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タイトル『国が燃える』
記事No24
投稿日: 2004/12/19(Sun) 23:22
投稿者北の狼(山椒庵)
題:『国が燃える』
              氏名:北の狼 /日:2004/10/21(Thu) 01:47 No.1126

本宮ひろ志氏の漫画『国が燃える』(「ヤング・ジャンプ」連載)における、「南京虐殺事件」に関する表現・記述が問題になっていますね。
本宮氏は、参考文献として以下ものをあげています。


「南京戦史」「南京戦史資料集」「南京戦史資料集U」偕行社
「日中戦争史」「日中戦争史資料8南京事件T」「日中戦争史資料9南京事件U」河出書房新社
「目撃者が語る日中戦史」「別冊歴史読本1989特別増刊 未公写真に見る日中戦争」新人物往来社
「南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言」
「南京戦 切り裂かれた受難者の魂 被害者120人の証言」社会評論社
「シリーズ20世紀の記憶 大日本帝国の戦争2 太平洋戦争 1937-1945」
「東京日日新聞縮刷版」毎日新聞社
「秘蔵写真で知る近代日本の戦歴 日中戦争 帝國陸海軍全作戦」フットワーク出版
「昭和二万日の全記録C 日中戦争への道」講談社
「母と子でみる20世紀の戦争 日中戦争T・U」草の根出版会
「写真図解 日本の侵略」大月書店
「アサヒグラフ 南京城陥落」「東京朝日新聞縮刷版」朝日新聞社


上の文献をすべて読破しているとしたら相当のものですが、偏ったものが少なからず含まれており、そのような文献によって刷り込まれた偏見が、当該漫画の冒頭でいきなり露呈してしまっているようです。

この漫画は、「南京事件はお恥ずかしい限りです・・・・私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った・・・」云々との、「東京裁判」における松井石根(上海派遣軍司令官)の陳述シーンではじまっていますが、これは「東京裁判」において述べられたものではありません。「東京裁判」では、松井は以下のように述べています。


”予の南京占領に関する周到なる配慮に係わらず、占領当時の倥惚たる状勢に於ける一部若年将兵の間に、忌むべき暴行を行いたる者ありたるならむ。これ予の甚だ遺憾とするところなり。
因みに南京陥落当時、予は南京を去る40哩の蘇州に於いて病臥中にて、予の命令に拘わらず、之等非行の行われたることにつき之を知らず、又、何等の報告に接せず。17日、南京入城後、初めて憲兵隊長より之を聞き、各部隊に命じて即時厳格なる調査と処罰を為さしめたり。
(中略)
予は南京陥落後、昭和13年2月まで上海に在任せるが、其間、昭和12年12月下旬、南京に於いて只若干の不法事件ありたりとの噂を関知したるのみにて、何等斯かる事実に就き公的報告を受けたることなく、当法廷に於いて検事側の主張するが如き大規模なり虐殺・暴行事件に関しては、1945年終戦後、東京に於ける米軍の放送により初めて之を聞知したるものなることを茲に確信す。”


漫画『国が燃える』冒頭の「東京裁判」シーンで引用されているくだりは、1948年12月9日、処刑を前にした松井が花山老師に語ったとされているもの(以下)から抜粋したものです。


”南京事件はお恥ずかしい限りです。・・・私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などと比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争のときはシナ人に対してはもちろんだが、ロシア人に対しても俘虜の取り扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。
慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。そのときは朝香宮もおられ、柳川中将も軍司令官だったが、折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落としてしまったと。ところが、このあとでみなが笑った。甚だしいのは、ある師団長如きは「当たり前ですよ」とさえ言った。
従って、私だけでもこういう結果になることは当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味でたいへんに嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている。”


松井が当時の南京において、実際に泣いて怒ったのは、何故だったのか? つまり、何に対してだったのか? 
普通の読解力があれば難なく判断できるはずですが、その判断力を歪めているのが偏見・先入観(=自虐史観)というものなのでしょう。
そして、左翼や自虐派を向こうにまわしてこういう検証を行ってきた者からすると、「小泉首相レイプ疑惑」についても以下のように発言せざるをえないわけです。


