──もしも明日世界が滅ぶなら、どうする?













夏の盛りは夜でも暑さが緩まず厳しい。
たらりとこめかみを流れる汗を拭きながら、和彦は腕時計に視線を落とした。十六時四十二分。約束していた十七時よりもだいぶ早いのは、今日の花火が楽しみ過ぎたせいである。
約束の時間までヒデじいの車で待っていても良かったのだが、それすら勿体ない。

なぜならせっかく、あの、さくらももこが花火に誘ってくれたからだ。

たまたま図書館で出会った彼女と花火大会の話になり、じゃあ折角だから一緒に行こうということになったのは和彦にしてみれば僥倖であった。
夏の長期休暇に入ってから、毎日気になるのは彼女のことばかり。去年まではこんなことはなかったのに、偶然に顔を合わせられたら嬉しくて舞い上がりそうになるくらい。
自分にこんな感情があるものかと驚きもしたが、相手が彼女なら仕方ない。
ももこはいつも大人のふりした和彦を、ただの小学生に、そして今は中学生に引き戻してくれるから。

────あんな相手に抗うなんて、ナンセンス。

いくら大人のフリをしていても、まる子に引きずられると等身大の自分にゆり戻されてしまう。そして和彦も、そんな自分は嫌いではなかった。
恋かもしれない。恋というものがどんなものかはわからないが、他人の事でこんなに一喜一憂する感情を表す言葉は、他に知らないから。

「花輪くん、お待たせ〜」

ようやくかかった待ち人の声を背中で受けながら振り返る。

「ちっとも待ってないさ、さくらク……」

しかし言いかけた言葉は途中で途切れた。
なぜなら浴衣姿の彼女の後ろには、その他大勢のクラスメイトがくっついていたからだ……。




ごめんね、花輪くん。

呟くように言葉を零した、たまえの隣りに並びながら、和彦はなぜだい?と軽く返した。
クラスメイトが団体御一行様で動くには祭り会場は狭く、とりあえずみんなで集合したものの、その後は思い思いにバラけている。ももこも男女がバランス良く混じったグループの中になんとなく入り、その様子を一歩後ろからたまえと和彦が眺めているというわけだ。
「最初にまるちゃんと花輪くんが約束した後ね、はまじとブー太郎に会って花火大会に誘われたんだって。そこにたまたまあたしも加わっちゃって、どうせならみんなで行こうってなったんだよね……」
「ははは、さくらクンらしいね」

二人きりを期待しなかったと言えば嘘になる。
誰かに会うことは想定していたが、まさかこんな大人数を引き付けてくるとは思わなかったし、逆に毒気を抜かれて良かったのかもしれない。
「……憑き物が落ちた気分さ、セニョリータ」
前を歩くももこの後ろ姿を見ながら自嘲気味に呟く和彦に、たまえはやれやれという感じで息を吐き出した。
「いくらまるちゃんでも、なんとも思ってなかったら友達でも誘わないよ」
「────だといいんだが」
「花輪くんにしては珍しく弱気だね」
「そりゃあボクだって人間だからね、いつも自信満々とはいかないさ」
自信なんて、自分でつけられるものではない。人に褒められて認められて、ようやく身に付くものだから。

確かに学業面の自信はつけられた。
けれどもこういう方面に置いての自信は、見せかけだけ。踏み込めそうで勇気がない。

人は花輪家のお坊ちゃまなら何不自由なく手に入らないものなどないと思っているだろうが、それはあくまで家という後ろ盾あっての和彦しか見ていないから。
果たして身一つになった自分に魅力があるのだろうか?
その怖さがある限り、和彦は決定的な一歩を踏み出すことはできない。

そしてその自信をつけてくれるのは────。

「ねぇ、花輪くんって型抜きしたことある?」
振り返って聞いてきたまる子に、和彦はゆっくりと首を振った。
「さくらクンが教えてくれるのかな?」
「あたしゃ苦手だけど、山田が結構上手いらしいよ」
ガラにもなくずるっとコケた和彦を見て、たまえが堪えきれずに苦笑いをもらした。
「花輪くん、せっかくだからやってみたら?」
「面白がってるだろう、穂波クン」
「そんなことないよ」
あははと笑って返すたまえと和彦を交互に見ながら、ももこはぼんやりとそんなふたりを眺めていた────。



