三日が下弦のつきだった頃




強くなりたい。誰にも負けることがないくらい強くなりたい。
俺が常に思っていること。ただ、強くなりたいということ。
中学から始めた俺は、小学校からスクールに通ってた奴らと比べて全然遅れをとってる。 負けるのは仕方ない、でも、、それはすごくくやしい。俺は、強くなりたい。
そのためにはどんな努力だって惜しまなかった。 キツイ部練の後の自主トレ、毎日の朝練前の早朝ランニング・・・
小学校からの趣味だった格ゲーだって押入れの奥に封印した。 勉強する時間も惜しんでがんばったから、1学期の成績表は赤点ばかりのズタボロ。
でも、それだけ頑張ったんだ。それだけ時間をかけたんだ。俺は強くなる、必ず。 誰にも負けないくらい強くなれる。それだけが俺の心の支えで、毎日の活動源だった。


だが、そんなものは秋の新人戦に向けた校内試合であっけなく崩れ去ってしまった。 3年の引退をかねた、1年にとっては初の正式な校内試合。 引退する先輩に負けるのは仕方ないかもしれない。 だけど同じ中学から始めた同級生に、努力しているようには到底見えない奴にあっさり負けた。
・・・・俺が今までしてきたことはいったいなんだったんだ?
だってさ、俺の努力は?俺の夢は?俺の信念は?俺が求めた強さは?
・・・・結局、才能のないやつは駄目ってことか?





授業が終わると、俺はラケットの入ったカバンを持って教室を出た。 考え直して、もう一度あの場所へ向かおうと思ったが、それは頭の中の空想にとどまった。 俺の足はまっすぐ昇降口に向かい、校門へ向かう。
まだ日が明るいうちにバスに乗っているのは違和感がある。 車どおりが多いしバスに乗っているのは買い物帰りのおばさんが多い。
家に帰ったら何しよう? いつもなら暇なときは、筋トレか昼寝をする。 でも、昼寝するほど疲れてねーし。それに、今更体鍛えたってしょうがねーし。

ふと、窓の外のコートが目に入った。





荒れ果てたコートは雑草だらけでもう何年も使われていないようだった。 ネットも弛んで擦り切れ、第一ラインがほとんど消えかかっている。 住宅街の中の公園の脇にひっそりと存在していた、たった1面のコート。 こんなところはもっぱら、子供の遊び場として利用されているんだろう。 秋はまだ始まったばかりで、降り注ぐ直射日光はまだ夏だった。 ましてや、近くには日よけの樹木は一本も生えてなく、もろに日光が降り注ぐ。 それゆえか、子供が遊ぶ時間だって言うのにコートには人陰がなかった。
俺はしゃがんでコートに生えた雑草を何本か引き抜こうとした。 しかし、それは案外深く根を張っているようで葉の根本で引きちぎられてしまった。


俺はカバンからラケットとボールを取り出す。
今年の初夏初めて手にした自分専用のラケット。 今ではグリップ部分もぼろぼろだ。学校からこっそりパクってきた自主練用のボール。
ベースラインだろうあたりへ行き。

俺は、ボールを、投げ上げた。



地面にぽとんと落ちたボール。

地面にぽとりと落ち乾いたコートをぬらした水滴。

地面にからんと落ちたラケット。

地面にぽとりと落ちた俺の頬をぬらす水滴。




俺、打てないよ。
俺になんか打てるはずもない。
生まれて初めて不条理というものを思い知らされた『こと』。こんなにも否定された『こと』なんだからもうできない。 そうだよ、だから俺退部してきたんだろ?こんな『こと』に蹴りをつけるために。
夢は叶うものだと、努力すれば必ず叶うものだと教えてくれたのはいったい誰だったんだ、嘘つき。 叶わない夢なんかいくらでもあるじゃないか。




「なぜ、打たないんだ?」
「・・・誰だ・・・?」



目の前には、いつの間にか一人の男が立っていた。 なよなよしくて、顔が白くて、押したら倒れそうな男だ。 しかしジャージ姿にラケットを持っている姿は、俺を見下ろしているような、そんな気迫がある。

