―――   浦原×紅姫 著者:四条 ◆JeifwUNjEA様   ―――



幼い頃、私は幸せだった。
名家の次女として生まれ、遊び人だった先人の名残である人間界の玩具で良く遊んだ。
近所で手に入る物よりも確実によくできていて、大きくなったら人間界で暮らそう、と
本気で願っていた。
母は私を産んですぐに亡くなってしまったのでどんな人かは覚えていないが、それが嫌だとは
思わなかった。
友達もいた。数える程だったけれど、何度もお互いの家に遊びに行ったものだ。
生まれ付き舌の感覚が鋭いらしく、食事の後の普通の感想を料理人達が聞きに来るのが
当たり前だった。あんないい加減な言葉が参考になる、というのが不思議だ。
何でも理屈から考えてしまう少々捻くれた性格だったが、父や使用人などは
頭が良い、と褒めてくれた。そう言われるのが嬉しくて、学校では勉強に力を入れ、
試験では常に上位にいた。所謂塾や家庭教師などを薦められたが、私はそこまで
時間を使いたくはなかった。相変わらず玩具で遊ぶのが楽しかったし、友達とも
出来るだけ一緒にいたかった。
名のある家に生まれた以上、将来の選択肢は決して多くはないと解っていた。
人間界で暮らす、という夢は既に諦めていたが、出来るだけ自分を隠さなくてすむ
選択をしようと心に誓っていた。

ある日の事だ。
果物が食べたくなり、厨房の包丁を勝手に持ち出して誰もいない居間で果実の皮を
剥き始めた。初めてのことだ。上手くいく筈がなく、案の定指を切ってしまった。
久しぶりの痛み。我慢しきれなくて泣いてしまう。
使用人がすぐにやってきたが、五歩程度まで近付くと、そこから動かない。
ひどく驚き、恐れている表情だ。
早く手当てをして欲しくて私は近付いた。が、それまでの距離を更に遠ざけるだけだった。
明らかに怯えた様子で、私から離れようとしている。一体何なのだろう。
「じゅう」
足元からの奇妙な音が聞こえた。目を向け、目を張った。
私の血が床を焦がしている。
「じゅう」
怖い、と思った。こんな話は聞いたことがない。
私の身体はどうなってしまったのか。私は、何なのか。
「じゅう」
周囲の音が聞こえない。真っ直ぐ立てているのかも解らない。ざわざわと私を中心に
何かが渦巻いている。そこにいた使用人はいない。怖い。誰か来て欲しい。
声が出ない。大勢の人が遠くから私を見ている。誰も来てくれない。
空気が重い。何もない居間。何かあった筈の居間。なくなった理由は。
「ごお」

目が覚める。私の部屋だ。他には誰もいない。あれからどうなったのか、覚えていない。
悪い夢なら良かった。指に巻かれた包帯。それでも否定したくて、居間に向かう。
時刻は深夜だった。起きている者はいなくて、明かりも最低限に抑えられていた。
薄暗い居間。異様な、居間と呼ばれていた空間。
調度品の全てが切り裂かれ、なぎ倒され、砕け散っている。あの時私が立っていた所を
中心に、床に渦巻き状の深い傷跡が刻まれていた。
夢なら覚めて欲しい。夢であって欲しい。夢になって欲しい。
解っている。そんなのは無理だ、と。
・・・誰か、来た。誰でも良いから、私を元気付けてくれないだろうか。心配はいらない、と。
でも、それ以上に怖かった。私を普通の者として見ない目が。
独りではない事を確認したい。独りになってしまった事は確認したくない。
静な足音が私にのし掛かる。どうする。・・・どうする。
私は部屋に逃げ帰った。
多分、どちらであってもその返答を否定しただろう。
こんな身体で心配がない筈がない、或いはこんな身体だけど私は普通の子だ、と。
そんな主張をしなければならないのが、とても嫌だ。
私は、どうしたら良いのだろう。誰か教えて欲しい。

あの日を境に誰も傍に寄ることがなくなった。
友達は追い返され、親しかった使用人はよそよそしい態度。
姉は何か言いたそうな素振りも見せていたが、父─当主の視線に簡単に制止させられた。
当主は私に目を向ける事がない。声も掛けない。そして私がいないものとして振舞う。
何だ、この家は。こんな家だったのか。
日が暮れる頃には部屋に閉じこもった。
生活は激変した。
食事の時刻になると、部屋の前まで誰かが近付き、すぐに去っていく。
扉を開けると盆に乗った食事が置いてある。勉強は時々添えられていた書物でした。
遊びは部屋にある玩具で済ませた。
食事も勉強も遊びも、一人になった。当然だ。こんな化け物を、普通の中に混ぜるのは
危険なだけだし、私もそれを受け入れた。
寂しい。受け入れた筈なのに、誰かに接したい。気を紛らわそうと玩具で遊んでも、
その感情は膨れ上がるばかりだ。泣いてもすっきりしないだろうし、独りで泣くのは
とても辛いことに思えた。必至に歯を食いしばっても嗚咽は止らないし、涙もぼろぼろと
流れてしまった。始まったらどうしようもなく泣き崩れるだけだった。
ざあと渦巻きが生まれ、私を支えてくれた玩具が吹き飛ばされる。嫌だ、堪えないと。
何とか収めることは出来た。でも玩具の半分は使い物にならなくなってしまった。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
一生懸命に謝りながら、私は宝物を入れる箱に丁寧に並べた。
渦巻きの正体は霊力と呼ばれるものだ。何とか制御する術を身に付けないと、先程の
惨劇を繰り返してしまう。外に出られても、誰かを傷つけてしまう。
莫大過ぎる霊力を自分の意志で出して、収める。私の人生で初めての具体的な目標だった。
それと平行して、血についても調べた。
随分前に貰った工作用の小刀で指を少しだけ切った。熱くて痛い。落ちる体液が床を焼く。
訳が解らない。こんなの、どうしろというのか。怪我をする度に周りを焼かねば
ならないのか。
途方に暮れ、目の前が暗くなるというのを実感した。
痛みが引くにつれて焼ける音が小さくなるのに気付く。私の感情と繋がりがあるのか。
痛くないと自分に言い聞かせながら、もう一度血を流してみる。
やはり、そうか。焼け方が随分と弱い。感情を殺せば、その分変化はなくなるようだ。
臨機応変に感情を殺す。・・・出来るようになれるだろうか。
我慢していた痛みが堪え切れなくなり、僅かに声になってしまう。
「ぱん」と血が破裂した。
吃驚した。・・・どうやら、そういう事らしい。
変化を殺している状態に、生かす感情を加えてやることで今の破裂が起こるのだろう。
だが、役立つなんてとても思えない。
莫大な霊力。感情で性質が変化する血。
本当に、私は何なのだろうか。
大き過ぎる霊力が血を変質させるのか、逆に過度に特種な血が巨大な霊力を生むのか。
・・・どちらにせよ、この二つと一生付き合わなければならないのだろう。
何としてでも制御し、普通の生活に戻りたい。
この願いだけは捨てられなかった。

