眠り王子(2)

名前は微妙にタイレンからとりました(笑)

 若人の心の成長速度とは裏腹に、猛烈なスピードで月日は駆け抜けていく。あっという間にやってきた高校生活最初の夏休みを、塾や補習なんかを交えつつも紗絵はのんびりと過ごしていた。
 その日は、定期購読しているマンガ雑誌の発売日で。暑さにひるみつつも出掛けるのなら、ついでに他の色々な買い物を楽しもうと、紗絵は駅前のショッピングモールに足を運んだ。
 洋服やアクセサリー、小物のお店やCDショップを覗いて、重くなるからと後回しにしていた目当ての雑誌も購入した。意気揚揚とモールの自動ドアをくぐれば、むわっとした熱気に包まれる。腕時計を見ると時刻は午後四時を回ったところで、紗絵はすっかり寂しくなっていたお腹を満たそうと、モールに隣接しているファーストフード店に入ることにした。
 注文したハンバーガーセットの乗ったトレイを持って、外の風景が良く見える、窓に面した観葉植物の隣の席を陣取る。バーガーを一口齧り、目の前を過ぎていく人々を眺めていると。
「…あれ、大地?」
 見慣れた、けれど夏休みに入ってからは特に会う理由も無いから、時折携帯電話でメールをやりとりするだけの相手の姿を見つける。
 黒のジーンズに紺のTシャツを合わせ、大地は手ぶらで店の前の歩道を、ゆっくりと歩いている。こちらに気づいてくれないだろうかと紗絵がわずかな期待を寄せた時、大地を呼び止める者がいた。
 大学生か、それとも社会人か。大地の肩に手を置いて振り向かせ、親しげに話し掛けるその男性は長身で髪を明るい茶色に染めている。外見からして、確実に紗絵よりは年上だろう。
 そのうち、男性が立てた親指でこちらの方を指し示した。大地がそれに、口元に笑みを浮かべたまま頷く。
「あ…」
 二人が連れ立って、紗絵の居るファーストフード店に入ってきたものだから、思わず紗絵は呟いた。もっとも、真っ直ぐにカウンターへと足を向けた二人には聞こえなかっただろうけど。
 やがて長身の男性が、バーガーやらポテトやらチキンやらがわんさか積まれたトレイを持ち、大地を伴ってついた席は紗絵の丁度真後ろのテーブル。窓ガラスにぼんやり映る人影をもう一度確認して、ちらりと視線を後方にやった。大地は、こんな至近距離に紗絵が居ることに全く気づいてない。
「しっかし、ホントに久しぶりだよな」
「びっくりしたよー、だって俊兄がこっちに戻ってきてるなんて知らなかったもん」
 悪いかな、と思いつつも紗絵は二人の会話に聞き耳を立ててしまう。俊兄、というのが、長身の男性のことらしい。
 それからはしばらくは、飲み食いする音と他愛もない歓談が入り混じって紗絵の耳に届く。その間に紗絵は、俊兄というのが本当は「俊明」といって、大地の従兄弟にあたる六つ年上の大学生であるという情報を手に入れて、頭の中で反芻する。
 ―――ふいに、大地と俊明の会話が途切れた。
