「それで新婚生活はどうなの、まるちゃん?」 女学校時代からの親友は、あの頃と変わらないお下げ髪を揺らしながらうっとりと聞いてきた。 夢見る乙女なたまえの理想をぶち壊すのが忍びなくて、引きつった顔でももこは当たり障りのないことを言っておく。偽装結婚もどきだとか言ってみた日には、夢見るタミーが阿修羅タミーになりそうで怖かった。 「う、うん? いい人だよ、一応紳士だし」 「急に結婚しちゃうからびっくりしたのよ」 「そうだよね〜、あたしもびっくりだよ……」 「それで、激しいの?」 「は? 何が?」 だから、と頬を赤らめながらたまえは顔を近づけて小声で問う。 「夜は、優しい…?」 というかそもそもそんな営みはありませんが! しかしそんなことを言えばこの親友を困惑させるだろうから、言葉を濁して有耶無耶にしてしまう。してしまいたい。 だってそんなのわからないし、知りたいとも────。 一瞬柔らかく微笑む和彦の顔を思い浮かべて、首を振った。 ありえない、あんな男に情が移るなんて。 気障で高飛車で何様な男のどこに惚れる要素があると言うのか。確かに顔は極上だろうけれど、整った顔ほど冷徹になった時の迫力には背骨を鷲掴みされたような恐ろしさがあった。 ありえない。もう一度心の中で呟いた。 「そっか〜、残念。あの、実はあたしも今、お付き合いしてる人がいるんだ……」 「え? 誰々?」 うふふ、と笑うたまえからは女の匂いがした。 ももこの知らない、女の色香だった。 「内緒」 「えー! やだ、たまちゃんとあたしの仲じゃないのさ。教えてよぉ!」 「もう少ししたらね」 そう言って笑うたまえは、ももこの目から見ても可愛くて綺麗だった。これが恋をしている女の輝きなのか。 ももこには到底手の届かない幸せだった。 「……」 羨ましくないと言えば嘘になる。 だけれども今の生活はももこが選んだものなのだから、引き返すことも出来ないのだ……。 家に帰る連絡をすると、西城が馬車を回してくれた。 「今日もぼっちゃまがお戻りになっていますよ」 友蔵と約束を交わした大旦那様の時分から花輪家に勤める執事頭は、和彦をいつまで経ってもぼっちゃまと呼ぶ。幼い頃から仕えていた次期当主も、西城にとっては孫にも等しい存在なのだろう。 「最近よく家に帰ってくるよね、あの人」 「若奥様がいらっしゃってから会社に泊まり込むことも少なく、大変喜ばしいことです」 まあ家に居ても、気の向くままにももこを弄っては憂さ晴らしをしているようにしか見えないけれど。 「会社に泊まってるだけなのかな?」 「と、言いますと?」 「西城さんなら花……和彦さんの交友関係とかもある程度は知ってるんじゃない? お付き合いしてた女性とかいないの?」 恐る恐るそう聞くと、西城は思わずと言った感じで吹き出した。その反応はどうとればいいのだろう? 「若奥様の考えすぎですよ。あの方はああ見えて、それほど器用な方ではございませんから」 「不器用でもないでしょ?」 「私めが言ったと告げ口しないでくださいましね。おぼっちゃまは、器用貧乏な方だと思われるのです。感情を素直に出されるのが苦手な方ですしね」 器用貧乏。そうなのだろうか。 ももこから見たら余程要領よく見えるし、世渡り上手な印象なのに。 「あの方は、本当に望むものには臆病なのですよ」 「……」 なぜだかその言葉はすとんとももこの中で腑に落ちた。 同時に、だからあの人はももこに対してあけすけに出来るのだ、とも────。 家に帰ると、西城が告げたように和彦がすでにスーツを脱いで寛いでいた。 「ただいま帰りました」 「おかえり、さくら嬢」 「……」 なんだから変な感じだ。 「どうかしたのかい、ベイビィ? 黙ってしまって」 「ううん。でもなんだかね────」 いつも送り出しては迎えてばかりだから気づかなかった。 ただいまとおかえりなさい。その挨拶のやりとりが出来る相手がいることの大切さに。 そんなことをボソボソと呟くと、一瞬真顔になった和彦がべろりと片手で顔を撫でる。なんだか耳が朱に染まっているようにも見えた。 「え? なになに、どうしたの?」 「いや、……言われてみればそうなんだな、と」 「全然わかんないよぅ。ちゃんと日本語話しとくれ」 ももこの言いようにむっとしながら、和彦は首を振りなんでもないと打ち消した。 「なんでもないよ、こっちの話だから」 「カーッ、煮え切らないねあんたは! それでも男かいッ」 「────だからぁ、ただ僕も同じようなことを思ったなってだけだよ!」 同じこと。つまり、 「会話が出来る相手がいるの、嬉しいの?」 「……どうかな」 だから彼は家に帰ってくる度にももこにちょっかいをかけるのか。わざとすれ違うことだって出来るのに、なんだかんだと話題を振ってくるのは、────もしかしたら、寂しさを埋めたかったからかもしれない。 そう考えてから、もう一度この人の周りを見渡す。 たくさんの使用人たちに囲まれながらも、この邸宅には父母がいない。そして一人っ子で、祖父母はとうに他界していた。 小さな頃から西城が傍らにいたが、有能な執事頭は決して己の主人との壁を壊すことはなかっただろう。 突然、和彦の孤独を知った気がした。 平気なフリをしているけれど、本当は飢えていたのかもしれない。 「わッ! な、なにをするんだモーメント!」 「え? 頭撫でてるだけだけど?」 わしゃわしゃと。寂しさをかき混ぜるように、少しだけ乱暴に。 和彦が椅子に座っているおかげで、思う存分頭を撫でられた。普段だったら頭一つ分ゆうに背が高いから、絶対に手が届かないもの。 絶対に労わってあげられないもの。 「だいたいキミね、帰ってきてからまだ手も洗っていないだろう!」 「おっといけないねぇ。そういや忘れてた」 「早く手洗いうがいを済ませたまえ。もうすぐ夕飯の時間にもなる」 「なんか花輪クン、うちのお母さんみたい」 「は?」 「口煩いってことさ」 今度こそ顔を真っ赤にした彼を尻目に、ももこは自室に戻って着物の帯を解き始める。楽な部屋着になると、身体だけではなく心も軽くなっていることに気づいた。 ひとりが寂しいのはももこだけではなかった。 和彦となら、孤独を分け合えるのだろうか? 何だかんだいいながら、やはり和彦は優しくて……そして思った以上に孤独な人だった。 今までは自分に精一杯で彼にまで目を向ける余裕などなかったが、今日は少しだけ目を見つめることが出来たような気がする。 日本人にしては色素の薄い鳶色の瞳の奥、そこに隠された感情をもっと出せばいいのに。そしたらもっと楽に生きられるであろうに。 その手助けは、ももこに出来るだろうか? 恐らく物凄く嫌な顔をされるだろうけれど。感情を殺してきた彼なら、そんな顔もさせてみたい。 「……あれ? あたし、楽しくなってんのかな?」 全く違う世界に放り投げられた時から諦めていた、生きている実感を、今ももこは感じ始めようとしていた。 そして同じくらい、和彦にも一度きりの人生を楽しんでもらいたいと願うようになった夜だった。 |