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題:ネタとしては面白いが   /氏名:北の狼 /日:2004/08/24(Tue) 22:26 No.1113

(前略)
今時、木村愛二氏による訴訟をネタに使うようでは、「情報戦を語る(行う)資格」というものを問題にせざるをえず、脇が甘いとの誹りは免れえません。
「小泉首相レイプ疑惑」はかつて、サヨク系のホームページやメルマガでよく見かけけたものですが、問題の裁判は今年3月、都内の男性(木村愛二氏)が東京地裁に起こしたものです。
(中略)
訴状では、小泉首相が事件を起こしたとされるのは、1967年4月慶応大学の4年生の時で、当時、防衛庁長官であった父親の小泉純也氏が政治的圧力を使い、この事件をもみ消し、学内でうわさの広まるのを恐れて、急遽1967年の5月にロンドンに留学という口実で日本から出した(慶応大学には休学扱いとした)、などとありますが、小泉首相の父親小泉純也氏が防衛庁長官をつとめたのは1964年7月18日〜1965年6月3日で事実と異なっており、証拠はお粗末で、証人も被害者も全く見つからない(現れない)ことや、木村愛二氏という人物の素性などから、もはや誰も見向きもせず、騒いでいるのは、もはや無知な「反小泉派」だけというお粗末さなのです。「資料」としては、慰安婦の強制連行における吉田清治氏の証言か、「南京事件」における本田勝一氏の著作ぐらいの価値しかないものです。
================


引き続き本宮氏の『国が燃える』についてですが、この漫画は先の投稿で述べたように、処刑直前における松井の述懐を「東京裁判」のシーンにオーバーラップさせるーーーつまり、陳述の場所や時間、さらには状況を一旦解体して組み合わせるーーーという一種の”コラージュ”を用いています。

コラージュ自体は、芸術や表現において普通に用いられる手法です。なぜなら、コラージュは「変容」、したがって新たな創造の源泉となるからです。
しかしながら、歴史を記述する際に、芸術的な創造を目的とするコラージュを使用すべきではありません。歴史の記述において重要なことは意味(事実性)なのであって、コラージュのごときあえてその意味(事実性)を変換し歪めてしまうような記述法は、印象操作(プロパガンダ)、場合によっては捏造と批判されてしかるべきものです。
『国が燃える』では、後に続くコマでも、同様にコラージュが使用されていることは容易にみてとれます。

もし「南京大虐殺事件」なるものの史実性を強調し説得力を増したかったのであれば、本宮氏としてはコラージュという見え透いた手法ではなく、せめて”モンタージュ”や”メタファ”を用いるべきだったでしょう。そのほうが作品としてはずっと洗練されたものになっていたはずですし、今回のような大規模な抗議の対象になることもなかったでしょう。
例えば、理由はどうあれ、日本軍が南京で中国兵(便衣兵や「捕虜」)を多数殺害したことは、疑いようのない事実です。その事実を正確にかつ淡々と描写した後で、道端に咲く一輪の花を描くとか、または平和そうに暮す現在の日本人家族の食卓風景を続けるとか・・・。
まあ、敵に塩を送るのはこれぐらいにしておきましょうか(笑)。

ただ、本宮氏も本宮氏ですが、他方で彼や集英社を攻撃した右派はどうなのでしょうか。
活発な抗議活動を行ったり、それを扇動した右派連中で、本宮氏の漫画の嘘を正確に見抜くことができた人間ーーー事実・史実と論理でもって精緻な反駁を行った人間ーーーは何人いたのでしょうか?