「なぜ、打たない?」

俺は逃げ出したかった。
足ががくがくして、冷や汗が背を伝った。
ここにいたくない。この男が嫌だ。
逃げなくちゃ、逃げなくちゃ・・・・・

「そんなに怯えなくてもいいさ。俺はそんな怪しい奴じゃないよ。もっとも、お前が怯えてるのは俺でなくて、俺のお前に対する問いだろうがね。」


『ナゼ、ウタナイ』


俺は怖い。怖いんだ。
答えたくない、考えたくない。その答えを俺は知りたくない。 怖いんだ。俺は、否定されてしまう。俺の信じてきたこと全てが否定されてしまう。

「せっかくラケットも持ってることだし、ワンゲームやろうか?」

男は反対側のコートに入った。俺はなすすべもなくラケットを手にとった。男はトスを上げ、ボールを放った。
来るっ!!
俺は身構えた。
だが、ボールはとてもゆっくりと俺のコートでバウンドした。俺は拍子抜けして難なくそのボールを打ち返す。 男はさらにそのボールを打ち返し、俺も帰ってきたボールを打ち返した。




ラリーは続いた。
なんだ、この男全然弱いじゃねーか。
もったいぶってた割にはこの程度の実力か。
俺は上がってきたロブを渾身の力を込めた強烈なスマッシュで返した。 だが、予想と反してボールはこっちにポーンと軽く戻ってきた。ひるむことなく俺はそれを打ち返す。

「ふふっ、なかなかやるね。」

ネット際に落とす軽いドロップショット。
返せる!!
俺はボールに飛びついた。





「お疲れ。」
永遠に続くかと思われたラリーは俺のスマッシュミスで終わった。 息が切れて俺は地面に座り込む。 男はゆっくり俺に近づいてきて、タオルを渡してくれた。 俺はそれで額の汗をぬぐって、ワイシャツのボタンを2つあけた。
いつの間にか、日は大分落ちてきていて遠くの空が少し赤くなり始めていた。
俺が返したタオルを受け取ると、男はぽつりと言った。
「楽しかったか?」


『タノシカッタカ』


「はい?」
「ボールを追いかけることが楽しかったか?」


楽しかった。
ただ、夢中でボールを追いかけることが。
男の力量を見ることよりも、もっと近くのボールに飛びついていって、思いっきり返して。
スリルとかそんなゲームの危うい楽しさはなかったけど、ただ、ボールを打ち返すことが楽しかったんだ。

「楽しかっただろ?」
「はい。」

俺は頷く。
男は笑って俺の頭を叩いた。

「楽しむためのものなんだよ。思いつめてやるようなことじゃない。もともと、勝ち負けにこだわる必要はないんだ。ただ、ボールを追いかけることを楽しめばいいし、互いの攻防の駆け引きを楽しめばいいものなんだ。」

男はボールを軽く上げて、ごく軽く向うのコートへ放った。
ボールはネットに当たり地面にぽとりと落ちる。

「でも・・・俺は強くなりたい。」
「・・・・・」

男はもう一つのボールも打った。それもまたネットに引っかかり地面にぽとりと落ちる。

「・・・お前は今まで、どれだけの努力をした?」
「そんなの、もう死に物狂いで、他人の何倍もしましたよ!!でも、だめなんだ。結局俺は才能なかったし、全然上手くもなれない。」
「お前は諦めているのか?」
「だって、しょうがない。強くなれない。どんなに頑張ったって!!!」

「何もしないうちから、悟ったようなことを言うな!!」

びっくりして口をつぐんだ。男はまっすぐ俺を見据えて怒鳴った。

「何が努力したんだ?お前は既に限界を見たのか?見たはずがないだろう? お前は自分が努力したということに満足しているだけなんだ。 自分が努力していると思い込んで満足して、だから、そこで成長が止まるんだ。 自分の限界に常に挑み続ける奴が、強い奴なんだということがわからないのか?!」

「努力すれば叶わないことなんかないって俺は信じてるよ。 叶わないことがあるのは、そいつがそれだけの努力をしないで、途中で限界をつくってしまったからだって俺は思ってる。」

「もっと頑張ってみせろ。お前はもっともっといけるはずなんだ。」

男はにっこり笑った。

そっか、俺はまだまだなんだ。
まだまだ何もやっていない。
もっと、頑張れるのかもしれない。
もっと強くなれるのかもしれない。

「それから、後もう一つ重要なこと。」

指を一本立てて男は言った。

「お前は、何でテニスをしているんだ?」

・・・・?
それは・・・・・強くなるためか?

