たった一人のための歌


一階の天井をぶち抜かれた、廃墟のような佇まい。
そこにかかる梯子をカンカンと鳴らしながら上っていく。
その二階に、私の愛しい人はいつもいる。

「バサラー」
返事が無い。
頭だけをひょっこりと二階に出し、もう一度その名を呼んでみる。
「バーサーラーさーん」


返事が無いのは当然のこと。
そこはもぬけの殻だった。


「おーい!!」
やむなく梯子を下り外に出ると、聞き覚えのある渋い声がした。
「あ、レイ。バサラは?」
「ああ、奴ならそこに……」
バサラのバンドメンバー、レイ・ラブロックに彼の居場所を聞くと、答えが返ってくる前に背後からもう一つの声。
「何だ、来てたのか」
素っ気無い返答に少々むかつきを覚えながらも、私はそれを顔に出さずに振り向く。
頭一つ分上に、いつものすっとぼけた熱気バサラの顔があった。

「ねえ、今日買い物に付き合ってくれる約束だったでしょ?」
「あ、それ駄目になった」
「なんでー!?」
ドタキャンに憤りを感じながらバサラを睨みつける。これから約束をすっぽかすというのに、彼の顔には謝罪の色など見えはしない。
「今日これからライブあったんだ、すっかり忘れてた」
「忘れてんじゃないわよそんな大事なこと!」
「今さっきレイたちが来てやっと思い出したぜ」


何てことだ。
マネージャーさんとかレコード会社の人たちはいったい何をしているのだろう。
この忘れっぽく気まぐれで、しかもそれを悪いとも思ってないらしい面倒な男を何とかして欲しい。

まあ、その面倒な男に惚れた私も私だ。
こんなことは今日が初めてじゃないのだ。

それを思い出し溜息をつくのを気取られたのか、バサラは手をぽんっと叩くと担いでいたギターを下ろし私の肩に手を乗せた。
「いっつもこれじゃ悪いよな。よし、じゃあ今日はお前に付き合ってやるよ」
「え、それは…嬉しいけど……ライブどうするの?」
「すっぽかす」
「ええっ!?」
これにはさすがに驚いた。
別に駄々をこねたいわけではないのだが、バサラが自分を優先してくれるのはそれはそれで嬉しい。
だけど、彼はプロだ。ライブに出ないなんてあっていいわけが無い。


それに、バサラのライブさぼり癖はファンの間でも有名だ。
これ以上そんなことをさせるわけにはいかない。
「だ……」
「駄目よバサラ!お客さんが待ってくれてるのにデートなんかで潰していいわけないじゃない!!」
ライブを優先させようと出掛かった私の言葉は、バサラの背後からのその声にかき消された。

見ると、赤のレザースーツに身を包んだ赤毛の少女が、腰に手を当ててこちらを──と、いうよりはバサラを睨みつけている。
彼女もバサラの所属するバンド『Fire Bomber』のメンバー。このシティ7の歌姫、とも呼ばれるミレーヌ・ジーナスだ。

「いいじゃねえか別に。いつものことだろ」
「いつもそんなんじゃお客さんに失礼よっ!大体バサラはねぇ……」
しれっと答えて流そうとしたらしいバサラを、しかしミレーヌは許さずその腕をぐいぐい引っ張ってワゴン車に押し込む。いったい彼女のどこにそんな力があるのだろうか。
「おい、っ!買い物は!」
「ライブが先!行ってらっしゃいっ!」
それでもめげずに車から身体半分出してこちらに向かおうとしたバサラを、私は笑って送り出した。
バサラがちゃんと中に戻る前に、レイがアクセルをふかす。

「うわっ、ちょっと!ちゃんと乗せろ!」
そんなバサラの悲鳴を消し去るように、メンバーの最後の一人……ドラムのビヒーダが車の窓ガラスを叩いていた。


さて、一人アクショに取り残された私。
今日の予定がなくなってしまったので、とりあえずバサラ宅に入り、冷蔵庫からレモネードを取り出して一口含む。
ライブに行く、という手もあったが、今日のはバサラがど忘れしていたおかげでチケットが手に入らなかった。
メンバーの秘密の恋人なのに一ファンと同じ場所に立つのも、なんとなく嫌だ。それに、もしばれてしまったらとんでもないことになりそうでもあるし。

ベッドに倒れこみ、天井を見つめたまま一人呟く。
「はーあ……もっと普通の恋人になりたいなぁ……」
例え忘れっぽくても、死ぬほどアバウトな人間でもいいから。
二人は恋人同士なのだと、大手を振って街中を歩いてみたい。
「どうやったら…できるかな…………」


そんなことを考えている間に。
私は睡魔に襲われ、そのまま眠りについてしまった。


まどろみの中、かすかにギターの音色が聞こえてきた。
この懐かしくも優しい感じは、バサラのアコギだ。聞き間違えたことは無い。
「う……んー…………」
「起きたか?」
「あ……」
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。私の横たわったベッドの脇に座って、バサラが静かにギターをかき鳴らしている。
寝起きにそんな優しいメロディーを流されたら、なんだか気恥ずかしくなる。ただでさえ恋人のベッドを占拠して、その恋人に起こされたのだ。
二人で朝を迎えるように。

