「寄りたいところというのは……これか?」
「あっ、あれ? 確かにここのはず、なんだけど……」
しきりに目をしばたたくブルマと怪訝そうに腕組みするベジータの前にあったのは、林立するビル群の合間で申し訳なさそうに佇む、萎びた洋風の建物だった。退色した外壁タイルは風雨にさらされところどころはがれ落ち、周囲のメカニカルなモダンさと相対するような古めかしいこの洋館はもともと劇場だったのだろう。ぐるりを囲むアーチには、かつては華やかな役者達で鮮やかに通りを飾ったはずの宣伝用ポスターが色褪せるままになっており、建物のみすぼらしさを一層際立たせていた。
「間違いないわ、ここ、歌劇場だったのよ。まあぁ、二十年近くの間に随分変わっちゃったのねえ」
ブルマの幼い頃の記憶ではこの辺り一帯は緑も多く、コンサートホールやオペラハウス、映画館や洒落たレストランが立ち並ぶ賑やかで楽しい場所だった。月日は経ち、今では当時辺りを賑わせた観劇帰りの家族連れや恋人達の着飾った姿はすっかり消え失せ、無言のオフィスビルと忙しく駆け回るビジネスマンや車の列にとって変わられている。残念そうに肩を落とす彼女に、ベジータは慰めの言葉を掛けるでもなく無関心に言い放った。
「おい、気が済んだろう。さっさと戻──」とその時、背後から二人を呼び止める者がいた。
今日はやたらと口を挟まれる日だ──ベジータが憤慨しつつ振り返ると、そこには小柄な彼よりもひと回り小さく、頬に温和そうな皺を携えた初老の男が立っていた。
「君、もしかしてカプセルコーポレーションのお嬢さんかい?」
「え?」二人は思わず顔を見合わせた。「ええ、そうですけど……」
知り合いか? と訝しむベジータの視線に、ブルマも小首をかしげる。
「やっぱりそうか、声でわかったよ! お父さん達は元気にしてるかね?」
「父をご存知なんですか?」
「ああ、失礼……君はまだ小さかったから覚えてないだろうね」男性は一つ咳払いをすると、懐かしげに目を細めた。「昔、ご両親と何度かこのホールに来てくれてただろう? 私はあの頃からずっとここの管理人をやっていたんだよ」
まあ、と息を弾ませた彼女の頭にぼんやりとした古い記憶が蘇る。閉幕後、父親の背中越しに見た優しい笑顔の男性──。何かを思い出したような妻の顔に、ベジータはとりあえず、一歩下がった位置から成り行きを見守ることにした。
「いやまったく、あの頃のお嬢ちゃんがすっかり大きくなったねえ。えーと、名前は……パ、パンツちゃんだったかね?」
「ブルマよ!」
ブルマは思わずカッと顔を赤くする。と同時にフッと吹き出す声に反応し横目でベジータを見て、彼が笑いを堪えている姿に驚いた──百面相にレパートリーを追加しなくては。
彼女の視線に合わせ、男の視線も動いた。
「そちらは旦那さんかね?」
「ええ、まあ……ほらベジータ!」
ブルマが肘でつつくと、彼はしぶしぶ、よく見ていなければわからないくらい小さく会釈した。
ベジータが大人しくしているのをいいことに、ブルマと管理人はしばし昔語りに興じていた。西の空はすでに夕焼けに染まっている。くたびれた劇場は、哀愁を帯びた橙色を浴びて寂しさをより深めていた。
「でも何十年も昔の話なのに、よく覚えていて下さったのね」
「そりゃあお得意様だったからね、君が生まれる前からよくお二人でいらっしゃったものだよ」
「そうだったの? 父さん達ったら、そんな話はじめて聞いたわ」
若かりし両親の仲睦まじい姿を想像して──今でも相変わらずだが──何だかむずがゆいような照れ臭いような心持ちになった彼女の頬を、先程とは違う経路を辿った桜色が染めた。
「それにしても……」ブルマは熱くなった顔を隠そうと、日差しを背にして劇場を振り返った。「取り壊しだなんて、ちっとも知らなかったわ」
「五年前にここのオーナーが亡くなってね……その頃にはもうこの辺りはすっかりビジネス街になっていて、経営も上手くはいっていなかったんだ。それで一緒に閉鎖ということになったのさ」男は二、三歩進み出ると、指先で色褪せたポスターのふちをそっと撫でた。「せめて建物だけは残しておいてやりたかったが……」
「それなら、うちが資金を──」
ブルマの唐突な申し出を、男は首を振って断った。
「これも時代の流れというものだよ。世の中には面白いものが沢山あるからね。観劇はもう流行らない時代なのさ。でもね……」男は顔を上げてブルマを真直ぐに見つめ、悲しさなど微塵も見せずに微笑んだ。あの頃からずっと微笑み続けていたかのような柔和な笑い皺。「こうやって、君のようにこのホールを……ここで見て、感じたことを覚えていてくれる人がいれば充分さ」