 微妙に流れた沈黙の時の後。
「もう、七年になるんだな…」
 ぽつり、と今までとは雰囲気の違う俊明の呟きに、「何が?」と紗絵は思う。大地は答えず、ポテトを齧っているけれど、俊明はかまわず続けた。
「綾香が死んでから…」
「…っ?」
  夏休みを満喫する学生や家族連れで賑わうファーストフード店にそぐわないその言葉に、紗絵は少なからず衝撃を受ける。振り向きたい衝動を、どうにかやりすごす。
 窓に映る、輪郭のぼやけた大地を見た。その顔に張り付くのは寂しげな微笑。
「そうだね…。なんか、ついこないだのことのような気がするよ」
「綾香、綺麗だったよな。おまえら姉弟はホント仲良くて、羨ましかったの覚えてる」
「うん」
 こくりと頷き、大地はまたポテトを齧る。 
「…ごめん、思い出させた、な」
「そんな、いいよ。俊兄が謝ることじゃない」
 明るく大地は言ってのけて、塩のついた指先を軽く払う。
「ごちそーさま! 俊兄奢ってくれてありがと!」
「おう、…じゃもう行くか。そのうちおじさんとおばさんとこにもちゃんと挨拶に行くから、よろしく言っといてな」
 俊明を追って立ち上がった大地の片手には、ゴミが山盛りになったトレイ。まずいかな、と紗絵は思う。だって一番近いダストボックスは、紗絵のすぐ右隣で。
 がたん、がささ、という物音を聞きながら、紗絵は気配を殺そうと試みたのだけれど。
「…紗絵?」
 訝しげな調子で名前を呼ばれて、一瞬身を竦ませる。だがもう大地が気づいているのは確実だから、覚悟を決めてゆっくりと顔を上げる。
「…え、ずっとそこに居たの?」
「うん、実は、ね」
「何、友達?」
 口をはさんだ俊明に、紗絵と大地がほぼ同時に頷く。なんだか妙に気恥ずかしくて、紗絵は意味も無くストローをくわえてみた。吸い込んだオレンジジュースは、溶けた氷と混じってずいぶん水っぽい。
「ふうん…。ま、俺はもう帰るわ。後は好きにしな。じゃあな、大地」
「あ、うん。またね」
 手を振る俊明を、紗絵はとりあえず会釈して見送った。そして大地と二人、残される。
 ちらり、と大地の様子を伺うと、ばっちり目が合った。何か喋る言葉はないかと、焦って頭の中を探る。
「紗絵、俺達が話してること聞こえた?」
「えっ、あ…。…うん、けっこう…」
 返事につまって、ここは嘘で取り繕うべきかと迷ったけれど、結局は正直に告げる。隠しておくのはフェアじゃない、と思ったから。
「…大地、お姉さんがいたの…?」
 恐る恐る疑問を口にのせても、大地からすぐに答えが返ってくることは無かった。ただ、一度ぐるりと店内に視線をさまよわせ、迷った風に頭を掻いて。そして二人の間に流れる気まずい雰囲気を和らげるような苦笑を見せてくれる。
「…とりあえず、紗絵も食い終わってるみたいだし、ココ出てちょっと歩こうか?」
 優しく掛けられた誘いに、紗絵はゆっくりと椅子から立ち上がるしかなかった。