霊力への集中を解き、窓から外を見る。
同じ季節を見るのは何度目だろう。青々とした木の葉に触れたい。爽やかな風に身を
任せたい。降り注ぐ光の下で走ってみたい。
風呂と排泄は皆が寝静まった後に済ませた。その後ならば、屋敷を
歩いても良さそうだったが何が起こるのか不安で結局は一度もなかった。
欲しい物があれば紙に書いて扉の向こうに置けば翌日には届いている。
誰の声も聴かず、姿も見ない生活。
よく狂わないものだと我ながら呆れてしまう。
あの日から比べると、女性らしい身体になったと思う。顔立ちについては比較の
しようがないので何とも言えないが、変化はしている。
女としての幸せを得られるようになっていく。だが、私はその舞台にすら立てないでいる。
霊力の制御は大分上達した。中程度の放出はいつでも出来る。炎や氷等への変化もやれる。
少し疲れるが、数種類の状態を同時に造ることも可能だ。
こんな生活で感情の抑制を覚えろというのは無理があるけれど、突発的な感情の大波
にも冷静に対処しているつもりだ。あの日のような暴発はない。
血の分析も済んでいる。最近では複数の血痕に同時に違う変化をさせられるようになった。
更に固まる前ならば思い通りに形状を変化させる術も覚えてしまった。
・・・外に、出たい。きっと上手にやれる。何とか切っ掛けが欲しい。無理やり出ても、
失敗するだけだろう。
夜になると、大勢の人の喧騒が僅かに聞こえた。時々このような会食がある。どんな集まり
かは知らないが、私には全く関係がないことだ。
・・・私の扱いはどうなっているのだろう。巧く誤魔化しているのだろうが、気にはなる。
死んでいることにはなっていて欲しくはないが、その可能性は低くないだろう。
とんとん。
そうでなければ、病か、気が触れた、か。
出られてもまともな環境を整えるのには時間が要るだろう。
本当に辛いのはこれからかもしれない。
とんとん。
何か、私を認めさせる武器がほしい。無論暴力では駄目だ。それを選択したら、
私は確実に終わってしまう。
何か、ないだろうか・・・
とんとん。
─、まさか。この、扉を叩く音は。
とんとん。
誰か、来た。
思いもよらない事だ。どうする。・・・どうする。
扉の向こうの誰か。私に会いに来た人。話せる。見てもらえる。聞いてもらえる。
そう意識すると長く溜め込んでいた感情が噴出しそうになった。
机に片手を付き、大きく呼吸する。
・・・よし。心に蓋はした。でも、大丈夫だろうか。・・・開ければ、解る。
扉までの距離が遠く感じる。近付くと、蓋が緩み始める。押さえつけ、声を出した。
「誰、なの」
予想外に大きな震える声。そして、大人びた声。これが私の声なのか。
諏訪野でございます、と懐かしい声が聞こえた。
諏訪野。使用人の長を務めていた人。昔、庭で遊んでいるといつも見守ってくれた人。
その声とかつての記憶に導かれるように、扉を開いた。
諏訪野がいた。でも、こんなに小さかっただろうか。顔のしわが増えて、髪もより白くなった。
柔らかい笑顔だけは変わっていない。
「久しぶりでございます、紅姫様」
記憶通りの優しい声に何故か動揺してしまう。何を言えば良いのか。私が言いたいことは・・・
「ああ、お綺麗になられました。見違えるようです」
私を見てくれている。・・・何を言おうか。迷った挙句、会いに来た理由を訊いていた。
「何故、ここに来たの?」
ちらりと部屋に視線を流し、諏訪野は言った。
「最後のご挨拶に参りました」
とりあえず、中に入れなくては。誰かに見られてはいけない。─見られたくない。
「・・・中に入って」
嫌になるくらいに冷たい声。こんな声を聞かせたくはないのに、こんな声音しか出せない。
失礼します、と諏訪野は私の部屋に入る。
扉が閉まる音が響き終えた瞬間、思考が白くなった。心の蓋が呆気なく吹き飛び、私は─
彼の手を握っていた。
暖かい手。私は、この時を待ち望んでいたのだ。こうして誰かに触れるのが、何よりの願望だった。
「ありが、とう、諏訪野・・・」
来た理由はどうでもよかった。こうして会いに来てくれたという事実が嬉しかった。
やっと感謝の言葉を言うと、それ以後はずっと堪えていた寂しさが音として部屋を満たし、
熱い水滴となって彼の手を濡らした。
諏訪野はじっと見て、聞いて、触れてくれた。私の身体と心を。
彼も泣いていた。その流れる涙はどんな意味があるのだろう。

「お勤めが今日限りとなりましたので」
諏訪野は来た理由を簡潔に話した。あの当主も彼の最後の願いは退けられなかったのだ。
後任の人物も育っていて、彼が言うには有能な人間らしい。
当主の意向を的確に理解し、実行するという点については自分より優れているだろうと話す。
当主は相変わらずで、姉は当主の若い頃にそっくりらしい。
「私の扱いはどうなっているの?」
僅かに目を伏せて、言った。
「心の病、当主様はそのように公言しておられます」
私と会うのを厳しく禁止し、その理由は危害を加えられるからだと言う。
その事に苦言を述べる者も多かったが、強引な理由で辞めさせたそうだ。
この屋敷で私と面識があるのは当主、姉、諏訪野の三人だけだ。そして明日からは二人だけになる。
・・・この後、誰かが来ることはない。
「私は、ここから出られないのかもしれないのね・・・」
覚悟はしていたけれど、やはり衝撃は大きい。
家の名前を守る為に食事を与え物を渡し、そして外に出さない。自害や餓死では噂になるから。
だから、老いて衰弱死するまでここで暮らさせる。・・・どうする。
諏訪野は私の顔を見て微笑んだ。
「紅姫様は強い心をお持ちですね」
「・・・何故?」
「このような辛い事実にも平然としておられます」
「・・・そんな、大層なものではないわ。諦めが悪いだけよ」
そう。まだ諦めていないから、暴発していないだけだ。完全に暴力以外の方法がないと
確信すれば、それを選択する。とはいえ手詰まりであるのも事実だ。どうする。
「紅姫様が理性的なお方で嬉しく思います。正直に申しあげますと、このお部屋に入った後、
 何かしらの仕打ちを受けるものと考えておりました」
それは、そうだろう。長年に渡って軟禁し続けたのだ。
私が家の者に対して相当の恨みや憎しみを持っていると考えるのは当然の事だ。
「安心して、と言っても信用して貰えないだろうけど・・・私は貴方には何もしないから」
「承知しております」
諏訪野は一点の怯えもない瞳で頷く。
「紅姫様は一般社会で立派に暮らせます。私が保証いたします」
それは嬉しいけれど。
「でも、出る方法がない」
「はい。用意してあります」
言うと、扉の傍に置いてあった風呂敷の包みを私の前で開く。
複雑な模様の札が数枚、床に置かれた。
「それは?」
「はい、知人に鬼道─霊力の制御法に精通する者がおりまして、無理を言って試験段階の
 術札を借りて参りました」
札を手に取って観察する。繊細な模様は造った術者の霊的な感性をそのまま現しているのだろう。
緻密な構成だ。それだけに高度な霊力の流れになるのだろう。
今の私に、これ程細かい出力は無理だ。
「何だか、凄い。うん、ちょっと憧れる」
このような物が作れるようになれたら、私は体内の霊力を完全に制御したと言えるのだろう。
「ご理解、出来るのですか?」
「私も霊力との付き合いは長いから。詳しい知識はないけれど、何となく解るの。
 ・・・物質化、ではない。何だろう・・・何か作る筈なんだけど」
ほお、と諏訪野は驚いた様子で私を見詰めている。
霊力の操作に想像の力は必須だと経験で知っている。この札からは何かを操るような印象も受ける。
正体がはっきりしない。
「どんな術?教えて、諏訪野」
「はい。空間に作用する術で、発動させるとまず門を造り、次に遠い所にも同じ門を造るそうです。
 そしてこちら側の門とむこう側の門を直接繋ぐ通路を造る、そのように聞いております」
造り、操る。空間そのものを変化させるとは、相当な術者なのだろうか。
「試験段階らしいけど、何が問題なの?」
「はい。この札だけでは完全に安定させるのが不可能で、通路自体も短時間で消えてしまうそうです。
 渡る者自身が霊力を発しながら移動する。それが必須の条件だと言っておりました」
それならばやれる。これまでの成果を試し、更にはこの屋敷からの脱出も可能かもしれないのだ。
遂に、出られる─
「紅姫様、もうふたつだけ、問題があります」
私の興奮を冷ます声。諏訪野はあえてその声音で言ったのだ。
「ありがとう、諏訪野。少し先走っていたのね」
「いえ・・・その問題のひとつは、何処に出口が造られるのか全く予想出来ないということです」
発動した者と札の直線上に造られるのは間違いないのだが、その距離を調節する方法がないと言う。
出口が屋敷の敷地外なら良いが、失敗ならばこの部屋から出るだけかもしれないし、
出口が壁の中などの可能性もある。
楽観視は出来ない。
「この札は一度しか使えないの?」
「はい。それが最後の問題です。・・・どうしても賭けになってしまいます。確実な方法は
 見つかりませんでした。申し訳ございません」
苦い表情で頭を下げる諏訪野。
咎めるなど出来るものか。
「でも、出られる方法はこれだけなのでしょう?ありがとう諏訪野。貴方が探してくれなかったら、
 私は確実にこのままだった。諏訪野が謝罪する理由はないわ」
「・・・もっと早い時期に会いにくるべきでした。このような状況になってしまった原因に、
 私の不甲斐なさも含まれております」
堅苦しい性格は昔と変わらない。放って置いたら何時間でも謝り続けるだろう。
「良いのよ。こうして償いに来てくれたのだから、諏訪野が謝ることはないの。
 この話は終わりです」
「お心遣い感謝いたします、紅姫様」

