―――   『月暈』 日番谷×雛森  著者:とげとげ様   ―――




『月暈』

紙の様に薄っぺらい月が、頼りない光で必死に夜空を照らしていた。
狭い四角の窓から差し込む光で、縦縞の格子の影が月明かりで黒々と床に映る。
閑古鳥が音という音を食い潰したかのように、辺りは静寂だけが漂っている。
数時間前には絶え間なく喧騒が聞こえてきたというのに、今は何もかも死んでしまったように静かだ。
静かすぎて、耳鳴りがしそうだ。沈黙はこんなにも痛みをもたらすのだと、改めて実感した。
涙でべたついた頬を、死覆装の袖でごしごしと擦る。

ここに入ってから何時間経ったのだろう。どの位、泣いたのだろうか。
いつから格子に凭れ、青白い月を眺めていたのだろう。いつ、涙は止まったのだろうか。
泣き腫らした眼は熱を持ち、じん、と火照りが頬に残っている。
今の自分の顔は、とても見られたものではないのだろう。充血した眼に冷たい空気が沁みる。

網膜に焼き付けられた、あの光景。目を閉じれば、嫌と言うほど鮮明に思い出す。
白い壁にべっとりと貼り付いた血液。焦点が定まっていない虚ろな眼。誰よりも優しかった人の、変わり果てた姿。
鉄の錆びのような、血の臭いが蘇り、吐き気が込み上げてきた。口元に手を添え、ぎゅっと瞼を閉じる。
哀しみも、憤りも、吐瀉物と一緒に流れ出てしまえば、どんなに楽だろうか。
今は何も考えたくはない。悼むのも、憎むのも、ここでは意味を成さないのだから。

護るべきものを護れず、倒すべきものをと倒すこともできない、無力な自分。非力な存在。
自分はまるで世界に置き去りにされたように、ぽつん、と無機質な檻の中で蹲っているしかない。
何もかもに疲れ、思考する事も拒否し、項垂れるように雛森は自分の腕の中に顔を埋めた。

刹那。

「雛森」

突然、背後から何者か気配と声が背中に刺さる。
声こそ上げなかったものの、ぴくん、と驚悸で雛森の小さな肩が大袈裟なほど跳ね上がった。
その声と気配の主は、振り向かなくとも確信出来た。
幼さがまだ抜けない、少年の声。聞き慣れた、どこか氷のような冷たさを含んだ―――声。
「日番谷くん…」
自分でも情けなくなるような弱々しい声で、気配の主の名前を呼ぶ。
涙声は抜けきれず、つん、と鼻腔の奥が微かに痛む。
薄く張った水の膜を、ぐい、と手の甲で拭う。蛞蝓が這った跡のように水滴が伸びた。

「…どうしたの?」
「………」

日番谷は答えない。
この牢の光源は差し込む月明かりだけで、隅には闇が燻っている。
俯き加減の顔は陰に大部分を覆われ、よく見えない。
それでも、こちらを見詰めているのは判った。総てを見透かすような、容赦のない視線で。

「日番谷くん」

再度、名を呼ぶ。
膨れあがった沈黙に身体が押し潰されそうだ。

「…藍染の件について、追加報告がある」

会話にしては長すぎる間隔を空け、日番谷は口を開いた。文字を読むような、淡々とした声色で。

雛森は、どくん、と心臓が大きく脈を打つのを感じた。肺を鷲掴みにされたように息苦しい。
くらくらと、視界が歪み、軽い眩暈が襲う。ざわざわと不快な胸騒ぎが過ぎっていく。

「何、か判った、の…?」
たどたどしい口調で言葉を紡ぐ。洟をすする雑音が酷く耳障りだ。

「大したことじゃないがな。雛森には言っておこうと思ってよ」

だから一人で来た―――と、錠前を弄りながら言う。かちゃ、と乾いた音がして、錠が外れた。
きぃ、と扉が開かれ、配慮も遠慮も感じられない足取りで、日番谷が牢の中に侵入してきた。
草履が床に擦れる音が、雛森の目の前で止む。日番谷の袴の裾が視野にちらついて、落ち着かない。
どうしてか、雛森は日番谷の顔を直視することができなかった。

「ひでぇ、ツラ…」

そう呟きながら、まじまじと上から視線を浴びせられる。何だか責められている気がして、更に胸が詰まった。
格子越しに感じた時と全く同じのものが、全身を貫いていく。

予想通り、今の雛森のは直視すら躊躇うまでに痛々しかった。
兎よりもに赤く、潤んだ眼球。眼の下にはくっきりと隈が浮かんで、腫れぼったくなっている。
いつもより掠れている声が、泣いていた、ということを顕著にしていた。
涙で全身の水分と血液を絞り取られた姿は、萎れた植物ようにも見えるのだろう。

「見ないで、よ…」

視線の重さに負けて、一度上げていた頭を、再び拉げる。

「あ、いや…。悪ぃ」

歯切れの悪い謝罪の後、夜の独特のしじまが、波紋のように広がっていく。
先ほどよりも密度の高い沈黙が、ゆるゆると雛森と日番谷を取り巻いた。

「で、だ。あの後…藍染の亡骸を、卯ノ花が調べたんだ。壁に磔にされてたあれは、藍染の義骸かもしれない、って意見が出てな」

無音の重圧に耐えかねた日番谷が、口早にそう告げた。

その言葉に、雛森の虚ろな眼に微かな光が灯る。
閃く強さは無いものの、それは水面のような、静かな揺らめきを湛えている。

『藍染隊長が、生きているかもしれない…』

泥のような闇に沈む感情を、逃避に似た淡い期待が僅かに掬い上げた。
ひからびた心の泉がこんこんと、人間らしい鼓動を打ち始める。

不確かなものを確信するには、不安と疑殆に打ち勝たなければならない。
だが、今の雛森にとっては、取るに足らない塵芥でしかない。
これ以上に些細なことは無く、それ以下の戯論はない、と思い込んだ。
そう思い込むことで、救われる気がした。そう思い込むしか、救われない気がした。

しかし、雛森の心情と相反するように、日番谷の表情はだんだんと曇っていく。
視線が哀れみを帯びていくのが感じ取れた。次の事実を述べるのを、躊躇している。
それでも、雛森は無視をした。知っては、いた。だからこそ、無視をした。

射抜くような視線を床に落とし、日番谷は一呼吸おいて、決心したように切り出した。
限りなく残酷で、限りなく非情な真実を。逃れることのできない現実を知らしめるために。

「でも、結局は、藍染が死んだ事実を肯定しただけだった」

必死にたぐり寄せ、掴んだのは―――蜘蛛の糸だった。
肥大する願望を抱えきれず、それは溶けるように、消えるように、切れた。






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