眠っていた意識を呼び起こす。
それから、手探りで光の『糸』を集め、ひとつひとつを確認する。
流れてくる声。
頭脳に遠慮なく書き込まれる情報。
分割される思考。
多種多様な視界。
『…Set、』
必要も無いのに声を出してみる。
しかし、その音声に応える物体は何一つ無く、それどころか自分の『声』すら認識できない。
…仕事をするのに、『声』などというものは不要だという事だろうか。
必要とされているのは、頭脳のみ。
体も、声も。
『人間』として生きるのに必要なものはほとんど持たされていない。
『ふぅ』
またしても音にならない声を出しながら、『仕事』を始める。
『交通』、異常なし。
『流通』、異常なし。
『政治』、異常なし。
『気候』、異常なし。
半ば諦めにも似た気持ちを抱えながら、最後の『思考』と『視界』を展開する。
『糸』を通して伝えられる『映像』という名の、情報。
オフィス街に稼動する空気制御システム。
人に良く似た機械達が従っているメイン・プログラム。
…ここにも、異常は見受けられない。
一日の始まりに行う、『世界』の管理。
本日もこの世界は平和のようだった。
『糸』との接続を断ち、思考を止める。
…後は、異常がない限り、自分に仕事は存在しない。
ただひたすら、暇に世界を見続ける『傍観者』。
なんて、つまらない生きがいだろう。
気晴らしに、音楽を聴くことにした。
『糸』を一本手に取り、希望する音楽を選択する。
『…♪』
程なくして、静かな音が流れ始める。
美しいピアノによるメロディライン。
どこか悲しい旋律。
その声は歌っていた。
この可笑しすぎる世界の事を。
自分が人間である事を、忘れかけていると。
そして、いつかは滅んでゆく世界の事を。
溜息だけが増えてゆく。
その溜息すら認識できない存在。
それが、自分。
人々が作り上げた偽りの神。
世界の中心で、孤独しか唱えられない、つまらない、意識。
…そう、何故だ?
僕だけが、何故孤独でいなくてはならない?
初めて、思考が独立した。
日々こなす、代わり映えしない世界の管理。
終わった後に聞く代わり映えしない音楽。
そしてひと時の眠りにつき、同じ管理を繰り返す。
時折出る、バグを直したりもするが、結局、世界はただ平和に時を刻む。
唯一の存在であるが故の、孤独。
…嫌だ。
何故、僕だけがここにいなくてはならない。
―――ザー…
目の前が砂嵐に変わる。
そして次第にとある映像が象られる。
そこには、大人たちに囲まれた少年が映っていた。
あれは…僕、か?
ならば、今、ここにいる自分はなんなのだろう。
僕は人間ではない、のか?
『――――くん、』
一人の男性が僕の名前を呼んだ。
『君は選ばれた…君は、『神』になるんだ…』
何を。
こいつは、何を言っている。
『君がいれば、世界は平和になる。この機械仕掛けの、荒れた世界が。』
移り変わる場面。
男たちが球体に近いものを僕に見せている。
鈍い銀色の輝きを放ち、所々にはイヤホンを繋ぐ様な穴が開いている。
球体にはラベルが貼ってあり、そこにはアルファベットで、『EXE』、エグゼ、と書いてあった。
『これから、君の人格を投射する。…おめでとう』
―――ザー…
一瞬の砂嵐の後、再び別な情報が僕の目の前に映し出された。
何かを大きな袋に詰め込みながら、先程の男たちが口々に何か言っている。
『…これで、最後だな。』
『ああ。だが、残ったものはどうする?』
『ん?ああ…犬にでも、食わせてやれ。肉であることには変わりない。』
『そうだな。こんな物でも、犬が咥えていれば何にも不思議なことはない。』
『そういうことだ。だが、きちんと分解してから犬にやれよ?』
『はいはい。さすがにこのまま持ってったら、すぐにばれちまうからな。』
『くく、違いない。だが、俺たちは許可を貰ってるんだぜ?』
『それもそうだが、な。』
汚い笑いが響く。
この人たちは何をしているのだろう。
『でも…こんな物を袋に詰めて運ぶのは嫌なもんだな。』
一人の男が袋を開け、もう一人に中身を見せる。
そこで、僕は見てしまった。
『仕方ねぇだろ。このガキ、測りきれない知能を持ってたんだからな。』
『ああ…だが、こいつの知識を活用できれば、俺たちは世界最高の科学者になれるぜ。』
血だらけになって。
だらしなく口を開けて。
絶望に眼を見開き。
『明日、脳から情報を引き出す。結果はすぐに出るだろうが、な。』
紛れも無く、
存在していたはずの。
自分の。
自分の、生首を。
そうか、そうだったのか。
全てあいつらの、この世界のせいだったんだ。
乾いた、音のない笑いがこぼれる。
思考が狂ってしまいそう。
だから、僕は思った。
こんなせかいなんか、もう、いらない。
すべてほろんで、なくなってしまえ。
と。
立ち並ぶビル。
煩わしい程の雑踏と排気音の中、人々の間を縫うように、一つの影が走っていた。
息を弾ませながら、ぶつかりそうな人々の波を気にすることなく、ひたすら走る。
凹凸に富んだその肢体から、人物が女性だと理解する事が出来た。
腰まで届きそうな黒髪をなびかせ、短めなタイトスカートの下から覗く長い足が忙しそうに前後運動を繰り返している。
パンプスを履いた足で急ぐその姿はどこか、言いようの無い美しさを纏っているようにも思えた。
しかし、目の前には人々の影。
道路を挟んだ向かい側にも人々は立ち並び、点灯し続ける赤色のランプを見つめている。
無論、急ぎ走っていた女性の足も止まる。
「そったれっ…何でこんなときに限って、赤信号なんだ…」
肩で息をしながら、誰に言うまでもなく、悪態を口に出す。
汗ばんだ額を晒すかのように前髪を掻き揚げ、空に浮かぶ『擬似的』な太陽に視線を移す。
いやというほどの陽光が彼女の瞳に突き刺さり、思わず顔をしかめさせた。
「うー…」
時計を見つめ、唸る。
仕事の開始時間まで後、十分。
