カラフル

時間切れで尻切れトンボ、だよなやっぱり

 玄関のドアを開けると、うっすらとアスファルトの濡れた匂いがした。午前中まで広がっていた晴れ間が明日まで続くと言っていた天気予報は、少々読みを間違えたらしい。木村美佳子は傘立てから二本の傘を取り出して、片方の若草色の傘を開くと、ぱらぱらと穏やかに降る雨の中に踏み出す。もう片方、美佳子の娘が愛用している、明らかに長さの短い桃色のギンガムチェックの傘は左手にしっかり持って。
 娘の裕香が通う幼稚園へは、自宅から歩いて十五分。団地を通り過ぎて、公園の所の角を曲がり、川沿いの道を真っ直ぐ行けばもうすぐだ。
 門の前にはもう、美佳子のように我が子を迎えに来た母親たちの差す色とりどりの傘で賑わっていた。美佳子もその人ごみに紛れ、顔見知りの母親達と挨拶を交わしつつ裕香の姿を探す。
「…あ、いたいた。裕香…」
 靴箱の前で見つけた娘の表情に、あれ、と思う。わずかに俯き、口元はきゅっと引き締められて、二重の大きな目は赤くなってしまっている。その側には、裕香の居るばら組の先生、笹原志津子が付き添うように立っていた。
「こんにちは木村さん」
「こんにちは笹原先生…、裕香、何かあったんですか?」
 言いながら美佳子は裕香の前にしゃがみこむ。明らかに泣いたとわかる顔を覗き込むのだが、瞳は合わせてくれるのに裕香は何も言おうとしない。ただ黙って繋いできた手を、優しく握り返してやった。
「それが、今日の工作の時間にこういうものを作ったんですけど…」
 そう言って笹原は手にしていた紙の束を見せてくれる。
「あら、紫陽花ですね」
「ええ、折り紙で絵を描こう、というものです」
 見せられた何枚かのB4サイズの画用紙には、様々な色紙で梅雨の時期の風景が描いてあった。メインとなるのは紫陽花らしく、折り紙で折られた小さな花弁を、ひとところに集めて貼り付けることで、見事に立体的な紫陽花が描かれている。そして周りには紫陽花の葉と、それぞれの園児が思い思いに梅雨を表現したのであろう、傘やかたつむり、虹などの形に切り取られた色紙が貼ってあった。
「で、裕香ちゃんのがコレなんですけど…」
 ぱらぱらと画用紙をめくり、笹原はその中の一枚を美佳子に手渡す。受け取ったそれを見た美佳子は、一瞬目を見張った。
「まあ、ずいぶんとカラフルねえ…」
 ついつい、率直な感想が口をついてしまった。
 右下にひらがなで「きむらゆうか」と書かれた画用紙。それにもやっぱり紫陽花が折り紙で描かれているのだが、その花は蜜柑のように鮮やかな濃い橙色をしていたのだ。
「紫陽花っていえば、普通はピンクとか薄紫でしょう? 私は裕香ちゃんの感性は面白いな、と思って、別に何も言わなかったんですが、他の園児たちにそんなの紫陽花じゃないってからかわれたみたいで…」
 困った風に言う笹原に、美佳子はそうですか、と呟いた。普段はわりとおとなしい、穏やかな性格のくせに、時々妙に頑固で自分の信念を譲らないところがある裕香のことだ。涙をためつつも必死で反論している姿が目に浮かぶ。
「裕香、どうして紫陽花のお花、橙色にしたの? 橙色の折り紙しかなかったわけじゃないでしょ?」
「だってこっちのほうが、綺麗だと思ったから…」
 俯きながらも、しっかりとした口調で発言する裕香に微笑み、頭を撫でてやる。すると裕香がおそるおそる顔を上げて、言葉を続けた。
「裕香、ピンクとか紫のあじさいは見たことあるけど、だいだい色のは見たことなかったから。こんなあじさいあったら綺麗だなって思ったんだもん」
「そうだよ、ゆうちゃんは悪くないよ!」
 突然背後から上がった大声に、美佳子は驚いて振り向く。
「雅紀くん…」
「まーくん!」
 美佳子と裕香、二人に同時に呼びかけられて、長瀬雅紀は両手の小さな握り拳を大きく振って、ずかずかと近寄ってきた。
 長瀬家は木村家から三軒隣。家が近所、幼稚園の組も一緒とあって、雅紀と裕香ははたから見てもとても仲が良い。そのおかげで美佳子も雅紀の母親、勝美とは親しくさせてもらっている。
 雅紀は裕香の目の前までくるとぴたりと止まった。身長をほぼ同じくする二人は、そうして向き合うと視線がまっすぐ合う。
「俺、知ってんだ。あじさいはイロガワリっていうのをする花なんだ」
「へえ、雅紀くんよく知ってるねえ」
 おだてなどではなく、本当に感心したように笹原が口を挟む。雅紀はちらりと笹原の方に目をやって「前にテレビでやってた」と答えた。
「だから、こんな色になるあじさいもどこかにあるかもしんない。それ、俺が探してやるよ! そんでこんなのあじさいじゃないって言ったやつら、見返してやろうぜ!」
「まーくん…。…ありがと」
 元気のよい雅紀につられたのか、ついさっきまでしょげていた裕香がにっこり笑った。それを見て雅紀は力強く頷き、誇らしげな表情を見せる。
 微笑ましい光景に美佳子が目を細めていると、遠くから「雅紀!」という声が上がった。声がした方に振り向くと、丁度下駄箱の屋根が始まる部分で、長瀬勝美が傘をたたんでいるところだった。
「ああ、木村さんこんにちは」
「こんにちは長瀬さん。…さて雅紀くん、お母さん迎えにきたことだし、裕香も一緒に帰ろっか」
「うん!」
 雅紀からは威勢のいい返事がもらえ、裕香は笑顔で頷いた。
 そしてその日は母子二組、四つの傘を並べて、水が増水したごうごうという音をBGMに、川沿いの道を家へとのんびり辿ったのだった。  


