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タイトル[創氏改名]は過剰親切心だった
記事No7
投稿日: 2004/07/15(Thu) 09:43
投稿者ZN(旧BBS)
URLhttp://www8.tok2.com/home2/aramar88/
「創氏改名」は過剰な親切心からのものだった


/題: 代理メールにて受信したZNさんの原稿をそのまま転載
  :名前: 管理人(A) /2003年07月23日 19時04分



From: "MMMMMM" <MMMMMMMM@MMM.MMMMMMM.co.jp>
To: "aramar" <jp>
Subject: うぇっぶだいありぃ・・・材料
Date: Wed, 23 Jul 2003 18:15:26 +0900
=================
以下はZNさんの文章です。
=================

「創氏改名」は過剰な親切心からのものだった



■(解説1)「創氏改名(そうしかいめい)」とは?
 朝鮮半島が日本統治下にあった戦前の一時期、朝鮮の人々が日本式の名前を名乗っ
たこと。たとえば「金光洙」という名前であれば「金山光夫」のように日本式の名字
に変えた。(変えなかった人もい
る)。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。



■雑誌「正論」と「諸君」が特集記事
 麻生太郎氏の発言以来、なにかと論争ダネになった「創氏改名」だが、雑誌「正
論」と「諸君」の8月号がそれぞれ特集記事を載せた。おかげで「創氏改名」の正体
がはっきりした。


■教育資料として要約した
 「創氏改名」のことを全く知らない中高生、及びこの種の情報にうとい一般社会人
のための《教育資料》とするため、歴史の流れも含め、できるだけ簡潔に要約および
解説した。

●歴史的名称「支那人・朝鮮人」を使用した。
●もし内容に間違いがあれば訂正するので、お知らせ願いたい。



(1)麻生氏の発言と朝日新聞の反論

■自民党・麻生太郎氏の発言要旨
 「当時朝鮮の人たちが日本人のパスポートをもらうと、名前に『金』などと朝鮮名
が書かれ、それを見た満州の人たちが『朝鮮人だな』といって、仕事がしにくかっ
た。
 それで、朝鮮の人たちが『日本式の名字をくれ』といった。これが創氏改名の始ま
りだ」


■朝日新聞の反論要旨
 これに対し、早速朝日新聞は社説で噛みついた。

 「麻生氏が指摘したような事実は、部分的に、あるいは一時期あった。しかし、創
氏改名は日本が朝鮮の人々を『皇民化』するために、心の内側にまで統制を加えよう
とした政策だ。
 朝鮮の人々のなかに日本式の名字を欲しがった人がいたとすれば、なぜなのか。植
民地支配が生んだ差別を逃れようとしたからだ」


 はたしてこの朝日新聞の反駁は正しいか?
 順を追って見てゆくことにしよう。


(2)『創氏』と『改名』と呼んだ方がよい

■(解説2)
  一般に「創氏改名」と呼ばれているが、私は両誌を読んだあと、「『創氏』と
『改名』」と2つに分けて呼ぶ方がよいと思った。なぜなら、あとで説明するように
「創氏」と「改名」はまったくちがう性質のものだからである。このため、この要約
では以下『創氏』と『改名』と記す。


(3)日本は朝鮮を植民地にしたのではない



  ・・・・・・・歴史の流れ(解説3)・・・・・・・



■1、植民地ではなく両国は「合邦」した
 日本は朝鮮を植民地にしたのではなく、おおまかにいって安全保障上の問題で朝鮮
を併合(合邦)したのである。明治43年(1910年)のことであった。


■2、朝鮮側の「一進会」が合併を求めた
 朝鮮側では「一進会」という公称百万人の会員を擁する団体があり、日本との合併
を強く求めた。むろん、日本国内にも朝鮮合併には賛否両論があり、伊藤博文は反対
論者だった。


■3、伊藤博文暗殺で合併が加速
 ところが1909年、朝鮮人青年・安重根(あんじゅうこん)がハルビン駅で、当時の
朝鮮統監・伊藤博文を暗殺したため、日本の世論は激昂、朝鮮においても合併派が勢
いづき、翌年双方の合意で合併した。
 日本は欧米諸国へ打診、「東アジアの安定のために良いこと」と賛意を得ている。
合邦は侵略ではなく、国際法違反でもない。