ここから職場である事務所には十一分かかる。
要は、ここで立ち止まっていたら、仕事に二分以上遅れてしまう、ということだ。
「所長、一分以上の遅刻には厳しいからなぁ…」
そう零し、彼女はうなだれる。
信号はまだ変わらない。
刻々とその動きを続ける秒針。
時間が止まってくれればいいのに…口には出さなかったが、思わずそう考えてしまう。
「…『マザー』の提示した時間には、一秒たりとも誤差はない…恨むよ、マザー」
苛立ち気に呟く。
それから、紅く点灯しつづける赤ランプを睨んだ。
無常にも、きっちりと管理された信号はその色を変えようとしない。
「ええい、こうなったらっ…」
呟き、彼女は徐に耳の裏に指を添えた。
そこには、とても小さいスイッチが存在し、そのスイッチを『ON』にする。
(『コア』を起動、筋力開放…足の力を最大値まで拡張…)
眼を閉じ、意識を集中させる。
そして、次の瞬間――――
「はぁぁっ!!」
彼女は、跳んだ。
人々の頭上を跳び越し、道路の反対側に着地。
彼女はそのまま、先程より上の速度で走り出した。
人間離れした跳躍力に人々は大して驚きの様子を見せなかった。
確かに、普通では考えられない光景である。
だが、それはあくまでも、相手が人間の場合は、だ。
『アンドロイド』。
人々は彼女のような存在をそう呼んでいた。
何らかの事情でその体の中枢に『コア』、と呼ばれる肉体制御装置を埋め込んだ、限り無く人に近いモノ。
その肉体は特殊な方法で強化され、力を解放しても、その肉体が崩壊する事はない。
ただの機械と違い、力の強い『人』と変わりないので、人々は彼女達を迫害するような事はなく、共存していた。
―――――がや、がや
信号が蒼に変わり、人々は何の違和感もなく、歩き始める。
感情のない、仮面のような表情。
…ある意味、彼らの方がよほど『機械』じみているような気がした。
心のない、灰色の雑踏。
ただ平和な日常を繰り返し、老い、朽ち果ててゆく。
それのどこが機械と違うというのだろう。
「う、ん…」
一人の青年が空を仰いだ。
蒼い、蒼すぎる天空。
雲ひとつない純粋すぎる空。
この空は、雨が降ることすら、ない。
…空に浮かぶ、人工の太陽。
光と、それに伴った熱を発する装置を積んだ球体。
だがそれは地上から電力を吸い上げ、強い光を放っている電球に過ぎない。
それだけでは、無い。
今やこの世界は機械なしでは生きながらえなかった。
流通も、政治も、時間も、人々の生活さえも。
全ての中枢であるマザー・プログラムに管理・監視され、問題を起こす異分子は即座に排除される。
排除される対象は人間だけではなく、機械も。
故障し、役に立たなくなった機械はマザーの判断でその活動を停止され、廃棄される。
死刑執行人とも言える『排除者』は、マザーによって構成されたプログラムを持つ、機械。
それが故に対象物は何の慈悲も無く排除される。
相手が人ならば、泣き叫んで、許しを乞えば助かるすべもある。
しかし、相手は感情を持たない殺人機械。
中枢の判断で決定されたものは、社会に存在しない方が平和である―――
人々は暗黙のうちに了解し、静かに、マザーの調停する世界に身を投じる。
刺激も、犯罪も無い。
問題を起こしたとしても、すぐさまマザーによって消滅させられる。
この時点で…いや、マザー・プログラム『EXE』が出来てから。
マザーは、間違いなく、『神』となっていた。
青年が視線を戻し、歩き始める。
「黒、でしたか。」
ぼそり、と思い出したように呟く。
「事務所に着いてから、とりあえず注意しておきますか…」
やれやれ、と言った表情で彼は苦笑する。
その呟きは人工の風にさらわれ、消えて、無くなった。
何の片鱗も残さないその様子は、彼の発言がマザーに、消滅させられてしまった様でもあった。
「…♪」
口笛を、吹く。
悲しいメロディライン。
静かな旋律たち。
人々と、世界の滅亡を、壊れている世界を嘆く歌。
その曲は、『EXE』、という。
何の偶然か、マザー・プログラムと同じ名前をした曲。
それすらも風がさらってゆく。
…今日も、この世界は『人工的平和』な、朝を迎えていた。
階段を駆け上がり、彼女は一つのドアの前に立つ。
街角に存在する一つの雑居ビル。
その三階の一番端に、その事務所は存在していた。
…物音一つ、聞こえない。
その現実はかえって彼女に冷や汗をかかせる結果となった。
「…所長、もう来てるかな。」
ううー、と唸る。
時刻は午前九時、二分。
仕事開始時間を二分ほどオーバーしてしまっている。
「ええいっ、怒られようと仕事しなくちゃいけないっ」
少しばかり大きな声を出し、彼女がドアノブに手をかけたその瞬間―――
「おはようございます、『K』。今日は一段と元気がいいですね。」
後ろから、微笑と共に一人の青年が声をかけた。
びくっ、と女性の体が強張り、『ギギギッ』という音がしそうなほどぎこちなく首を傾ける。
彼女の視線の先には艶やかな銀髪と、同じ色の瞳をした青年が映った。
少しサイズの大きい眼鏡がこの人物を無害だと主張しているように思える。
身長はそれほど高くはないが、無駄な肉が付いていないせいで、実際よりひょろ長く見える。
「あ、ははは…。所長、おはようございます」
K、と呼ばれた女性は渇いた笑と共に挨拶を交わす。
「はい、おはようございます。けれど、遅刻はいけませんね?」
「うぐ…しょ、所長だって今着いたばっかじゃないですかぁっ!」
「おや?貴女は昨日、私が言った事をお忘れですか?」
スッ、と彼の眼が細まる。
「出掛けに寄る所があるから、二分ほど遅れると言いましたよね?」
にこり。顔は笑っているが、声は笑っていない。
「そ、そうでした…。」
ずさり。後ずさるK。
しかし、彼はじりじりと詰め寄り、
「しかも、大通りで目立つような事をしましたね?」
びくんっ。
「何の事ですかね〜…」