視点は変りますが、西尾幹二氏が2004年10月18日の「西尾幹二のインターネット日録」(「たかんじんのそこまで言って委員会」に出席して)で以下のように述べています。


====================
(前略)
 南京虐殺はなかったということは証明できないが、あったという論拠も今やことごとく覆され、証明できず、限りなく「なかった」に近いのだという私の判断はたしか収録されていたはずである。しかし、私はその理由を数点、以下のごとく分かり易く述べておいたのである。

(1)  1941年の蒋介石政府の内部報告書は虐殺があったという認識をもっていない。掠奪や放火はあったとされるが、これも日本軍がやったとは限らない。

(2)  毛沢東が延安で書いた「持久戦について」の中で、日本軍が蒋介石の軍隊を殲滅しなかったのは戦略的にまずかった、とさえむしろ言っている。ここにも大量虐殺の認識はない。

(3)  虐殺を主張してきた日本人学者が主に依拠したのはティンパーリ、ベーツ、ラーベといった欧米の特派員の報告や文書である。しかし彼らは蒋介石政府の顧問であったり、武器商人であったりで、情報撹乱を意図していたスパイであった。証拠能力がない。

(4)  この他に大量虐殺があったと語ったいくつかの証言はすべて伝聞であって、誰かから聞いたという間接証言にすぎない。目撃証言もあるが、それは一人か二人の処刑を目撃したという話であって、大量虐殺の話はひとつもない。

(5)  ハーグ陸戦法規によれば、軍服をぬいだ不法戦闘員、つまりゲリラであるが、これは捕虜として保護される権利を持たない。日本軍が正規の捕虜を処刑したという証言は、昭和12年から東京裁判まで存在しない。
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西尾氏があげた「南京大虐殺否定の根拠」は、その殆どが東中野修道氏の所論(『「南京虐殺」の徹底検証』等)に拠ったものであることは明らかです。しかし、(1)から(5)のいずれも、「南京大虐殺否定の根拠」として問題なし、とするわけにはいきません。

(1)については、蒋介石は1941年以前に何度か言及していますし、国連でもアピールされています。
(2)については、毛沢東が問題にしているのはあくまで戦術論であって、虐殺自体の有無に言及しているわけではありません。
(3)については、確かにその発端においては「虐殺を主張してきた日本人学者が主に依拠したのはティンパーリ、ベーツ、ラーベといった欧米の特派員の報告や文書」でしたが、現在ではむしろ日本軍内部の記録や日記や証言の重要性が増してきています。
(4)については、奥宮正武氏の目撃証言(『私の見た南京事件』)や日本軍の陣中日誌があります。
(5)については、現在主たる争点となっているのは、「軍服をぬいだ不法戦闘員、つまりゲリラ」を処刑したこと自体ではなく、所謂「軍事裁判」抜きで現場で即決処刑したことの適法性についてです。

* 上は、別に西尾幹二氏に対する個人攻撃を目的としているのではありませんので、誤解なきように。あくまで、上の(1)から(5)が「南京大虐殺否定の根拠」として広く援用されてしまうと、「虐殺肯定派」の格好の餌食になってしまい、「虐殺否定派」にとっては薮蛇になってしまうという危惧からのものです。


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題:持論
             氏名:荒間宗太郎 /日:2004/10/23(Sat) 18:49 No.1128

