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その男は、毎年数え切れないくらいのチョコレートを、その日に貰う。 それはもう、一人ではおろか、彼に付き従う後輩を使っても到底持ち帰ることのできないほどの量の。 だから今年──中学最後のバレンタイン・デーに、彼、跡部景吾はこう宣言した。 「間接贈与禁止令」 朝、跡部が自分の下駄箱を開けると……やはり入っている。 もはや恒例行事のように。 今時古くさい手段過ぎて手紙も入らない下駄箱だ。 しかしそこには、跡部の上履きを押し潰す覚悟で大量のチョコレートがぎゅうぎゅう詰めになっていた。 「…………樺地」 「ウス」 一言、呟くと、傍らに控えていた大柄な後輩が、あらかじめ用意していた丈夫な麻の袋に、丁寧にラッピングされたいくつものチョコレートの箱を無造作に放り込んでいく。 「ったく……下駄箱に入った食いもんなんか食えるかよ」 うんざりした表情で、跡部は潰れてしまった上履きの形を整え、履いた。 実際彼は非常にうんざりしていた。 毎年この季節には、彼の元には大量のチョコレートが送られる。 それは下駄箱の中だったりロッカーの中だったり郵送だったり。 時には跡部家の郵便箱に直接投函されたものもあった。 贈る側の女子にしてみれば、恥ずかしかったり勇気が無かったりするために、やむなくそういう方法をとっているのだろう。 だが跡部は、これこそが一番気に食わなかったのだ。 ────なぜ直接渡さない? この日にチョコを贈るということは、まがりなりにも自分に好意を持ってくれているということだ。 直接渡した方が印象もいいし、何より、人知れず捨てられたり目の前で突っ返されたりされる心配も無い。……少なくとも跡部は、直接持ってきてくれた者に対してそういう無粋なことはしない。 そして同時に、育ちのいい彼は、下駄箱やロッカーに食べ物を置いておくなどという不衛生なことはしないのだ。 そういうことを懸念して、今年彼は大々的に「間接的に渡されたチョコには手をつけない」と宣言した。 そうすれば、今まで処理に困っていたいろんな所に放置されたチョコに困らされることなく、そして何より、骨のある奴は自分で直接持ってきてくれるだろうと期待していたのだ。 だが結果はどうだ。 先程の下駄箱のみならず、教室に入ってみると机の中にも、去年と同じようにチョコレートの箱が詰まっていた。 数が多すぎて入りきらなかったものが机の上にまであふれ出している。 深く溜息をつきそうになったのをぐっとこらえて、跡部は机の上のチョコを薙ぎ払った。 「誰だこんなものを置いた奴は!せめて名乗り出ろっ!!」 そう吐き出した声と同時に、払われたチョコが周囲に散らばる。 鬼気迫る表情だったためか、それとも、多くのチョコを無惨にも台無しにしてしまったためか……あるいは『跡部様』に対し恐れ多いのか……ともかく、クラス中静まり返り、当然誰も名乗り出るものはいない。 むしろ嫉妬した男子連中からの愚痴ややっかみが聞こえてくるくらいだ。 「…………」 さすがに今のは大人気なかったかと思い直し、跡部は散らばった箱を片付け始めた。 ────あの跡部様が床にしゃがんだ!! クラス中が一瞬、騒然となり、すぐに静まりかえる。 跡部が用意してきた袋に箱を詰め込み、口をきつく縛り上げると、周りにいた女子からいくつも悲嘆の声が上がる。 あの袋が再び開かれることはもうない……跡部の表情からそう察したのであろう。 捨てられるのが嫌なら、最初から俺の言ったことを聞いて直接持ってきやがれ。 跡部は内心嘆息したが、まあこれはわざわざ言ってやることではあるまい。 彼女らは、跡部自らが宣言したにもかかわらず直接渡しにはこなかった────つまり、結局はそれほど自分のことを想ってくれている訳ではなかったのだ。 女子達からしてみれば、そんなことは微塵も思ってはなくて、「恐れ多くて直接渡すなんてとても」とか「抜け駆け禁止!」とかの、色々な理由があったのだが、それを跡部が知る余地もない。 そんな、微妙にぎくしゃくした空気が流れる中、は今日も元気よく登校してきた。 「おはよー……あれ?なんかあった?」 それまでの経緯を知らないにしても、いささか能天気な声である。 慌てて級友たちが事の次第を説明しようとしたが、それよりも早くは珍しいものを見つけた。 床にしゃがみ込んで片付けを行っていた跡部景吾の姿である。 「あ、跡部」 「ん?」 臆することなくは跡部に近づく。 友人達が止めようとしたが、跡部が彼女に気づき、立ち上がった時にはもう既に遅し。 鞄をごそごそと探り、は跡部の眼前に小さな箱を差し出した。 「これ……」 「何だ?」 「チョコレートなんだけど、受け取って欲しいなと」 再び教室は騒然とし始めた。 「ちょっ……!、やめなよ!!」 「跡部様今年は受け取らないって……!」 友人達は必死にに訴える。 間接的に机の中に入れた自分たちですらあれだ。 ましてや、直接渡したがこれから受けるショックなど計り知れない──── そうとも知らずは、泣きそうな顔になっている彼女らの方を不思議そうに振り返る。 