 まだ蒸し暑さの残る、夏の夕暮れ。蝉もまだ今日一日の仕事を終える気はないようで、その鳴き声はアスファルトに反響して耳を打つ。
 それなのに大地と紗絵は、どこかの店に入り直すことも無く、デパートの外壁に沿って設けてある休憩用のベンチに腰掛けていた。目の前の歩道は駅が近いこともあって、先ほどから学生やらOLやら自転車やらが、せわしなく行き交っている。
 微妙な間隔を空けて座って、しばらくお互い口を開くことなくそんな風景を眺める。紗絵が、カーキのスカートの上に置いた指先を見つめるのにも飽きた頃。
「…どこまでわかってる?」
 主語は無かったけれど、大地の言葉が意味する所が簡単にわかった紗絵は、改めて自分がしてしまったみっともない行為を思い、目を伏せた。
「大地にお姉さんがいたってことと、そのお姉さんは、…もう亡くなってるってこと」
「そっか」
「…ごめんね。盗み聞きなんかしちゃって」
「あー、いいよいいよ。別に怒ってないし、…いつか紗絵には話すんだろうな、って思ってたから。時期が早まっただけだよ」
 そう言っておもむろに手を組む大地の横顔は、本当に苛立ちも機嫌を損ねている様子も無くて、紗絵は少しほっとする。
「俺の姉さんは綾香っていって、俺より五つ年上だった。年が離れてることもあって、俺の面倒よくみてくれてさ、弟の俺が言うのもなんだけど綺麗で、優しくて、ホントにいい姉さんだった」
 大地の言葉尻、その全てが過去形なのがひどく悲しい。
「お姉さん、どうして…?」
「…事故だよ。俺が小学校三年で、姉さんは中学二年の時だった。友達の家に遊びに行った帰りの俺は、偶然学校帰りの姉さんに道で出会って、二人で仲良く並んで歩道を歩いてた。…そこに、居眠り運転の車が突っ込んできたんだ」
 話を聞きながらも、おそるおそるだけれど大地の表情を見逃さまいと必死で視線を固定していた紗絵には、大地が小さく奥歯を噛み締めたのがわかった。それは一瞬、何かに耐えるように。
「それで、姉さんは俺をかばった。咄嗟に俺を突き飛ばして、自分はよける間がなくて、そのまま車に跳ねられたんだ。俺の目の前で、な」
 紗絵の、手持ち無沙汰がゆえに動かしていた指先が静止する。大地の横顔がだんだんと正面を向いてくる。何を言っていいかわからないから、戸惑いに揺れるこの瞳はまだ見ないでほしい、と思った。
 時間と空間が、二人が居る場所だけ切り取られたようだった。それでも精一杯存在を主張する蝉の声だけはわんわん響いて、それが却って紗絵の冷静さを呼び起こしてくれる。
 そして、大地がどうして眠りにあれほど執着するのかが、なんとなく掴めたような気がして。紗絵ははっと目を見開いて悟ったことを口にしようとしたのだが、それよりも先に大地が話を再開する。
「姉さんが死んだのが俺のせいだ、なんてことは思ってない。自分を責めながらうだうだ生きていくのなんて、それこそ姉さんに申し訳ないことだと思ってるから。…でもなあ、姉さんはたった十四年しか生きられなかったんだ。十四年で、永遠の眠りについた。そんなの、眠りの世界は意義のある素晴らしいものだって思いこまないと、やってられなかった」
 力強く言い切ってみたものの、大地は紗絵の様子を伺うような素振りを見せる。そんな大地の考え方を肯定するべく、紗絵は大地の目を見据えたままゆっくり大きく、首を縦に振る。
「だから大地は、こんなにも『眠ること』にこだわるようになったんだね」
「…うん、まあ、きっかけはそんなことで。でも結局は、自分でも知らないうちに心のどっかで姉さんに対する罪悪感があって、そう思い込むようになったんだよな…。そんでまんまとはまって、眠るために人生があるっていう考え方から俺は抜け出せないでいる」
「いいじゃないそれでも」
 言葉の最初の辺りが、緊張で少し掠れた。思い切って、ベンチから立ち上がる。急な紗絵の行動に目を瞬かせる大地にかまわず彼の正面に回った。
「大地がお姉さんのこと大事に思ってて、なおかつ自分が傷つかないでいられる、一番いい方法だよ。今無理して抜け出したら、きっと大地は壊れちゃう。私は、そんなのはイヤ。だから大地は、このままでいいんだよきっと」
「…そう、かな」
「そうだよ」
 風が吹いた。日差しに暖められた空気がそよいで、紗絵の頬を生暖かいものが撫でていく。それに気を取られること無く、紗絵は続ける。
「…でも、私としては少しは夜寝ることを切り離して、昼間の時間を楽しんでくれるようになってくれればいいなとは思うけど。そうだね、夜と昼、半々くらいに」
「どうして」
 だって自分が関わることができるのは、昼起きている間の大地だから。
 それを告げると大地は照れたように頭を掻いて、「善処します」と綺麗に微笑んだ。


 朝、ポストを覗く。朝刊と、昨日の夕方とり忘れていた郵便物が何通か。ほとんどがダイレクトメールであるその中に一枚、典型的な印字葉書を見つける。
「うわ、高校の同窓会の案内だ。へえー…」
 二十六歳になった紗絵は独り言を漏らすと、少々浮かれた軽やかな足取りで玄関を後にする。朝の仕事は多いのだ、ぼやぼやしていられない。
 朝食の準備をして、夫と娘を起こして、身支度を整えて…。
 ぱたぱたとスリッパが床を擦る音を響かせて、紗絵は二階へ続く階段を上る。
 普通の生活。一般的、典型的な幸せな家庭。
 ただ、毎日の朝の日課に、夫が最も楽しんでいる趣味の邪魔をする、というものがあることは少々複雑であるが。
 言うほど事態は深刻ではなくて、紗絵は今日はどんな風に彼のお楽しみを中断させてやろうかと、楽しげに考えを巡らせながら、まだ大地が中で眠っているであろう寝室のドアノブをまわすのだった。


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