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うまれおちる |
不意に生まれた感情が何かなど、その時は分からなかった。 ベルリバティスクール、通称BL学園の修学旅行。人数が少ないこと、大会等で参加できない生徒が多いことを理由に毎年全学年を対象に行われるそれは、今年はずいぶんと参加人数が多いようだった。 南の島でのバカンス、豪華客船貸し切りとあっては、それも当然だと丹羽が笑っていたが、七条にはそんなものだろうかという程度の感想しか持てない。 ただ、ゆったりと進む客船は鈴菱所有のものというだけあって確かに乗り心地は良く、七条と西園寺は自分たちのペースで船旅を充分満喫していた。 招かれざる客がやって来るまでは。 「…岩井?」 船酔いした生徒達の看病の為、海野に篠宮が連れ出され。 成瀬と滝が、退屈した丹羽にバスケをしようと強引に連れて行かれ。 更にぎこちない笑顔の伊藤と遠藤がそそくさと場を去ってすぐ、中嶋が独り言のように、けれどあからさまに七条に対して嫌味を言い放った。当然それを受け流すことはせず、西園寺が止めないのをいいことに七条も応戦する。 「…岩井」 けれど、お互い小手調べのようなそれが本格化する前に、中嶋が不意に意識を逸らす。 その一瞬に七条の中に浮かんだのは、『悔しい』という感情だった。 何に対して。…誰に対して?自分の中に沸き上がったそれに思わず困惑し、自問する。 降り注ぐ陽光をフレームに反射させ、真っ直ぐに七条を見据えていた中嶋の視線が、今はぼんやりと立ち尽くす岩井へと向けられている。 人とあまり積極的に接しようとしない岩井ではあっても、常であれば返事はする、その応えがないことに七条が気づいた時には、小さく舌打ちした中嶋がそちらに歩み寄った。 「…おい」 「え…」 腕を取られ、初めて目が覚めたような表情で瞬きする岩井に溜め息をついた中嶋が、そのまま歩き出す。彼の腕を掴んだまま。そして、たった数瞬前まで舌戦を繰り広げていたはずの七条には目もくれず。 「全く。自分の体調くらい自分で管理したらどうだ」 「あ…すまない」 「自覚はあるのか?」 「いや…そんなに悪いとは思ってないんだが…」 「後で篠宮に文句を言われるのはこっちなんだ。いいからどこかで休め」 廊下に通じる扉が閉まれば、後に残るは七条と、変わらずに読書を続ける西園寺のみ。 彼との間に生まれる沈黙は心地良いもののはずが、今は妙に居たたまれない気がして、七条はそろそろと溜め息をつく。 「…全く。あの人は勝手ですね。悪意をぶつけてきたかと思えば収拾もせずに去るなんて」 「そうだな」 「…珍しいですね」 「何がだ?」 「郁がそういう形で僕に同意するなんて」 「同意して欲しかったんだろう?」 「……」 「それと、勝手だが、気遣いはできるようだ」 さすがあの丹羽をサポートし続けているだけはあるな、と大して面白くもなさそうに呟く西園寺に仕方なく肯定の意を返すことにする。 「…そうですね」 元々あまり周囲に頓着しない西園寺と、その西園寺以外のことにはあまり頓着しない七条。だからといって、その体調の悪化に気づくことができなかった事実に後悔は残る。 先ほど心配した篠宮にはもう少し風に当たると言っていた岩井だったが、強さを増す日差しに体力を奪われ始めていたのだろう。 たとえ岩井本人が自覚していなかったとはいえ、よりにもよって、彼より先に気づけなかったなどと。…ああそうか、だから『悔しかった』のかと。 意識する前に、先ほどより確かな溜め息が零れ出て。 西園寺が初めて本から視線を上げ、問うように見つめてくるのに気づき、笑みを返した七条は、一度自分の部屋に戻る了承を彼から得ることにした。 