BE*5

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なんて下品な女

 パンッ──西の都にあるカプセルコーポレーションのロビーに乾いた音が響き、ヤムチャの頬は一瞬にして赤く腫れ上がった。
「いっ……てえ、何するんだよブルマ!」
 ほんの数秒の静寂の後、ブルマに横面を目一杯はたかれたことに気がついた彼は、ひりつく頬を押さえながら思わず大声を出した。
「何するんだ、ですって?」ブルマはそう言って余裕たっぷりに笑うと、ワンピースのポケットから数通の封筒を取り出しヤムチャの目の前につきつけた。怒りに燃えていた彼の目の色が一瞬にして曇る。
「身に覚えがないとは言わせないわよ。何なのよこの手紙は? どれもこれも違う女からじゃない!」
「そ、それはだな……なんだ、ほら、えーと」
 決定的な浮気の証拠に誤摩化しの言葉も出ず、ヤムチャは怖じ気づき口ごもる。不幸にもその現場に居合わせたウーロンとプーアルも、二人の緊迫した雰囲気に押され冷や汗をかくことしか出来なかった。
 もう何度目の喧嘩だろうか、ブルマはほとほとうんざりしていた。あまりに喧嘩ばかりするので、十回目辺りからは数えるのをやめてしまった。素敵な恋人が欲しい──そう願っていた頃の自分が懐かしい。念願かなってこのヤムチャと交際をはじめた頃はその新鮮さに二人でいるだけで心が踊ったものだが、今心が高ぶるのはこうして喧嘩をする時だけだ。それも僻みや嫉妬という醜い感情に突き動かされて──ブルマはため息をつき、手紙を破り捨て言った。
「言い訳はもう結構。あんたとは今度こそ別れるわ」
「な、なんだよ……」唐突に別れを切り出されたヤムチャは彼女の冷めた態度に少々戸惑ったが、頬の痛みを再確認すると売り言葉に買い言葉で声を荒げた。
「畜生、わかったよ、お前みたいなヒスな女はこっちから願い下げだ! 出てってやるよ!」
「あーあー、さっさと出て行きなさいよ」
「ほんとうに出て行くからな!」ヤムチャはブルマの指差した方向──出口に向かって怒鳴りながら駆け出した。しかし勢いだけはよかったものの、何も言わないブルマに段々と不安になり、ドアに近付くにつれその歩みはほんの散歩程度のものになってしまう。
「も、もう一度言うぞ、ほんとうに出て行くからな!」
「しつっこいわね、行くならさっさと行けば? さようなら、当分は顔も見たくないからそのつもりで」
「………………」
 ヤムチャの足は引き止められることもないまま、とうとう出入り口に達してしまった。そこで最後にブルマを振り返ってはみたが、彼女はすでに背を向けて廊下に引っ込んでいく途中だった。
「見もしねえ……」ヤムチャは握った拳に力を込め、プーアルに向き直った。「も、もう本当にお別れだ! いくぞプーアル!」
「ま、待って下さいよヤムチャ様!」
 未練がましい捨て台詞を吐きながらも、とうとうヤムチャとプーアルは住み馴れたカプセルコーポレーションを出て行ってしまった。
「お、おい……今度こそヤバいんじゃないか?」二人の──おもにブルマのあまりの険相に呆然と見守るしかなかったウーロンは、やっとのことで口を開いた。「おいブルマ、意地張ってないで追いかけろよ」
「ふん、別に意地を張ってるわけじゃないわよ」
「え?」
 その言葉は真実だった。ブルマにはもうヤムチャに対する愛情がないのだ。今彼に感じているものは長年一緒に暮らした者への情であって、異性に対する愛ではない。そもそも最初から愛ではなかったのかもしれない。だが、ブルマには確信があった。──嫌いではない。そう、けしてヤムチャという人間が嫌いになったわけではないのだ。恋人としては関係が破綻してしまったヤムチャだが、友達としてならうまくつき合っていける自信がある。ともに厳しい冒険をしてきた仲間としてなら彼を認められる。このまま喧嘩ばかりするのならば、いっそ──彼女の冷めた態度はけして冷徹な皮肉ではなく、そんな決意から生まれたものだった。
「……そうなのよね、頭ではわかっているのよ」
 悲しげにつぶやき、そっと顔を上げたブルマの視線の先には、ロビーの壁に飾られた二人の写真──笑顔だけの過去──があった。
「あーあの野郎、ほんっとに浮気ばっかりしやがってぇ!」
 ブルマは押さえていた怒りを爆発させ、写真をわし掴むと額縁ごと床に叩き付けた。
「ひいぃっ、今更怒るなよ!」
「ヤムチャのバカー!」