■4、当時の朝鮮の状況
 当時の朝鮮は儒教原理が支配する国で、両班(やんぱん)と呼ばれる特権階級を除
き、庶民が教育を受けることもなく、小作人・奴婢という身分制度で縛られ、近代化
に大きく出遅れていた。また、政治家は清国派、ロシア派、日本派に分かれて争い、
一進会などの改革派が日本との合併によって朝鮮を近代化しようとした。


■5、日本国内と同じ社会基盤整備・教育制度の整備 
 植民地ではなく、「合邦」なのであるから、日本国内の施策が朝鮮半島においても
等しく施行されることとなり、日本は朝鮮半島全土に鉄道を敷き、道路を整備し、河
川を改修し、山に植林し、ダムや発電所、工場をつくり、小中高等学校、大学を建て
教育の普及をはかり、近代産業社会の基礎をつくった。

 これらの資金はすべて日本からの持ち出しである。
 植民地経営とは資源を収奪するものであって、日本の朝鮮政策は断じて植民地経営
ではない。ともかく朝鮮半島を「内地」と同じレベルにあげようとしたのである。な
お、このため日本は北朝鮮にかぎっても、8兆円とも概算される日本資産をもつ。





(4)朝鮮の戸籍制度はどうなっていたか?
   これが分からねば
   「創氏」と「改名」は理解できない。




■1、朝鮮は「氏」がない
 朝鮮では日本における「家」の称号としての「氏」はない。
 朝鮮人の「金、朴、李」などの「姓」は、日本人が「高橋家/鈴木家・結婚式会
場」などと使う、「家の称号」としての「氏」とはちがい、同姓血族集団全体におけ
る「個々の血統書」のようなものである。これは日本人には理解しがたいが、以下読
んでいただくと概略わかってくる。


■2、朝鮮では夫婦別姓
 妻は夫の姓を名乗らず、夫婦別姓である。
 子供はすべて夫の姓を名乗る。
 儒教社会は完璧な男尊女卑であり、男系社会である。したがって夫婦別姓といって
も、いま日本の左翼人がやかましく要求している夫婦別姓とはまったくちがう。いわ
ば女は子供を産む道具のような存在でしかない。そういう意味での夫婦別姓である。


■3、男系血統図は「族譜(チョクボ)」と呼ばれる
 同姓の血族全体の男系血統図は「族譜(チョクボ)」と呼ばれる。これは、儒教を
もとにした男子だけの血族・宗族集団であり、一族を総称して「門中」という。

 この「族譜」は一族のあいだで世代交代ごとに編集・印刷・頒布される。族譜には
男子名だけが記され、女性は「母」または「女(むすめ)とだけ記される。(韓国で
は最近は女子の名前も記されるようになったという)


■4、「本籍地」は朝鮮では「本貫(ほんがん)」という
 朝鮮人の姓は、金、朴、林、安、李など、あまり多くない。
 では、たとえば「金」という姓の人は全部同じ血族集団かというとそうではない。
同じ金氏でも「全州・金氏」とか「金海・金氏」のように「地名+姓」で区別され、
地名の部分を「本貫」という。
 日本では本籍地を移動することはできるが、朝鮮では「本貫」を移動することは絶
対に許されない。


■5、たとえば「全州・李氏」は全土に二百数十万人いる
 李朝朝鮮を建てた李・成桂の血族集団である「全州・李氏」は現在韓国に二百数十
万人いる。その宗親会とも呼ばれる超巨大祭祀組織のトップは旧李王家の李・垠(ぎ
ん)、方子(まさこ)両殿下の子息の李玖氏が推戴されている。


■6、同姓娶(めと)らず、異姓養わず
 たとえば、この「全州・李氏」間の婚姻は絶対に許されない。
 「同姓娶らず、異姓養わず」という儒教のきびしいルールがある。「同本同姓」の
カップルは朝鮮ではありえない。また、日本でときおり見かける「いとこ同士」の結
婚など禽獣に等しいと言って、コリアンはいまも日本人を蔑む根拠にしている。