「おじさん……」
「最後に懐かしいお客さんが来てくれて、こいつもきっと喜んでいるよ」
悲愴さのない笑顔の上で、男の深い皺にそって描かれた濃い影だけが唯一物寂しさを語っていた。
管理人はチラと腕時計を見て言った。
「それじゃ、私はそろそろ帰るけど……良かったら中を見ていくかい? 来週になればここももう無くなってしまうから」
「え、いいんですか?」
といっても座席も取り払われて舞台しかないけれど、と男は静かに微笑む。
「おい、ブルマ! 約束が違うぞ」
黙って二人の会話を聞いていたベジータは、とうとう苛立ちが押さえられずに口を挟んだ。しかし彼女の興奮した瞳を見れば、止められそうもないことは明らかだ。
「お願い、ちょっとだけよ!」
いったいこいつの『ちょっと』はどれだけ長いのか──ベジータは諦観の溜息をついた。
ブルマは管理人に礼を言うと、渋るベジータの手を引いていそいそと劇場の扉をくぐった。
◆
建物内部は外観より一層様変わりをしていた。装飾品が全て取り払われ出演者や観客もいないホールは広いばかりで、閑散として何一つ見るものもない。それでもブルマは懐かしさに舞台まで駆け寄ると、うっすらと埃のつもった床にふっと息を吹き掛け、現れた木目にそっと指先をよせた。
「懐かしいわ……小さい頃、母さん達に連れられてここでよくバレエを見たのよ」
閉鎖されて久しいとはいえそこはオーケストラのためのホールだ。表の喧噪が嘘のように静まり返った館内に、波紋のようにブルマの声が響き渡った。
「バレエとはなんだ?」
後からやってきたベジータが彼女の背中に訪ねる。
「簡単に言えば舞踊のこと。音楽にのって役者さん達が物語を踊るのよ。あんたの居た星ではそういうのなかったの?」
そんなものはない、と素っ気ない返事がかえってくる。
「まあ、私も観劇の後のお食事が目当てだったんだけどね。でも……」彼女は小さな掛け声とともに舞台によじ登り、観客の一人しかいない客席に向かって静かに瞼を閉じた。「一つだけ印象に残っている話があるの」
腕組みをしたまま黙って耳を傾ける彼の視線を感じつつ、瞼の裏側で次第にあらわになる思い出の輪郭を丁寧に拾い上げながら、ブルマは語り続けた。
「心を持たない人形が恋する物語。最初は人形そのもののぎこちない踊りしか出来なかった一体の操り人形がね、恋をして、その恋を失って……最終幕で人形遣いが操っていた糸を切ってポーンと跳ねるのよ」
舞台の中央で両手を広げ、飛ぶ真似をして見せる。ドスッと不格好な着地音とともに舞台に白い埃が舞った。
「全然飛んでないぞ」
思わず顔をしかめて咳き込むブルマに、ベジータの言葉が追い討ちをかける。
「あ、当たり前よ、私はダンサーじゃないんだから。とにかくその役者さんは高く高く跳ねるの! まるでそのままどこか遠くに飛んでいってしまうんじゃないかってほど」
「飛ぶくらいオレでも出来る」
いちいち無粋な突っ込みをいれる夫に、彼女は息を荒げて反論した。
「だからぁ、普通の地球人は飛べないんだってば! でもその人は本当に空中に停止してるみたいだったのよ。体重がないんじゃないかって思ったわ。男の人だったんだけど、すごく綺麗だった……」
再び想い出の世界に身を寄せ、脳裏に浮かぶ役者にベジータの姿を重ねる。何て美しい身体だろう。ブルマはうっとりと目を閉じ──
「ふん、くだらん」
一向に興味のわかない話に辟易したのか、現実世界のベジータはくるりと背を向け階段状の客席を上り始めた。
「まったく、もう」
格闘マニアの情操面を期待した私がバカだったわ──ブルマの大きな溜息がベジータの後ろ姿を追いかけた。それが聞こえたのか、彼はことさら無視を決め込んでホールの正面扉に向かってふわっと飛び立とうとする。
その態度に憤慨した彼女の頭に、突如として昼間のチチとの会話が思い出された。
(思い出したわ。私もあいつに「愛してる」って言ったことがなかった……)
唇の端に少女のような笑みが浮かぶ。ブルマは腰にあてていた両手をメガホンにすると、大きく息を吸い込み、小さくなったベジータの背中に向かっておもむろに叫んだ。
「ベジータぁ、愛してるわぁ!」
途端、まるで大きな障害物にでも当たったように、ベジータの身体はガクッと床に落ちた。