 出来たばかりの重力コントロールルームでの鍛錬を終えたベジータは、重厚なドアを開けた途端に耳についたブルマのわめき声に眉間の皺をますます深くした。
(こう毎日うるさくては落ち着いて特訓も出来んな)
 ロビー裏手にある給湯室の冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出し乾いた喉を潤している最中も、バカだのアホだの甲斐性なしだのと悪口雑言のオンパレードだ。
「チッ……相変わらず下品な女だ」
「い、イテテッ、おいベジータ、見てねえで止めろよ! ……じゃなくて、止めていただけないでしょうか」
 懇願するウーロンを軽く一瞥するだけで受け流し、ベジータは最上階にあてがわれた自室へと戻っていってしまった。
「あーもう、何でオレにこういう役目がまわってくるんだよぉ……イテッ!」
「二度と帰ってくるなー!」
「助けて悟空ー!」
 ウーロンの今日二度目の必死の願いも遠い山村に暮らす悟空には届くはずもなく、彼はブルマの暴行により全治三日の軽症の目にあうのだった。

 数日が経ち──ウーロンの傷も癒え誰もがヤムチャの行方を口にしなくなったある日、ブルマ達は母親の煎れたお茶を飲みながら談笑にふけっていた。
 そこへギィッという重い音が響き、二人は何気なく音のした方向、部屋から丁度見渡せる廊下を見上げた。すると突き当たりにある重力室の扉が開き、中からベジータが現れた。
「あ、ベジータ……」こうやって改めて見るベジータは、ここへやって来た時よりも一周り大きく張りつめた筋肉に包まれていた。歪んだ笑みは消え、目つきも以前よりずっと厳しくなっている。
 彼は荒い息をつきながら流れ落ちる汗を拭った。訓練を中断し一息入れにきたのだろう。
「ベジータ、良かったらあんたもどう?」
 ブルマはティーポットをかざし彼に微笑みかけた。
「……いらん」
 ベジータはブルマ達の姿を認めると、大量の汗で喉も渇いているだろうに、彼女の申し出を断って再び重力室へと戻って行ってしまった。
「な、なぁにあの態度? 失礼しちゃうわねー、あいつは地球でも孤高の王子様のつもりなのかしら」
「仕方ねえだろ、あいつすっげえプライド高いしさ……」ウーロンはカップの底に残ったお茶を啜って言った。「オレらや地球のことなんて、奴にとってはただ利用してるだけなんだろうよ」
 彼が何気なく発したその言葉は、思わずブルマを揺さぶりかけた。
(利用しているだけ……)
 心の中で繰り返す──何故だろう、わかりきっていたはずの当然の事実のはずなのに、私はどうしてことさらにショックを感じているんだろうか──
(だ、だからなんだっていうのよ、あいつが私に何の情もないからってどうだっていうの?)
 ブルマはフッと顔を振り、胸の内から戸惑いを追い払おうとした。しかしいったん気づいてしまった心の変化を隠しきることは出来ず、彼女はただ複雑な想いでとうに閉じられてしまった重力室の扉を見つめるしかなかった。

