結婚してももこが変わったことと言えば、髪を肩よりも短く切ったこと。 この時代に入ってから髷を結う女は少なくなり、洋装が多くなるのと比例して髪を切りパーマを当てる女性が多くなった。職業婦人と言われる特徴のひとつでもある。 花輪和彦と結婚してから、ももこには社交界のマナーやらを教える教師が何人かついた。勉強は嫌いだったが、教えてくれる知識は目新しい世界は興味のあるものばかりだから嫌ではない。嫌ではなかっが、時折進捗状況を揶揄しに来る和彦には辟易した。 「邪魔しに来ないでよ」 「心外だな。ここは僕の家だけど?」 確かにそうなのだが、実際和彦がこの屋敷にいるのは一週間のうち半分ほどだった。その間何をしているかといえば、子爵が政府に務める傍らで始めた商売がバカあたりしたようで、和彦は父親にその仕事をほとんどを任されているらしい。あまり詳しいことを話さない男なので、それがどんな仕事かはよくわからないが。 「髪の毛を切ったのかい? なかなか似合っているじゃないか、ベイビィ。こけしにそっくりだ」 「もう二日前に切りましたけど? それにこけしって、褒め言葉じゃないよね」 「おや、こけしは可愛らしいだろう?」 言葉はお上品だが、表情はそうではない。いつでも小馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべている。 「西洋かぶれのあんちゃんにゃ言われたくないわ」 「オゥ……。口の利き方も先生に習ったんじゃないのかな?」 この男はももこをあくまでも同居する庶民としてしか見ていない。その証拠に、婚儀を終えた後に真顔で告げられたことは、ずっとももこの胸に突き刺さったままだ。 『キミは何か勘違いして僕の妻になったかもしれないが、身の丈に合わない望みは夢見ない方がいい』 『意味がわからないのですけど……?』 『だから、僕はキミを妻とは認めないということだよ』 これ以上ないくらいにこやかに、いっそ冷酷なほど鮮やかに。 『有り体にいえばキミを抱くことなどない。初夜もなしだ、僕はこれから仲間と飲みに行く。子どもはそのうち、然るべき家柄の娘を妾に迎えて作ればいい。だが不貞は働いてくれるなよ、僕の顔に泥を塗るな』 『……ずいぶん酷いこと言うんだね……』 『酷い? 酷いのは祖父とキミの方だ。なにせ僕の道を塞いでくれたんだからね、マドモアゼル』 それから和彦はあと五年のうちに花輪家の実権を握ること、そうしたら円満に離婚させてやるとももこに言い放った。それは相談ではない。最早命令に近い口調だったのだ……。 その言葉どおり、婚儀が終わってから今まで、和彦はももこに指一本触れてこない。庶民には触れたくないのかもしれなかった。 「あんたもわざわざご機嫌伺いなんてしなくていいのに」 「間違えないでくれたまえ。ここは僕の家だ。帰ってこないわけにはいかないさ」 「……」 腹が立つがいちいち道理だ。 彼にとってもこの結婚は完全に納得しているものではないことは十分わかった。そして離婚を視野に入れつつ、当たり障りのない関係で周りの目を欺こうとしているのも理解は出来る。 だがしかしだ、仮にも婚姻をした者同士、多少なりとも打ち解けようともしないのが腹立たしい。 そんなに元華族様は偉いのか? 確かに庶民とは食べてるものからして違うけれども、庶民には庶民の教示というものがある。 「一緒の釜の飯食べてるってのに、ちっさい男だねぇあんた」 「……パードン? よく聞こえなかったのだけれど?」 「ケツの穴がちっさいって言ってんのよ!」 「淑女ならばもう少し口の聞き方を慎みたまえ」 あっかんべーと舌を出しながら、ももこは再び絵筆を持った。描きかけの静物画の続きを進めるためだ。 それを和彦は興味深く背後から覗くが、ももこは慌てて見せないように手で隠す。 「────なぜ隠すのかな?」 「あたしのことなんて興味ないくせにッ」 「キミには興味がないけれど、何を描いているかは興味があるよ」 繕う気もない言葉遣いにももこは苦笑した。そこまで言われるといっそ清々しいくらい。 恐らくこの男は、外面はすこぶるいい。 婚姻の日も、外戚や来客はもちろんのこと、庶民代表のようなももこの両親にさえ恭しい態度で接してくれていた。 爽やかな笑顔に柔らかい物腰、誰にでも優しい態度は老若男女受けがいい。だからこそ婚儀後の冷徹な物言いで放たれた『いつか離婚する宣言』は、初めての結婚に緊張し、同時にどこか夢見心地だったももこに冷水を浴びせるには十分だった。 「花輪クンが絵に興味あるとは知らなかった」 「失敬だな、さくら嬢は」 ふたりはお互いを名前では呼ばない。和彦が決してそうしないから、ももこもそれに習ったまでだ。 「先月欧州に行った時には、フランスで美術館巡りをする程度には絵画に興味はあるけど」 「あんたフランスに行ったことあるの?」 和彦はよく仕事で海外に行くらしい。今までも、アメリカ、フランス、イギリスにイタリアと様々な国に足を運んだという。 思いがけず海外の話をしてもらって、ももこの瞳がキラキラと輝く。美術の話しはもちろんのこと、外国の異文化にはとても感性が刺激されるのだ。 「────さくら嬢は、いつか海外に行ってみたいの?」 物珍しいものでも見るような和彦の表情に、ももこは素直に頷いた。 「だって憧がれちゃうよ〜。美術館でいろんな絵を観るのも素敵だし、外国の人たちがどんな生活してるのかも気になる!」 「……まあ、まずは英語を話せるようにならないとね」 「うッ」 結局痛いところを突かれて、ももこは着物の袂を押さえた。やっぱりこの男は嫌味ったらしい! ────でもたぶん、最後には優くなる人なのだと思う。 意に染まらぬ結婚相手、そして自ら妾を作るとまで 言っておきながらも、和彦は自宅に戻ればなんだかんだとももこに顔を見せに来る。本当に無関係でいたいのならば、ずっと顔を合わせないことも可能なのに。 それとも寂しいのだろうか? 和彦の父である花輪子爵は妻と一緒に東京の別宅に住んで、何かある時でないとこの本宅には帰ってこないのだ。そんな生活をずっと続けていたのであれば、もしかしたら家族が一緒に住むということに僅かばかりの憧れを抱いているのかもしれない。 「では僕はそろそろ出掛けよう。今夜は帰ってくるが、また明日からは仕事でいないから」 外套を肩に引っ掛けながら部屋を出ようとする和彦の背中に、ももこはいつものようにひと言投げつけた。 「────いってらっしゃい」 妻とは認められなくとも、同居人として彼を送りだそう。 振り向いた和彦の頬が少しだけ緩んで見えたのは、ももこの目の錯覚かもしれないけれど。 「……いってきます」 ごくごく小さな声で帰ってくる言葉に、なぜかももこはいつも温かい気持ちに包まれるのだ。 こんなに仲が悪くても。 こんなにお互いを認めていなくても。 少なくとも会話が続けられるなら、彼にきちんと隣にももこがいることを伝えたい。 例えそれがいつか途絶えることとなっても────。 |