■7、朝鮮の「姓」は日本の「氏」とどうちがうか
   (解説4)
 日本では、その家に男子が誕生しなかったら娘に「入り婿」をもらって「家」を存
続させる。あるいは子供が産まれなかったら「取り子・取り嫁」といったことすらあ
る。つまり日本ではアカの他人を入れても「家の存続」をするのだが、朝鮮では、姓
のちがう養子をもらうなどは絶対に許されない。



■9、日本人には実感できない男系血族意識(解説5)
 日本人も他民族とおなじく血縁を大切にするが、たとえば古代名家の藤原氏にして
も、子孫がふえ、その住むところを異にすると「藤」の1文字をとって「遠藤」「近
藤」「藤堂」のような姓となり、あるいは住んでいる地名をとって全くちがう名字に
なり、ちがう「家」になってしまう。

 というわけで日本には名字(家名)が30万ほどもある。これは日本が封建制度を
経験して「家」の意識ができたのにくらべ、朝鮮は封建制度の経験がなく、儒教原理
の身分制度によって社会ががんじがらめに縛られていたからである。

 ともかく日本人にとって朝鮮人の「巨大血族集団」の概念は実感しがたいが、日本
と朝鮮の戸籍制度はまったくちがうものであった。

 

(5)「創氏」と「改名」への歴史の流れ
   満州居住朝鮮人の要求からはじまった。



■1、勝手に日本名を名乗っていた朝鮮人がいた?
 明治末期「朝鮮人の姓名改称に関する件」という朝鮮総督府令が出ていた。その内
容は、日本名を名乗るのは許可制とし、事実上の禁止令であった。ということは、早
くから勝手に日本式の名前を名乗っていた朝鮮人がいたものと考えられる。


■2、昭和7年・満州国成立と日本式名前の要求
 日本が朝鮮を併合し、朝鮮人が「日本国籍を有する者」となったのは明治43年
(1910年)のことであったが、上記のような事例を除き、朝鮮人はずっと朝鮮式の名
前を名乗っていた。

 しかしながら昭和7年(1932年)「五族協和※」をかかげる満州国が成立してか
ら、満州国に居住する朝鮮人の間から「われわれも日本国籍をもつのだから日本式の
名前を名乗らせてくれ」という要求が強くなった。(※五族=日本人・漢族・満州族
・朝鮮族・蒙古族)


■3、満州で支那人からいじめられていた朝鮮人
 朝鮮人は清朝時代から満州(現・中国北東部三省)へ移住し、朝鮮族のコロニーを
つくっていた。現在でも延辺朝鮮族自治州(吉林省東部)に住む朝鮮系中国人はこれ
らの子孫である。

 ここに住む朝鮮人は支那人に劣等感をもち、支那人からのさまざまな差別や虐めに
憤慨していた。このため両民族の仲は険悪なものとなっていた。そこで朝鮮人たちは
「日本国籍をもつ者・日本人」として支那人に接しようとした。


■4、われわれも日本人だ。日本式の名前をくれ。
 ところが、満州国に暮らす朝鮮人は日本人の格好をし、日本語を話しても、名刺や
パスポートには朝鮮式の名字が書かれている。これでは「おまえ朝鮮人だな」と支那
人にすぐばれてしまう。
 そこで「日本式の名前をくれ」という政治的な要求となり、やがて満州だけではな
く、この要求は朝鮮半島全体にもひろがっていった。


■5、「内鮮一体」「一視同仁」「日鮮同根」
 当時、朝鮮では日本人のことを「内地人」と呼んでいた。
 そして「日本国籍をもつ者として、内地人と朝鮮人はどこがちがうのか、同じでは
ないか」という「内鮮一体」のスローガンが叫ばれた。

 また事実、日本の朝鮮統治政策は「日本人と朝鮮人を区別せず、同じ処遇をしてゆ
く」という「同化政策」にあった。日本人と朝鮮人との結婚も奨励されていた。(旧
李王家には日本の皇族の方子様が嫁がれた)