「あれ…七条さん?」 廊下に入ったところで飲み物を持った伊藤と遠藤に出くわし、そういえば彼らが皆の希望を聞いて使いに出ていたことを思い出す。 それすら忘れていたことに内心苦笑しながら、七条は笑みを浮かべた。 「お使い、ありがとうございました。伊藤くん、遠藤くん」 「いえ、気にしないで下さい。俺たちも何か飲みたかっただけだし」 「七条さん…どこかに行くんですか?」 トレイを手に首を傾げる遠藤にも少し笑いかけ、通路の先を視線で示す。 「ええ。一度、部屋に戻ろうかと思いまして」 「あ…じゃあこれ、どうします?」 二人が少し困ったように見下ろすのは、先ほど自分が注文したアイスティー。 「僕は部屋で戴くことにします。郁はまだ読書していますので、持って行ってあげてもらえますか?」 「もちろんです!」 笑顔で答える伊藤の朗らかさに、遠藤と共に少し笑ってから、七条はグラスを受け取ろうと手を伸ばした。 が、その前に、まるで示し合わせたように彼らは各々のグラスを片方のトレイに移動させてしまい、そうしてから遠藤がトレイごと差し出す。 「どうぞ、七条さん」 そうまでさせては申し訳ない、とは思ったものの、にこにことこちらを見遣る二人の好意を受け取る方が賢明と判断し、七条はまた笑みを浮かべた。 「ありがとうございます。これは後で返却しておきますね」 「もし良ければ後で七条さんの部屋に寄りますよ?」 「いいえ、そこまで君たちのお世話になる訳にはいきませんから」 「わかりました。じゃあ俺たちも行こうか、啓太」 「うん。……あ、七条さん」 「はい、なんでしょう」 「岩井さん…やっぱり直射日光は良くなかったみたいですね…」 しょんぼり、と絵に描いたように落ち込んだ様子の伊藤に、僅かに慌てた口調でその名を呼びかけた遠藤も押し黙る。 トレイに残った四人分の飲み物から、途中で中嶋と岩井に逢ったのだろうことは最初から分かっていた。分かっていても、その話題を出されると、さすがに七条も黙らずにはいられない。 おそらく、遠藤の動揺はどちらかと言えば、七条と中嶋が一緒になれば何も起こらず済む訳になく、伊藤がわざわざ中嶋を連想させる話題を七条に振ったという事実に対してだろうから、聡い彼の気遣いには逆に苦笑したい気持ちになるけれど。 「…そうですね。ただ、本人にはあまり自覚症状はないようでしたし、少し休めば元気になるでしょう」 ね、と七条が隣の遠藤を見遣れば、はっと気づいた様子で彼は伊藤に歩み寄る。 「そうだよ啓太。しっかり自分で歩いてたし、飲み物も要らないとは言わなかっただろ?大丈夫だよ」 「…うん」 「心配なら、この後行ってみればいいんだし。な?」 「うん、そうだな」 ようやく笑顔になった伊藤と、明らかにほっとしてよく似た笑顔になる遠藤を見て微笑ましく思いつつ、何故かまたも溜め息をつきたい気分になる自分を持て余し、七条は困惑の吐息を密かにこぼした。 はっ、と自分が息を飲んだのに気づいて初めて、七条は同時に歩みを止めていたことにも気づく。 その視線の先、部屋の前には中嶋がいた。 「…遅い」 どうして、と心に浮かんだ疑問符を形にする前に、低い声が、責めるように、けれどどこか楽しげな色を含んで、廊下を這う。 「…あなたに遅いと誹られる謂われは僕にはありませんが」 少し離れた場所に立ち止まったまま、殊更突き放す口調で応えれば、確かにその口元には笑みが浮かび。 「そうか。熱い視線を感じたと思ったのは俺の錯覚か」 「誰の、何ですって?」 「…お前、見てただろう?…俺を」 あのとき、と囁く低い声は、毒のように静かに忍び寄り、七条を黙らせるには充分な力を持っていた。 ふと、グラスを伝い落ちる滴に目を奪われる。壁に寄りかかり、身体の横に下げた中嶋の左手には、空になった…いや、氷だけが残ったグラス。 