さすがの策士も、この不意打ちへの対処方法など備えているはずもない。動揺を隠すことすら出来なかったのか、思わず振り向いた彼の目は最大限に見開かれ、ぽかんと開いた口端は小刻みに震えていた。一瞬間をおいて、彼の耳が薄暗い館内でもわかる程カッと赤くなったのに気を良くしたブルマは、さらに調子づいて声を張り上げた。
「今のは今までの分よー」
「バカが! やめろ!」
顔中を赤く染めたベジータが、逆立った髪をさらに逆立て、額に青筋を立てて抗議する。それでもブルマはおかまいなしに、
「やめないわよーだ! それから今の気持ちの分!」
より大きく息を吸い、全世界に響かせるつもりで叫んだ。
「ベジータ好きよ、愛してる! 好き好き大好き、宇宙で一番誰よりも!」
「く、くそったれ!」
そう吐き捨てるとベジータはポンと跳ねた。いつものように空を『飛ぶ』のではなく、地面を蹴って、軽やかに、一直線にブルマに向かって。
「愛して……きゃっ」
一瞬にして舞台までやってきたベジータは、両腕で抱きかかえるようにして騒ぐ彼女を取り押さえると、骨張った手で唇を塞いだ。
「大声で何ほざいてやがる、このバカが!」
「ん、もがっ」
古ぼけた舞台が二人の体重をうけて軋んだ。まだ動揺の抜けきらない彼が体勢を崩しかけたところで、ブルマはすかさず腕を振りほどく。
「いいじゃない、あんた以外誰も聞いてないわよ。たまにはこうして口に出したいのよ。あんたを愛してるのよって宣言したいの!」
「黙れ、わざわざ口に出すなっ! 言われなくてもわか──」
ベジータはそこでハッと口をつぐんだ。うってかわって訪れた沈黙の中、彼女の視線を避けるように彼は慌てて顔を背ける。
「ま、自信家ですこと」
「……きさまのような女を満足させてやれるのはオレだけだ」
そう言うと、少しは威信を取り戻したのか、ベジータはフンと勝ち誇った顔をブルマに向けた。彼女も負けずに思い切り胸を張る。
「あんたを満足させてやれるのも私だけよ。覚えておきなさいよ」
思わぬ反撃にややたじろぎつつも、彼はそれ以上反論しなかった。ただ、驚きを隠しきれない瞳で、ブルマの顔を──青い瞳を──見はった。
動くもののいなくなった館内に再び静けさが舞い戻る。
(このままずっといつまでも、死んでもこうして見つめ合っていたい──)
静寂の訪れに相対して、彼女の鼓動は大きくなる。
(──やっぱり私はわがままね、見つめるだけじゃイヤなんて……。
ベジータ、あんたにはずっと私を見ていて欲しい。身体も、心も、魂も、私を満足させられるのはあんただけ。私を一番ドキドキさせて、心配させて、何度も何度も私の心を痛めつけるひどい男。こんな男、宇宙中どこを探したっていないんだから。
残酷な宇宙人に恋してる私……人形に恋する人形遣い? それとも人形遣いに恋してるのは私? 端から見たらさぞ不思議に思えるでしょうね。でもね、どうしても私、あんたのことが心から──)
「好きよ」
あらためて、今度は小さく──彼一人にしか伝わらないほど小さく──ブルマはつぶやいた。
そんなこと、言われなくてもわかっている。そう言うかわりに彼は唇を重ねた。
長い口付けからようやく解放されたブルマは、火照った顔を彼の肩に埋めた。頬にあたる筋肉の心地よい温度にほっとする。
「ねえ、ベジータ」視野の端で、彼の顎がぴくりと反応した。「よく帰ってきてくれたわね」
「……何がだ?」
ブルマはそれ以上は口にせずに背中に回した腕に力をこめた。
あの闘いでベジータが死んだことを思い出すと、今でも胸が痛くなる。あとどれくらいの間、彼は自分の側に居て、傍らに立っていてくれるのだろう。ドラゴンボールを知ってから死の存在が遠くなっていたブルマにとって、離別の辛さを思い知らせたのは彼の死だった。
「私は信じてるわよ」
そして、再開の喜びも。
「だから、何の話だ?」
ベジータは眉をしかめ、巻き付いた細い身体をぐいと引き離して正面を向かせた。その瞳にうっすらと涙が滲んでいることに気づき一瞬とまどって息をのんだが、彼女が笑って「なんでもない」と言うのを見て、もう一度胸に抱き寄せた。
「相変わらずわからんやつだ……」
「ふんだ」
さっきはあれほど可愛く動揺していたくせに、もういつもの仏頂面ね──彼の鼓動を素肌で確かめながらブルマは微笑んだ。もうドラゴンボールなどなくても、彼はいつでも帰ってくる。
「おかえり、ベジータ」
ブルマは何かを答えようとする彼の唇に黙ってキスをした。
愛しい、愛しい、愛しい人──