いわゆる「南京大虐殺」と称される妄想について下記のような見解を持っていますのでお知らせします。
1)中共政府及びその筋からの妄想話は「日本軍による組織的な{30万人}大虐殺」にありますので、この30万人説の数値の変更(下方修正)を認めていません。つまり二十万人であってもワシの主張する(便衣兵の未裁判による)五千人(処刑)説であっても中共政府筋からは同類と見なされます(苦笑)。だから南京大虐殺説の我が国内部での論争は既に国内だけの問題であり、中共との間でのものとはかけ離れているものと認識しています。つまり、あった派も無かった派もどちらであっても右左と別ける理由にはなりにくいものと認識します。
2)当方としては民間人に対する日本軍の組織的大虐殺はなかったという認識を持っています。便衣兵及びそれの疑いの濃厚な者(取り調べはあったが)に対する未裁判の処刑はあり得たものと認識しています。この件について、だから(便衣兵の未裁判による)五千人(処刑)に対しての事後処置としてはちゃんと埋葬されていたものと認識しています。よって疫病等がそれが原因での発生がなかったものと認識しています。組織として機能していたという認識です。
3)一部の跳ねっ返りの犯罪者が我が国軍の兵士にいたという認識があります、それゆえ大将は驚き軍規を厳しく施行してものと認識しています。つまり、大規模な我が軍の組織的な犯罪としての民間人への虐殺はなかったという認識です。
4)よって、「日本軍の組織的(民間人への30万人もの大量)大虐殺」が無かったという認識であれば、日本軍の一部兵士及び他の組織による南京市での虐殺事件があったと言われることに対しては特に反論する意志がありません。ご自由に議論してくださいな、と言う姿勢です。
5)まぁ、老婆や幼い子女がちゃんと日本語を理解しそれを記憶していたという話や、「上官」という名称のみで個人氏名の開かされない軍記物や、軍曹やそれ以上の地位にあった者達が市内見回りのついでに襲ったという日本軍の組織立脚を根底から無視した話しや、銃器を個人所有物のようにして持ち歩いていたというバカみたいなお話しにはお付き合いする気がまったくありませんのでご注意願います(笑)。
6)結論として、この掲示板では「日本軍による組織的な大虐殺はなかった」という事であれば「虐殺自体(あった)(無かった)の考察はご自由にどうぞ」と言う事です。
なお議論専用の掲示板(つれづれ談話室)がありますのでどうぞご理由ください。


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題:「南京事件」の多様性
               氏名:北の狼 /日:2004/10/24(Sun) 14:34 No.1129

「南京事件」というのも時代によっていろいろな意味合いがみてとれますが、時代別に区分した私の視点は以下のようなものです。

・日中戦争:中国による情報戦(プロパガンダ戦)
・東京裁判:勝者(連合国)による敗者(日本)への報復
・戦後:左翼による反日活動
・現在:中国による外交カード


1)日中戦争:中国による情報戦(プロパガンダ戦)

これに関しては、松尾一郎氏の著書『プロパガンダ戦「南京事件」』(光人社、ISBN4-7698-1163-2)が詳しいです。
私も、松尾氏にやや遅れてではありますが、数年前から戦争におけるプロパガンダ戦に興味をもちはじめ、自分なりに調査を開始したものです。しかし、能力不足と物理的な制約からいまは継続を断念しているところです。参考までに、私が当時したためたものを(一部加筆、修正して)掲示しておきます。


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  日中戦争における宣伝戦(1)


『上海戦線』(榊山潤、砂子屋書房、昭和十二年十一月十五日発行)なる本を読んだことがある。当時の上海の様子や便衣兵のことなどが記載されており興味深く読んだが、今回私の目を特に引いた以下の記述を紹介する。


”支那の抗日書報を見た。
写真の技術も立派であつたし、編輯も手なれたものだつた。貰つて帰りたかつたが、長崎税関が面倒らしいといふので止めた。
漢奸下場といふ題で、漢奸のさらし首が一頁大に映してあつた。檻のやうな木箱が松の幹にとりつけられ、その中に首がある。斬つたところに血の滴れてゐるのがまざまざと分るほど陰湿なもので、支那人の内にある残虐性が、一層理解しがたく胸にこたへる。
噂にきけばそのやうなさらし首が、日にいくつとなく城内に飾られる。単に日本人の家に使はれてゐたといふだけの者、日本人と逢つたといふ嫌疑の者、いや、日頃人から怨みを買はれてゐた者が一枚の密告状で、簡単に首を斬られてゐるさうだ。車を駈れば二三十分の距離に、さういふ情景が日毎にくり返されてゐるとは、何か落着かない感情である。だが、感傷に耽るなかれ。それなら戦争とは何だらう。
破壊された線路の上に、三つ位ゐの男の子が座つてゐる。傍に父親らしいのが跼んで ゐる写真に、次のやうな説明が附してある。

