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タイトル | : デカルトの方法的懐疑 |
記事No | : 31 |
投稿日 | : 2004/12/25(Sat) 17:32 |
投稿者 | : 北の狼 |
-------------------------------------------------------------------------------- [180] 復帰します 投稿者:北の狼 投稿日:2003/12/04(Thu) 02:44
しばらく不在で、過去ログをいま読み終えたところですが、デカルトの話が出ていましたので便乗します。
私もデカルトが好きですが、彼の「方法的懐疑」には、自分の信憑がどうあれ、あくまで自らの方法に従い、思考の道筋に忠実であろうとする哲学者の態度をみることができます。これは、デカルトを批判したイギリス経験論者らにも言えることです。
「方法的懐疑」の意味は二つあります。 ・ひとつは、自らの方法に従い、思考の道筋に忠実であろうとする態度とは”合理精神”の発露に他ならないのですが、敬虔なキリスト教徒たるデカルトが何故この”合理精神”を重視したのかというと、古臭い教義論を唱え続けたいたスコラ哲学に見切りをつけ、神への信仰を人間の理性と矛盾しないかたちで位置づけるためです。 ・他方で、当時はびこっていた人間の理性に対する「懐疑論」につけいる隙を与えないために、人間の懐疑の能力を極限まで研ぎ澄ましておく必要があったわけです。
世界のあらゆる物事は疑いえるが、そのような懐疑を徹底したうえで、なお疑いえないものが存在する。それは、さまざまな観念をもっている<私>という存在である。この絶対に疑いえない確実なものを基盤として考察をすすめるというこの態度は、後にフッサールの現象学に受け継がれていきます。
ただ、デカルトの真のモチーフは「神の存在証明」にあったのです。論理の流れは以下のようなものです。
1)「我思う、ゆえに我あり」。よって、<私>が様々な観念をもつこと自体も、絶対に確実である。 2)この観念には、「神」すなわち「完全なもの」が含まれる。 3)<私>は疑う存在であるから、「不完全なもの」である。 4)しかし、「完全なもの」(「神」)は「不完全なもの」(<私>)の原因となりえるが、「不完全なもの」(<私>)が「完全なもの」(「神」)の原因とはなりえない。 5)つまり、<私>という「不完全なもの」のうちある「完全なもの」の観念の原因となりえるのは、「完全なもの」すなわち「神」しかありえない。
”したがって私どものさまざまな観念あるいは概念は、それらのものが極めて明白で紛れなきものである限り、客観的実在であること、神に由来することであること、これらのことからして真実ならざるをえないということになる。”(『方法序説』)
このように、彼は「方法的懐疑」によって確実性が証明された<私(コギト)>から出発して、今度は「神の存在証明」をアクロバット的に成し遂げてしまうのですが、こちらの方はさすがに無理があります。
「神の存在証明」は別として、私自身が「方法的懐疑」に感じるとてつもない魅力は、中途半端な「懐疑論」を打破するために用いた手法にあります。つまり、「懐疑論」を徹底することによって「懐疑論」の限界を自ずと浮かびあがらせてしまう、そういう点ですね。これは「懐疑論」に限らず、「何々論」と称されるものを”本質的”に打破するために極めて有効な手法です。そして、実は、そのことによってこそ、その「何々論」における守備範囲や限界が明瞭化されることになり、結果としてその「何々論」は崩壊や消滅を免れる、つまり救われるのだ、ということを認識すべきでしょう。
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[183] ちょっと暴走し過ぎかな? 投稿者:森英樹 投稿日:2003/12/04(Thu) 10:00
デカルトがいなかったら近代合理主義による文明の危機を回避出来たか、ニーチェがいなかったらドイツでの教養市民層からナチズムへの台頭は無かったか、マルクスがいなかったらスターリンは出現せずシベリア抑留も無かったか?
残念ながら私にはそんなおめでたい歴史観は持てません。言い換えればそんなおめでたい運命観は持てません。思想の及ぼした結果をそんなに簡単に現代の視点から添削出来るのか?そういう思想添削の行為を一体誰に求めているのか?国民に向かって「デカルトの思想を見直し欠点を検討しよう!」とでも言うのか?少なくとも私はそんな安易な作業で全てが解決すると思っていないし思想の結果を採点出来るとは思わない。
一体如何なる理由で自分は過去の思想の総決算を出来ると思い込んだのか?彼等は有機的な繋がりの「社会」という平面のみで全てが解決出来ると一途に思い込んでいる。それと垂直的に交わる「神」とか「運命」といった概念をどのように考えているのだろうか?