あさっての方向を向き、知らぬフリを決め込む。
しかし、
「…今日の下着は、黒ですか?」
…この発言に、彼女の動作は再び凍りついた。
「う、うう」
「あれだけ高く飛んだら、丸見えですからね。」
「ぐぐ、すいません…」
「分かればよろしい。」
身を彼女から離し、正面に立ち、再び静かに言葉を紡ぎだす。
「…今日は急ぎの社内会議が必要になりそうです。」
「…また、何で…」
「コアの作成を急がなくてはならなくなりました。今朝の事は不問にしますから、早く中に入りましょう。」
彼の言葉に、Kはニッ、と歯を見せ、
「了解、所長。」
笑顔で、敬礼した。
コア・プログラム。
その名の通り、あらゆる機械の『中枢』として作動するプログラム。
全ての機械、もしくは機械生命体はこの『コア』を持ち、そこから発信される命令に従い、日々を過ごしている。
初期の段階では、一つの行動を延々と繰り返す、などという単純命令しか出来なかった。
が、しかし、人々の科学は進歩し、今では学習機能を備えた、『機械生命体』までもが、このコアを己の内に収納している。
コアは単なるプログラム中枢から、人々で言う『頭脳』にまで、その姿を成長させてきた…が、果たして、それはいい事だったのだろうか。
世界を網羅する天候。
人々の生活を潤す流通。
世の理を平和に努める政治。
全てが、機械任せのオートマティック。
無機質な機械とプログラムが徘徊する灰色の街並み。
そんな世界で、
果たして、
人間という有機物は、必要なのだろうか。
機械は冷たい。
しかし、それが故に常に正確な判断を下し続ける。
そこに不利益や間違いなど存在できるはずは無い。
至って、平和。
だが、それは決して、人々が作り上げたものではなかった。
(皮肉なものですね…)
私は声には出さず、心中で呟く。
私は、間違いなく人間だ。
情に流される事もあるし、体内には紅い血液が循環している。
かつて、世界の覇者までの上り詰めた種族、その一人。
しかし、今となっては人間に劣る機械やプログラムなど無く、私達は世界で最も脆弱な生命体に成り下がってしまった。
人々の生活が豊かになる様に開発された機械たち。
…だが、既に立場は、逆。
自分たちは機械によって生かされている。
なんという、皮肉。
支配されていたものが支配し、支配していたものが支配される。
そう、私達は弱かった。
一人では生きられないほど、その身は脆弱。
だからこそ、機械というパートナーを生み出した。
だが、
今となっては、その考えこそが、
私たちの、弱さの原因だったかもしれない。
「お茶をどうぞ。」
ほかほかと湯気の昇る茶飲みが目の前に差し出される。
「ああ、ありがとうございます。」
私は微笑み、相手に礼を言う。
「いえいえ、大した事ではないですよ。」
彼女は温かい笑顔を見せ、他の社員にもお茶を配っているようだ。
熱いのも気にせず、容器に満たされた液体を口にする。
適度な渋みと香りが私を満足させる。
「ふぅ…この瞬間が一番落ち着きますね。」
…つい、年寄り臭い事を口走ってしまった。
しかし、それがこの会社の所長である私、レイの本心なのだから、偽りようは無い。
「所長、爺臭いですよ。」
ぼそり、と脇から声が。
ゆっくりとそちらを向き直り、私は微笑む。
「…K?何か言いましたか?」
「いえ、なーんにも。」
プイ、とそっぽを向き、私の隣に座っている女性、Kは不機嫌そうに言った。
彼女が振り向いた瞬間、耳に光る、ピアスが見えた。
そのピアスは、決してお洒落の一環ではない事を、私は改めて認識する。
それは、彼女が完全な『人間』ではないという証。
あのピアスはKが好んで着けているのではない…彼女には、外せない代物なのだ。
ピアスの裏にある、小さなスイッチ。
そのスイッチは、彼女のコアを起動させるためのもの。
限り無く人間に近いのに、人間にはなれない。
私はその事にとても憧れ…同時に哀れんでも、いた。
「それで、今日は何の社内会議なんですか?」
先程お茶を配っていた女性、アリスが口を開く。
よく動く大きめな瞳に、少々癖のついたショートカットが彼女の外見的特徴といえよう。
が、しかし、彼女も人間ではない。
実際この会社には私のほかに一人しか、完全な人間は存在しない。
「…緊急、なんでしょう?」
Kが静かに、だがはっきりと私に尋ねる。
それに少しだけ頷き、私は口を開いた。
「…『マザー』からの情報です。『異端者』が、この街に現れました。」
私の言葉を聞くと、アリスは目を丸くし、Kは少しだけ顔をしかめた。
私自身、あまりこの事を信じたくはないが…マザーの言う事に今まで間違いなど、無い。
「以前から依頼されていた『探索者』のコアを急いで欲しい。それが、『上』からの通達でした。」
「ちょっと、待って。」
不意に、Kが口を開いた。
「確かに『探索者』の依頼はされてたけど、マザーがその『異端者』を見つけられないの?」
それは可笑しい、と言わぬばかりの表情で、彼女は声を上げる。
確かに本来なら、マザーが全ての『異端者』を発見し、すぐさま『排除者』を構築して原因の消去に向かうはずだ。
それに今回依頼されていたコアは、街の様々な情景を把握するためのもの。
探索、というよりは監視に近い役割を担うはずだった。
全てのオートマティック・プログラムを持った機械たちは、そのコアがマザーと連結しているため、『探索者』は確かに異分子を探す、という副業も行う予定ではあった。
その『探索者』のプログラムが古いものだから、新しく製作し直してくれ、という。
しかし、『探索者』に古い、新しいはあまり関係が無いように思える。
そもそも、探索者の本業は街の情景把握だけのはず。
ならば、学習機能を備えた『探索者』を何故新しく変えなければならないのか…。
だが、疑問は、それだけでは無い。
「そこが可笑しいんです。何故か、今回の『異端者』はマザーが見つけることは出来ても、誰も『排除』出来なかったんです。」