札の使い方を教わり、彼は言った。
「そろそろ時間です。最後にお召し物をお受け取り下さい」
諏訪野は札が乗っていた服を持ち、私に手渡した。
一見地味だが生地そのものは高そうだ。私は早速両手で広げてみた。
「良いものみたいね。ありがとう、諏訪野」
諏訪野はこれは心外といった顔で言う。
「少し丈が短いかもしれませんが、ふむ、それ程おかしい印象はありませんな」
確かに短いような気がする。それでも着たい。最後の贈り物かもしれないのだから。
「紅姫様は、もしお屋敷から出られたとして、その後はどうなさいますか?」
諏訪野は私の行き先が決まる迄匿うつもりのようだ。
これ以上してもらうのは気が引ける。それにとりあえずの場所だが、当てがある。
「護廷隊に入ります」
あそこならば、この家の者でも強引な方法を使うことは出来ないだろう。
入隊と同時に寝床と食事は確保出来る。問題は除隊させられないように失敗をせずに
訓練や任務を続けることか。
体力への不安は大きいが、努力して克服するしかない。
「左様でございますか。どうかご自愛下さい」
真摯な眼差し。・・・切り上げよう。決心が鈍る。
私は安心させる為に手を握り、微笑んで言う。
「貴方も元気で・・・ありがとう、諏訪野」
「はい、どうかお気をを付けて。紅姫様」
一礼し、諏訪野は出ていった。時刻は深夜には少し早いといったところだ。
出るならば早朝だろう。護廷隊の詰め所なら記憶している。今行っても不審者として捕まるだけだ。
身の回りの物をまとめ、着替える。
私を支えてくれた玩具は持って行けない。残念だが、いつか帰って来れる日までここに置いておこう。
私は自らの立場を確立させる為に行くのだ。それが成ったなら必ず帰ってくる。
約束する。待っててね、皆。

窓の外が明るくなり始めた。
良い頃合いだろう。
私は教わった通りに札に込められた術を発動させる。
五枚の札が音もなく宙に浮き、それぞれが五角形の頂点となり空間と空間の境目を造り出す。
そして境目の内部の空間が消え、奥に向う通路が現れた。琥珀色の壁で作られ、私が立ったまま歩ける
程度の高さがある。
諏訪野が言った通りだ。成型する五枚の壁は常に形状を変化させていて、波のように唸っていた。
壁の凹凸により、出口が見えない。屋敷の外に出られるのだろうか。
・・・迷っていられない。行かなければならないのだ。
決意し、足を踏み入れた。感触は鉄のように硬く、それなのに柔らかく変形する。
私が霊力を発すると、通路の変形は一瞬で収まった。遠い出口から光が届いている。・・・出られる。
床が小さく隆起と陥没を繰り返した。気が抜け、放射する霊力が不足したのか。
改めて心を緊張させて歩き出す。安定に必要な霊力は私にとってはそれ程重荷ではない。
出口は遠いが、十分持つだろう。

無事入隊を果たし、訓練と任務を繰り返す日々が続く。
予想通りに体力のなさが悩みの種だったが、それも近頃では克服し始めた。
家の者が頻繁に訪れて私を家に戻そうとしたが、完全に無視してやった。
私の身が心配だからと言うが、本当にそれだけかと訊くと途端に黙り込む。
私が間違いを犯し、家の名に傷が付くことを恐れているのがあからさまに解った。
一度でも戻ったらもう出られないだろう。
諏訪野が言う通りらしい。私は人目を引く容姿のようで、結構声を掛けられた。
それ以上に『名家の次女』というのを計算している目。あまり気分の良いものではなかった。
そのような扱いでは誰かと付き合うつもりにはなれず、曖昧に流して済ませていた。
意識して冷たい態度をしている訳ではないのだが、どんな人でも数日で諦めた。
話しかけるどころか、目を合わせる事さえなくなる。
そんなものなのだろうか。もう少し根気が必要なものではないのか。
偶然聞こえた会話で、その疑問は氷解した。
家の者が私に近付く人にあらぬ事を吹き込んでいるらしい。そうでなければ金品で懐柔し、
私と接するのを止めさせているようだ。
怒りを通り越して呆れてしまう。そうまでして私を独りにしたいのか。誰かを傷つけ、家名に
響く事を避けたいのか。どうかしている。
それ以来、家の名前で呼ばれるのが嫌になってしまい、自己紹介の際には自分の名前だけを
言うようになった。
ようやく鬼道の訓練が開始された。霊力の扱いならそれなりの自信がある。きっと上手くやれる筈だ。
鬼道で名を上げて家に私を認めさせる。目標にやっと近づける。
・・・合わせるのがやっとだった。ひどいものだった。
私ではなく、訓練の内容が。何故言葉など使うのだろう。あんなに効率が悪く、時間も手間もかかる
方法が正しいとされているのが理解出来ない。
更には霊力を同時に複数の状態へ変化させるのは理論的に不可能とされていた。
私に任せてくれれば、言われるままに霊力を変えて見せたのに。
炎に氷を突き刺し、それらを突風で吹き上げ稲妻として地に落とす。
少しだけコツが要るだけで、誰でも出来る筈だ。
教官の言動から察するには、こういった私のやり方に気付く気配すらない。
よく教える立場にいられるものだと感心してしまう。下手な反抗は後々面倒に発展するだろうから
未熟な振りをしてつまらない訓練に付き合ったが、次の訓練には出る気がしない。
廷内の鬼道に関する書物も漁ってみたが、私がやれているのに実現不可とされるものが幾つもあった。
いっその事、教官の前で私の力を見せてやろうか・・・
いや、違う。これは紛れもない大きな機会だ。
戦闘任務もある護廷隊や、霊力制御の研究機関である真央霊術院ですら誰も気付いていない鬼道。
一般人にも説明出来るように理論を確立させる事が出来たなら、間違いなく私の名前はこの世界に轟く。
私の名前と家の名が常にひとつとなって知られるようになる。
目標である『自らの立場の確立』を達成出来るのではないか。
上の者と共同で研究するならば環境や道具等は楽に手に入るだろう。しかし
それは嫌だ。大部分がその人の成果として世に広まるだろう。
誰にも見られず。知られないように研究する方法。・・・どうする。
・・・あの札、あの術を応用しよう。空間を制御し、私だけの研究室を造る。
幸いにも札の模様は忘れていない。同じものを作るのはそれ程難しくはないだろう。
私ならやれる。将来への道がはっきりと見えた。

失敗した。
任務中に判断を間違えてしまい、重傷を負ってしまった。
治療院で完治を待っている。時間をかけないと治らない種類の怪我だそうだ。
鬼道の才女と渾名が付き、術の研究が軌道に乗り始めた所だった。早く治してあの部屋に戻りたい。
誰も入れないように細工してあるので秘密が漏れることはないが、折角気付いた方法を書き留める
ことすら出来ない。こうしている間にも様々な課題が浮き上がり、解決の方法を模索してしまう。
・・・止めよう。考える程に研究室に戻りたくなる。そして戻れない現実に直面させられ、
精神面への負担が増すばかりだ。
研究室の手製の資料は大分増えた。私独自の補助具も作成し、将来訪れるであろう一般人向けの
資料も作ってある。今までの鬼道の常識を覆す理論も完成し、後は実践するだけといった術も多い。
・・・もう家に戻っても良いかもしれない。
私の名前で数ある理論のいくつかを公開させ、その反響が私を自由にするだろう。
任務に追われる事なく研究に没頭出来る。魅力的な環境が整う。
私自身も鬼道の研究が面白いし、家の者もそれを支えるだけで家名が高くなる。
このような命に係わる怪我もしなくて済む。・・・悪くない。
決めた。家の誰かが見舞いに来たら話そう。私は家に帰ると。
一週間経った。
人選で揉めているのだろう。誰でも良いのに。
二週間経った。
鬼道への対策を練っているのだろうか。私は何もしないのに。
一ヶ月経った。
私の決心は変わらない。早く来て欲しいくらいだ。
二ヶ月経った。
何故来ないのだろうか。
三ヶ月経った。
来ない理由を考える。