「はまじ、金魚すくいで勝負だよ!」
「さくらのくせに、百年早ぇんだよ」
なぜか唐突に始まった勝負は、射的を終えて二回戦目に金魚すくいを迎えた。
不敵な笑みを浮かべるはまじに対し、浴衣の袖をたくしあげて本気で迎え撃とうとしている。
そのあらわになった袖から覗く二の腕の白さに和彦はドキマギした。普段着で半袖やノースリーブから伸びる腕とは違う、生地の下から現れる肌の白さは印象が違って……目のやり場に困った。
「花輪くん、暑いの?」
「なななにを言っているのかな、穂波クンは! 僕はいつだってクールじゃないかッ」
「だって顔が赤いよ」
「……ッ」
思わぬ指摘を受けてあわあわとしていると、そんな二人を見ていたももこが不意に視線をそらして呟く。
「────もう花火始まっちゃうから、ふたりは抜けて行ってきたら?」
金魚の泳ぐ水面を見ながら、しかしその実、視界には何も映っていなかった。
「ホワイ?」
「え? 何言ってるの、まるちゃん?」
和彦とたまえが同時に声を上げて、お互い顔を見合わせる。それを受けて、ほら、とももこは続けた。
「なぁんかさ、いつの間にか仲良くなってるみたいだし?だったらみんなといるよりも二人きりにしてあげようかな〜って」
あたしゃお節介おばさんかっつーの。
自分に自分でツッコミを入れながら立ち上がると、ももこは大きく伸びをしたあと、ごめんごめんと手を合わせた。
「あたしったら余計なお世話だったよね、ごめんよ。でもふたりは大事な友達だから、さ……」
「まるちゃん……」
「ガラにもないことしちゃったかねぇ!あ〜、喉乾いた。ちょいとラムネでも買ってくるね」
止める間もなく走り出したももこの背中をただ見つめていた和彦の背中を、たまえが力いっぱい平手で叩く。
「ほ、穂波クンなにを────」
「まるちゃんが気になるなら、見てないで追いかけなさいよ!」
 その間にも、ももこの小さな背中は瞬く間に人混みの中に消えていく。
「し、しかし僕が追いかけても迷惑じゃ……」
「迷惑なわけないじゃない! ていうか、紳士なら女の子ひとりで行かせないの!」
「!」
大義名分はたまえが与えてくれた。ようやく理由が出来た和彦も慌てて駆け出す。
薄闇の中に消えていく友人たちの背中をため息混じりに見送るたまえと居残るクラスメイトたちは、それからゆっくりと花火会場へと歩き出した。


あいつら、どうなるかな?
いい加減まとまればいいんだけどね。


ふたりが自分たちでさえ気づかなかった気持ちは、周りからして見れば丸わかりだったらしい。
知らぬは本人たちばかりであった────。







背中で花火の上がる音を聞きながら、まる子はあてもなく闇雲に足を進める。
待ち合わせた時にはまだうっすらと明るかった空も、今やとっぷりと藍の夜空になっていた。適度に風も吹いていて、まさに花火大会にはおあつらえむきの宵の口。


ひゅ〜
どぉん
バラバラバラ


────ああ、始まったな。

楽しみに心が弾んでいた分、萎んた気持ちが裏返ってしまうことを止められない。
時に八方美人になってしまう自分が恨めしかった。
しかしそれを言うなら和彦も相当である。
まる子の誘いを受けながらクラスメイトたちと合流したらしたで、あんなにもたまえと仲良さげにするぐらいならば、最初から彼女を誘っておけばいいのに。安易にまる子の誘いなど受けなければよかったのに……。
馬鹿だ、みんな馬鹿だ。こんなの今更だ。
 
中学生になってから、少しずつ友達の中でも温度差が出始めた。もっと言うなら男女間では尚更。
それが思春期の入口だったのなら、まる子のそれは随分遅かった。だから今まで通りにみんなと接していたのに、いつの間にか取り残されているような感覚が拭えなかったのだ。
ほとんど変わらなかったのは、たまえと和彦。
ふたりはずっと同じように会話してじゃれられて、なのに先に変わってしまったのはまる子の方だった。あるいはふたりはすでにひとつ上の階段に足をかけながら、まる子の歩みを待っていてくれたのかもしれない。
何がきっかけなのかわからなかった。
だけれども確かに、突然目の前の霧が晴れたように、花輪和彦という同級生が今までと同じようには見られなくなってしまったのだ。
たまえに相談するのもはばかれた。それは「友達」という定義を崩してしまいかねないような気がして。
「馬鹿だね、あたしゃ……」
友情と、友情から変化した感情など天秤にかけられない。
壊れるのは怖い。変化するのはその先が予想出来なくて受け入れたくない。
それでも思わず彼を、今日だからこそ誘ってしまったのは────。