 遭難後的父子們正在抱頭痛哭! 可憐孩子們的母親已作了炸弾下的犠牲品了

この子供の写真はそれぞれの角度から、六七枚撮つてあつて、つまり一人の被害児が 六七人分の宣伝を勤めてゐるのだ。たとへば別の項には、明かに同一だと分る小児が 担架にのせられてゐて、

 這孩子和他的母親的仇、祗有等我們来復報了ーーーー

などと書いてある。......”
(66ー67頁)


「破壊された線路の上に、三つ位ゐの男の子が座つてゐる。傍に父親らしいのが跼んでゐる写真」とは、プロパンガンダ写真として有名になった「LIFE」(1937年10月4日)に掲載されたアノ写真のことに間違いなかろう(小林よしのり著『戦争論』158頁等を参照、http://www2u.biglobe.ne.jp/~sus/child.htm)。
榊山潤氏によれば、その写真が六、七枚あったのだという。この写真については複数存在することが分かっているが、今後別の角度の写真がまだ出てくるかもしれない。そして、同じ”俳優”を使って、担架にのせた別のプロパガンダ写真も作成されていたとのことである。
この「抗日書報」は、残念ながら現物が存在しているという話は聞いたことがないが(榊山潤氏自身は持って帰っていない)、もしこれが見つかれば中国のプロパガンダを立証・研究する貴重な材料となるであろう。

(第二次)上海事変が勃発したのは1937年(昭和12年)8月13日、榊山潤氏が、雑誌『日本評論』の特派員として上海に向かったのは9月1日、帰京したのは9月23日である。したがって、この「抗日書報」が作成されたのは(この写真が撮られたのは)、8月中(それ以前の可能性もあるが)、遅くともせいぜいが9月初旬と考えてまず間違いなかろう。つまり、中国側は、上海事変勃発直後(ないしはそれ以前)からこのような「抗日書報」を作成していたということである。

前述「LIFE」のキャプションによると、8月28日の日本軍による(中国側の軍需物資の貯蔵所があった)上海南駅爆撃時の写真とのことであるが、この点について検討してみよう。
榊山潤氏の著書には「抗日書報」を見た日時が書いてないのだが、氏が帰京したのは9月23日だから、遅くとも9月20日以前には上海を発ったであろう。ぎりぎり9月20日にこの「書報」を見たとして、8月28日からは約三週間ということになる。
約三週間以内(あくまで最長に見積もって約三週間ということである)で多数の写真を編集して本として配布することが可能なものだったのかどうか? 
もしそうだったとしたら(実際、そうだったのであるが)、中国側は情報戦・プロパガンダ戦において相当に手際がよかったということになろう。

この手際のよさと言えば、思いだすのが例の「ニコニコ写真」、すなわち笠原十九司氏が「南京事件」(岩波新書)で「日本兵に拉致される江南地方の中国人女性たち」との過ったキャプションづきで掲載したあの写真である(http://www2u.biglobe.ne.jp/~sus/capture.htm)。
これは秦郁彦氏の調査で1937年11月10日号の「アサヒ・グラフ」に掲載されたものであることが判明しているが、「アサヒ・グラフ」の説明には「....我が軍の保護によって敗残支那兵の掠奪をまぬかれ意を安じて土に親しんでいる桃源郷である」とある(『「ザ・レイプ・オブ・南京」の研究』藤岡信勝、東中野修道、66頁)。この写真が東洋文庫の「日冦暴行実録」に大意「江南地方の農村婦女が、一群、また一群と日本軍司令部まで押送されて行き、凌辱され、輪姦され、銃殺された」(同上、73頁)との説明つきで掲載され出版されたのが1938年(月日は不明)である。
前年の末に日本の雑誌に掲載された写真が(ニコニコ顔が分からないように細工して)即座にプロパガンダ写真として利用されたのであるから、油断も隙もあったものでない。

====


  日中戦争における宣伝戦(2)