そして退院の日。理由が解った。
死ぬなら死ね。迷惑を起こす前なら死んでも構わない。そういう事だ。
見舞いにより、私が快方に向うのを危惧したのだ。
それほど家名が大事なのか。ならば止めよう。
家の名を高める事で私を認めさせるのは止めよう。
完膚なきまでに叩き潰してやる。
屋敷の者を全て殺し、周辺の者も巻き込む。破壊と虐殺をもって私の存在を最大限に示す。
人々は家の名を意識する度に私の名前と凶悪な印象を思い浮かべるだろう。
歴史上の大罪人として記録に残す。私と家名は常に一緒になる。
誰もが私を家の一員として見做し、一家で最も有名な者になるのだ。
必ず、実現する。決めた。

研究室に戻ってからは破壊術ばかりを開発した。
私の中の渦巻きが煩い。気分が悪い。何かにぶつけてすっきりしたい。
研究室の隣に新しく部屋を設ける。実験用の大部屋で、中央に檻を作った。
強力な呪いとも言える治癒結界を内部に生成させる。
後は虚を捕らえ、この中に入れるだけだ。

任務中に半ば偶然だったが虚を生け捕ることに成功した。
虚は檻から脱出しようと全力で殴り、体当たりをしている。
その程度で壊れるような生温い作りではない。
ごうごうと渦が煩い。もういい。やってしまおう。
とりあえず弱らせる為に霊力の弾丸で虚の肩を集中攻撃する。表面が破れ肉が裂け骨を砕く。
虚は肩を庇うが、弾丸の軌道を変えてやるだけで全く無意味なものになる。
千切れかけた腕がぶら下がる。意味不明な叫び。煩い。
霊力の鎖で磔にして、損傷の回復を待ってやる。死なれたらまた調達しなければならないからだ。
外見上は元通りでも痛みは残るらしい。グウウウゥ、と唸っている。
不意にびくりとその身体を震わせた。何だろう。
ああ、そうか。私の笑みに驚いているのか。思い切り衝動を叩き付ける対象が出来たことに、
私は喜びを隠しきれない。
さあ、始めよう。今まで堪えていた分を出し尽くそう。
すべてをぶちまけよう。
火傷に凍傷を重ね切傷で埋め尽くし骨も絶ち脱臼も忘れないそして打撲で黒く染めてから
刺傷を何百と造りもう一度焼いてきれいに真っ赤に何もなかった事にして、
切って凍らせて殴って撃つ削ぐ打つ斬る剥がす割る捩じ切って潰して折曲げて貫く。
く、ふふっ。
壊す。壊す。壊す。
指の先から体の中心まで丁寧に丁寧に痛みつける。
一切手を抜かずに狂おしい純白の愛に匹敵する高密度の闇色の憎悪を塗り固める。
体内の渦は収まらないし私も抑えない。溢れる、解放する。
虚が叫んでいる。ありったけの気力で私を圧倒しようと叫んでいる。
「ガアアアアぁアアあアァあはアアアあはアは!はははッはァははははははっ!」
どうしたの?私の声の方が大きいじゃないの。
知らなかった。思いっきり出すのって、こんなに気持ち良いんだ。もっと早く気付けば良かったかな。
もっとすっきりしたい。私は檻に入り、虚に近付く。霊力で爪を創り、
挿す挿す挿す開く入れ掴む千切る、引き裂く混ぜる捏ねる出す引っ張り出す抉り出す突っ込む。
逆流なんかさせないよ穿つひゅうひゅう笛みたいだね流し込む霧になって吹き出るびくんびくん。
苦しむ虚が当主と重なる。私の苦しみはそんなものではなかった。
辛そうに悶える虚が姉と重なる。この程度で辛そうにするな。
私はずっと苦しかった。辛かった。もっと苦しかった辛かった。
ねえ、知ってる?
何回季節が変わったと思う?日が昇ったのは三桁を下らないのよ?
時計の短い針なんて何千回も回ってるのよ!?
今にも狂ってしまいそうな状態に何万時間も耐えてるのよ!?
何故こんな目に遭わねばならないの!?何なの?いつまで続くの!?
何回死のうとしたのか知ってる?その決意を何回殺したか知ってるの?
いつまで死に続けて殺し続けなきゃいけないの?
私が一体何をしたというの?いつになったらこの屋敷から出られるの?
もう大丈夫なのよ?ちゃんと生活できるんだよ?迷惑なんてかけないんだよ?
父さん、何故あの時はっきりと言ってくれなかったの?
姉さん、何故あの時何も言わなかったの?
わたしは何なの?
どうして、どうしてだれも触れてくれないの?
こんなに頑張ってるのに、まだお部屋から出れないの?
お父さん、何ででわたしはだれともおはなししちゃいけないの?
おねえちゃん、なんでわたしと遊んでくれないの?
おかあさん、なんでわたしをうんだの?
わたしは生まれちゃいけないこだったの?いらない子だったの?
いっしょうけんめいかんがえたんだよ。ひとりでかんがえたんだよ。
わかんない。わかんないよ。
なんでおそとにでちゃいけないの?だれかといっしょにおしょくじしちゃいけないの?
おともだちとおべんきょうしちゃいけないの?
どうしてだれもいないの?
どうしてわたしはひとりなの?
わたし、わるいことをしたの?
わるいことをしたから、こんなにさびしいんでしょ?これってばつなんでしょ?
どうしたらゆるしてくれるの?
ねぇ、おしえてよ。わたし、しりたいだけなの。
どうして?
どうして、こうなっちゃったの?
ほんとはなにもしてないんだよね?わたし、わるくなんかないんだよね?
こたえてよ。おねがいだから。

ふらりと身体が揺れた。
私は、泣いているのか。理由が解らない。
虚は瀕死状態になってしまった。この檻の中でも回復には時間が必要だろう。
私には十分な余力があるが、今日は止めよう。数日後に残りを試す。
待ち遠しい。

階級が上がり副長になった頃になると、いくら全力の破壊術をかけてもすっきりしない。
霊力の殆どを出し尽くしても、物足りない。頭の中の渦がなくなる事がない。何故だろう。
…そうなのだ。虚では駄目なのだ。人のかたちではないから、すっきりしないのだ。
だがそれは避けなければならない。知性の高い人をさらうのは危険だ。
必ず誰かが気付き、調査が始まるだろう。そうなれば私自身にもその手は伸びるだろう。
万が一、この事が露呈したなら目標は達成出来なくなる。そんな最悪の事態にしてはならない。
開発した術については全てを確認し終えている。無理にさらう必要はないのだ。
思い付くあらゆる方向は検討したが、これ以上開発出来るとは思えない。
私の能力ではこの辺りが限界か。
実験室を消そう。虚が予想外の行動をするとは思えないが、万全を期す為だ。
そして暫らくは休養し、体調を整える。
そのように決めてしまえは自分でも驚くほど時間を持て余した。
霊力を出来るだけ温存する為に息抜きに行っていた人間界へ渡るのも止めて、部屋の玩具と遊ぶ。
久しぶりに楽しい。昔を思い出す。そうだ、あの頃はこんな毎日だった。
一番のお気に入りはけん玉だ。
木と木が当たる音が心地よく、自在に跳ねる玉がいかにも楽しそうで、全然飽きない。
・・・体内の隅々まで霊力が行き届いている。次の休みに決行する。
こうして遊べるのは後僅かだ。その思いが私を夢中にさせた。自然に声が出てしまう。
何だか、自分の声には聞こえない。こんな声、出せたんだな・・・
─!肩を叩かれた。見られた─!
振り向くと彼がいた。…この遊びも終わりか。少し残念だけど、仕方ない。
だが彼は私の玩具はそのままで良いと言ってくれた。
それどころか、また来ても良いかと言う。
帰り際に笑顔を見せてくれた。とても自然な目で笑ってくれた。瞼に焼き付いて消えてくれない。
もう一度見たい。どうすれば見れるのだろうか。
数日してから彼の部屋に押し掛けた。結局、彼に笑ってもらう方法が解らなかったから。
何か手掛かりが欲しくて、来てしまった。
…とりとめのない雑談をしながら、ある書物が目に止った。
訊くと、彼は料理が出来ると言う。私の味覚が衰えていなければ、彼を喜ばせることが出来る
かもしれない。あの笑顔を見れるかもしれない。
その書物を借り、台所で初めての料理をする。材料を上手く切れない。調味料を間違えてしまう。
それでも味覚は昔のままだったらしい。助かった。