「さくらクン!」
「え」
突然背後から追いかけてきた声に驚いて、まる子は後ろを確認することもせずに思わず走り出してしまった。逃げ出した、という方が正しいかもしれない。
「待ちたまえ、マドモアゼル!」
「大声でそういう恥ずかしい呼び名で呼ばないでよ!」
打ち上がる花火の音とひと気のなさに、大声と言えど誰が聞いているものか。
そして逃げ出したはいいが、浴衣の裾が邪魔で速度が全く出ない。裾を持ち上げたいが、急に育ったオンナノコらしさがそれをさせてくれなかった。
「ぅわッ」
案の定、裾のせいで石に蹴つまづいてバランスを崩した。
転ぶ、その寸前。
とっさに後ろから伸びてきた腕に胴を抱えられて心臓が跳ねた。
「危ないところだったね、セニョリータ……」
近くも遠くもない距離で、しかし抱えられた胴から和彦の熱が伝わってくる。腕一本なのに軽々とまる子を抱える力強さに、硬い筋肉に息を飲んだ。
確かにまる子とは性別が違うのだと、まざまざと見せつけられたような気がして──、

全身が燃えるように熱くなった。

「あ、……ありがと」
降ってくる声、少し上がった息遣い、その全てが。
顔が見られなかった。きっと今、物凄く変な顔をしているに違いないから。
「立てるかい?」
「──立てるよ」
ぶっきらぼうに返したまる子なのに、和彦は優態勢を立て直すまで優しく支え続けてくれた。ずっと俯いたままだから、和彦がどんな顔をして自分を見ているのかがわからないのが惜しい。
しばらくお互い口を閉じたまま。離れたこの場所からでも花火の音と人々の歓声が聞こえる。それを背中に背負いながら、
「さくらクン、キミは誤解をしているな」
口火を切ったのは和彦か先だ。
それでも目を見て正すことはまだ出来ない。
「なんの誤解なのさ」
「大方キミは僕と穂波クンとの事を勘違いしているようだから」
「ふたり仲良いじゃん。勘違いじゃなくて」
掛け合い、笑いあう姿。それを見て胸の奥が小さな針で刺されたような痛さを感じたのは、どちらもまる子にとっては掛け替えのないふたりだからで。
「楽しそうじゃん。別に、あたしがいなくてもいいじゃん」
────そして親友と、たぶん想い始めた人だから。
「それは違うな、さくらクン」
いつになく硬い和彦の声に弾かれたようにして思わず顔を上げたまる子を射たのは、初めて見たような真剣な眼差しの彼だった。
よく知っているはずの和彦が、まるで知らない男のように見えて息を呑む。
「花輪く……」
「穂波クンはただの友達だ」
「……」
「しかしさくらクンは、ただの友達なだけじゃ。もう嫌なんだ」
「!」
花火会場で一際大きな花火が上がった。
黄色と橙の明かりが和彦の横顔を照らし、遅れてきた打ち上げ音がまる子の心音を吹き飛ばす。

「それって」
耳の奥でざあざあと血潮が暴れる音を聴く。
「そのままの意味さ。さくらクンが嫌じゃなければ────」
打ち上げられた紅い明かり。そして破裂する音が何かを呟いた和彦の言葉をさらっていった。
「シット!」
「え? なに?」
聞き返す隙は一瞬。気がつけばまる子はがっしりとした和彦の腕に囲われて、今度こそ耳元で和彦の言葉を聴いた。
 

ひゅ〜
どんどんどん
バチバチバチバチ


信じられない。
目を見開いて彼の顔を見ると、夜目でもわかるくらいに頬と耳を染めた和彦がいた。
「────返事はくれるのかな、ハニー?」
いつもの調子で、けれども表情は固く。
 
どうしよう。
どうしたらいい?
 
まる子の応えを急かすように、花火大会目玉の十六連発花火が次々と打ち上がった。どんどんどんどん────。
声なんてかき消される。言葉なんていらない。

ようやく認めた好きの感情が溢れ、堪らずまる子は見た目よりも逞しい和彦の首筋に腕を絡めたのだった。







──お誕生日おめでとう、花輪くん。花火を見ながらお祝い言ったら、あたしが言ってもロマンチックになるかと思って誘ったんだよね。
──オウ……。さくらクンからのお祝いなら、なにも飾りなんていらないのさ。ただキミが僕の隣りにいてさえくれればね。
──キザだねぇ、相変わらず。
──花火を見ながらお祝いの言葉を言おうというさくらクンも、なかなかのものだと思うけどね、ハニー。
──ふふふ。まあいいさ、終わりよければすべてよしってやつだね。
──僕はもう、いつ世界が終わっても悔いがないくらい嬉しいよ。

「あ。それはダメだよ、花輪くん」
手を繋ぎながらの帰り道。他愛もない会話を止められて、和彦はまる子を見下ろした。
「せっかく、その、────付き合いし始めたんだし。来年も再来年も、その先もずっとず〜っと、あたしは花輪くんの誕生日におめでとうがいいたいな…」
「……キミってやつは……」
唸るようなため息をもらした和彦が力いっぱいまる子を抱きすくめたのは、真っ赤になって締りのなくなった己の顔を見せなくない為で。

 

嬉しさ半分以上、しかし当分可愛い彼女には勝てないなと苦笑いした和彦であった。



                                                                              了





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