Who is She?


その部屋にはほろ苦い香りが漂っていた。


その香りの元の傍らに立ち、琥珀色の液体がぽたぽたと下のサーバーに溜まっていく様子を見ている少女が一人。
名はという。
はそのすばらしく良いにおいのする液体──ただのコーヒーなのだが──が立てられていくのをじっと見つめていた。

ここ、大空魔竜の談話室は、今は人もなくしんと静まり返っている。
規則正しい水音だけが小さく響き、もそれに耳を傾けていた。
が、背後から硬い靴音を響かせながら、何かが近づいてくるのを感じ、はふと振り返った。


「──あ、ゼンガーさん」
「ひとり……か?」
「はいっ。みなさん、一矢さんとファン・リーさんの他流試合を見に行きましたから」
「そうか」

それだけ言うと、靴音の主──ゼンガー・ゾンボルトは壁にもたれかかって目を閉じた。
の「もうすぐコーヒー出来ますよ」との言葉にも、表情を変えず黙って頷くだけ。
そんな無愛想な男の様子にも、は最近は何だか微笑ましさを感じている。
『この人は自分の気持ちを表現するのが下手なのだ』……と。
だから、短い返事しか返ってこなくても、気にせずにゼンガーに話しかけるのだ。こういう人は、やたらと気を遣うよりも素直に接した方が良いと思って。

コーヒーメーカーの置かれた台に肘を付いて、はゼンガーの方へ顔だけを向けた。


「ゼンガーさんはブラックでしたっけ」
「ああ」
「私、最近バリエーションコーヒーに凝ってるんです。すごいんですよ大空魔竜!フォームドミルク作る専用の器具があったり」
「……そうか」
「せっかくだし、今日はそれ入れてしてみましょうか……あ、もちろんゼンガーさんの分はノンシュガーで」
「俺は……お前の淹れたものなら何でも良い」
「ゼンガーさんがそう言ってくれるなら、張り切って作っちゃいますよー!」


言葉少ななゼンガー相手に、これだけの会話をぽんぽんと切り出せるで、相当すごいのではなかろうか。


とまあ、それはともかく、ゼンガーに言われてすっかり機嫌を良くしたは、鼻歌交じりに小型の冷蔵庫からミルクを取り出す。
一寸しゃがんだその瞬間に、彼女の顔が僅かに曇ったのを、ゼンガーは見逃さなかった。


「……
「え?わぁっ!?」
声に振り向くと、すぐそばにゼンガーの顔があった。
はすぐに立ち上がると、元のように笑う。
「もう、やだなーゼンガーさん、おどかさないでくださいよー」
「む……済まん。だが……」
「?」
少し言いにくそうに言葉を切るゼンガーが、意外にも真剣な表情をしているのには首を傾げる。
ゼンガーは少し迷った後、の肩に手を置き、言った。
「無理は……するな。まだ、不安なのだろう」
「…………」

はぽかんと口を開けたまま、しばし固まっていた。


「……やっぱり、分かっちゃいますか……?」
やがて苦笑しながら彼女の口から漏れた言葉は、今までの楽しそうだった様子が嘘のような、小さい声。

見抜かれているんだ、この人には。
さっきのも空元気だと。
本当はまだ不安なのだと。

それはそうだ。
ゼンガーとは、目覚めた時からずっと一緒なのだ。
言ってみれば、記憶を無くしてからの自分の全てを知られている、ということだ。

は頭を掻くと、ゼンガーに背を向け、取り出したミルクを台に置いた。



「私って一体何者だと思います?」

そう自問するように言って上げた彼女の顔は、いつも通りの明るい表情になっていた。そのままサーバーからカップに二人分のコーヒーを注ぐ。
ゼンガーは一瞬面食らったが、どうやら今度は無理して明るく振舞っているわけではないらしい。
その証拠に、無意識のうちに強張っていた彼女の体は今は完全なリラックス状態にある。


これは、自分を信用してくれているということだろうか。
ゼンガーは心の中で問うた。
多くを語らないゼンガーに、こんなにも心を開いてくれているを嬉しく思う。
それが例え彼女の本来持っている性質だというだけだとしても。


「俺はお前の素性について、詳しく知らない」
「……はい」
落ち着いた様子で、が頷く。
彼女の手から白い泡の立ったコーヒーカップを受け取ると、一口啜ろうとするが、が何だか神妙な顔をしてゼンガーの言うことに耳を傾けていたので、少し待つ。
そしてカップを利き手の反対側に持ち替えて、をしっかりと見つめた。

「だが、過去がどうであろうと、その人間の持つ本質は変わるものではない」
「……?」
きょとんとするに、僅かに溜息を吐きながら言い直す。
「お前が何者であろうと、お前はお前だ。そして俺のに対する態度も変わらない」

不器用に告げて、ゼンガーはの頭に手をやった。
ぎこちなく髪を梳いてやると、くしゃりと柔らかい感覚が手を覆う。
自分のカップを両手で持ち、はそれを少し照れた表情で受け入れていたが、内心では先程のゼンガーの言葉をじっと反芻していた。


ゼンガーはのありのままを受け入れている。

が彼の言葉の意味を噛み砕いたのと、彼の口端が僅かに上がったのとは、ほぼ同時であった。
つられても、にっこりと微笑み返す。


何だか、嬉しい。
そう思うと、の体が勝手に動いた。


「なっ……何を」
「えへへっ」

何をする。
の一言を全て言い終える前に、の嬉しそうな笑顔が視界に入る。
見ればは、ゼンガーの腰にぎゅっと腕を回していた。
その力は女の子としてはやや強めで、無理に振り解こうとすると、かえって彼女を傷つけてしまうかもしれない。
「っ、……」
「えへへへ」
どうあってもしばらくは離れてくれそうに無いので、ゼンガーは僅かに染まった頬を隠すかのごとく、すっかりぬるくなっていたコーヒーを一気に飲み下した。


刹那。


「!!」
「……ええっ!?ぜ、ゼンガーさんっ!?」

どさり、と。
ゼンガーの体は音を立てて倒れた。
当然、その体に抱きついていたもろともに、だ。
「ゼンガーさん?ゼンガーさーんっ!!」
慌ててはゼンガーの体を揺すぶり起こそうとする。
だが、それもむなしく、彼が目を覚ますのはそれから数十分後のことであった。


原因は、が香り付けのためにコーヒーに数滴垂らした、四谷博士秘蔵のブランデー(ロペットの腹に内蔵)に酔っ払ったためであった。
しかし、がそのことを知るのはかなりの時間が経ってからである────




朱凛様、リクエストありがとうございました。
連載での日常ネタって書いたこと無いので、とっても新鮮でした。
最後ちょっとギャグオチでしたが…(汗)ご期待に添えていると幸いです。

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