「へ?何で…………」 差し出したままだった手の中の箱が引っ張られる感じがしたのは、の気のせいではないだろう。 「?」 「ありがとよ」 「えっ……」 ふと手の中が軽くなり、跡部の方に視線を戻す……と、差し出していた箱は、既に跡部の手に渡っていた。 「あ……あー、う、うん……どう、いたしまして……」 跡部は今度は、例の袋ではなく、自分の懐にのチョコを収める。 なんだか妙に照れくさくなり、はそそくさとその場を後にし、いまだ何事か騒いでいる友人の元へと戻っていった。 「えー!何で何でー!?受け取ってくれたの、のだけだよ!?」 「そうなの?」 「うわーん!もしかして跡部様、のこと好きなのかもー!」 「そっ…そんな、ことは、ない……と思うけど……」 先程の騒ぎ……机の上のチョコを跡部が盛大にぶちまけた事件のことは、が登校する前の出来事だったため、彼女は知らない。 だが、羨ましがる友人達を前に、自身も少々浮かれていた。 しかし何か忘れている気がする。 跡部は本当に、「私のチョコだから」受け取ってくれたのだろうか? どうも、何か大切なことを、忘れている気がする。本当に。 その疑問は晴れないまま、一日は過ぎていった。 そして時間は放課後へと移る。 帰り支度を済ませ、は校門へと向かっていた。 が、ふと「今年のテニス部はどうだったんだろう」と思い浮かび、少しだけ今年の惨状を目に留めておくべく、部室棟の方へと足を向けた。 テニス部のほかのメンバーもまた、毎年大量にチョコを貰うのだ。 とくにここ三年間は、跡部の存在もあって、全部あわせると部室に入りきらないくらい、といってもいいくらい集まる。 自分は無事跡部に渡せたことだし、部全体については遠くからちらっと眺めるだけでも──と、足をそろっと踏み入れてみる。 その視線の先に、跡部とテニス部のマネージャーらしき人影が映ったところで、は「見なければ良かった」と後悔した。 やっぱり、私が特別だからじゃなかった。 部室の裏に佇む二人。 マネージャーが差し出した綺麗な包み紙を、跡部はいつもと同じに……そう、がチョコを渡した時と同じ態度で……受け取っていた。 「……まあ、そんなことだろうとは思ったけど……」 ぽつりと漏らす。 マネージャーの姿は既に無い。跡部に無事チョコを渡し、部活へと戻って行ったのだろう。 そして一人残った跡部────彼は、がそこにいることに気付いていた。 「よう、」 「!」 「ノゾキか?野暮なことすんじゃねーよ」 「わ、悪かったわね……」 あまりにも跡部がいつもと同じ調子なことに、少しどころではないばつの悪さを感じた。 つい、思ったことが素直に口をついて出てくる。 「なんで、私のチョコ受け取ってくれたの……?」 「……は?」 跡部は僅かに眉を寄せた。 聞くまでもない、愚問だ──そんな声が、言わずとも聞こえてくるみたいだ。 だが、どうやらはその答えを理解できてないらしい、と悟った跡部は、溜息をつきつつもさらに答える。 「そりゃ、くれるっつーもんを貰っただけだろ?」 「だって、今年は受け取らないって……それに、さっきの子のだって貰ってたから、私が特別ってわけでもない……んだよ、ね?」 視線を合わせずぶちぶちと続けるに、跡部は今度は盛大な溜息を吐いて返した。 「あのなあ……俺の宣言、聞いてなかったのか?」 「は?」 「だから、『間接贈与禁止令』。今年は直接の手渡しじゃねえと受けとらねえって、アレ」 「………………あ」 忘れてた。 間接贈与禁止令。 跡部景吾が今年宣言した、「バレンタインのチョコレートは直接渡されたものしか受け取らない」という指令。 もちろん、多くの女子はそうすることなど叶わず、砕けていったのだが。 「じゃあ……じゃあ、ただ『直接渡したから』ってだけのこと、だったり……?」 「まあな」 「そおですか……っ」 期待していた。 そんな自分が、少々恥ずかしくなった。 跡部の下した宣言をすっかり忘れて、いつものノリでただ普通にチョコを渡せただけで、何を舞い上がっていたのか、自分は。 ややあって、はずーんと沈んだ表情のまま、その場を後にした。 「……そ、それじゃあ、ね……あーあの、受け取ってもらえたのは、嬉しかったから……」 そしてそのまま、跡部の返答も待たず校門へと駆け出していく。 跡部はしばらくの背中を見送っていた。 「……バカが。お前から貰えて嬉しかった……ってのは聞かずじまいかよ……」 ひっそり呟いた後、跡部も帰途へとついた。 今日はまだ終わっていない。 まだまだ自分にチョコを渡そうとするものがいるはずだ。 間接的にも、直接的にも。 確かに直接貰ったものについては、断る道理は跡部にはない。 だが、それと『嬉しい』という感情は別なのだと思いながら。 今年のバレンタインも、そうして過ぎてゆく。 |
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跡部的自分ルール発動。 「直接持ってくるくらいの気概を持った女じゃないと自分とは付き合えないよなぁ」 とのことで、こんな話。ヒロインとはまだまだっぽいですが(笑) |