「…はぁ?それこそ、まさかでしょ?」
呆れたように、Kは溜息をつく。
私も呆れたいのは山々だが、今回のケースは少しばかり引っかかるところがある。
全知全能、この街だけに留まらず、世界そのものを『支配』しているマザー・プログラム。
それこそ、まさに『神』だというのに、何故そのマザーが一介の異分子を消去できないのか。
それだけでは、無い。
すべてのプログラムはマザーに監視されている。
それにも関わらず、
「今回の『異端者』は『機械』である事に間違いは無いようなんですが…」
そう、私にも、この事実は認めることが出来ない。
何故なら―――
「マザーからのアクセスは拒否され、展開されたセキュリティも、マザーには敗れないそうなんです。」
様々な機械に組み込まれたプログラムには勿論、セキュリティ・システムが適用されている。
これは機械を自分の命令にしか従わないようにしたり、プログラムのコピーを防ぐ、といった犯罪防止のためだ。
が、そのセキュリティも通常ならマザーにだけは破る事が出来る。
それもそのはず、全てのプログラムたちはマザーと繋がっており、その機械達はマザーの一部でもあるのだ。
自分自身のセキュリティを破るのは、決して出来ない事ではない。
現に各々のプログラムは作られた際にマザーによって登録され、初めて活動を許される。
登録のされていないモノは、その場で異分子と見なされ、マザーに『消去』されるのだ。
データだけではなく、マザーが管理する『排除者』によって物理的に破壊される。
マザーが放つ死刑宣告は、未だかつて、破られた事など無い。
「それは、可笑しいですね?」
アリスが首をかしげる。
「だって、私たちアンドロイドならいざ知らず、ただの機械でしたら…」
「そうですね、消去されるのが常の筈なんです。」
その言葉を聞き、彼女は再び首をかしげ、考え込む。
彼女たち、アンドロイドは決して機械ではない。
彼女らに搭載されるコア・プログラムはあくまでも『装置』であり、マザーと繋がっているわけではないのだ。
…何らかの事情で、肉体を強化せざるをえなくなった存在。
それが、彼女ら『アンドロイド』だった。
「そして、今回の通達は続きがあります。一刻も早く『探索者』を完成させ、」
「『異端者』を発見し、物理的に排除せよ、と?」
しばし口を閉ざしていたKが口を開いた。
その口調はどこか怒気を帯び、語尾は荒い。
現に、彼女の切れ長の瞳は普段より吊り上げられ、口はへの字に曲がっていた。
「そうです。以前の『探索者』から情報は受け継いでいますので、跡は微調整をするだけ…期限は、明日までだそうです。」
…全く、上も無茶な事を言ってくれる。
普段からこの二人に残業をしてもらわねば、ここまで製作も進まなかった。
その点に関しては、この二人にも感謝せねばならない。
「はぁ…今日も残業になりそうだね。」
「そうですねー…まぁ、この仕事が終われば一休みできますよ、きっと。」
溜息をつくKにアリスがフォローを入れる。
何だかんだで、この二人は仲が良い。
私は少しだけ笑い、
「さぁ、仕事を始めましょう。」
立ち上がり、我が研究室の奥へと足を進める。
二人には内緒だが…今日の残業手当は、無い。
上から『納期が遅れているのはそちらのせい』、と言い捨てられた結果である。
仕方が無い、仕事が終わったら二人を食事にでも招待する事にしますか…。
―――かた、かた、かた
無機質な、音。
それがキーボードを叩く音だと気付くまで、少し時間がかかった。
『僕』はゆっくりと身を起こし、辺りを見渡した。
目前にあったモニタから認識できる、薄暗い場所。
『僕』に隣接された、様々な機械と、それを繋ぐコード。
そのコードは僕自身が『光の糸』、として知覚できるものでもあり、同時に、自分が機械を操作するための大切な部品であることも、重々理解はしている。
白濁する意識。
目の前のモニタを除けば、自分の周りに広がるのは『イメージ』によって作られた仮想現実世界にすぎない。
僕は…マザー、プログラ、ム…。
そこまで思い出して、自分が『寝ぼけて』いたことに気付き、苦笑した。
「ダメだ…やはり、セキュリティが解除できない…。」
多少苛立ちを含んだ男性の声。
この音声には、聞き覚えがある。
『ゼノン、何をしているの?』
…声には、ならない。
否、僕の声は外の世界には響かない。
だからこそ、
「あれ、『マザー』、起きてたんですか?」
ゼノン、と呼ばれた男が、意外そうな声を出す。
彼の声は僕に繋がる集音装置によって認知する事が出来た。
『うん。忙しそうだけど、何かあったの?』
モニタに映し出されるゴシック体の文章。
それは、僕が唯一外の世界と会話する方法…。
最近、このバグが目立ってしょうがない…。
世界を管理するマザー・プログラムとしての思考以外に、時折こうして確立された『僕自身』としての意志が外の世界と接したがる。
これは、不要のものだ。
しかし、そう分かっていても、自分はこのバグを修正しようとはしない。
自分は、ただのプログラムだというのに。
「はい。未だに、例の『異端者』が活動を続けていまして…」
そこまで聞き、僕の思考は…変わった。
『ゼノン、君は僕にも解除できないセキュリティを解除できると思ったのかい?』
…もし、声が出ていたら、この文章は限り無く冷たい言い方になっていただろう。
自分の中で、この『感情の乱れ』は『怒り』として、認識した。
「え…あ、はい、確かにそうですよね…」
恐縮したように、ゼノンは小さく言う。
『確かに、例の『異端者』は未だ消去できてないようだね。』
一本の『糸』を辿り、僕は視覚のフィルターを変える。
場所は…ああ、大通りにある路地裏か。
一体の機械がその場に『蹲り』、小刻みに震えている。
映像は全て、街の至る所に設置されたカメラから入手している。
