ほーほけきょ 

珍しい淡雪が泡沫の気配を匂わす春。鶯がさえずり、時を告げる。 
この春ようやく女学校を卒業したももこは、着物の袖をたくし上げて床磨きをするところだった。 
世の婦女子たちは職を得て独り立ちするのが流行りらしいが、東京と違って田舎のこの辺りはまだまだ女は家庭に入るという風潮が強い。ももこにも姉のようにやがて縁談の話が舞い込むだろう。 
────そんなの、ごめん真っ平だ。 
ももこは絵を描くのが好きだ。 
大正に入って西洋から流れてきたものの中に、センセーショナルな挿絵がたくさんあって、ももこはそれに釘付けだ。いつか自分も、絵筆を持って素敵な絵を描きたいと願っている。 
その為にはまず独り立ちする力を蓄えなければならない。職業婦人がどんなものかは知らないが、夢のためならばどんなことでも頑張ろう。そう思った。 

しかして時代は無常にも。 





「ももこ。ちょっといいかい?」 
「なにさ、お母さんたら」 
そう言いながら予感はあった。 
息を飲みながら居間に入ると、きちっとしたスリーピースに身を包んだ壮年の男性が二人。見るからに一般人ではない雰囲気に飲まれて、無意識に喉の奥で唸ってしまった。 
「こ、こんにちは……」 
「突っ立ってないで座んなさいよ」 
「こちらは」 
「いいから」 
無理やりにでも娘を隣に座らせようとする母の、いつもとは違う厳しさを貼り付けた顔がいやに怖い。一体なんだというのだろう。 
「こちらがももこさんですか?」 
男のひとりが聞いてきた。白髪に眼鏡の上品な男性だった。 
「初めまして。あの、ももこです……」 
「お初にお目にかかります。私、花輪家の執事頭を務めております、西城と申しまして」 
「は、花輪家?」 
あまりの驚きにももこの顎が外れるかと思った。 
花輪家といえば、子爵家のひとつだ。この街でも一際デカい洋館が彼のお屋敷で、実はももこの家の近所だから子どもの頃からよく知っていた。よく知っているが、敷地の中はももこの世間とは全く違った世界なのだろう。 
その花輪家の人間が、庶民の家に何の用なのか。 
「この度はももこさんに、折り入ってお話がありまして────」 
「あたしに、ですか?」 
なんだなんだと身構える。 
縁もゆかりも無い元華族様に呼び出されるようなことなど、身に覚えもないはずだ。 
「元を辿れば、我が花輪家の大旦那様とももこさんのおじい様とが約束事をしたのが発端でして」 




それは明治維新の頃だったという。 
尊皇攘夷を掲げて沸き起こった混乱の最中、花輪家も華族として戦わなければならない場面があったという。その時にさくら友蔵が身を挺して花輪家の大旦那を危険から救ったことがきっかけで、ふたりの距離は急激に近くなったという。 




「その時に、自分たちに孫が産まれたら結婚させようと約束事をしたのだと言います」 
お互いの子どもは息子しかいなかった。しかし孫の代になって帳尻が合った今、約束は有効となる。 
「そ、そんなの横暴だよぉ!」 
女学校を卒業したばかり。これから先のことを色々考えようと思っていたのに、恋愛のひとつやふたつしてみたかったのに。 
何も叶える時間もなく、ももこは花輪という檻に囚われてしまうのかと思うと絶望しか湧いてこなかった。 
「おじいちゃんがまる子の嫌がることするわけないじゃん!」 
「おじいちゃんはあんたのこと想ってるから、裕福な花輪家との婚姻に首を縦に振ったんでしょ?」 
隣に座るすみれが冷静に言った。 
そうなのかもしれない。確かに裕福な家に嫁入りが出来るならばそれに越したことはないが、人生は金ではかれるものではないのだ。 
「おかあさんはそれでいいの? 花輪家なんて、あたしが嫁行っちゃったら滅多に会えないんだよ?」 
「……」 
母は沈黙したままだ。 
そこで西城が口を挟んだ。
「我々としましても、無理強いは致しません。近日中にお返事を頂ければと思います」 
それでは、と断ってふたりはさくら家を後にした。 
あとには顔を強ばらせたももこと、感情を削ぎ落とした表情のすみれがいつまでも玄関口にあった……。 