 天皇陛下も「一視同仁」(だれかれの差別なく一様に仁愛を施すこと)を言われ、
また、合邦を前後に、歴史学会や言語学会で「日本人と朝鮮人は同じ民族のルーツを
もち、日本語と朝鮮語は近縁関係にある」などの時流に乗った学説も広く唱えられる
ようになってきていた。

 また、西欧列強の植民地主義に対抗し「アジアは一つ」といったアジア覚醒思想も
あった。朝鮮半島における「創氏」と「改名」はこのような時代の潮流、あるいは日
本人の朝鮮政策における「善意」、「日本人と共にやろう」という朝鮮側の「熱意」
を根底にして考えなければならない。



■6、「日本式の名前に変えてもよい」という政令発布
 このような状況のなか、昭和15年(1940年)2月11日(紀元2600
年)、朝鮮総督府政令第19号が施行された。(発布は昭和14年)

 「朝鮮人戸主は本令施行後6月以内に新たに氏を定めこれを土地の役所に届け出る
ことを要す。届け出を為さざるときは本令施行の際における戸主の姓をもって氏とな
す」
 というものであった。


■7、朝鮮式戸籍の「姓」「族譜」を廃止したものではない
 この政令は朝鮮式の戸籍制度を否定・廃棄したものではない。
 従来の朝鮮式の姓や族譜は温存された。

 これは、いわば「朝鮮人は日本国籍者だから、日本式の名前を名乗ってよい。そう
するには日本式のファミリー単位の『氏』と『夫婦同姓』が必要となる。朝鮮式の戸
籍は残しておいて、日本式にあらたに『氏を創り』、元の戸籍に上乗せすればいいで
はないか」という、かなり「便宜性」の強いものだったといえよう。

 だから「朝鮮人の文化・アイデンティティを奪った、民族の抹殺」という左翼や朝
鮮側の非難はまったく見当ちがいとなる。政令19号は元の姓や族譜を法律で廃止さ
せたわけではない。


■8、「創氏」と「改名」は強制か否か?
 「創氏」と「改名」は「強制」であったかどうかが議論される。そこをはっきりさ
せてみよう。「創氏」は「政令」であるから、当然ながら法的拘束力をもつ。そうい
う意味では強制である。
 
 しかし「創氏」をしなかった者を牢獄へ入れるとか、就職や教育で差別するとか、
パスポートを発給しないとか、暴力をふるうとか、そのような意味での強制は全くな
い。また、当時の朝鮮総督は「強制してはならない」との通達を3回出している。
 このように「強制」という言葉の意味には法律そのものと、実施手段におけるもの
との2つがある。

 ●創氏律は80%
 政令施行半年後の結果はどうなったか。
 たとえば「金」という姓から「金山、金田、金原」などの日本式氏名にかえた人、
つまり「創氏」した人の割合は80%であった。したがって残りの20%は「金、
朴、李」などがそのまま「氏名」となった。

 以上のことから考えて「なにが何でも、懲罰を科しても日本式の氏名を名乗らせ
る」という「強制」はなかったといえる。そのような強制があれば、創氏は限りなく
100%になったはずである。



■9、「改名」は希望者のみ。有料であった。
 また、たとえば「金光洙」という名前から「金山光夫」などとセカンドネームも日
本式に「改名」した人は半分以下であった。

 「改名」にはまったく法律上の強制性もなく、希望者が届け出をすればよかった。
しかも有料であった。(※1人が50銭。後に1家族で50銭。当時一流大学卒業の
初任給は75円。現在の初任給を20万円とすれば、当時の50銭は現在の1350
円ほどか)

 金を出してまで改名した人がいたということは、仕事などでそれなりに有利であっ
たかと思われる。あるいは、改名者は精神的にも日本人になりきろうとした知識人な
どが多かったという。

 このように「創氏」と「改名」はまったく性質のちがうものであった。したがって
混同から生じる誤解をさけるため、ひとからげに「創氏改名」と称するのではなく、
「創氏」と「改名」と分けた方がよいと思うのである。