玻璃の表面、長い指先の辺りから流れた滴が、色の濃くなる底で一度留まってから床に落ち。 ぽたり、という、聞こえるはずのない音まで聴覚が拾った気がして、七条は小さく頭を振った。 そんな仕草をどう取ったのか、中嶋はまたひとり忍び笑う。ある意味珍しいそれを見ているうちに、苦笑に近いものではあっても、七条の面にもまた笑みが浮かんで。 「いいから開けろ。ここは暑い」 「…全く…本当に勝手な人ですね」 「鍵はどこだ」 ゆっくりと歩み寄った七条がトレイを両手で持ったまま、つまり自分では部屋を開ける気がないのを見て取ると、中嶋が問う。 さあ、と表情で応え、僅かに肩を竦めるとほぼ同時に、左胸に軽く押し当てられる、右の手のひら。 「…どうして分かったんですか?」 「…さあな」 形の良い指が流れるような動きで胸ポケットから鍵を取り出し、自分の部屋の扉を開けるのを、眺めながら。七条の唇から漏れ出た溜め息は、それまでとは少し質の違うものだった。 「……ん…」 扉が閉まった途端に押しつけられた熱。これで何度目だっただろうと、七条はぼんやり思う。 手にしたトレイが、飲み物の入ったグラスが気になるせいだけでなく、拒絶することのできない行為。そして相手。 潜り込んできた舌はゆるゆると、煽るような、焦らすような動きを繰り返すばかりで、七条の手にいたずらに力を篭めさせる。 「…は……」 激しくはなくとも長いキスに乱された息をつくと、トレイを取り上げられた。 意外なほど丁寧に、中嶋は手近な場所に荷物をおろすのだと、その所作をただ見つめれば、振り返ったその瞳が射抜く強さで見据えてくる。 震えそうになる背筋を悟られたくなくて、真っ直ぐに視線を返す。そうすれば、楽しげに、僅かに細められた瞳は、レンズ越しにもはっきりと分かる程に情欲の色を湛える。 伸びてきた腕に抱き寄せられるのかと身を硬くした途端、予想に反して扉に押し付けられた。 「ん…っ……う…」 下から掬い上げるようなキスは、望んだ強さで、望んだ熱さで、七条の意識を撹乱する。 「…っ…」 そこで七条は我に返り、咄嗟に両腕を突っ張った。 望んだ、なんて。そんなことがある訳ない、と力を篭めて目の前の男を睨む。 「…どうした」 「一体、あなたは何をしたいんですか?」 「何を、とは?いちいち説明されなければ分からないほどお子様だったか?」 「そういうことではありません」 何がしたいんですか、ともう一度問えば、突き放した分だけ離れた位置で、中嶋は小さく笑った。 「…意外だな」 「質問に、答えてください」 「答える義理などないと言ったら?」 「な…」 こんなことをしておいて、とそれこそ性格の悪いこの相手につけ込まれてしまいそうな思考だと自覚した瞬間に、近づいた瞳に覗き込まれて。 「…気紛れだと言ったら?」 いつの間にかすりかわった、酷薄な笑みと。 「誰にでもしていることだから、気にするなと。そう言えば満足か?」 続く言葉が、七条の息を止めさせる。 「…それとも、…そうだな」 …お前だけだ、七条。こっちの方がお好みか…? 抱き込まれ耳元に囁かれるのを突き放そうとして、七条にはそれがもうできなかった。 「…う……」 顎を捕らえられ、有無を言わせず荒々しいキスに巻き込まれて。 結局、どれも彼の本心ではないのだろうに、唯一の武器である言葉を封じられては問い質すことすらできないのだと、七条は細く息を吐いた。 元々、本心を晒すことなどしない相手だとは思う。そして、自分自身も、本当の想いがどこにあって何を望むかが分からないでいる。 それであれば、いっそ、与えられるものについてのみ、考えていれば。 決して彼の思惑通りに動くのではなく。突きつけられたものだけを見て、聞いて、考えて。