「今、何時!?」
私はがばっと跳ね起きると、バサラは振り返りもせずに「夜」とだけ答えた。ステージ衣装のままだ。時計を見る暇ももどかしく演奏に没頭しているのだろうか。
身体を反転させ、バサラの横に頭を移動させると、私はベッドに頬杖を付いてしばらくその音に聴き入っていた。


やがてそれも終わるころには、寝転がっていた身体をすっかり起こしてバサラの隣に寄り添うように座っていた。

彼の胸元に頭をあずけて、独り言にも思える小さな言葉をぽつぽつと紡ぐ。
「私ねー……」
「ん?」
独り言で済ますつもりだったが、思いがけずバサラが返事をした。私は少し迷った後、またぽつりと小さく漏らした。
「私ね……歌手になろうと思うの」
「……なんで?」

バサラが僅かに身を引き、私の顔をまじまじと見つめてくる。問う口調は、本当に何故か分からなさそうだった。
今までもたれかかっていたため、危うくバランスを崩しそうになり慌ててバサラの腕にしがみつく。

いきなりそんなことを言われても戸惑うだけだよね。
私は体勢を整えまっすぐ座りなおしてから、再び、今度ははっきりと言った。
「私、歌手になる。バサラと同じ場所に立ちたいもの」
「何だそりゃ?」
かなりきっぱりと、しかも理由まで言ったのに、バサラはやっぱり分かっていなさそうだった。


これは今思いついたのではなく、常々考えていたことだ。
バサラは芸能人、しかもシティ7のスターだ。
そんな彼と一般人の私では、付き合っていくのは多少困難を伴う。

かといって、多忙なバサラのスケジュールを一市民である私が強引に変えさせるなど出来ない。
それに、二人で街を歩こうものならスキャンダルのいい餌になってしまう。


それなら、私も有名になれば世間的には2大スターカップルとか何とか言われて、プライバシーは多少侵害されるけれど今ほど遠慮して付き合わなくてもいいのではないか、と、そう思ったのだ。
我ながら甘い考えではあると思うが、そろそろこの窮屈な関係から脱出したいのだ。


バサラはいつもの無表情でしばらく私を見つめていたが、小さく、しかしはっきりと言い放った。
「無理だな」
「な…なんでよ!?」
「歌ってみりゃ分かるさ」
私の頭を、まるで子供にするかのようにぽんぽんと撫でて、バサラは床に置いたギターの手を伸ばす。
憤りを感じたのも束の間、彼の指から奏でられる音色によって、心がすっきりしてくる。

シャロン・アップルだ。Fire Bomber以外で私が一番好きな歌。
あの不思議なメロディーをアコギ一本で表現するとかなりイメージが変わってくる。
しかし、感じは違えどバサラの奏でるシャロンは、また別の美しさをもって耳に届いた。

この歌を歌え、という、バサラからの合図。

私はベッドから降りて立ち上がり、握った手をマイク代わりに、心のすべてを込めて歌った。
まるでちょっとしたオーディションのように感じられたが、生半可なオーディションよりも緊張した。
そうだ、きっと銀河中に歌を届ける役目を担ったリン・ミンメイもこんな気分を味わったのに違いない。


サビの部分に入り、私はいちだんと盛り上がった──いわゆる「ノってきた」という感覚だ──が、吸い込んだ息は、歌詞へと変換される前に生暖かい感触に飲み込まれた。
やっと目の前に焦点が合うと、そこにあったのは至近距離に鼻に引っかかった小さな眼鏡。
いつもぎらぎらと輝いている瞳は、意外に多い睫毛の奥に隠されている。

「っ……な……!」
やっと唇が離れると、私は口元を押さえてバサラを見遣った。
プロから「歌ってみろ」と言われて……いわばオーディションの最中にキスで中断させるなんて、一体何を考えているのか。
見れば、先程までの無表情ではなく口端を持ち上げてにいっと笑っている。
「やっぱ無理だな」
「何でよ」
「お前、俺のことしか考えないで歌ってたろ」
「えっ……」

こういう時のバサラはなんだか得意げに見える。
彼はギターを元あった場所に戻すと、ベッドにどかっと腰を落ち着けた。
「それじゃあ俺にしか伝わらないぜ?」
「そう、か……皆に伝えたいことがあるから、皆に向けて歌うんだもんね……」


ひどく納得してしまった。
その一言に、バサラの歌手生命が全部込められているような気がして。
歌は技術だけがすべてじゃないのだと思い知らされる。
「だから、さ」
「え?」
まだ何かあるのか、バサラは私の手を引いて隣に座らせた。肩が並ぶと、私のそれを引き寄せて耳元に近づける。
の歌は俺の歌。……他の奴が聴いても意味無いってことだ」
「何それ」
たまらず私は吹き出した。
うけたからではない。バサラがそんなことを言うのが少しおかしくて、そして嬉しかったから。


バサラのとがめる声も聞こえず、やがて笑いがおさまったころ。
私はやっと立ち上がり、彼に背を向けたまま告げる。
「でもね、やっぱり私、歌手を目指すよ。歌うの、好きだから。それに……」
くるりと振り返ると、予想通りそこにはぽかんとしたバサラの顔。


「たった一人に向けたラブソング、これからは流行るよ」
満面の笑みを向けると、バサラは「勝手にしろ」といった顔をした。




バサラに愛の歌を。大好きです。愛してます。

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