突然降って湧いた結婚話。 
約束した友蔵はすでにこの世を去っていた。 
「それならさ、別に断っちゃってもいいんじゃないの?」 
嫁ぎ先から駆けつけた咲子が茶菓子のせんべいを割りながら呟いた。ふくよかな腹を撫でながら茶をすする。妊娠しているのだ。 
「あたしもそう思う……」 
「俺ァ、どっちでもいいぞ。食いぶちが減れば、うちは楽になる」 
ヒロシの言い草には相変わらずイラつく。実の娘を飼い犬か何かと勘違いしていないか? 
そんな家族の中で、ひとりすみれだけは静かに口を開いた。 
「────あたしは、嫁に行った方がいいと思う」 
「お母さん?」 
「まる子なんかが行っても、花輪家なんて苦労するに決まってんじゃないのさ」 
「それでも、せっかく頂いた縁だもの。きっかけはなんであれ、その先を決めるのはあんた次第さ」 
「……」 
今なら咲子も母の言葉がわかった。けれども今それをももこに諭しても、きっと理解は出来ないだろう。 
「……どうする? まる子」 
「────あたしは……」 
正解など、常に一つではない……。 




※ 




髷を結い、綿帽子を被った白無垢姿のももこは、親の目から見ても美しく輝いていた。 
結局ももこは花輪家との縁談を受けることにしたのだ。 
「それじゃあ、行ってきます」 
「綺麗よ、まる子……」 
しみじみと噛み締めるように呟くすみれの目尻には光るものが見えて、ももこも思わず涙腺が緩みかけた。 
散々突き放すようなことを言われても、結局は親の愛情を実感するのだ。 
「おせ、お世話になりましたぁ!」 
「バカヤロー、そう言うのはもっとしおらしく言うもんでぇ!」 
喚くようなももこのおでこをぺしりと叩きながらヒロシが同じように喚いた。照れ隠しや色々なものが混じった声音に、ももこの涙腺がさらに緩んだ。 
「ほらほら、そろそろ行かないと。お母さんたち、あとで行くからね」 
「うん……、じゃあね」 
たかがひとときの別れだ、何を悲しむことがあるのだろう。 
これから踏み出すのは新しい人生の始まり。 
そう、そこがどんなに世界が違っていても────。 



花輪家からの迎えの馬車から降りると、ももこを玄関で待ち受けていたのは背の高い端正な顔立ちの若い男だった。そのスッキリとした顔立ちにももこは不覚にもひと目で心を奪われる。 
「キミが、さくらももこ嬢かな?」 
「ぅは、はい」 
「ならば今日から、さくら嬢は僕と夫婦になる。初めまして、花輪和彦です。よろしくね、奥さん」 
「よ、よろしく、お願いします……」 
しどろもどろに受け答えをするももこと、その男。 
浅く頭を下げたら、その頭上に嘲たような笑いが降ってきた。 
「?」 
「僕の妻になったとしても、庶民の色は抜けないのだよ、ベイビィ」 
「……何が言いたいの?」 
ときめいただなんて前言撤回。 
なまじ整った顔をしているせいで感情は読み取りにくいが、それでもいま自分が卑下されたことだけは明らかだ。 
キッと睨みつけると、口の端をくっとあげて和彦は目を細めた。 
「僕はキミを妻とは認めない。それだけは覚えておきたまえ」 
「────ッ」 



短い葛藤の末、腹を据えて初めて足を踏み入れた花輪家でももこを待ち受けていたのは、美しい人でなしであった……。 



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