今回も、ある本の話しから始めよう。
『支那事変に関する造言飛語に就いて』(東洋文化社、1978年、原本は昭和13年12月に発行)という本がある。昭和12、13年頃の「造言飛語」を当時の刑法によって裁いた例がうんざりするほど多数掲載されているが、当時日本に在住していた中国人(学生、理髪業、飲食業等が多い)らが日本人共産党員らと共に、なかなか盛んに「造言飛語」をなしていたことが分かる。これらで多いのは、「蘆溝橋事件」が日本軍の発砲によるものだったというデマとか、まぁ他愛ないものが多い。ただ、ちょっと不思議なのは、「南京大虐殺」に関するモノがまったくないということである。勿論、当時、「南京大虐殺」について語ろうものなら即座に取締りの対象になったであろうが、まったく記録されていないのである(それらしきものがひとつだけあったが、「南京大虐殺」には程遠い)。

以下に、『支那事変に関する造言飛語に就いて』から具体例をいくつか紹介しよう。

・放言の例
「ふん、日支事変が何だ、あの様なものは子供の喧嘩の様のようなものだ。出征がなんじゃ、出征だ遺族慰問だといって騒いで居るけど、そのようなことで騒ぐのは馬鹿の骨頂だ、阿呆だ。」
「日本が敗けようと敗けまいと、又日本がどこの国になっても俺はへいへい言って従って居るからよい。日本の歴史なんぞ汚れたとて何ともない。又日本なんか潰れたとて仕方がない。献金するくらいなら女郎買する。」
「戦争など負けてよい。負ければ支那人が此方へきて家を建てて呉れる。そうすれば税金も要らぬ。」
「大体遺族の奴等は勝手なことばかり言う。まるで町から戦争に言って呉れと頼んだ様に言うが、別に町から頼んで戦争に行って貰った訳でもなし、町の為に死んで貰ったものでもあるまい 」 ーーーこれは町長の言葉である。

・共産主義者の例
「大衆は喜びいさんで出征するが、戦争は何ら自分達の利益にならずに資本家を益々富ませ、自分等は命まで犠牲にして搾取される機会を作る許りだ。ロシアは多数の人間の為に小数の人間を殺すのに、日本は小数資本家の為に多数の民衆が犠牲になるのだ。」
「戦争を止めさすためには国民が戦争を厭がらねばならぬ、戦争を止めさせなければ敗けるかも知れぬが、敗けてもよい。敗けるのは資本家であって我々無産大衆は資本家に勝つ結果になるからだ。」
「今度の戦争は日本が敗ける。支那は国が大きいし、兵隊も沢山居り、その内にロシアが助けると日本は負ける。日本が負ければ日本の資本主義が倒れ、貧乏人の楽な世の中ができるからよい。」
ちなみに、「慰安婦」の強制連行で有名な詐話師の吉田清治氏も、終戦直後の地方選挙で共産党から立候補しており、れっきとした(元?)共産党員であった。

・帰還兵というのは実際の戦争の経験者であるから、その証言に重きがおかれるのは当然であるが、以下のような例もある。
「自分は北支で六回敗残兵の討伐に行ったが天鎮の戦闘が一番凄かった。其の時坂田大隊長が支那の九つになる少女に道案内をさせた。ところが其の少女は後ろから持っていた拳銃で一発の下に坂田大隊長を撃殺した。そこで我が聯隊では大いに憤慨し、その村の部落民全部を打殺せという聯隊命令が出たので、我軍は銃の床尾板で打殺したり、子供は両足を握って地面に叩きつけて殺し、約九百人位の部落民を全滅させた。
自分も五六人の子供を両足を掴んで地面に叩きつけて殺したが、子供達は手を合せて拝んだり逃げ回ったるしたけれども、容赦なく片端からやっつけた。痛快ではあったが残酷でも可哀そうでもあった。」 ーーーこの者は召集されたが病気のため即座に帰郷しており、何ら実戦に参加したことはない。
「日本の兵隊は戦地では常に三四人宛一緒になり支那人の家へ行き、豚や鶏を掠奪して来たり、或いは支那の女を見付けては女の嫌がるのを無理に強姦したりして居る。 自分も二三回強姦しに行ったが其の支那の女は皆十二歳から二十歳位迄の娘で美人が多く、従って日本の兵隊は少しも女に不自由しない、又或る時は支那の捕虜を五六人一緒に並べて置いて銃剣で突殺したこともあるが、日本の兵隊の中には其の捕虜の腹を突刺し内臓を引っ張り出して面白がって居る者もある。」 ーーーこの者は応集の事実がないのに、帰還兵と詐称して虚偽の実戦談をなしたものであ る。
現在で言えば、東史郎氏とか曽根一夫氏などはここいらに分類されよう。