攻撃して、攻撃されて、遠慮のない会話の応酬は確かにどこか心地良い。いつの間にか、心地良いのは確かだからと、今なら思える。 「……っ…」 一度解放されていた唇がまたすぐに塞がれる。剥き出しの器官が触れ合う感覚は、相手に施されるものであれば、知っているものとは違う感覚を植えつけて。 ただ、咄嗟に掴んだ中嶋のシャツの胸元に硬いものがあり、七条はそこではっとした。船室の鍵。同じ場所にしまわれた、同じ鍵。 途端に腕から力が抜け、何故か、笑みが零れた。それを見た中嶋が、うなじを支える左手に更に力を篭めたのは気のせいではないはず。 少なくとも、気のせいではないと自分が感じるのは確かだと、そんなことをぼんやり考えながら、七条は与えられる感覚にのみ、意識を委ねていった。 はあ、と七条が溜め息をつくと、指に火のついていない煙草を挟んだ中嶋が、目線で問うてきた。 「なんだ」 「…喉が渇きました」 「俺もだ」 「あなたのせいですよ。アイスティーを飲みながらゆっくり休もうと思っていたのに」 「飲めばいいだろう」 「あなたがあれを飲むなら考えてみてもいいですけれど」 「あいにく紅茶は好みでないんでな」 「全く誰のせいで氷が融けきったと…」 寝返りを打ってもう一度溜め息をつくと、沈黙が落ちた。微かに動いた空気で中嶋が笑ったらしいことを知り、七条は、更にわざと息を吐き出す。 本当に、もう何度目だろうと思う。身体を重ねるのも、敵意だけではない会話を交わすのも。 七条が断固として拒否したからといって、彼が本当に煙草を吸わないままでいることも意外だった。吸いたいならば、自分の部屋にでもどこへでも行って、吸えばいいのに、と七条は思う。 そう思いながらも、指で煙草を弄ぶ中嶋が、少なからず何かを我慢して側にいるという事実が、不意に胸の奥をざわめかせる。その感覚は多分、心地良くて。…そう、確かに心地良くて。 「…何を考えている」 「…いえ別に」 「その割にはぼんやりしてたようだが」 顔の見えない中嶋は、何故か今、自分から何かを聞き出したいのだと声の質から気づき、七条は全く別の言葉を口にする。 「…どうしてだろうと」 「さっきの続きか?」 「……」 「しつこいと嫌われるぞ」 「誰に?あなたは僕のことが嫌いでしょう?」 「そうだな。お前も俺のことが嫌いだろう」 「ええ」 即答すれば、喉の奥で笑ったらしい低い声。それが治まる前に、指先が触れてきて、七条の身体は思わず強張った。 「だが…お前はもう、俺にこうされたいと願ってしまっているだろう…?」 「そんなこと、」 「本当に…?」 「…違うと言っても、信じないのでしょう?」 「まあな」 「本当に勝手な人ですね。したがるのはあなたの方でしょうに…」 「どっちもどっちなんだろう。女王様が言うには俺たちは似たもの同士だそうだからな」 「……」 「どうした?認めるのか?」 「いいえ。単に僕たちが何かを言い争って終わる訳がないからです」 「…違いない」 今度こそ笑い出した中嶋の腕に促され、七条は身を起こす。 重なる熱を無意識に押し返そうとした結果か、当然のようにそれを無視した相手の動きのせいか、いつの間にか、右の手のひらの下に、拍動がある。 とくとくと、少し早い脈を刻む鼓動。直接伝わるそれに、七条の面には再び笑みが浮かぶ。 不意に胸に生まれ落ちた様々な感情が何か、なんて。 その時は分からなかった。今も、分からない。分かりたくない。――今はまだ。 何に対して。誰に対して?自分の中に沸き上がったそれらに困惑し、自問する。そんな日々も、きっともうすぐ終わる。そんな気がするから。 |
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