結婚早かったよな〜。大学も行かないで家業継いだのと関係あンのかな?」 「うるさいなぁ……。なんだってそんなに絡んで来るんだよ」 「別にカズの奥さんが見たい、とかいうわけじゃないけど?」 見たいんじゃないか。 マークは他の学生たちと違ってフランクに付き合えるのがいいところなのだが、いかんせんプライベートの壁をしばしば華麗なる高飛びで超えてこようとするのが難点である。それ以外は至って良い奴なのだけれど……。 「……と、いうわけでマークを置いて行くから」 「置いてくからって言われても困るんだけど」 突然昼間に帰宅してきた和彦が連れてきた外国人を見ただけで、ももこの心臓は緊張しすぎてすでに早鐘を連打していた。チラチラ横目で金髪の男を盗み見していると、不意に目が合ってにこやかに手を振られた。 「大丈夫だよ。一応悪いヤツではないから」 「ニホンゴぺらぺらだよ、奥さん!」 「お、おぉ……」 「じゃあそういうことで。マークは飽きたら勝手に帰るから」 「そういうことでの意味わかんないッ」 「いってきます」 「いいいってらっしゃい!」 嵐のようにやって来たと思ったらさっさと去っていった和彦の後ろ姿を恨めしそうに睨みつけた。 ももこが英語を不得意にしているのは、家庭教師から聞いて知っているはずなのに。なんの嫌がらせだ! 「奥さ〜ん」 「は、はい?」 「お茶しまショー」 「……そうですね、すいません。お客様なのに……」 外国のお客様は緊張するが、日本語が出来るならば少しだけ心強い。 丸くなりそうな背筋を伸ばし、ももこは挨拶をしながら居間に案内した。 「ご挨拶が遅くなってすみません。ももこと申します」 「マークです! カズヒコとは尋常小学校の頃からの付き合いだから、そんなに畏まらないでもイーヨ」 それこそ勝手知ったる花輪邸。 いつもここに座るんだと言って、勝手に一人がけのソファに身体を沈めている。が、そこはいつも和彦が座っているところなのだけれど、大丈夫なのだろうか? 使用人はわかっているのか、何も言わなくても珈琲を持ってきてくれた。ももこには緑茶を。茶菓子は煎餅。 「モモコは日本人形みたいでキュートだね! ところでどこでふたりは知り合ったの?」 珈琲を啜りながら、何の気なしにマークはいきなり手榴弾をぶん投げてきた。幼馴染のような間柄なら、ある程度事情を知らせていると思ったけれど。むしろこういう面倒事をこの男と一緒に置いていったのではないだろうか、あの男は。 「え〜と、話せば長くなるんですけど……」 「敬語ナシね、モモコ!」 オゥ、軽快。 若干引き気味になりつつも、ポツリポツリと当たり障りないところを話すところから会話は始まった。 ※ 「ただい、ま……」 いつもより少しだけ遅い帰宅を知らせるも、居間から弾ける笑い声でたちまちに和彦の声は掻き消されてしまった。驚き顔の和彦に苦笑しながら近づく西城が、申し訳なさそうに頭を垂れる。 「おかえりなさいませ、ぼっちゃま」 「ただいま、ヒデじい。……あの笑い声は?」 「はぁ……。若奥様とマーク様です」 「マーク? 彼はまだいるのかい?」 彼女ではさほどマークの興味を引かないと思っていたのに、何をそんなに話すことなどあったのだろうか。 たかが庶民の出の、知識も教養もない女が。容姿も十人並までいかない、愛嬌だけが唯一の取得のような彼女が。 果たして女の趣味にうるさいマークと、どのようにして意気投合したのだろう? なぜだか無性に腹立たしかった。ざらりとした感情が内側を逆撫でるような、そんな感覚。 「────失礼」 ガチャリとドアを開けると、大きなテーブルで何かゲームをやっているらしいふたりが同時に振り向いて和彦を見た。 ────その顔が、 「あ、おかえりなさい!」 見たこともないほど嬉しそうに上気して輝いていたことに、 「ただいま、奥さん」 ────柄にもなく、イラついた。 「カズ、おかえりー!」 「まだいたのか、マーク」 「いつ帰ろうと俺の勝手だろ? もうさー、モモコとめちゃくちゃ仲良くなっちゃってッ」 「ね〜! 今も双六やってたんだよ」 「ニホンの遊び、楽しいよね〜」 「マークと遊ぶのすっごく楽しい!」 「……そう」 思いがけず声が低くなってしまった。でもきっとふたりには気づかれない程度の変化だ。 