「プロは収入のためにテニスをする。でも、それだってただ金や名声を手に入れたいだけじゃないだろ?」
「俺は・・・強くなるために・・・」
「なぜ、強くなりたい?」

なぜ、強くなりたい。そんなこと考えたこともなかった。ただ、俺は強くなりたかっただけなんだ。誰にも負けないくらい。だって、負けるのはくやしいし、ムカつくし。

「もっと、肩の力を抜け。初心に帰ってみろ。なぜテニスを始めたかって、それは楽しそうだったからじゃないのか?」

・・・・・楽しいというキモチ。

「どんな奴だってそうだ、はじめは楽しそうだから始めるんだ。はじめから、よし、強くなるぞ!ってきもちだけで物事を始める奴がいるわけないだろ?強制されてやっていたって楽しければ続けたいと思うし、楽しくなければ情熱を懸けられるわけもない。」

「そのなかでも勝てば楽しいということがわかるから、だんだん、勝ちたいと思ってくるんだ。そして、その分だけ負けたらくやしくなってくる。そうじゃなかったのか?」

男は手で弄んでいたボールを俺に手渡した。

「お前はテニスが好きなんだろ?」

俺は頷いた。
そうだ、俺テニスが楽しかったのに、何でいつのまに楽しんでいなかったんだろう。 強くなりたいけど、その前に楽しくゲームすることがもっともっと大切なことだったんだ。
一つ分かってしまえばあっけないことだ。
もっと、楽しもう。
もっと、頑張って頑張って。
弱いかもしれないけど、少しづつだって成長してるはずだ。
俺は強くなって、テニスを楽しみたい。

「赤也、お前は強いよ。だからテニスだって強くなれる。」

俺は頷いてから、ふと、顔を上げた。
あれ、俺、この人に名前教えたっけな・・・?

「じゃあ、そろそろ帰るか?きっと皆待ってるぞ。お前がいない間に、皆強くなってるだろうしな。」
その人は立ち上がって俺の荷物を手に取った。
「もうすぐ、練習も終わる。早く帰らないと、行ったころには誰もいなくなってるかもな。」
フフッと優しそうに笑ってコートを出て行くその人を俺は慌てて追いかけた。
「あの、あ、えーっと・・・・」
「なんだ?」
「あんたは・・・・」
「俺か?俺はただのテニス馬鹿さ。」
「そうじゃなくって何で俺の名前・・・?」
その人はさっきみたいに幸せそうな笑みを浮かべて答えてくれた。
「部長だったら部員のことだったら何でも知ってなくちゃ駄目だろう?」
あ、この人が新部長だったんだ。そういえば、3年の引退試合のとき新部長も発表されたんだっけな・・俺聞いてなかったし、ってか興味なかったしな・・・・・
「俺、弱いもんなぁ。印象薄かったか?錦先輩に比べて俺もまだまだ未熟だな。部員に自分の存在も覚えてもらえないなんて。」
「そっそんなじゃないっす!!」
部長はまた笑った。この人の笑顔はすごく優しくて、大人の女の人みたいだ。
「これからはみっちりしごいてやるからな。今日でお前の分の飴は使い切ったから今後は鞭だけだぞ。」
「勘弁してくださいよ・・・」





次の日部活に出た。
号令のとき、前を向いたら昨日の人はやっぱり部長だったんだと、やっと心の奥でしっくりと認識できた。
名前は幸村精市。
幸村部長だ。
練習中こっそり横を向いたら部長は超強かった!!
俺との昨日のラリーは手抜いてたんだって改めてよく思った。
強いんだな、部長。
俺なんか到底及ばないくらい。
俺が落胆してバックハンドの練習してたら、いきなり後ろからラケットで殴られた。

「お前は何か掴んだんじゃなかったのか?」って。
すっげー怖い顔だった。もう鞭は始まってるらしい・・・




俺は強くなりたい。
そのためにはどんな努力だって惜しまないし、俺の中学生活は全部テニスに捧げるつもりだ。
だってさ、テニス楽しいしさ。
それに俺いつかあの幸村部長を倒したいって思ってる。
部長はいつも強くなりたいって願ってて、テニス楽しいって思ってるから、俺が部長倒せばきっと部長はまたあの優しそうな顔で笑ってくれるはずなんだ。赤也、強くなったな、って。



俺、頑張る。
もっともっと強くなりたいから。
とりあえず当初の目標は、バックハンドで打つときにネットに引っかかんないようにすることかな・・・・
まだまだ、道のりは険しいけど。妥協しないで頑張ろうかな。
だって、俺強いから。





2004.07.24


[モドリ]



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