ここに、止まっている風がある。
前に進もうとしても、進めない風がある。
静かな、静かな『凪』の空間。
だが、時はめぐり、風は舞うもの。
ほら、やっぱり。
風は、再び動き出す。
そう、
ここは、風のたどり着く場所だから。
気付けば、そこに座っていた。
降りしきる雨の中、傘も差さずに。
一体自分がどんな状況に置かれているかも分からず、僕はそこに座っているしかなかった。
遠くで…車の排気音が聞こえる。
目の前に映るのは、壁。冷たいコンクリートの壁…。
ここは…恐らくどこかの路地裏だろう。
そして撒き散らされたゴミだけが辺りを埋め尽くしている。
視線を脇に移すと、微かな人通りと車の影がちらつく。
…何故、僕はここにいるのか。
不意にそんな疑問が頭をよぎる。
分からない。分からない事だらけだ。
何故、僕はここにいる。
ここはどこだ?
そして、僕は誰だ?
自分の体を見渡す。
白いTシャツに紺色の上着。色素の抜けたジーンズは所々が擦り切れている。
…しかし、こびり付いているこの黒い染みは…。
ずきんっ。
「うあっ…」
突然激しい頭痛が走り、僕は思わず呻いた。
嘔吐感がこみ上げ、体ががくがくと震える。
視界には霞がかかり、黒っぽい壁もいつしか白い世界の片鱗と化している。
意識が…砕ける…。
(ねぇ、凪…)
突然。
耳に。
誰かの。
声が。
(いよいよ明日だね…)
誰だ。
君は、そして、凪とは…。
(ふふっ、似合う?)
純白のドレスに身を包み、それに劣らぬくらい純粋な笑みを浮かべる女性。
くるり、と体を一回転させ、僕にドレスを見せびらかす。
純粋に、綺麗だと思った。
それは一輪だけ咲く百合のように白く儚げで、降ったばかりの新雪のように輝いていた。
手を伸ばしたかった。
彼女に声をかけたかった。
しかし、彼女の名前が分からなかった。
なんて呼べば良いのか、分からなかった。
(待ってるからね)
再び、彼女は微笑む。
必死に口を開き、言霊を紡ごうとする。
何故だ。
彼女は大切な人のはずなのに…。
待ってくれ。
僕は…君は誰なんだ。
(凪…大好きだよ…)
目頭が、熱い。
気付かぬうちに、僕は泣いていた。
悔しくて。
悲しくて。
大好きな人の名前さえ呼べない自分が、憎かった。
雨が、冷たい。
僕は…再び独りになってしまった。
A SILENT CALM
まどろむ意識の中で、僕は泣いていた。
幼子のように激しくしゃくり上げ、気持ちを抑えては、また泣き出した。
…昔から何度か同じ現象に見舞われたことがある。
いつものことだ。
しばらくすれば治る。
泣き続けるかたわら、はっきりとした意識が僕に警告を出す。
分かっている。そんなの、僕にだって分かっている。
しかし、理性という名のストッパーが、無意識下の行動に逆らえるはずが無かった。
どのくらいの間そうしていただろう…。
僕はやっと現実に帰ってこれた。
「夢、か」
この癖が出た後に言う、決め台詞。
そうすることで意識はより一層落ち着きを取り戻していた。
薄目を開けたまま、頬に残る涙を拭い去る。
枯れてしまった訳でもないのに、涙という名のしずくはもう出てこない。
「セイネ…」
うわごとの様に、名前を呟く。
夢の中とはいえ、恋人の名前が出てこないなんてな…。
確かに夢の中には静音がいた。
ドレスを着て、笑っていた女性…。
僕のことを大好きだといってくれた女性…。
夢の内容を反芻し、脳に理解させていく。
全てを知っていて、僕を待つ彼女。
全てを忘れ、追いかけられない自分。
…辛いのは、どっちだろうな。
自嘲し、ベットから起き上がる。
軽い頭痛がするものの、体にこれといった異常は見受けられない。
強いて言えば…憂鬱だということくらいか。
気にしない人は気にしないが、僕は夢の内容で何日か悩むことすらある。
嫌な夢だった。
加えて…。
ジャッ。
「雨降ってる…」
窓の外では、空も泣いていた。
梅雨時期はどうしても気分が晴れない…。
六月に入ったばかりの今、雨が降るのは仕方ないのかもしれないが…。
「太陽、出ないかなぁ…」
陽光が恋しい。
嫌な夢を見て泣かないように、太陽に笑って欲しかった。
「あ…凪、おはよ」
寝癖のついた髪を掻き、欠伸をしながら台所に入った僕に、見知った人物が声をかけてきた。
(僕は…そう、凪だ)
未だ夢の後遺症が残っているのかな…。
己の名前を思い出すなどと、あまりにも愚かな事をしてしまった。
「…ああ、おはよう、静音」