■10、朝鮮人の姓名の歴史(解説6)
   彼らはすでに「バツイチ」であった
 朝鮮人の古代の姓名は、今とちがって朝鮮読みの長ったらしいものであった。
 新羅時代、支那の支配をうけるようになって、功績のあった者が支那皇帝から支那
式の名を賜った。歴代の朝鮮王はこれをまね、功績のあった部下に支那式の名前を与
えるようになった。これが朝鮮人の支那式姓名のはじまりである。

 支那式の名前をもっていたエリート階級は「両班(やんぱん)」と呼ばれ、これは
おおまかに言って高級官吏とエリート軍人を意味する。はじめ庶民は姓をもっていな
かったが、やがて庶民にも支那式姓名がひろがっていった。

 日本が併合したとき、多くの庶民は姓をもっていなかったが、四民平等の政策で姓
を名乗ることを許した。エリート階級の「両班」は「族譜」による先祖代々の血統を
誇りに思っていたが、庶民階級にそのような意識は薄かった。

 しがたって、以上の「創氏」と「改名」に大きな抵抗感をもったのは「両班」階級
であり、庶民は、日本の庶民と同じく、そのような血統意識は薄く、日本式名字にあ
まり抵抗もなかったとものとも思われる。

 なにかと非難される「創氏」と「改名」だが、歴史をみると彼らはすでに「バツイ
チ」であった。この「バツイチ」、支那人からもらった「ご褒美の姓名」がもとなの
だが、民族の文化が奪われたことに気づかないのだろうか。



■11、親日的であった戦前の朝鮮人(解説7)
 併合時の明治43年(1910年)の朝鮮の人口は約1300万人で、昭和17年(1942
年)は2600万人と倍増している。これは日本の朝鮮政策が良かったからである。

 日本との併合は民族の自負心からいって好ましいものではない。
 それは認めよう。しかしながら、日本の朝鮮政策は概して良好で良心的なもので
あった。そのため、大きな反日運動も起こらず、朝鮮国民は李朝朝鮮時代とくらべ、
はるかに豊かに暮らすことができるようになり、日本に対して親近感をもつ人が多
かったのである。

 朝鮮人が反日に転じたのは、戦後の李承晩大統領による反日教育がもとになってい
る。いま70歳、80歳の故老の人たちは今も親日的なのだが、それを口にすると売
国奴呼ばわりされるから言えないらしい。



■11、第3代 朴大統領は日本の善意を認めていた
   (解説8)
 併合について朴・正熙第三代韓国大統領は石原慎太郎につぎのように語っている。
(※平成14年11月6日・産経新聞・石原慎太郎知事の講演より)


 ★あのとき、われわれは自分たちで選択したんだ。日本が侵略したんじゃない。私
たちの先祖が選択した。もし清国を選んでいたら、清はすぐ滅びて、もっと大きな混
乱が朝鮮半島におこったろう。

 ★もしロシアを選んでいたら、ロシアはそのあと倒れて半島全体が共産主義国家に
なっていた。そしたら北も南も完全に共産化された半島になっていた。日本を選んだ
ということはベストとはいわないけど、セコンドベストとして私は評価している。


 また、教育と日本人の善意については


 ★私は貧農の息子で、学校に行きたいと思っても行けなかった。日本人がやってき
て義務教育の制度を敷いて子供を学校に送らない親は処罰するといった。日本人にし
かられるからというんで学校へ行けた。

 ★その後、師範学校、軍官学校に進み、そこの日本人教官が、お前よくできるな。
日本の市ヶ谷の士官学校へ推薦するから行けといって入学。主席で卒業し、言葉も完
璧ではなかったかもしれないが、生徒を代表して答辞を読んだ。

 ★私はこのことを非常に多とする。相対的に白人がやった植民地支配に比べて日本
は教育ひとつとってみても、かなり公平な、水準の高い政策をやったと思う。 




■12、朝日新聞のまちがいはどこにあるか(解説9)
 
