午後九時を回っているというのに、都市部の交通網をカバーする地下鉄は結構混んでいて、車内で男は内心溜め息をつく。浴びるほど飲んだというわけでは無いけど、酒の入った体で三十分立ちっぱなしというのはきついから、空いてる席は無いかと素早く視線を巡らした。
『…お?』
右奥の座席、人と人の頭が不自然に離れていることに気が付く。男が乗り込んだ車両は他にもちらほらと立った乗客が居たが、誰も動こうとはしていない。これ幸い、と男はずかずかと大股で座席の隙間に向かって歩み寄る。だが。
『…え?』
目的の場所に辿り着いたはいいものの、そこにある物体に男は驚き、どうしていいかわからなくなる。
文庫本から視線を外さないOL風の女性と、カジュアルな服装に身を包み腕を組んで眠る金髪の若い男性の間、人ひとりが座れる空間には、ちょこんと黒い猫の置物が鎮座ましましていたからだ。
予想していなかった展開に、とにかくその猫の置物を男は凝視してしまう。しかし電車はがたん、と激しく揺れ、男はあわてて手近の吊り革を掴んだ。とりあえず右手の、書類がたくさんつまった鞄を網棚に置く。そして胸元の、すでに充分緩んでいるネクタイを更に引っ張ってみた。
ちらり、と眼下の猫を見る。やはりそこにはどう見ても猫の置物がある。なんでこんな風に盗み見ているのだろうと自問自答してみれば、すぐに他の人間がこの猫を全く気にとめてないからだという答えが出た。
『そうだ、どうして誰もこの猫をおかしいと思わないんだろう?』
周囲に気を配ってみたけど、誰もこの猫に関心を持っていないようだ。そういば、先ほどの駅で自分の他にこの車両に乗り込んだ二、三人は、皆入ってきた扉の側を動かないまま扉にへばりつくように立っている。あそこからではこの座席の様子はよくわからないし、何より今自分がその正面に立って死角を作っているのだ。新規の乗客はこの猫の存在に気づいてないし、以前からの乗客はもう見慣れてしまった、ということなのだろうか。
男の思考を遮るように、扉が派手な音をたてて開く。次の駅に着いたのだ。ぱらぱらと乗客が降りていくが、この辺りから町並みがオフィス街・歓楽街から住宅街へと呼び名を変えるだけあって、この車両に新しく乗り込んでくる客はいなかった。
後ろの座席が空いたので、男は鞄と共に移動することにする。そこは丁度、猫の目の前だ。腰を下ろすと作り物の目線とかち合ってぎくりとする。
黒猫の置物は、体長三十センチくらいと大型で、見ているだけでは材質はわからない。黒光りするその体は陶器の光沢にもプラスチックの光沢にも見えるし、木に塗りたくられたニスだと言われればそうかとも思える。デフォルメされた体型は本物の猫よりも細く長く、首には赤い首輪のペイントが施され前足を揃えて行儀良く座っているのだが、アンバランスにぎょろりと大きい黄色の目が不気味だった。
御丁寧に睫毛まで描かれた目から視線を外せなくて、男は黒猫を凝視し続ける。相変わらず周囲の人間は男と黒猫には無関心で、男はだんだんわからなくなる。
自分が凝視しているのではなく、実は黒猫が自分を凝視しているのではないか。いや、そもそも実はこの座席には何も無くて、自分が今見ている黒猫の置物は、酒の力による幻覚ではないのか。
ゆらゆらと揺れる電車。地下を走る連なった箱は、外の風景をみることもままならない。そんな閉鎖空間にも惑わされて男の錯覚はどんどんひどくなる。黒猫の微笑む口元が、三日月のように吊り上った気がして目を見開いた時、早口のアナウンスからかろうじて慣れ親しんだ単語を聞き分けて我に返る。
それは男の家の最寄駅の名前。こんなしがないサラリーマンを待つ妻子が居る、暖かな家の。
男が黒猫と声も無く対峙している間にも、電車は確実に距離を稼いでいたのだ。見れば黒猫の両隣にはもう誰もいないし、乗客もまばらだ。それに気づかないほど、男は黒猫に捕らわれていたのだ。
降りなくては、と思う。そして、こうまで自分を惑わせたものが何なのか、確かめないわけにはいかない、とも。
電車のスピードが緩まり、男は立ち上がる。完全に停車し、扉が開く直前に、勇気を持って黒猫に詰め寄りその頭部を掴んだ。そのまま力任せに引っ張り上げる。いや、引っ張り上げようとした。
ぐん、と男の手首に抵抗がかかる。黒猫の足元、置物の底辺全体に茶色のシートカバーが吸い付き、引っ張られ伸びているのを、男はぽかんと見ていた。
あわてて手を離せば黒猫は大きく右に左に揺れたが、その揺れはすぐに小さくなり、そして元の行儀良く座った状態に戻った。それはちょこんと、可愛らしく。
男はしばらくその場に突っ立っていたが、やがてのろのろとその場を離れた。扉が閉まる直前で、ホームに降り立つ。
ホームの照明の届かぬ暗いトンネルに吸い込まれていく電車を見送り、男はやっと脱力し、盛大に溜め息をついた。
「なんだよ、ただの悪戯じゃねえか…」
あの黒猫の置物は、接着剤のようなもので座席に貼り付けられていた。ふわふわの座席の上で、電車の揺れにも倒れることなく座っていたのだ。ちょっと考えればわかることだったろうにと男は苦笑する。そして黒猫の存在に気づいていた乗客は、その質の悪い悪戯の現場を目撃していたか、もしくは男以外の誰かが前にも黒猫を持ち上げた現場を目撃し、黒猫の置物が座席に張り付いているのがわかったのだろう。どうにもならないことだと知っていたのだ。
「俺一人振り回されて、馬鹿みたいだよなあ…」
言葉ほど口調は重いものではなかった。その証拠に、男の表情は穏やかなもので。
家と会社の往復。判を押したような日常。刺激といえば会社帰りに同僚と飲む酒くらい。
そんな毎日を繰り返していたのだ。たまには、こんな出来事もいい。そう、日常の中に、ぽっかりそこだけ非日常な空間がはめ込まれたような、そんな出来事も。
もう何の姿も見えないトンネルの向こうにある暗闇を見据えながら、今もまだ黒猫の置物を乗せて走っているだろう電車を思い、男は笑った。
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