何とか出来た。手の込んだものではないし、材料の切り方は下手だ。でも味はそこそこだと思う。
早速、彼に食べて欲しくて誘ってみる。
快く承諾してくれた。
彼の部屋に持っていき、ちゃぶ台に乗せる。どうだろうか。美味しいと言ってくれるだろうか。
彼は何も言わずに黙々と食べている。私の視線に気付き、美味しいと言ってくれた。
安堵感が心に広がる。─良かった。
彼は素直に私を褒めてくれた。…私を見てくれている。家の名前を気にせず、私だけを見ている。
胸が熱い。もっと見て欲しい。どうすれば見て貰えるのだろうか。
そればかりを考えるようになった。

彼との付き合いは続き、時間と共に胸の熱は高まる一方だった。
ひとりで居る時も考える。彼は今何をしているんだろうか。何を考えているのだろうか。
どうしたら、喜んでもらえるだろうか。…そうだ、人間界に連れていこう。
私の気に入ってる所に行こう。きっと楽しんでもらえる筈だ。
彼の義骸も作らないと。それから、服も用意しなければ。
義骸は自分のものと同じく、人間に限りなく近い構造にした。
技術研究局から盗んでも良いのだが、完全に間違っている構造なのが私としては気に入らない。
顔や厚い胸、太い腕などは作っていて楽しかったが、性器には苦労した。
…色々と想像をかき立てられてしまい、正視するのも難しい。小さすぎるのは失礼だと思うけれど、
大きすぎるのもそれを期待してると思われそうで気が引ける。私としては、やはり満足したいし、
それなりのものはあって欲しい訳で、でもその欲求をそのままカタチにしてしまうのはどうかと思う。
結局、技術研究局の今では使われていない情報を元に、標準の大きさにした。
私の変な意志が入っていない分、納得は出来るか。
機能が正常か調べる為に中に入り、検査もした。
視線が高い。一歩ごとの動きが大きく、違う世界に居る気分になってしまう。いつも使っている道具が
小さく感じられる。彼の手はこんなに大きかったのか。
五感は問題ない。そして、性器である。神経の通り方は標準の筈だが、私自身には付いていない器官だ。
全くの未知の感覚、本来なら知りようがない感覚を試そうと手を添える。
・・・意味があるのだろうか。
私には本当とどれほど違うのかは解らないし、知ってどうなるものでもない。
それに、一方的に彼を辱めるだけではないのか。彼はこの時を知らないけれど、それだけに
余計なことはしたくない。
知的好奇心を断ち切り、義骸から抜け出る。・・・性器の機能に関しては私自身で確かめるのが一番だろう。
そのような雰囲気になれれば良いけれど、・・・そういえば私の義骸も試してない。
彼に確かめてもらおう。それが良い。
とは言え、彼が私を想ってくれているというのが前提である。それを確かめるのはとても困難に思えた。
だが急ぐ必要はない。今は私を見てもらうのが先決だろう。
焦ったら失敗する。今までそうして来た様に、一歩一歩を確実に進めよう。

彼は私の提案を受けてくれた。
規則を破り人間界に私用で来ることに抵抗感はあったようだが、私を信頼してくれた。
嬉しい。出来れば体で表現したいけれど、流石に躊躇われた。
それでも手を繋いでいるだけで笑みが浮かんでしまう。想っている人が傍にいる事が確かめられるだけで
こんなにも心が高揚するものなのか。
「そんなに好きなのか?」
彼は私の顔を覗きながら言った。確かにその通りだけど、そんなのはどうでも良いくらいに、今が楽しい。
「私は、好きですけど」
何が、は言わなかった。その対象は二つだから、そのひとつは口にするにはまだ早すぎるから
言わなかった。
「なら期待するからな」
「楽しいですよ」
楽しい。本当は彼といるだけで十分なのだ。こちらに来る必要は全くなくて、ふたりきりになりたかった
だけだ。目的地に着くまでのこの時が何よりも良いものに思える。
そして目的地に到着し、ふたりで思いっきり楽しんだ、とは言えなかった。
彼は不慣れな乗り物に翻弄されていただけで、楽しかったのは私ひとりだ。
失敗だったかな。嫌われるまではいかないだろうけれど、このような事は繰り返さないようにしないと。
次があれば、心を落ち着ける所に誘おう。
楽しんでもらえる事をしよう。今日は楽しんでもらえなかった。
少量の満足感と沢山の不満足感が体中で争っていて、彼を送り出すこの時になっても
上手く笑顔が作れない。
折角の休日が、こんな終わり方になってしまうのか。嫌だ。何とか、しなきゃ─
突然に視界が暗くなった。
「え、あ」
驚きの声をあげながらその理由を知った。背中の一部と、体の前面が触れているのは。
じわりと温かさが染み入ってくる。昼間に手から伝わる温かさは私の楽しさを倍増させたけれど、
今の半身から得られるそれは、私の心を焦がすだけだった。熱い。熱くて、溶けてしまいそうだ。
このまま溶けてしまったら、どんなに─
と、彼が離れる。熱が冷める、冷めてしまう。
何故、やめてしまうの?
「悪い。今のは、忘れてくれ」
彼はそう言うと背中を見せた。
強引だから、私が嫌がっているだろうから止める。そう考えているのか。
私は、続けて欲しい。強引でも無理やりでも構わない。
「そんなの、無理です」
ちゃんと責任を持って、最後までしてください。その想いを込めて手を握る。強くは握れない。
私の意志を押し付けたくはなかった。彼もそうしてくれたのだから、私も倣うべきだ。
不安げな顔。手はそのままで、私を見詰めている。
数秒に満たない静止、そして彼は体内の欲求に抗えずに私を抱きしめた。
彼の大きさを改めて実感する。逞しい身体、ゆっくりとした呼吸。
お互いの意志を確認する口付けを交わす。
彼はこの場所で始めようとする気配をこれでもかと発していた。私としても嫌ではなかったが、
出来れば寝室で、布団の上でしたい。余計なことを考えず、彼だけを感じたい。
布団を敷く途中でされてしまうのかな、との考えもあったが彼は待ってくれた。
敷き終わると始める切っ掛けをどうしたら良いのか迷う。
真正面から見据えられた状態で抱きつくのはあまりにも恥ずかしい。だからといって、
お願いしますと手をついて言うのも違う気がする。
もう一組敷ながら考えよう。再び押し入れに腕を伸ばす。
─と、彼の手が私の手を包んでいた。
髪に熱い息が被さる。
その後はただただ肌を重ね合った。心そのものを触れられる嬉しさとそれに付随する快楽に私は酔った。
意識が途切れ、自分を失いそうになってしまう。何とか持ちこたえても、間を置かずに
気が遠くなる。この快感に塗り尽くされたら終わりだと自らに言い聞かせ、一方でそうなってしまいたい
と考える自分に従おうとしている。
・・・彼はどう考えているのだろう。
無理をせずに失神して欲しいのだろうか。それとも堪えて交わり続けるのを望んでいるのか。
私は、続けたい。彼の最後まで付き合ってあげたい。
荒い息で何度目かの消滅を必死でやり過ごし、彼の胸に倒れた。
体中の力は消費し切っている。次は耐えられないだろう。耐えられない、というのはどんな感覚なのだろう。
彼は私を優しく布団に寝かせて結合を解き、掛け布団の中で抱きしめてくれた。
今まで生きてきて最も満ち足りているのだろう。特に理由がないのに笑顔になっている。
この時がずっと続いて欲しい。
・・・彼が居なかったら、今頃どうしていただろうか。死んだ赤と燃え盛る赤の中で
笑っているのか、泣いているのか。或いはその両方か。
結局は彼等も私を支えてくれたのだ。その気があれば食事に毒を仕込み、弱らせてから
そういった処理に長けた者を使って仕留める程度の事は出来た筈だ。
当主がそれを実行しなかったのは、私への感情を断ち切れなかったからだろう。姉が来なかったのも、
身の危険を感じればこそだ。もし私でも似たような選択をしてしまうだろう。
治療院に誰も来なかったのは遠まわしな離縁状のつもりだったのだ。それ以来、家の者は誰一人として
私に姿を見せず、気配すらないのがその証拠だ。
・・・責められるものか。
私は、自己満足の為だけに彼等と、全く無関係な周辺住民を死なせようとした。
何て、ひどい女。
実行していないから罪ではないかもしれないが、私は罰を受けるべきだ。そうしなければ自分が許せない。
彼に全部話せば、多分許してくれるだろう。だから話さない。一生胸のわだかまりを抱え、
この幸福感を本物にさせない。偽物の幸福感に私は生きる。
私はひどい女だから、罰を受けなければならない。
これからもずっと彼の傍にいて、心の隙間に目を向けながら生きよう。彼を見てはならない。
最も望むもののすぐ前で立ち止まり、目を逸らし手を伸ばさない。何があっても自分のものにしない。
どんなに欲しくても歯を食いしばり爪が食い込む程に拳を握り、その場に立ち尽くす。
それが私の罰だ。