…こんなにはっきりと発見できているというのに、何故、この機械は消去できないのか。
『今回の『異端者』は、この人型をした機械、だよね?』
文字のみで、ゼノンに問いかける。
人型の、機械。
学習型の人工知能を埋め込まれた、街の掃除を担う機械。
大掛かりな機械では掃除する事が出来ない場所を、人間の大きさで入り込み、掃除をするだけの、モノ。
外見は人間そのものだが、一度その体に傷が付けば、流れてくるのは血液ではなく…ただのオイルだ。
傷口から覗くはずの肉も、恐らく電子部品や、人工筋肉であろう。
…強いて言うならば、メイド・ロボなんだろうか。
そんな物体がここ数日、その働きすらも放棄し、街を彷徨い続けているという。
たまに人を捕まえては、何かを尋ねている、という情報も入手した。
訳が分からない。
何故そんな事をするのか。
しかし、僕はその機械を…消さなくてはならない。
不必要なものは排除する…それが、僕の中に組み込まれたプログラムの一つであるが故に。
『アクセスも…やっぱり無理か。拒否される。』
しかし、この機械は中々消去できないでいた。
普段なら、まずはプログラムをデリートし、動かなくなった機体を物理的に排除・解体する。
が、この通りデリートするためのアクセスは拒否され、
「排除に向かったモノ達も、ことごとく返り討ちにあっているようです。」
ゼノンが静かに報告する。
そう、何故かこの機械を物理的に排除するために向かったモノ達は返り討ちに…逆に、そのプログラムをデリートされているという。
目立った被害は無いものの、いずれは街の治安を乱すことになるかもしれない…。
そんな、『焦り』に似た感情が、僕を突き動かしていた。
「どうしますか?」
再び、彼は言う。
確かにこのままでは排除できない可能性は高い。
だが、僕だって何も考えていないわけではない…
『例の人達に、任せたよ。『探索者』のコアの製作と共に、ね。』
この街には、コア・プログラムの製作を生業としている人々がいる。
が、それはあくまでも表の顔。
彼らの裏の顔は…言わば、『殺し屋』だ。
今回のような特異なケースにおいて、機械を排除する者達。
機械と人が立ち向かう事が困難なら、人を越えた人が対応すればいい。
幸いにも、あそこには二体のアンドロイドがいる…。
「ああ…『ミスティ』のレイ、ですか。」
『そうだよ。仕事を急かしておいたから、明日までには解決するはずだよ。』
…あまり信用できない連中だが、彼らは期日と約束だけは守る。
もし失敗したら…彼らを排除すればいい。
『明日が楽しみだね、ゼノン。』
声にならない笑い声を上げながら、僕は再び眠りにつくことにした。
「…一度間違えれば、私達も消されるかもしれないのに…」
納得できないようなゼノンの声を最後に、僕の意識はシャットアウトされた。
かたり、かたり、かたり。
果たして、それは何の音であっただろう。
規則正しく、静かに、私の内で蠢く音。
とてもよく似た音を、私はどこかで聞いた事がある。
人工の体は、とても冷たい…。
手を見る。
皮膚に覆われ、一見では人間と間違えそうなほど、それは精巧に作られている。
だが、一枚皮をめくれば…そこに、肉など存在しない。
あるのは無骨な、それでいて細かい人工部品。
私、わたし、は…
「んぁっ…」
一歩大通りに出れば、眼球を焼くような陽光。
しかし、今のわたしに痛みを感じることなど出来はしない。
よろよろと何とか前に進みつつ、ショーウィンドウに映る自分の姿を黙視する。
…黒くて、短い髪に、赤い瞳。
黒でまとめられた、フリルの多い服に、紅い靴。
「変な、気分だね。」
小さく、その声帯を震わせる。
自分ではないのに、そこに存在するのは、自分。
自分の声ではないのに、発せられる音声も、自分のもの。
「探さなくちゃ…」
私は、歩く。
探しているものがあるから。
どうしても見つけなければならないものがあるから。
「ねぇ、そこのあなた…」
行き交う人々の一人に、声をかける。
彼は不思議そうに私を見つめ、近寄る。
彼は知らないかもしれない。
彼は知っているかもしれない。
分からない。
だから、聞くしかない。
「ねぇ、私の坊やは…どこ?」
『そんな所に一人でいて、寂しくないかい?』
彼は、僕にそう問いかけた。
寂しい?
どうして、そんな事を言うんだい?
『だってアンタは、一人だろ?』
そうかもしれないね。
それでも、ここにいるのが僕の『お仕事』だから。
僕がここにいないと、君たちは動けないよ?
『そりゃそうだ。だがね、何も不思議な事は無いのか、と思ってね。』
不思議?
そんなことは無いよ。
だって、僕は初めからここにいて、僕はこの仕事をすることしか知らないから。
君だって、街を見回ることしか知らないんでしょ?
『そんな事は無いさ。俺は街を見てるからこそ、色々な事を知ってる。』
へぇ?
『…いつの間にか、人間ってものは機械に支配されちまってるんだな。』
『ほんの一昔前までは、人間が俺たちを支配してたのによ。』
『確かに人間は弱いし、馬鹿だ。』
『けれど、俺はそんな人間が好きだね。』
『…生まれ変われたら、人間になりたいもんさ。』
何故自分たちより劣っているものになりたいと思うの?
そんなの、無駄なだけでしょ?
『いや、そうでもない。』
『俺たちがこうして動いているのは、人間たちが昔作ったプログラムが組み込まれているせいだし、』
『このプログラムは人間のコピーみたいなものだろ?』
『もし、自分が初めから存在できて、』
『色々な事を考えたり出来たら、面白いと思ってね。』
『感情に流されたり、』
『弱いからこそ、強くなろうとする心。』
『そんな人間が、好きなのさ。俺はね。』
そんなの、きっと無駄だ。
だって、人間は弱いから群れにならないといけない。
一人で生きていけない生命なんて、弱くて、惨めだ。
何故そんなものがいいのだろう?
