ガリト・チャイトは1975年1月29日にイスラエルの
中部の町クファルサバで生まれました。ガリトが9ヶ月のときに彼女の両親ボリスと
アイリーン(イリーナ)は彼女を連れてアメリカ合衆国の
ニュージャージー州パラマスに移住、そこでガリトは成長します。
8歳のときに両親にニューヨークのロックフェラーセンターのリンクに連れて行かれたガリトは、
スケートをすることの楽しさを知り、チェルシーピアズのスカイリンクで
本格的なトレーニングを始めます。
最初は女子シングルの選手としてアメリカの大会に出場していましたが、
その7年後、父親ボリスの組織したスポーツキャンプに同行してロシアに行き、
そこで出会ったロシア人の名コーチナタリア・デュボワに勧められ、アイスダンスに転向します。
ロシア人のマキシム・セヴォスティアノフと初めてのアイスダンスカップルを組んだガリトは、
デュボワにアイスダンスを習います。
その後ガリトはアメリカのデラウェア大学に進学し、大学のスケートクラブに所属。
アメリカ国内選手権に出場し、93年には12位、94年には6位になりました。
また94年にはイスラエルを代表して幕張で行われた世界選手権にも出場しますが、
フリーダンスには進むことはできず、総合28位の結果に終わります。
セルゲイ・サフノフスキーは1975年5月15日にロシア(当時はソ連)の首都モスクワで
生まれました。 4歳のときにスケートを始めた彼は最初は男子シングルでやっていましたが、
8歳のときにアイスダンスに転向、マリナ・アニシナなどの数々のスケーターと
カップルを組みます。エカテリーナ・スヴィリナとはロシア代表でジュニア世界選手権に出場。
1993年には1位、1994年には2位になりますが、
その後、スヴィリナがフィギュアスケートを止めてしまいます。
1994年にガリトとセルゲイは友人を介してを紹介され、アイスダンスのカップルを
組むことを決意し、イスラエルのメトゥーラをホームタウンとして、
最初はロシアで、その次にアメリカ合衆国でトレーニングを積みます。
95年にはサフノフスキーもイスラエル国籍を取得。
95−96年シーズンから国際大会に出場し始め、96年のイスラエル国内選手権に優勝(その後も
99年の大会を除いて、国内選手権には毎年出場し優勝しています)、同年の世界選手権にも
イスラエル代表で出場して23位になりました。その後、彼らは段々と力をつけ、毎年
順位を上げていきます。長野オリンピックにもイスラエル代表の初のアイスダンス選手として
出場し、14位になりました。
99−00シーズンからコーチをナタリア・リニチュクから、アメリカで
数々の選手を教えているロシア出身のタチアナ・タラソワに変更。
00年の世界選手権では前年の13位から大きく飛躍して5位となります。
その後もアイスダンスのトップ選手の一つとして数々の大会で活躍。
01−02シーズンにはコンパルソリーを習うためにナタリア・デュボワにコーチを変更します。
02年のソルトレイクオリンピックにも出場し、ガリトは開会式でイスラエルの旗手をつとめ、
競技でも6位入賞を果たします。そして同年の長野で行われた世界選手権では銅メダルを獲得。
イスラエル初のメダリストとなります。
このシーズンのフリープログラムは衣装はダビデの星をあしらったもので、
曲もユダヤ民謡のメドレーでした。ガリトは後にこのシーズンのフリープログラムの曲、
特に「Shalom Alechem」は自分たちに大きな意義があったと話していたそうです。
02−03シーズンからはコーチを、リレハンメルオリンピックと長野オリンピックでの
アイスダンスの金メダリストエフゲニー・プラトフに変更し、
そして2003年世界選手権終了後はタラソワ−ウソワチームと合流。今現在は
主にマイヤ・ウソワとエフゲニー・プラトフに練習を見てもらっているようです。
ちなみに二人はアマ引退した後はプロになり、そして後にはコーチになって未来の
チャンピオンを育てたいと語っていて、
特にガリトはスケートリンクを経営して、子供達にスケートを教えるためのクラブを作ることが
夢だそうです。
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