彼のモノになろう。
何かの物として彼の傍にいられたら、私の望みはその物が消滅しない限り持続する。
偽物の幸せに縛られ続けることが出来る。私にとって最も相応しい終わり方だ。
彼が肌身離さない物とは何か。どうすればそうなれるのか。

二回目の人間界での休日を過ごし、そして次の月の連休。
私は遅めの昼食の後に彼の部屋に行く。彼が誘ってくれなかったら私が呼んでいただろう。
そうなっていたら二人でゆっくりと過ごすつもりだった。特に何をすると決めないで羽を伸ばすだけ
の休日。それでも夜になれば偽者の幸福感を求めているのだろう。
週一回の非番では何も出来ない分、行為が激しくなってしまうのは想像しやすい。
これから彼の部屋に行っても、私が呼んでいた時と同じことをするだけだ。
それでも嬉しくて、頬を染めながら彼に返事をしてしまった。
・・・嬉しいのか。辛いだけではないのか。求めるものにどれだけ近付けても手にしないなら、
それは生き地獄と呼べるだろう。
それでも構わない。私は永遠にそこに居続ける。
ひどい女。もっと罰しなければならない。

彼の部屋に入る。彼は笑顔で招き入れてくれた。
早速、といった感じで鍵をかけて私を後ろから包む。
「おかえり」
違う。私の居場所ではない。こんなにも温かくて心安らぐ所は、私には相応しくない。
違う。違う筈だ。そうでなければならない。
「ただいま、戻りました」
見せ掛けの返事。本心とは掛け離れた言葉だ。どんなに自然な声でも本音ではない。
その筈なのに、そう思わなければならないのが、辛い。
肩越しの口付けを交わし、彼に体を預けた。
彼の口付けは終わらず頬や耳にも届く。腹にあった手は胸と腰を強く撫でている。
その愛撫は服を隔てていて、私が受ける感触は手の動きとは違いとても弱い。
もどかしさに身を捩りながら私は言った。
「もう、するんですか?」
彼は珍しく幼い笑みで言う。
「嫌か?」
明らかに期待が込められた声。稚拙で、それだけに誤魔化せない要望だ。
真っ直ぐに受けてはいけない。それをしないのが私の罰。
「仕方ない人ですね」
彼の頬に手を当てながら二度目の口付け。その間、部屋で動く物体はひとつもなかった。
平穏な静寂と、本物に限りなく似た偽りの幸福だけがあった。
彼が離れ、喜びの表情で私を抱きかかえた。そしてややおどけた声で言う。
「一名様、ご案内ー」
彼は寝室への襖を足で開け、私の目には綺麗に敷かれた布団が写る。彼を見上げると、
照れ笑いしている。つられるように私も胸が高鳴る。
偽物でもこんなに嬉しいなら、本物はどんなに素晴らしいのだろう。
・・・駄目だ。駄目なんだ。
布団に寝かされ、大きな身体が被さってきた。
首筋に柔らかい唇が押し当てられ、片方の手は帯を解き始めている。
もう一つの手は私の肌に触れていて、撫でると脱がすを両立させている。
先ほどのもどかしさが溶け、女としての機能が目覚めていく。
「はぁ・・・ん」
吐き出される息が熱っぽい。私には見えないけれど、肌も染まっているのだろう。
両肩が外気に晒される。上半身の右半分は既に触れられ、腰の左側と左足に彼の目が届く状態。
そして彼は要領よく私を生まれたままの姿に、しなかった。何故だろうか。
身体を起こし、きまりが悪そうに彼は言う。
「その、何だ、脱ぎかけって色っぽいんだよ」
「・・・そうなんですか?」
そんなものなのか。よく解らない。
「お前の身体はきれいだし、何回見ても飽きないんだけど、偶には、こういうのも良いなって思うんだけど」
要するにこのまましたいらしい。彼が望むなら、拒む理由など何処にもない。
それでも、
「しわだらけになってしまいますよ、服が」
「気にするな。俺しか見ないんだから」
私の主張は彼の勝手な都合で却下された。少年のような笑みで言われては、どうにも出来ない。
「・・・本当に、仕方ない人なんですね」
引き寄せ、唇を重ねた。隙ありと彼は私の左膝を持ち上げで胴体を滑り込ませる。
とろりと尻の谷間に秘蜜が伝わるのが解った。
「あ、・・・」
羞恥で顔が一層熱くなる。
始めからそれ程経っていないのに、私の身体は彼を受け入れられるようになっていた。
いつから、こんなにいやらしい身体になってしまったのか。
私の思考を見て取ったのだろう。
「そんなに変なことじゃないぞ。前の休みから、一回もしてないんだから、な」
興奮を高めた彼は下半身を露出させながら言い、力強く膨張した性器が目に入った。
何だか、前よりも大きい気がする。見るほどに秘所の疼きが強くなり、胸の鼓動が早くなってしまう。
・・・欲しい。満たされたい。
「どうした?」
彼の声で我に帰る。
「あの、・・・ええと」
急かすような言葉が出せる筈がなく、だからといって他に適当な言い訳も見つからない。
「…ごめんなさい」
何となく謝ってしまった。早くしたいのは彼も同じだし、邪魔をしてしまったのは悪い事だと思えた。
彼は気にした素振りを見せずに言う。
「いや、俺も見惚れてたから、お互い様だろ」
彼は性器を私の入り口にあてがい、先端を少しだけ入れた。
「ん、あ…」
やはり、大きい。前よりも一回りも二回りも太い、気がする。
たったこれだけなのに圧迫感は強く、一体感も同様に高い。
進入は止っている。見上げると、彼も戸惑っているようだった。
「はぁ、なんか、この間よりも、良いな」
結合部から離れた彼の視線をまともに受けてしまった。興奮に彩られた顔。
どくんと心臓が加速する。何で、こんなになっているのか。
「悪い、待たせたな」
言うと、侵入を再開させた。
「は、…う、んああ…ん」
じりじりと灼けるような快楽がせり上がってくる。目の焦点が合わなくなり、全神経で彼の
性器の動きを追っていた。あと少しで全部入る。奥に届く。
ずん、と急激な白い波に襲われた。
「ゃ!…ああ、ん、は、あ…」
彼は堪え切れず、一気に奥まで突き入れたのだ。その行為が彼自身の昂ぶりを現していて、
訳もわからず私は嬉しくなる。下腹の甘い痺れは尚も持続していて、うまく思考が働かない。
目を閉じて心を落ち着かせる。…良し。
瞼を開く。彼の顔が文字通り目と鼻の先にあった。
恥ずかしさを意識しながら私は言う。
「何、ですか?」
「…入れた直後の顔って、可愛いんだ。どうしても近くで見たかった」
聞く側の私でさえ赤面してしまう言葉。彼はそれにも気付けない程、衝動に駆られていたのか。
濃い視線を送られ、深い口付けをされる。
私の存在を確認するような、ゆったりとした舌の動き。
「ん、・・・んふ、んん、は、ん」
唾液の混ざる音と息が漏れ出す音だけが聞こえ、堪らない気持ちになる。
ひとつになってしまえば後は登りつめるだけ、という安易な予想は外れていた。
私を欲求の捌け口にはしたくないという意思が感じられる。嬉しい。
大きな背中に手を回そうとしたが、叶わない。彼の指が絡まり、布団に押し付けられている。
逃がしてなるものか。そんな心が伝わって来そうだ。
彼の腰が波を打ち始める。私から離れることなく中を撫でてくれている。
口での愛撫も続いていて、頭がどうにかなりそうだ。
「ん、ん・・・ぅん!はああ、ん・・・ん!」
性器による愛撫に、前後の動きが加わった。少しだけ離れて、入れる。ぐるりと撫でて、鈍い衝撃が
背骨を貫く。止まることなく刺激が送られて、息が荒くなってしまう。
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ。口を塞ぐものがない。彼の唇はすぐ傍にあり、何度目かの我侭をかたちにした。
「悪い。・・・我慢、出来ない・・・っ!」
ぐ、と身体を起こして性器を引いた。先端が辛うじて中に残り、終わりの始まりであることを告げる。
心の準備が整う前に最奥まで満たされた。
「うあああ!」
私の艶声が響き終える間もなく引き抜かれ、突き入れられた。
「あ、ん!・・・は!う、・・・あ、うああ、あああ!」
彼の動きに私は翻弄される。ごつごつと脊髄まで届きそうな挿入。彼の表情は恐いくらいに真剣で、
私の全てを欲していた。・・・駄目、だ。何もかも教えては、ならない。
「く、う!ああん!だ、だめぇ!・・・や、ああん!」
「何が、駄目なん、だ?言って、くれないか?」
獣のように激しく交わりながらの会話。・・・言ってしまったら、本物になってしまう。
偽物の幸せで、我慢しなきゃいけない。ひどい女は、罰を受けなきゃいけない。
「ごめん、なさい・・・はぁん!ふ、あああ!」
「う、あ・・・いつでも良いから、はぁ、言ってくれ、よ・・・っ!」
がつんがつんと大きかった揺れが次第に小刻みになっていく。快楽が心の閂を軋ませる。
言ってはいけない。・・・言いたい。言いたい。閂を内側から蹴破ろうとする欲求が際限なく膨らむ。
言えない。聞いて欲しい。
「わ、わたし・・・っ!わた、しっ!」
彼は私を抱きしめ、尚も腰を振るう。彼の耳が口元にあり、どんな小さな声も聞こうとしている。
心から聞きたがっている。言って、しまいたい。
「ごめんなさい、ごめん、なさいっ!きゃ、あああああん!」
何て、ひどい女。あんなにも悪い事をしようとしたのに、自分勝手な都合の為だけに話さないのに、
幸せが欲しい。駄目。本物が欲しい、駄目だ。
彼の背中から手を離さなきゃいけない。でも、離したくはない。ずっとこのままでいたい。
それでも、やめなくちゃいけない。そうすると決めた筈なのに。
・・・快感で頭が回ってくれない。・・・わたしは、どうすれば良いの?
「わた、っ!っ!・・・く、ああああ!」
「く、う!・・・っ!」
野太い咆哮と最も強力な快楽が私を襲う。
彼は私の身体が折れそうな程強く抱きしめ、性器が心臓に届きそうなくらいに腰を突き出して
がくがくと痙攣しながら果てた。
全身を駆け巡る快楽。私は息すら止めて、飲み込まれないように飲み干した。
「ん!…は、んん!」
一息つく度に自分を失いそうになり、身体に再び散った快感に目覚めさせられる。
身体を震わせ、何度も快楽を飲み直しながら私の両腕が彼と同じく背中を引き寄せているのを知った。
それだけではなく、脚が彼の尻に巻きつき、性器をより深い所まで押し込もうとしている。
・・・言えなかった。これで良かった筈だ。
彼は私の中の余韻をも味わおうと重ねた唇から舌を通し、腰をくねらせている。
少しずつ、収まった興奮が盛り上がってしまう。
「ん、あ・・・はふ、っ・・・はぁ」
名残惜しそうに頬に口付けて離れた彼は、とても穏やかな表情だった。
私に静かな視線を落とし、何も言わない。
・・・待っている。私が心の内を開かすのを期待してくれている。
今、言わなかったらどうなってしまうのか。彼の心は離れてしまうのではないのか。
こうして交わる事もなくなるのか。・・・この温もりを手放す。独りに戻る。
嫌だ。それだけは嫌だ。・・・言うな。誓いを破るな。私は許されてはいけない。まだ許す気にはなれない。
─いつになったら、許せるようになるのだろうか。
「無理、させたか。・・・そんな顔するな。悪かった」
自分がどんな表情なのか解らないけれど、彼は優しく頭を撫でてくれている。
いつかは言わなければならないだろう。・・・今は言えない。まだ、言えない。
「・・・ごめんなさい」
私は小声で謝った。何も言わずにはいられなかった。応えられないなら、素直に謝罪するしかない。
彼は微笑んで再び私を抱き締める。何もなかった様な優しい抱擁。
・・・言うべきだったのかもしれない。言わない限り、何かをする度に新たな重荷が増し、
心の壁は厚くなる一方だ。
─それでもいい。それが彼の傍にいられる代償であるなら、いつまでも払い続ける。
この身が潰え心が擦り切れるまで。