思考の結果のみを追い求め「思考する」事を考えた事は無いのだろうか?彼らは銘々に過去の思想を解釈し分析しあとは「毒」さえ抜けば良いと思っている。棘の抜けた薔薇を夢見る。彼等の主張は「社会科学」に長けた保守派知識人の模範解答のようだ。
模範解答だから論理的には正しいかもしれない。しかし正しいのが何の意味を持つのかを考えているのだろうか?ただ単に正しいだけではないか。結局彼等の運命観が私には全く分からない。
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[201] 「怖れ」を知らない人達 投稿者:森英樹 投稿日:2003/12/09(Tue) 13:55
かつてニーチェは「運命愛」について語った。勿論、誰にでも出来る事ではない。ニーチェ自身も愛せたのか疑わしい。ニーチェは何と闘ったのか?神か?近代文明か?大衆か?全然違う。彼が闘ったのは彼自身である。
私は想像する。ニーチェは鏡に映る自分自身の姿に恐怖し慄いたのだ。何故なら鏡に映った姿は彼が最も憎むべきものと愛すべきものが混沌と混在していたからだ。人間は自分の現実の姿を認識出来ない。ニーチェも同様である。それでも信じるしかなかった。何を?混沌とした自分の中に宿る人間精神を。そうしてニーチェは思考し始めた。強く疑う為には強く信じるものがなければいけない。それが彼の思想の出発点である。
正確な解釈?現実?そんなものは何処にも存在しない。「正確な解釈」とは、まさに語義矛盾ではないか。我々人間は「世界」を認識出来ないのである。ましてや「現代文明の危機を乗り越える」思想などは「夢想」以外の何者でもない。
現代の人間は自分の外だけに敵を見出し鏡の存在に気が付かない。気が付いてもそこに映る自分の姿に恐怖し慄くことを知らない。この事は保革や右翼左翼、知識人と大衆の別を待たない。再び言う。ニーチェの最大の敵は自分自身だったのである。これを自己完結と言うか?自己満足と言う積もりか?まず正体不明の自分と向き合わなければ何も始まらない。
私はそういう自覚の無い思想には興味が全く無い。結局の処、「思想」とは自分から出発し最終的に辿り着くのも自分自身である。それが私の思想に対する態度である。いや、そんな立派なものではない。そういう風にしか「思想」と付き合えないのである。
「現代を乗り越える」思想?そんなものは私よりも知識があり頭も良い彼等に全て一任する。私は自分の想像力を遥かに超えるものを考えあぐねるより自分自身の事で精一杯である。願わくは毒の抜けた思想が見つかる事を祈る。しかし私はそんな大層なものが存在する「人工楽園」には住みたくはない。
現代は鏡の無い世界である。偶然にそれを見付けてもそこに映る姿に何の恐怖も抱かない。そう。彼等には、解釈・分析され尽くし処理された過去の遺物なのだ。私は未だに恐怖する。西洋思想の核を見つけようとして幾ら掘り進んでも鉱脈にぶつからない。そして気付く。それは如何なる解釈も許容するが如何なる明確な解答も出してくれない怪物だということを。仮にもし人間が世界を正確に認識出来たらどうなるであろう。答えは予想がつく。 深淵を覗き込んだ者の結末を想像してみよう。
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[204] それでも私は掘り続ける! 投稿者:森英樹 投稿日:2003/12/09(Tue) 15:45
私は「趣味」で哲学書を読む。「趣味」とは暇潰しの事ではない。それは精神的苦痛を、時には肉体的苦痛を伴うものである。「趣味」とは元来そういう性質のものである。
それにしても現代の我々が行っているデカルトやニーチェに被せられたあらゆる解釈を云々する思考は何とも贅沢な作業であろうか。
デカルトやニーチェは、そんな安易な作業はしなかった。それでは何をしたのか?「歴史の必然」が要請する難問に直面したのであろうか?それは我々の見方に過ぎない。
彼等は彼等自身の人生上の課題を発見してしまったのである。それ以上でも以下でもない。それは自分自身の問題であったと思う。自分の「存在」の問題である。
問題は、その時代の「文明の危機」を乗り越えたとか乗り越えれなかったとかではない。自分自身と最後まで向き合っていたかである。正体不明の自己という存在を忘れなかった事である。
私の思想への付き合い方は「趣味」でしかないが、どうしても止められない。私を「人間存在の謎」へ掻き立てるものの正体は分からない。分からないが、それでも私は掘り続ける。
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[206] 釣られてみるか。 投稿者:たこのす 投稿日:2003/12/09(Tue) 20:50
方法序論、ようやく手に入り読み始めました。面白いです。
>北の狼さん。
あらゆる理論はその守備範囲内で有効、この範囲を覚悟する事こそ大事、と理解しました。
>森さん。
挑発的な文章で、釣られてしまいましたよ。
>「正確な解釈」とは、まさに語義矛盾ではないか。我々人間は「世界」を認識出来ないのである。ましてや「現代文明の危機を乗り越える」思想などは「夢想」以外の何者でもない。