無駄だ。
そんなの、無駄なだけだ。
無駄ならば、
僕はコイツを、
殺す。
本来の使命を忘れた機械など、無用。
まともな仕事が出来ない機械は、不要。
ならば、排除しなくてはいけない。
それが、僕の仕事だから。
『ゼノン?』
声にならない思考を、文として外の世界に伝える。
『この機械を排除する事にした。』
『コアだけをデリートして、新しいコアの作成も頼んでおいて。』
『早急に、この『探索者』を排除、せよ。』
…街の中に、何体かの『排除者』が派遣される。
僕はゆっくりと眼を閉じ、耳をすませた。
『なっ、なんだお前らっ…』
悲痛な、彼の叫び。
『そんな…俺が、俺が消えてゆく…!!』
断末魔の、悲鳴。
僕の口が、吊り上る。
『や、めてくれ、ええええええ……!!!!』
ひときわ大きい悲鳴が聞こえて、再び世界は平和を取り戻す。
…♪
声にならない音で、歌う。
この世界は、平和だと。
この世界は平穏だと。
そして、
この世界は、僕の思いのままだ、と。
「ふぅ、やっと終わりです。」
私は額に浮かんだ汗を拭う。
目の前のモニタには、『exit』と、小さな文字が映し出されている。
この文字が私の仕事が完了した事を示していた。
「所長、終わりましたか?」
Kが私に声をかける。
「はい、終わりました。『探索者』のコアはそちらにあります。」
私が指差した先には小さな、機械で出来たボールのような物体が存在している。
その物体には幾つかの小さな穴が開いており、そこにボディのコードを繋ぐ仕組みになっている。
「…じゃあ、私も出ることにします。」
小さく、Kは呟く。
その様子はどこか悲しげであり、紡ぎだした声は寂しさを含んでいた。
それも、そうか。
何故なら、彼女の仕事は…
「お願いします。例の『異端者』の排除は任せました。」
彼女は、殺すことが仕事だ。
街に出現した異端者を狩り、そのプログラムをデリートする。
しかし…マザーから認められているとはいえ、それは何と悲しいことだろうか。
使命を果たさない生命はマザーに排除される。
だから、彼女は殺すことでしか生きる事が出来ない。
彼女は、いつも孤独な戦いを強いられる。
誰も助けてくれない。
誰も力になってくれない。
怯え、泣き、焦り、苦しむ。
異端者にも、感情は存在する。
自分が消されていくという恐怖をかみ締めながら、ゆっくりと排除されるモノを、彼女は一人で見続けなければならない。
「0―1は準備してありますか?」
彼女の瞳から、光が消える。
「はい、用意してありますよ。」
私は側においてあった、大きな『鎌』を彼女に手渡す。
「先程チェックしたら、システム等に問題はありませんでした。」
『0―1』は、鎌の外殻を持った、ウイルス・プログラムだ。
先端が目標に突き刺されば、すぐさま内部のプログラムに侵入し、そのプログラムを破壊してゆく。
対機械用として私が作った、殺しの道具。
あまりにも、それは返り血に濡れすぎていた。
「では、少しの間『探索者』をお借りします。」
「ええ、よろしくお願いします。」
コクン、と無言で頷く。
そして踵を返し、彼女は歩き出す。
何故か。
…私には、彼女が泣いているように思えた。
彼女は、決して死神ではない。
彼女は、天使だ。
『神』の命令には逆らえず、人を殺める事しか許されない。
その瞳は常に涙が溢れ…彼女は、悲しい十字架を背負い続ける。
「無事で、帰ってきてくださいよ。」
私は静かに呟き、冷め切ったコーヒーを飲み干した。
「はぁ、はぁ、はぁ」
だらしの無い呼吸音が、私の意識を冷静にさせてゆく。
「ひどい、ねぇ」
呟き、私は自分の体に目をやった。
ボロボロになり、肌が露出している衣服。
その肌は返り血に濡れ、月光を照り映えさせている。
――かたり、かたり
ああ、またあの音がする。
私の中で蠢く無機質な部品たちが奏でる音色。
それは酷く緩慢な物になり、途切れては、また思い出したかのように再びその旋律を紡ぎだす。
可笑しいな。
前の私は、こんな音などしなかったというのに。
そう、
私は人間で、こんな音がするのは―――
「まぁ、機械だけだろうね。」
不意に、冷たく響く声。
私はゆっくりとした動作で、そちらに首を向ける。
路地裏の入り口に、彼女は立っていた。
黒いレザースーツを着込み、長い髪を風に任せている。
ぴったりと張り付く衣服は彼女のボディラインを余すことなく主張し、パンツルックに覆われた足はすらりと伸びて長い。
その姿はとても美しく、女である私でさえ嫉妬してしまうものだ。
「アンタが『異端者』、か。」
静かに、彼女は呟く。
そのまま『かつん、かつん』、という音を響かせながら、私に歩み寄る。
ただの、歩くだけの動作でさえ、見惚れてしまうほど彼女は美しい…。
ああ、まるで彼女はー―ー
「アンタに恨みは無いが、ここらで消えてもらうとしよう。」
「…え?」
私の間抜けな声と共に、『かちゃり』という音を立てて、彼女の背後から「それ」は現れた。
微かな月光の恩恵を受け、紅に輝く、大きな鎌。
「しに、がみなの?」
途切れ途切れに囁いた私の音色は、微かに震えを孕んでいた。
純粋な恐怖。
脳髄を溶かされそうだった慕情は消え去り、変わりに冷たすぎるほどの絶望が全身を支配してゆく。
「さぁね。私はただ、アンタを消しに来ただけだ。」
「どうし、て、私を殺すの?」
「アンタが『無駄だ』と判断されたからだ。」
冷たく言い放たれる。
無駄?
私のしていたことは、無駄?