「彼女が気に入ったのなら、ゆっくりしていけばいい、マーク」 それだけなんとか絞りだすと、和彦はさっさと自室に籠った。誰も入れないように鍵までかけて。 これで自分の世界が外側と遮断されたような気になる。 それからズルズルとドアを背に座り込んだ。なぜそんなことをしてしまったのか、わからないけれど妙に身体が重く感じたから。 階下からは相変わらずマークの喧しい声が聞こえたが、ももこの笑い声は聞こえなくなっていた。そのことに我知らず口元を歪めるも、それは無意識の行為で和彦自身は気づいていない。 マークの脳天気な顔はもう見慣れた。あいつの感情豊かな表情は百面相だ。 だけど彼女は、ももこは違った。 ここに嫁いできた時から、常に感情に蓋をしたような表情で。たまに笑っても、それは明らかに全開ではないとわかるもの。その度にどこか歯がゆい気持ちを抱えていた。 こちらは全面的に預ける気もないのに、相手には全て差し出せというのは都合のいい話かもしれない。だけれどそれを自分には見せないくせに和彦以外の誰かに見せるのは、納得いかなかった。 また仲間外れだ。違うだろう? お前は誰の妻なのだ。 わがままと言わば笑え。 しかしそうでもしないと、自分は────。 膝を抱えて頭を埋め、暗い気持ちに流されかけた時のことだ。 コンコン 控えめなノック音に顔を上げる。それから気遣うような声。ももこだ。 「あのさ……、大丈夫? 疲れたの?」 先程のような楽しそうな声は形を潜めてしまった。もう、聴けない────。 「マークは?」 「帰ったよ。ねえ、開けとくれ。夕飯の支度出来てるってば」 「疲れて食事するよりも寝たいんだ」 今は誰にも会いたくない。孤独に負けて醜くなった自分をさらけだせるほどの勇気など、まだないから。 「……あんたがいるのにひとりで食べるのは、あたしゃ嫌だな……」 「……」 世界で孤独を味わうくらいならひとりの世界を選ぶ和彦より、ひとりは嫌だと訴えられる彼女は素直で勇敢だ。それに比べて……。 「聞き分けろよ。ここは僕の家だ。僕がこの家の主だ。キミはたかが嫁に来ただけの小娘だろう?」 我ながら最低な言い分に、笑いさえこみ上げてきそうだ。 しかししばらく沈黙したままのももこは、小さくそう、とだけ答えて和彦の部屋の前から立ち去ったようだ。トタトタトタと足音が小さくなっていくのを聞きながら、和彦は己の馬鹿さ加減に思わず顔を覆う。 せっかく歩み寄ろうとしてくれたのに、自分はみすみすその機会を手放した。いくらももこでも、和彦が頑固にひいた一線からは入ってくることもないだろう。 それでいいと思う反面、それを悲しいと思う自分がいる。 自分勝手だ。わかっている。だけれどどうやって相手の好意を受け入れていいのか、誰も和彦には教えてくれなかったじゃないか。 「……」 視線は意味もなく宙を彷徨う。思考はなにも紡がない。 と、その時だ。 ドドドドと喧しい音と、西城の慌てたような声が聴こえたと思った刹那、寄りかかるドアに雷が落ちたかのような轟にも似た衝撃が走った。 激しい衝突音と、ビリビリと震えるドアから咄嗟に離れた和彦は、突然のことに暴れる心臓をなんとかなだめながら窓際に避難する。ドアは外側から絶え間なく何かをぶつけられていた。物がぶつかる合間に西城の声も響いている。 なんだこれ。 「あんたねぇッ!」 息の上がったももこの怒鳴り声に、肩が跳ねた。 まさか犯行は彼女のものか。 「勝手にいじけて勝手に拗ねんじゃないよッ、子どもか!」 「!」 「そんなことする前に、一緒に入れてって言えばいいじゃん!」 「……」 なんてことだ。 彼女は何の変哲もない庶民の女。 容姿も十人並にもとどかない。 無教養で無作法な、愛嬌だけが取り柄の──── 鍵が壊れたのか、ガチャリと外側からドアが開いた。 そこに立っていたももこは…… 「あたしは一応アンタの、妻だから。それだけ忘れないで!」 潤んだ瞳から雫が零れてしまわないように、懸命に堪えながらもまっすぐと和彦を睨んでいた。 しかし感じるのは怒りではない。 優しさと背中合わせの厳しさを受けて、和彦はただ呆然としながらこくんと頷いた。 「……わかった。すまない」 初めて。こんなに全力で体当りされたのは初めてだった。 彼女が壁を、強固に築いた心の蟠りを壊してくれたのだ。 |