ついに私の望みが叶おうとしている。
これで良い。完璧な方法を採り、これ以上はないと断言できる状況で実行出来た。
─その筈なのに、何故こんなに後悔しているのか。
彼はとても辛そうな顔で私を見詰めている。言葉を噛み殺し、その身の衝動を抑えている。
これが、私の望みだったのか。・・・・・・違う。
彼が苦しむ事を全く予想していなかった。考えもしなかった。自分の願望だけを見て、それ以外の
ことは一切排除していた。莫迦だ。最後の最後に気付くとは。
終幕の寸前にこんなにも重い罪を犯してしまった。
それを償う時間はない。方法もない。心が裂けそうな感覚。・・・最悪だ。
ひどい女は最低の女に成り果てた。これこそが神が下した罰だ。避けることは許されない。
本当に、やらなければ良かった。こんな事になるなんて。
強引に彼を眠らせて私だけで始末するべきだった。・・・今更どうすることも出来ない。
このまま消えるしかない。
視界が赤く染まり始める。四肢の感覚が消えていく。時が無くなる。
神様、最後に少しだけ言わせて下さい。
「ずっと、待ってますから」
もし許されるなら私を、──────・・・・・・・・・・・ ・・・ ・・

赤が広がっていた。
どこから始まってどこで終わるのか、焦点が目の前なのか遠く離れた所なのかも解らない。
赤。
この赤から放れることも、近付くことも出来なかった。
最初は身から零れる赤。意志と無関係に触れる物を焼き、制御に苦労した赤だ。
次は心を染めた復讐の赤だ。勝手な思い込みに胸を燃やし、くすんだ赤と輝く赤で私を認めさせようとした。
そして温かい赤。彼の温もりにどれだけ救われただろう。私自身の生き方を見詰め直す切っ掛けであり、
絶対に手に入れないと誓った赤だった。
最後の赤。私の望みが叶った証拠であり、私にとって最悪の結末を招いた赤。
名前が示す通り、赤で埋め尽くされた人生だった。
もう戻れない。解っている。・・・戻りたい。彼にもう一度だけでも抱きしめてもらいたい。
解っている。この終わりを受け入れなければならない。どうあっても覆らないだろう。
それでも最後には、最後なのに私の新しい望みを言ってしまった。
もし私が許されるなら戻れるのだろう。可能性は零ではない程度。
彼が私の研究室に気付き、更にはここから戻る方法を発見する。私ですらその方法の手掛かりは見つからなかった。
・・・あり得ない、か。
不思議と手足の感覚はまだあるが、動かしても見えないし、そもそも立っているのか寝ているのかも解らない。
暑さ寒さを感じない。音や匂いもない。赤いだけの世界だ。
普通の人ならこの赤い世界を不快に思うのだろうけれど、私にはそうは感じない。
──赤。私の根源であり、全てを表す色だから。
何だか眠い。慣れ親しんだ赤に心が拡散していく感覚。さらさらと崩れ、赤と一体化していく。
自分の末期だというのにとても落ち着いている。当然か。今ここには私が係わったあらゆる赤があるから。
ようやく自分を把握したのだろう。感情の起伏さえも支配下にあると言い切れる。
眠ろう。目覚めの可能性は低い、いや殆ど無いだろうけれど、この終わり方なら納得出来る。
・・・そうでもないか。
彼の口から一番聞きたかった言葉が出なかったな。彼は行動で代弁していたけれど、やっぱり聞きたかった。
彼が望まないことをしてしまったのだから、これ位の罰は仕方ないだろう。
私は彼を不幸にした。それが全てだ。弁解のしようが無い、真っ当な結果。
はぁ、あんなに色々やったのにな…空振りだったな。
本当にごめんなさい。