声をかけ、椅子に座る。
多少癖のあるショートヘアに大きめな瞳。
形のいい唇から発せられる声は清流のように静かで、聞く者の心を落ち着かせる。
…泥沼だな。
彼女を見るたび、そう思う。
僕はすっかり彼女の…静音の虜になってしまっているのだから。
だからかもしれない。
明け方に見たあの夢が、頭にこびりついて離れないのは。
…今日も、空は晴れないだろう。
憂鬱な気分は、拭い去れそうに無い。
幸せな日常が続くほど、忘れてしまいがちなものがある。
でも、僕はそれをずっと箱の中に隠して生きてきた。
ふたを開けるのが怖かった。
隠してしまったものは取り出さないほうが幸せだ、ということもある。
でも…あの日、僕は秘密の箱を開けてしまった。
否、開けられてしまった。
恐怖は待っていたかのように具現化し、僕を飲み込んでいく。
…パンドラの箱には、やはり、絶望しか入っていなかったのか…。
そこに、白い花が咲いた。
言葉を発することすら忘れ、呆然と眺めていることしか出来ない。
それほどまでに、ウェディングドレスという名の花は、僕を魅了した。
「お似合いですね、静音さん」
式場のコーディネーターの声で、ふと我に帰る。
何故かひどく恥ずかしい…。
「ねぇ、凪」
照れたように顔を赤らめながら、静音が僕を呼ぶ。
「な、なんだい?」
動悸の速い心臓を押さえつつ、彼女に向き直る。
「いよいよ、明日だね…」
僕は微笑みながら頷き…背筋が凍るような感覚を覚えた。
冷や汗が流れ、体が小さく痙攣し始める。
「ふふっ」
静音は立ち上がり、くるり、と一回転してみせる。
「似合う?」
僕は無言で首を縦に振った。
言葉が見つからなかった。
とても、嫌な予感がする…。なんだ、これは…。
まるで冷たい刃物を背中に押し付けられ、少しずつ切り裂かれているような…。
「…綺麗だよ」
作り笑顔を崩さず、対応。内心吐き気をこらえるだけで精一杯だったのだが。
恐怖。
不安。
欲しくも無い感情が僕を支配し始める。
「今日は雨だったから…明日は、晴れると良いね」
歌うような調子の声が、とても遠くで響いていた。
「覚えてる?」
帰りの車の中で、静音が不意にそんなことを聞いてきた。
「何を?」
「私たちが付き合い始めたときのこと。」
付き合い始めたとき?
僕は思わず首を傾げてしまった。
静音とは、もう十年近い付き合いになる。
「確か、先輩たちの卒業式の日に…凪に呼び出されたんだよね」
高校一年のとき、僕が彼女に告白した事を今でもよく思い出せる。
…あの時も、雨が降っていた。
断られるかも…そんな不安を胸に抱き、彼女に想いを告げた瞬間…足ががくがく震えていた…。
全身を濡らす雨すら気にせず、立ち尽くしていた。
長かった。彼女の口から返事が出るまで。
『なら…』
雨の中、透き通るような声が渡った。
『私の名前…ずっと覚えててね。』
それが、彼女の返事だった。
夜だというのに、街は賑わいを隠せずにいた。
黒い雲が全てを覆い、雨という涙を流しているというのに…この街はなんと楽天的であろうか。
こぼれた涙に人々は目もくれず、行き交い、それぞれの場所に向かってゆく。
ネオンサインは星の代わりに煌々と輝き、僕をあざ笑っているように思えた。
何故…こんなに憂鬱なのだろうか。
「ふぅ…」
無意識の内に溜め息が出た。
どうしても気分が晴れないので、静音に適当な理由を言って外に出てきた。
不安、なのだろうか。
怖い、のだろうか。
自身に問いかけてみるが、返事をするわけも無く、僕はまた溜め息をつく羽目になった。
…濡れた前髪がうっとおしい。
傘を持ってこなかったので、全身水浸しになってしまった。
肌に張り付く服が煩わしいが、手で拭いたところでどうにもならない。
理由も無く、空を見上げる。
曇天に隙間は無く、涙ばかり流し続けている空…。
何がそんなに悲しいのだろうか。
響く雨音はしゃくり上げる声に聞こえ、吹き抜ける風は悲痛の叫びに聞こえなくもない。
(泣きたいのはこっちだよ…)
心の中でそんな事を呟く。
空と同じように僕の心も晴れない。
雨と同じように僕の憂鬱も消えない。
空と、同じだな…。
ならば、空が晴れれば僕の心も晴れるのだろうか。
…くだらない。実にくだらない事を考えている自分を見つけ、再び溜め息をつく。
静音と結婚することは、純粋に嬉しいと思う。
静音自身も勿論好きだし、彼女と本当の家族になれることも嬉しい。
ならば、何故?