”正確な解釈”なんて出来ません。出来るのは単なる”解釈”だけです。文明自体がある種の”解釈”ではありませんか?様々な解釈の中で、自分の環境に最も適合した解釈をする。そんな基本姿勢の上に、今の解釈の不都合な点を指摘、より不都合の少ない解釈を提示する事は有意義な事だと思っています。この事は充分実行可能な事です。夢想とは思いません。
>人間は自分の現実の姿を認識出来ない。ニーチェも同様である。それでも信じるしかなかった。何を?混沌とした自分の中に宿る人間精神を。そうしてニーチェは思考し始めた。強く疑う為には強く信じるものがなければいけない。それが彼の思想の出発点である。
何故ニーチェはそのように強く”人間精神”を信じる事が出来たのでしょうか?”信じるしかなかった。”という状況だけでそんなに強く信じる事が出来るのでしょうか?私はニーチェをほとんど分りませんが、彼が強かったのは、彼の批判対象になったキリスト教が強力だった故だと思います。安心して批判できる対象に批判者はある意味精神的に依存します。政府や政治を頭から批判する人にもこの現象は見られると思います。
>結局の処、「思想」とは自分から出発し最終的に辿り着くのも自分自身である。それが私の思想に対する態度である。いや、そんな立派なものではない。そういう風にしか「思想」と付き合えないのである。
私も同じです。(^^) 私の環境により形成された自我が何ゆえ現状に到ったのか。基本的な人の心理構造を考え、更に私の環境を考察すれば答えに辿り着ける。本に書かれた思想は本を読まなくとも環境に反映されています。そして、私に影響を与えている。その影響から抜け出して基本構造に到るにはその元々の思想を知る事が必要になるでしょう。その限りにおいて、私にも本を読む必要性が存在しています。
何のために?
環境の刺激に対する無意識の反応と理性を方向つけている過去の思想をことごとく知る事が出来れば、私の人間精神は一応これらのことから”自由”になれます。そして、改めて主体的に行動を選択する事が出来る。そんな状況に憧れているのでしょう。
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[243] 遅レスですが 投稿者:北の狼 投稿日:2003/12/12(Fri) 18:08
<<たこのすさん>>
>>題:釣られてみるか。:2003/12/09(Tue) 20:50 No.206
>方法序論、ようやく手に入り読み始めました。面白いです。
読み終えましたら、是非感想をお聞かせください。 そして、できれば『デカルト的省察』(フッサール、岩波文庫、760円)へとお進みいただけたらと思います。
>あらゆる理論はその守備範囲内で有効、この範囲を覚悟する事こそ大事、と理解しました。
そういうことですね。 敷衍すれば、理論というものは一度は懐疑論の洗礼を受けなければならないものですがーーー懐疑という批判を免れえるのは所謂「反証不能理論」とでも称すべきもので、理論としては二流以下ですーーー、その際に最も有効な批判法が「方法的懐疑」です。つまり、批判対象とする理論を徹底させることによって、その理論の矛盾や限界を”自ずと”浮かび上がらせる、という方法です。そのことによって、その理論の射程が明らかとなり、引いては現実における位置づけがより充実したものになるという次第です。
以下は、横レスになりますが。
============ >>「正確な解釈」とは、まさに語義矛盾ではないか。我々人間は「世界」を認識出来ないのである。ましてや「現代文明の危機を乗り越える」思想などは「夢想」以外の何者でもない。(森さん)
>”正確な解釈”なんて出来ません。出来るのは単なる”解釈”だけです。文明自体がある種の”解釈”ではありませんか?様々な解釈の中で、自分の環境に最も適合した解釈をする。そんな基本姿勢の上に、今の解釈の不都合な点を指摘、より不都合の少ない解釈を提示する事は有意義な事だと思っています。この事は充分実行可能な事です。夢想とは思いません。(たこのすさん) ===========
・「解釈」するとは、「意味」を読み取ることです。文章や物事にたいしては、それこそ無数の「解釈」が可能ですが、「解釈」の”優劣”を決めるのは、ひとつには共通了解の度合いでしょうね。
・我々人間は「世界」を認識できます。ただし、その認識は必ずドクサ(憶見)を含んでいます。絶対認識は不可能ですが、より正確な認識や、より不正確な認識は存在します。
・思想(社会・人生に対する全体的な思考の体系)というのは、もともと、社会の危機や矛盾に面して、それらを乗り越えることをモチーフとして営まれるものです。ニーチェの例でいえば、ニヒリズムの蔓延による社会の危機をどう乗り越えるか、ということを根本モチーフとしたのです。ですから、この意味においては、「『現代文明の危機を乗り越える』思想」というのは同義反復であり、「『現代文明の危機を乗り越え』を意図しない思想」なぞ、思想の名に値しません。
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