 その日の夜、午後の仕事を終えたブルマは作業場から自室へ戻ろうと廊下を歩いていた。
「あ、父さん」そこへ向かいからコーヒーカップを抱えたブリーフ博士がやってきた。
「ようブルマ」
 博士はいつものように軽く左手をあげる。ブルマはふと彼のことを聞いてみたくなった。
「ね、そういえばさ。ベジータのために重力室を作ったんだって?」
「ああ、まあの。地球の三百倍の重力まで出せる設計じゃ」
「さっ、さんびゃく?」
 尋常ではない数値を博士は事もなげに言うので、ことさらブルマは驚いて素っ頓狂な声をあげた。
「正気じゃないわ、死んじゃうわよ!」
「そりゃ最初はわしも無茶だと言ったんだが、聞かんのだよ。まあ今のところ死んでいないわけだしねえ……、彼らは地球人とは頑丈さが違うらしいの」博士はサイヤ人の驚くべきタフさに感心してみせた。「しかしまあベジータくんもよくやっとるよ。悟空くんもそうだが、まったくサイヤ人というのはストイックだの。遊びをしらん。せめてステレオとスピーカーをつけるかと聞いたら『必要ない!』と一喝じゃ」
「ば、ばっかみたい、呆れた!」
 ブルマは昼間の彼の疲弊しきった姿の意味を知り、なかば呆れ、同時に悲しくなった。それほどの鍛錬の後でも彼の心には自分の入り込む隙はなかったのだろうか、と。
「……ばかよ、ホント」
 そう小さく呟いた後、ブルマは何かを決意したかのように顔を上げ、くるりと身を翻し来た道を戻った。
「あれ、まだ寝ないのかい?」
「ちょっと残業!」博士に手を振ると、ブルマは急いで作業場に駆け戻る。
 彼女の姿を見送った後、博士は
「ふぅん……なるほど。若いとはいいのう」
 と意味ありげにつぶやき、納得した様子でトレードマークの髭を撫でその下の唇に微笑みを浮かべた。


 作業を終え引き上げる途中、ブルマは視界の隅に自室へ向かう階段を上っていくベジータを見つけ、慌てて声をかけた。
「ベジータ!」
 突然の呼びかけに、彼はいつものあの怒りとも憤りともとれない固い表情で後ろを振り返る。見ると、夜更けだというのにまだ作業服姿のままのブルマがこちらに向かって駆け寄ってくるところだった。ブルマは彼のいる階段の下までたどり着くと、笑みを浮かべて口を開いた。
「はあ、丁度良かった、特訓終わったの? いくらあんたがサイヤ人だからって三百倍の重力なんて無理しすぎよ」
「たかがカカロットの三倍だ。このオレは天才なんだぞ、なめるなよ」
 そんなことを言いにわざわざ呼び止めたのだろうか?──さも憤慨した、とでもいうように片方の眉をあげるベジータに構わず、ブルマは階段を上がり彼の一段下まで歩を進める。
「いったい何の用だ」
「あーあ……ほんとあんたってば可愛気ないわね」ブルマは膨らんだポケットを探って言った。「ほら、コレ」
 彼の目の前に差し出されたのは、カプセルコーポのロゴの入った一本のドリンクボトルだった。
「……いらんといっただろう」
 ベジータは余計なお世話だとでも言いたげに鼻をならし、プイと背を向けて去ろうとしてしまう。
「なっ、ちょっ、待ちなさいってば! ほら!」
 ブルマは彼を強引に呼び止め、手にしたボトルを少々乱暴に放った。彼は少し驚いた様子でそれを受け取り、ボトルと彼女の顔を交互に見つめた。
「人の話は最後まで聞きなさいよね。天才ブルマ様特製の強化アミノ酸入りスペシャルドリンクよ。急いで作ったから大した効果はないだろうけど、多少は回復が早まるはずだわ。孫くんには仙豆があったんだからこれくらい構わないでしょ」
 ベジータはしばし手の中のそれを不思議な異物でも見るような目でながめた後、
「……ふん」
 とだけ言ってボトルを手にしたまま再び階段を上っていった。てっきりいらないと突っぱねられるかと思ったブルマは、彼の些細だが意外な行動に思わず微笑みをこぼした。
「へえ……やれば出来るじゃない」
 少しの間彼の去ったあとの階段を眺めていたブルマは、やがて満足したのか「さてと、私も寝ますかね」と伸びをした。
 利用したいならとことん利用すればいいじゃない。私は私のしたいことをするだけ──ブルマの心に湧き起こった混乱を伴う変化はひとまずの落ち着きを見せ、小さな温もりとなって彼女の胸の内に留まる事となった。

 そして、二人の様子を影から覗き見していたウーロンは思った。ベジータもおっかねえが、ブルマはもっとおっかねえ……と。

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