―ビィーッ!!
不意に耳に変な音が届いた。
今のは、クラクション…?
視界が明るい…?
自分の直線上にあるのは、赤い灯火。
ぞわり、と悪寒が体を横切る。
横を振り返ると…白い物体が僕に接近していた。
あれは…絶望だ。
車、という俗称を持った恐怖と絶望が、僕に襲い掛かろうとしている…。
どんっ。
衝撃が体を貫き、視界が揺れた。
「大丈夫か?!」
車から降りてきた人物が僕に声をかける。
しかし、彼の声に答えることはできなかった。
「大変だっ!救急車を呼ばないと…!」
男が叫ぶ。
体中が痛い…。
「じっとしてろよ?!今電話してくるっ!」
早足で駆けていく足音。
「…帰らなきゃ。」
体を引きずり起こし、立ち上がる。
頭を打ったせいか、視界がひどく不安定だ。
折れてしまったのか、右腕がいうことを聞かない。
それでも…僕は帰らなきゃいけない。
「静音…」
愛しい恋人の名前を呼ぶ。
…忘れてはいけない。失ってはならない。
だから、僕は帰らなきゃ…。
必ず…僕は帰らなきゃ…。
どこかで見たことのある風景の中に僕はいた。
冷たいコンクリートの壁に背中を預け、座りながら。
あれ…どうして僕はここにいるんだ…?
分からない。何も。
覚えているのは、自分が帰らなくてはいけないということ。
何か忘れていけないものがそこにあるはず。
でも、何処へ帰ればいいのだろう?
自分の体を見渡す。
白いTシャツに紺色の上着。色素の抜けたジーンズは所々が擦り切れている。
…しかし、こびり付いているこの黒い染みは…。
ずきんっ。
「うあっ…」
突然激しい頭痛が走り、僕は思わず呻いた。
嘔吐感がこみ上げ、体ががくがくと震える。
視界には霞がかかり、黒っぽい壁もいつしか白い世界の片鱗と化している。
意識が…砕ける…。
(ねぇ、凪…)
突然。
耳に。
誰かの。
声が。
(いよいよ明日だね…)
誰だ。
君は、そして、凪とは…。
(ふふっ、似合う?)