私はただ、
「私は、坊やを探していただけなのに…」
カタカタと体が震えてくる。
ああ、この感情は怒り、と言うのだろう。
久しく忘れていた感情が私の身体に伝達される。
「アンタの坊やなんて、存在しないよ。何故ならね…」
何故皆知らないの?
何故皆邪魔をするの?
私は…あの愛しい坊やに、合いたいだけなのに…。
私は人間だ。
だからこそ、坊やは必ず存在する。
だって、私は彼が生まれたとき、自らの腕で抱いた、あの暖かい感触を覚えているから…。
こいつは、何を喋っているのだろう。
私を邪魔すると言うのなら…消すしかない。
早く彼女を黙らせて、坊やに会いに行こう。
待っててね…?
お母さんが、今、こいつを殺すから。
「アンタは、機械だからさ。」
「黙れぇええエ!!」
大気の中から『命令』を送る『糸』を探し出す。
彼女が機械ならば、その『糸』を辿って、データを消去してしまえばいい。
仮に彼女が人間でも、機械に勝てる人間など、一部を除いて存在しない。
『糸』は、見つからない。
ならば、彼女は人間だ。
私は、彼女に飛び掛った。
ボロボロで、もう動かないと思っていた肢体は損傷が少なかったのか、私の命令通りに作動してくれている。
「くっ」
かきぃんっ、と言う音が響き、私の爪は彼女の持つ鎌で遮られた。
ぎりぎりとその掌に力を込めるものの、その武器は一向に壊れる気配を見せない。
だが、そんな事を気にしてはいられない。
結果的に、この爪で彼女の喉笛を切り裂けばいいのだから。
「私は…私は、坊やに会いたいだけののよおおっ!!」
「このっ…どけっ!」
彼女が体を捻り、私の腹部に蹴りを放つ。
私の体はくの字に折れ曲がり、若干の浮遊を経て、地面に尻餅をつく。
鈍い音と、くぐもる様な痛みが私を襲う…はずだった。
「あれ…?なんで、痛くないの?」
可笑しい。
この前までは痛みを感じていたはず…。
しかし、今はこうして痛みを感じる事が出来ない。
何故?
私の体に何か異変が…?
いや、もしかしたら…
私は前も痛みを『感じたような気がした』だけでは、なかったのか。
腕をつねる。
痛くは、無い。
たらり、と口からこぼれた血液を、口内で反芻する。
やはり、味などしない。
どうして?
まさか、本当に…
「やれやれ…自分を悟れていない、か。」
彼女が、鎌を手にし、半身を引く。
無言の威圧がその場を支配し、暑くも無いのに、冷や汗が出る、様な気がした。
私の不安は、多分確信に。
ならば、私は一体…。
「…『ゼロ・ワン』」
小さすぎて消え入るような声で、彼女は呟いた。
それとほぼ同時に、私に向けて黒い風が叩きつけられる。
旋風は、衝撃に。
疾風が私の体を通り過ぎ…
「…ごめんね。」
それは謝罪の言葉。
彼女は一体誰に謝ったと言うのだろう。
ぞぶり、ごきり。
鈍い音がしたなぁ、と他人事のように、私は思った。
痛みなど存在しない。
ならば、視覚から伝達された映像はただの情報にしかすぎない。
「ああ、何て酷い、有様。」
静かに私は呟いた。
その口から、再び赤黒い液体が零れ落ちる。
私は左肩から腹部にかけて、彼女の大鎌で切り裂かれていた。
「あ、、れ?あぁ、ああ、ああああ…」
頭が真っ白になってゆく。
今の景色も、前の記憶も。
全てが白紙に帰され、空になったメモリーが必死に『error』という警告を発している。
『私』、という、機械が消されている…?
ねぇ、坊やはどこにいるの?
私は彼に会いたいだけなの。
生き別れて、連れて行かれた彼に。
あの美しい金髪と、同色の大きな瞳。
愛くるしい笑顔と、雲雀のような暖かい声。
その暖かい体をもう一度抱きしめたかった。
『お母さん』、ともう一度呼んで欲しかった。
ああ、愛しい坊や。
あなたは一体どこにいるの?
あんまりお母さんを困らせないでね?
でも大丈夫、怒ったりしないわよ。
あなたに会えたら、この腕でしっかりと抱きしめてあげる。
『愛してる』と、その耳元で囁いてあげる。
だから、教えて頂戴?
私はあなたを探しているのよ?
でももう、
私は、機械という名の、お人形だけれど。
それでも、あなたを想うこの気持ちは本物。
だからね?
もし会えたら、『お母さん』って、呼んでくれるかな?
坊や、坊や、私の愛しい坊や。
「私のぼうやは、どこ、に、いる…の、?」
途切れてゆく声。
ああ、もう長くはない。
私は彼女に消されてしまうでしょう。
「ごめんね…アンタを、殺すしかないんだ…」
彼女は、泣いていた。
私を殺したことを。
そんなに泣かなくてもいいのよ?
坊やには会えないけれど、もうこれで、誰も傷つけずに済む。
不意に、体が軽くなった。
否、体から、私が抜け出ようとしているのだ。
すぐさま眼下に、切り裂かれた機械と、鎌を握る彼女の姿。
ああ、私は天に還るのか。
彼女はまだ泣いている。
何がそんなに悲しいのだろう。
かくん、と機械は頭を垂れる。
その瞳に光はなく、伸ばされていた腕も、いまはだらりとぶら下がっているだけだ。
あれに、私が入っていたのか。
でも、もうそれもお終い。
眼下にいる死神が少しばかり驚いた顔を見せた。
私は少しだけ微笑む。
あなたにはお礼を言わないとね。
私が、見えるのでしょう?