 朝日新聞はつぎのように麻生氏を批判する。

 「麻生氏が指摘したような事実は、部分的に、あるいは一時期あった。しかし、創
氏改名は日本が朝鮮の人々を『皇民化』するために、心の内側にまで統制を加えよう
とした政策だ。朝鮮の人々のなかに日本式の名字を欲しがった人がいたとすれば、な
ぜなのか。植民地支配が生んだ差別を逃れようとしたからだ」

 ●朝日新聞への反論
(1)「創氏」と「改名」は、朝鮮人側からの要求からはじまったという事実を朝日
新聞も認めている。しかし「部分的に、一時期あった」という言い方は事実を認める
のが悔しい、負け惜しみのレトリックである。

(2)今まで見てきたように、それは満州に住む朝鮮人の要求から生まれ、「内鮮一
体」の政策、つまり日本人と朝鮮人を区別せず、同じ処遇をしていくという政策から
のものであった。
 それを「皇民化」という悪意のある、イデオロギーの毒を含んだ言葉でひっくるの
は歴史を見る目として公平なものではない。

(3)「朝鮮の人々のなかに日本式の名字を欲しがった人がいたとすれば、なぜなの
か。植民地支配が生んだ差別を逃れようとしたからだ」という批判は、まず第一に日
本は朝鮮を植民地にしたのではない。朝鮮には植民地として収奪すべき資源は皆無
だった。

(4)差別はあっただろう。心ない日本人もいただろう。また実際に朝鮮人は満州に
おいて支那人からひどい差別をうけていた。
 人種間差別というものはこの地球上のあらゆるところでおきたし、今もある。もし
立場をかえて、多くの日本人がいま朝鮮半島に居住するとすれば、差別はないのだろ
うか。おそらく、「チョッパリ」という侮蔑的な言葉で差別するだろう。

(5)差別は教養ある階層間ではお互いにおこりにくい。差別がおこるのは庶民階級
なのである。そういう意味では朝鮮人に対する差別や侮蔑感はあっただろう。

(6)しかし、日本の朝鮮政策はそのような差別を解消し、「内鮮一体」「一視同
仁」にむかって努力していたことはまぎれもない事実であった。「植民地支配が生ん
だ差別を逃れようとしたからだ」ではなく、日本は「政策において積極的に差別を解
消しようとした」のである。その「善意」を知るべし。

 (7)朝日新聞よ、当時の日本の政策にあくまで批判的であるなら、当時の己の紙
面をよく読んでからにせよ。もっとも、北朝鮮を「この世の楽園」と礼賛してきたこ
の新聞に、ろくな歴史観察眼はないだろうが。



■13、日本人の反省点(解説10)

 日本人は善意をもって朝鮮政策をすすめた。
 朴大統領のように「相対的に白人がやった植民地支配に比べて日本は教育ひとつ
とってみても、かなり公平な、水準の高い政策をやったと思う」と理解をしてくれれ
ば日本人は救われる。

 韓国・朝鮮に対し、多くの台湾人は日本統治を公平に評価してくれている。しかし
ながらその善意をわからない国があり、人がいる。善意を悪意にすりかえるイデオロ
ギーがある。

 日本の朝鮮併合は安全保障上における歴史の必然の流れであった。日本人としての
朝鮮政策の反省点があるとすれば、イギリスを首魁とする植民地統治方式をまねな
かったことであろう。彼らはやり方は「Devide and Rule」(分割して統治せよ)で
あった。

 軍事力と外交権を奪い、道州に分割し、あとは彼ら自身をして統治させればよかっ
たのである。教育の普及、インフラの整備、産業の興隆を身銭を切ってまでやること
はなかった。創氏も改名も禁止すればよかったのである。

 日本人は善意が世界に通用するといまでも思っている。それは人の好い島国根性と
いうもので、半島根性・大陸根性の人々には通用しないことがあることを知るべき
だ。

 また善意からとは言うものの、「二つの民族が一つになるんだという、ひどく熱の
入った幻想」があった。
 戦後もなお日本国民は「平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼して・・・・」
という幻想に生きてきた。朝鮮半島での過剰なる親切心、善意の政策。もって歴史の
教訓とすべし。


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