 翌日は、穏やかに時間が過ぎる日曜日。天気も昨日から回復し、空には雲が多いながらも、太陽がちらちらと顔を出していた。
 朝、広告代理店に勤め、抱えている企画のおかげであわただしく休日出勤する夫を送り出す。その後は、本を読んだり人形を出してきたりと一人遊びをする裕香の側で、美佳子はのんびりと家事をこなしていった。
いつの間にか時刻は正午を回り、二人分のオムライスを作って裕香と仲良くランチタイム。卵の黄色をケチャップの赤が引き立てるオムライスもすっかり食べ終わり、食器の洗浄にとりかかっていた時。
 ピンポーン、という軽いチャイムの音がして、美佳子は皿洗いを中断する。水と洗剤で濡れた手をあわてて拭い、小走りで玄関へ向かった。
「あら、雅紀くん」
 扉を開けたそこには雅紀が居た。ここまで走ってきたのだろうか、息は弾み、頬も紅潮している。
「おばちゃん、ゆうちゃん居る?」
「ええ、居るわよ。ゆうー、裕香ー! 雅紀くん来たわよー!」
 廊下の奥に向かって呼びかけると、開け放たれたままだったダイニングの扉の向うに、裕香の顔が覗いた。そこから雅紀の姿を確認し、嬉しそうに走ってくる。
「まーくん、どうしたの? 遊びに行く?」
「ゆうちゃん、見つけたよ!」
「…何を?」
 少し首をかしげて、きょとん、と聞き返す裕香に、まだ息があがっているというのに早口で雅紀はまくしたてる。
「だから、だいだい色のあじさいだよ! さっき公園で見つけたんだ。見に行こうよ! あ、おばちゃんカメラある?」
「カメラをどうするの? それに橙色のあじさいって、ホントに?」
 事態がよく飲み込めていない美佳子に、雅紀はニッと笑ってみせる。
「証拠写真撮っとくの。そしたら、みんなも信じてくれるでしょ? ねえ、おばちゃんも一緒に行こうよ」
 雅紀にせかされて、半信半疑ながらも美佳子はまだフィルムの残っているインスタントカメラを持ち、手を繋いで前を行く雅紀と裕香について公園へと向かった。