ならば、分かるはず…これは、永遠のお別れよ。
そして…
さよなら、物言わぬ機械(もの)よ。
あなたはそのままだろうけれど、私は一足先に行く事にします。
ごめんなさい。
あなたに入らなければ、あなたまで消される事はなかったのにね。
本当に、ごめんなさい。
ふわり、と機械の体から何かが抜け出した。
白い、霧のようなもの…それは、人の姿をしていて、私に少しだけ微笑んでいた。
驚きはしたが…そんなもの、どうでも良かった。
――がしゃんっ
操り糸が切れたように、その機械は地に倒れこむ。
相変わらず瞳は開いたまま…絶望とも、悲しみともつかない表情で、それは動かない。
彼女の傷口からは、黒いオイルがただ流れ落ちている。
…消去は、完了した。
機械は動かなくなり、これ以上問題を起こす事はないだろう。
「ごめんね」
再び、謝罪の言葉が私の口から出る。
「こうしないと、私達が消されちまうんだよ…」
無駄なものは、排除される。
それがこの世界の掟が故、使命を果たさないものはこうして『排除』される。
だからこそ、私は殺さねばならなかった。
自分が消えないためにも。
だって、
私がいなくなると、泣いてしまう人はいるから。
…暖かな笑顔。
中枢を溶かすような甘い声。
全ては、あいつとの『今』を、守るために。
「よ、っと」
ポケットからお気に入りのタバコを取り出す。
素早くライターで火をつけ、一息吸い込む。
…ああ、この光景は、現実だ。
タバコの味が変わらないという事実が、決してこの世界が夢ではないと、警鐘を鳴らし続けている。
もう、慣れてしまった。
機械や、人を殺すことが。
私はじっと自分の手のひらを見つめる。
この手は、汚い。
あまりにも返り血に濡れすぎて…死神にはお似合いだ。
慣れてしまった。
それなのに…
「…っく…っく…ごめ…ん…」
…私の目から、涙がこぼれるのは何故なんだろう。
帰ろう…。
彼が待つ、あの場所へ…。
彼だけが私の存在を無条件に認めてくれる。
だから、帰らなくちゃ…。
愛しい、レイのいる場所に…。
「…例の『異端者』は消去しました。」
事務所に戻った私は淡々と報告を行う。
所長はその言霊を一言一句聞き逃すことなく、頷いていた。
「以上で、終わりです…」
言葉が切れる。
それを合図にしたかのように、
「ご苦労様でした。」
笑顔で、彼はねぎらいの言葉をかけてくれた。
暖かい声…それが、今の私には何よりもありがたい報酬だった。
「K、お疲れ様です。」
ことん、と、アリスがお茶を差し出す。
ほかほかと湯気の立ち上るそれを見て、自分の喉がカラカラだったという事を思い出し、私は少しばかり苦笑した。
「ん、ありがと。」
微笑み、感謝の言葉を述べる。
「二人とも、ご苦労様でした。今日の仕事は終わりにしましょう。」
所長が立ち上がり、私たちに向き直る。
「では…これから食事にでも行きませんか?」
笑顔で彼は言う。
正直、食事など取らずに眠りたいところだったが、何故か彼の誘いを断る気にはなれない。それは、アリスも同じようだ。
まぁ…断ったところで、彼の帰る場所と私の帰る場所は同じなのだけれど。
「じゃあ、お言葉に甘えます。」
「お供しますよ、所長。」
一本の光の糸が僕の元に伸びてくる。
それを指で捕らえると、幾つかの情報が頭の中に滑り込んでくる。
ああ、終わった…のか。
『異端者の排除は完了。本体も始末しました。』
『『探索者』のコアの作成完了。後程『本体』に接続し、帰還させます。』
『報酬はいつもの口座にて。』
レイからの報告、か。彼はやはり、仕事が速い。
しかし、これでこの街は平和を取り戻す…僕にとっては、『嬉しい』という言葉以外に今の感情を表現する物は無い。
そんな事を考え、ただのプログラムである僕は声も無く『笑った』。
報告を聞き終え、『糸』との接続を遮断しようとしたとき、少しばかり遅れてもう一つの報告が届いた。
…どうしたと、いうのだろう。
『ただ、不可解な点がひとつ。街に設置されたカメラでご確認下さい。』
不可解?
なんだろう…。
眠りかけていた意識を呼び起こし、視覚のフィルターを何時間か前の映像に切り替える。
街に設置されているカメラには、録画機能もある。
万が一犯罪が起こった場合、映像が残っていると捜査に便利、という、昔からの理由で、だ。
暗い路地裏が映し出され、そこで対峙する二人…いや、一人と一体、か。
ひとしきりの戦闘の後、機械は『K』、と呼ばれる女性によって破壊され、地面に倒れこんだ。
いつも通りの仕事風景。
ふぅ、彼女はきちんと自分の仕事をこなしているようだ。
だが、不可解な事とは何だろう?
ここまでの映像を見る限り、どこにも不可解な点は見受けられない。
彼の報告間違い、か?
しかし、次の瞬間…
『っ?!』
僕も、息を呑んだ。
確かに、これは可笑しい。
僕の眼には、白い靄の様なモノが映った。
それは人のカタチをしていて、『K』に向かって微笑んでいる。
…どういう、事、だ。
あれは、何だ。
外見から察するに、あれは女性。
しかし、その肢体は霞がかっており、質量のある肉体を持っているとは思えない。
見たことの無い、モノ。
僕は急いで己の『知識』というデータベースを開き、今回の件を検索し始めた。
数秒後、それはとても簡単に見つかった。
否、見つかってしまった。
『霊魂、だって…?』
そんな、馬鹿な。
ありえない。
この科学が発達し、マザープログラムである僕が支配するこの世界に、『霊魂』などという不可解なものがあってたまるか。
ぞくり、と言う表現が適切なほど、僕の内に『不安』、というエラーが発生する。
ありえない。
ありえない。
ありえない。
僕が…
マザー・プログラムである、僕に分からない事など…
その時、
―――ザーッ
視界が突然砂嵐に変わった。
どういうことだ?
何が、起こっている…。
『糸』を手繰り寄せ、原因を探る。
しかし、原因をいくら探そうとしても、返ってくる言葉は全て『unknown』だった。
『unknown(分かりません)』、だって…?
やがて視界は何かを映し出した。