呼ばれた、気がした。
ありえないと確信していた目覚め。意識出来るのはその事実と、暗闇だけだ。
どうして私は消えなかったのか。…違うか。まだ消えていないだけだろう。赤の世界さえも認識出来ない程に私は崩れて
いるのだ。何の拍子で自身を取り戻したのかは不明だけれど、終わりは間近だ。
…ひどく寒い。ぎしぎしと身が削られるような冷気が私を包んでいる。…寒い。
誤魔化そうと仕方なく歩く。進んでも曲がっても止まっても黒一色の景色。
幼い頃に戻った感じがする。懐かしい。独りきりになった最初の夜もこうだった。とにかく寒くて、寂しい夜。
握り締める布団も湧き上がる悲しさもないけれど、死んだような静寂だけは同一だ。
…何も残らなかった。何も残せなかった。それは生きた証拠がない、ということだ。
最低な女にはお似合いだ。間違いない。
…それなのに、どうしてこんなにも心が痛いのか。どうして認めたくないのか。
──こんな筈じゃなかったのに。どうして…こうなってしまったのか。
今更どうにもならない。それを理解しながら、それでも思考を止められない。
もっと早く家の事を捨ててしまえば良かったのか。捨てきれると断言出来るのか。こんなにも悩んで、迷って、
それ程までに大きい存在を無きものと扱える訳がない。…帰りたかった。見て欲しかった。
こんな私を好いてくれる人も居る。きちんと玄関から帰って、別れを告げたかった。父と姉に会って、彼を紹介したかった。
…夢だな。私が壊した夢。恐らくは私の本当の幸せ。
もう戻れない。解っている。…戻りたい。
ふと足元に暖かい外気が触れた。膝を曲げて手探りで確かめてみる。…何だろう、これは。
私ひとりが丁度納まるくらいの範囲が暖かい。堪らずその狭い空間に身を横たえた。
これも懐かしい。彼と初めて交わった後の布団もこうだった。
…もう、あんな幸せは戻らない。
すぐにその熱は私によって奪われて、凍りそうな床と身を包む冷気がより確かに感じられるようになる。
横になっているのが辛く、私は立った。
胡坐をかいて俯いている彼が目の前に居た。…幻、だ。こんなものを私の心は作ってしまったのか。
消える寸前の悪あがきだろう。それでも会えた事には変わりなく、嬉しい。
暗くなる意識を感じながら彼の名前を呼んだ。
律儀に反応してくれた。残念ながら笑顔ではなかったけれど、私を見てくれている。
身体に力が入らなくなって、彼に向かって倒れてしまう。どさり、と受け止められる感触まであった。
たとえ幻でも彼に会えて、この広い胸の中で終われるなら文句などない。
良かった…ああ、そうだ。最後にお礼を言わないと。
ありがとうございました。

冷たい。…眩しい。
これが魂の戻るところなのだろうか。輝きながら波打つ白い闇、頬を滑る冷たい風。さわさわと木の葉が揺れる、音…?
眩しさは一層厳しくなって、たまらず目を隠す。…隠す?
何で、そんな事が、出来るのか。そんな事が解るのか。
意識が鮮明になるにつれて、混乱も大きくなってしまう。
終わったのではないのか。消えてしまった筈だ。…私は。
光を遮る手は温かく、頬を撫でる風は心地よく、…これも、幻なのだろうか。
手を退かして差し込む光に耐えながら目を開けた。全く見知らぬ天井。左には初めて見る絵柄の押入れ。
右に目を移すと、彼が胡坐をして腕を組んだまま俯いている。ゆっくりと上下する肩。静かな呼吸。眠っているらしい。
…本物、なのだろうか。
身体を起こして、その時になって布団で寝ていたのに気がついた。服も着せられている。
そんな事よりも彼だ。身を乗り出して顔を隅々まで観察した。
無精髭が生えている。口は僅かに開いていて、頬の筋肉が緊張しているようには見えない。
髪はぼさぼさだ。きっと自分で切っているのだろう。長くはないけれど、清潔だと評するには程遠いか。
全体的に私の記憶にある頃よりも、やや老けた感がある。それでも十分に若いと言えるだろう。
手を伸ばしかけて、止める。…触れられない。もし幻だったら、触れた途端に消えてしまいそうで怖い。
本物ではないとしてもずっとこうしていたい。
すると、僅かに瞼が震えてそろそろと目が開いた。
視線がぴたりと一致した。幻。本物なんかじゃない。…本物ではいけないのか。
瞳が揺れている。段々と、濡れていく。口元も変化し、いつか見た子供じみた笑顔になった。
…本物。これが偽物なら、何が本物なのだろうか。
確かめたくて何かを言おうとしたけれど、言葉が見つからない。何か言わなくちゃ…
「おはよう」
彼が言った。確かに聞こえた。私も何か、言わないと…
優しく手を握られた。大きくて、温かい手だ。血液の流れを感じる。僅かな震えもある。
偽物じゃない。
「悪い、おかえり、だったな」
ぐい、と抱きしめられた。
彼の匂いと存在が胸に満ちる。…本物だ。
ようやく、声が出せた。
「わた、し?」
許されても良いのだろうか。本物を手にしても良いのだろうか。
今度こそは彼と向き合っても良いのだろうか。
彼の腕に力が込められた。優しく、それでいて力強い抱擁だ。何があっても離さないという意思。
私は、戻って来れたのだ。
「約束してくれ。もう、勝手に消えるな。ずっと、ここに居ろ。良いな?」
不安そうな声で、私に同意を求めている。…怖いのだ。
怖いのは私も一緒だ。これから全てを話すのだから。
合わせられた胸を離し、正座して彼を正面から見つめる。
「聞いて下さい。ひどい女、なんですよ?」
私は今までの事を一切省かずに話した。私の身に起こった事。考えた事。しようとしていた事。
言葉を重ねるごとに自分の身勝手さを思い知らされた。怖い。彼は許してくれるのだろうか。
真剣な表情で彼は聞いている。 ひとつも口を挟まずに、ただただ聞いてくれている。
私の震えはますますひどくなっていく。どんなに強く手を握っても治まってくれない。
とてもではないが許される気がしない。私は、この人の傍にいられないのか。
「…本当に、良いのですか?」
訊ねずにはいられない。私に対する評価は確実に変化した筈だ。彼の好いていた私とたった今形成された私とでは
天と地程の違いがあるだろう。思い込みが激しく自分の欲求のみ追い求めるひどい女。
彼の顔を正視出来ない。きっと、愕然としているだろう。
「・・・お前は」
逃げたい。これ以上は聞きたくない。偽物の幸せで満足するべきだった。
私には本当の幸せはないのだ。何故、求めてしまったのか。
「悪くなんかないだろ」
・・・何を、言うんですか。
「誰もお前を責める事はしなかっただろう。誰も傷つけなかったから、誰も責めないんだ」
嘘です。私は、貴方を傷つけた。
「俺だってお前を責めないぞ。こうして助けられたのも、お前のお陰だ。・・・俺を傷つけたと思ってるなら間違いだ。
 だから、」
両手で顎を持ち上げられた。目に映ったのは、涙をたたえた笑顔。
「好きなだけ俺を見てもいいんだぞ。気が済むまで傍に居てもいいんだぞ。もう、我慢しなくてもいいんだぞ」
本当なのだろうか。私は、我慢しなくても良いのだろうか。
「言葉、だと解りにくいか?」
再度抱きしめてくれた。鼓動がはっきりと感じられる。
私と彼を隔てるものはない。遂に、なくなったのだ。・・・そうか。これが、本当に嬉しいという感情だ。
視界が歪んで、次の瞬間にはぼやけてしまって何も見えない。
あるのはきれいに輝く白い波。──私の新しい色だ。本当にきれいだと思う。
私一人の中に置いておくのは勿体無い。彼だけじゃなくて、出来る限り多くの人に分けてあげよう。
周りの人たちを幸せにして、時々でいいから彼に甘えさせてもらう。
これが私にとっての幸せ。いつまで続けられるか解らないけれど、この道をまっすぐ歩こう。彼がいる限り間違うこともない。
今まで色々あった。無駄な事なんてひとつもなかった。辛い事も苦しい事もあったから、私はここにいる。
──歩こう。彼と一緒にどこまでも歩こう。
止まってなんかいられない。

終





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