純白のドレスに身を包み、それに劣らぬくらい純粋な笑みを浮かべる女性。
くるり、と体を一回転させ、僕にドレスを見せびらかす。
純粋に、綺麗だと思った。
それは一輪だけ咲く百合のように白く儚げで、降ったばかりの新雪のように輝いていた。
手を伸ばしたかった。
彼女に声をかけたかった。
しかし、彼女の名前が分からなかった。
なんて呼べば良いのか、分からなかった。
悔しい。
あまりにも悔しすぎて、涙が溢れた。
(待ってるからね)
再び、彼女は微笑む。
必死に口を開き、言霊を紡ごうとする。
何故だ。
彼女は大切な人のはずなのに…。
待ってくれ。
僕は…君は誰なんだ。
(私の名前、ずっと忘れないでね)
…ごめん。僕は、何も思い出せない。
君の名前も、僕の名前も。
でも…もし君の名前を思い出せたなら…。
もう君の名前を、二度と忘れないよ。
「…頭部を打ったようですが、命に別状はありません。右腕を骨折してはいますが、そちらも直に治るでしょう。」
白衣の男が私に向けて淡々と語る。
その言葉を聞き、私は安堵の息を吐いた。
『凪が事故に逢った』
そう聞いた時は思わず心臓が止まりそうになった。
しかし、医者の話によると、命に別状はないという。
結婚式が先延ばしになるのは残念だが、凪が無事だったのだ。
これは喜ぶべきことだろう。
「しかし…」
「えっ…?」
医者が、再び何かを告げようとしている…。
「起きてもいい頃なのに…意識が、戻らないんです。」
僕は、眠っていた。
いや、それすら分からない。
迫りくる恐怖に身を竦めるばかりで何も出来ない。
何が、怖いのだろう。
それすら、分からない。
痛みが、僕を掻き毟る。
でも…帰らなきゃ。
どこか、忘れてはいけないものがある場所へ。
不意に…頬に冷たいものが舞い降りた。
雨、かな…。
雨が降っていても帰らなきゃ…。
僕は、ゆっくりと目を開け、歩き始めた。
暗い。
暗くて、じめじめする。
ゆっくりと、視界が晴れていく。
ざぁざぁ、と、耳朶をたたく音。
雨、か?
冷たいしずくが体中を打ち付ける中、僕は立っていた。
遠くから聞こえる笑い声や、すすり泣く声。
視界の端にある建物はまるで墓標のように思えた。
ここは…僕の通っていた高校?
何故、僕はこんなところにいる?
『お待たせ…』
背後から誰かの声。しかも、女性。
振り返るとそこには…
『何か…用かな?』
傘を差し、照れたように笑うショートヘアの女性が立っていた。
僕が何かを喋る。
しかし、声は聞こえない。
まるで僕自身の言葉を聞きたがらないかのように。
…膝ががくがくと震えていた。
動悸が速くなり、鳩尾の辺りにいやな感覚を覚える。
『なら…』
彼女が、口を開いた。
『私の名前、ずっと覚えててね。』
突然、空が晴れた。
先程まで空を覆っていた曇天は消え失せ、太陽ばかりが目に映る。
涙が、溢れた。
思い出した。今、はっきりと。
『あなたは凪…そして、私は静音…。それを忘れないで。』
僕は、忘れるのが怖かった。
彼女を、失うのが怖かった。
名前を忘れる、ということは、その人物の存在を忘れることだ。
だから…僕は怖かったんだ。
風が吹いた。
僕と静音の髪を撫で、僕の涙を拭うかのように。
もう、忘れない。
僕は凪で、君は静音だ。
さぁ、目を覚まそう。
僕は今、君のところへ帰るよ…。
季節外れの桜が風に舞う。
それはピンク色の雪のように儚く…それでも暖かかった。
風が吹く。
止まっていた風が、今動き出した。
「間に合うかなぁ…。」
僕は溜息の様な言葉をこぼしながら走っていた。
車を降りたところですでに十一時五十分。約束の時間は十二時だ。
普段着慣れない服のせいか、走りづらい。
息を切らせながら扉の前で立ち止まる。
時計を確認。まだ五十五分だ。
「はぁ…はぁ…」
呼吸を整えるために目を閉じ、深呼吸。
ふと、この一年間が頭に浮かんだ。
右腕の骨折の完治に思いのほか時間がかかってしまい、リハビリも含め、一年もの時間を要してしまった。
…その間、彼女はずっと僕のそばにいてくれた。
式が先送りになったことに親類や友人たちは不平を漏らしていたが、彼女は、
『あなたが無事だったんだから、それが嬉しいよ』
そう言って笑っていた。
全く、彼女には心配をかけすぎたな。
「ふぅ…」
呼吸が整った。
…古い僕は今日生まれ変わり、明日から新しい世界が始まる。
『凪の』空間が、終わりを告げるように…僕の時間も動き出す。
キィ…
乾いた音を立てながら、ドアを開く。
「あ…」
中にいた人物が僕に気付いたようだ。
「…待ってたよ。」
小さく笑い、彼女が言う。
「待たせたね。でも…ちゃんと着いた。」
僕も笑いながら言う。
目の前には一年前に見た、白い花が咲いていた…。
「ふふふ…」
悪戯っぽく笑い、彼女が歩み寄ってくる。
そして僕の耳元で…
「私の名前、ちゃんと覚えてる?」
静かな音色で、歌うようにそう言った。