 日曜日の公園は、子供達とその親でずいぶんと賑わっていた。すべり台を滑る子供が居れば、それぞれが傍らに子供を乗せた乳母車を置き、ベンチに座ってお喋りと情報交換に花を咲かせる若奥さんの四人連れと様々だ。
 そんな人々の起こす喧騒をくぐりぬけ、美佳子と裕香は雅紀に案内されるままに、公園の片隅にある記念碑の所まで来ていた。ここは公園の東の端であまり人も通らず、子供達の歓声がずいぶん遠くに聞こえる。
「こっちだよ」
裕香の手を引く雅紀を追って、美佳子は記念碑の裏側に回る。そして出くわした光景に目を見張る。
「まあ…」
 公園をぐるりと囲む、土手を支える低い石垣。その上部に群生している紫陽花の、薄桃や紫の花に混じって、蜜柑の果実のように鮮やかな橙色の花が三つ、そこだけ異彩を放ちながら存在を主張していた。
「ほんとだ、ほんとにだいだい色だあ!」
「すごいでしょー。俺、頑張って探したんだもん。ねえおばちゃん、俺とゆうちゃんと、あじさいと一緒に写真とって!」
「え、ええ…」
 顔を近づけ、しげしげと紫陽花を眺めていた美香子は、雅紀にせかされてカメラを構える。片方の手はしっかりと繋いだまま、余った方の手でピースサインを作る雅紀と裕香、そしてその右上の紫陽花とをフレームに収めてシャッターを押した。
「ねえまーくん、きれいだね、だいだい色のあじさい」
「ねー」
 和やかな雅紀と裕香の会話の切れ目を見計らって、美佳子が声を掛ける。
「…さあ、写真も撮ったし、もういいかな? 後は公園で遊ぼうか」
「うん!」
「あ、ちょっと待って」
「ん? 裕香どうした?」
「あたし、トイレに行って来る」
 くるりと背を向け、記念碑のあるこの場所からは真横になる角にひっそりと建つトイレに裕香は駆けて行く。
「ゆうちゃん、ジャングルジムのとこにいるからねー!」
 雅紀が呼びかけると裕香は一度振り返り、了解の合図とばかりに手を振って再び走り出した。もともと小さな後ろ姿がさらに小さくなっていくのをひと通り見届けて、美佳子はふう、と息を吐き出す。
 決心をして、きっかけの一言。
「…雅紀くん、うまいね」
「? 何が?」
 きょとんとして尋ねてくる雅紀。もう後戻りは出来ない、と美佳子は質問の答えを口にする。
「色、塗るの。他のところには全然色ついてなかったもんね。あれ、塗るお花以外のところに、紙かなんかでちゃんとカバーしなきゃできないんだよね」
「……!」
 雅紀の顔が強張り、じっと美佳子を凝視する。しかしすぐ我に返り、何か反論しようと口を開けたのだが。
「お、俺は…!」
「前雅紀くんのおうちに行った時、雅紀君プラモデルとミニ四駆、見せてくれたよね。そんで自分で組み立てて色も塗ったって話してくれたじゃない。それに使ったカラースプレーかなんか使ったんでしょ」
 雅紀の言葉を遮り、美佳子は淡々と続けると、最後に「違う?」と念押しした。雅紀は何も答えず目を伏せ、黙り込んでしまう。五歳の子供にしては潔いその態度は、美佳子が語った内容が真実であることを認めるようなものだった。
「…とりあえずジャングルジム、行こっか」
 美佳子にそう促されると、雅紀は小さく頷いた。そして雅紀はゆっくり、美佳子は雅紀の小さな歩幅に合わせて更にゆっくり、遊具の密集する公園の中心部へと歩いていく。
 しばらく続いた沈黙も終わり。
「…ごめんなさい」
「…何がごめんなさい?」
 歩みは止めないまま、でき得る限り優しい口調を心掛けて美佳子は聞き返す。
「だいだい色のあじさい見つけたって、嘘ついてごめんなさい」
「うん」
「お花に色塗ってごめんなさい」
「うん」
「…でも俺、ゆうちゃんに喜んでほしかったんだ…」
「うん、わかってるよ」
 ぴたり、と足を止めて。今にも泣き出しそうに顔を歪めてしまっている雅紀に、美佳子は柔らかく微笑んだ。
「でもね、裕香は見たことのない色の紫陽花を描いてみたかったんであって、嘘をつきたかったわけじゃないの」
 わかりやすいように、伝わるようにと、美佳子は一生懸命言葉を選ぶ。雅紀はただ黙って聞いている。
「だから雅紀くんが、無理矢理だいだい色のあじさいを作ることも無かったのよ。今は喜んでも、本当のことを知ったら裕香の喜んだ気持ちは台無しになっちゃう。それにお花だって可哀相でしょ? もともときれいなものは、何もしなくてもきれいなままなのに…」
 ね、と返事を催促すると、雅紀は首を縦に振って答える。
「じゃ、裕香にもちゃんと本当のこと話そうね」
「えっ、ゆうちゃんにも? …話さなきゃ、駄目?」
 やっぱり眉をしかめた泣きそうな顔で見上げてくる雅紀に、美佳子は苦笑しつつもちろん、と断言する。
「だって裕香は雅紀君の嘘をホントだと思ってるんだよ。このままじゃ、今度は裕香が嘘つきになっちゃう」
 美佳子が続けた言葉に、雅紀がはっと息を呑んだ。
「それは、だめっ…!」
「…じゃあ、ちゃんと言えるよね?」
 こくりと大きく頷く雅紀、その瞳と表情にしっかりとした決意を読み取って、美佳子は安心する。
「おかあさーん、まあくーん」
 ふいに聞こえた裕香の声に、あ、と二人は顔を上げる。体を弾ませ走ってくる裕香の姿を見て、美佳子は雅紀の両肩に手を置く。
「大丈夫、裕香は許してくれるよ」
 素早く、小声でそう囁いた。
 美佳子は雅紀の背中を、裕香の方へと軽く押す。自分の娘の優しさと、雅紀の勇気を信じて。


 後日、公園。記念碑の裏側に動くのは三つの人影。
 それは、とにかく橙色の塗料を塗られた花を切り取ったものの、このままで大丈夫かと園芸雑誌とにらめっこする美佳子と、何か手伝いはできないかと仲良く美佳子にまとわりつく雅紀と裕香の姿だった。

 

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