「南京大虐殺」が造言飛語の対象となる機会がなかったわけではない。たとえば、ベイツは1938年8月に「日本訪問の機会を利用して日本人やO国人の旧友たちと多くの情報を交換し」ているのである(『南京事件資料集』342頁)。また、フィッチが「マギーのフィルム」でもって「南京大虐殺」をアメリカで宣伝している時、それを見たレスターという女性がそのフィルムを日本に持ってきて「東京の指導的キリスト教徒の小グループに見せ」ているのである(同上348頁)。さらに、当時共産主義者や「エスペラント語学者」が中国と日本を往復しては盛んに”情報伝達”の役割をしてもいたのである(ちなみに、ティンパーリの『戦争とは何か』を日本語に翻訳したのは彼らではなかったのか)。
しかし、(中国側のプロパガンダに影響された)噂のレベルではともかくーーーーこれはいくつか確認されているーーーー、「南京大虐殺」が上のような類の造言飛語の対象となることはなかったのである。

このことは、どう考えたらよいのであろうか?

(左翼・サヨクが好みそうな理由ではあるが)それだけ日本側の「箝口令」や取り締まりが厳しかったということか。
それとも、いかな捏造好きな造言飛語者や中国人や共産党員らと言えども、「南京大虐殺」のような壮大なモノを即座に創作し流布するなどということはそう簡単にできるものではなく、ティンパーリや郭沫若のような文学的才能や一定の時間、さらには組織力が必要だったということか。

もし「南京大虐殺」なるモノが本当にあったのなら、中国側にとってこれは簡単に喧伝しうる材料であったろうし、それ以前に日本国内で即座に造言飛語の対象となったであろう。何しろ、あったこと、すなわち「事実」を基に報道したり流布したりすればよいだけなのであるから、こんな容易な話はない。
私としては、むしろ、「事実」にしては中国側はプロパガンダ(「南京大虐殺」の流布)に随分と手間取ったもんだなぁ、とか、「事実」だとすれば何故それに尾鰭がついて造言飛語の対象とならなかったのかなぁ、などと疑問が湧いてくるのである。

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題:「涙の訓示」の意味
氏名:北の狼 /日:2004/10/25(Mon) 07:26 No.1131

<<尊野ジョーイ さん>>
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 ちょっと補足するだけですが、狼さんの投稿(No.1126)の中にあった“予の南京占領に関する周到なる配慮に係わらず、占領当時の倥惚たる状勢に於ける一部若年将兵の間に、忌むべき暴行を行いたる者ありたるならむ。これ予の甚だ遺憾とするところなり。”というのが、荒間さんの「公開討論」の中の“3)一部の跳ねっ返りの犯罪者が我が国軍の兵士にいたという認識があります、それゆえ大将は驚き軍規を厳しく施行してものと認識しています。”というところと重なってくるのではないでしょうか。
 完ぺき主義者の日本人であった松根には、一部のはねっ返りによる汚点ですら、「甚だ遺憾」であるとまで感じたのでしょう。
 当時の武士の心を持っていた軍人というのはそういう精神性をしていたのでしょう。
 それを、今の感覚から考えて、「甚だ遺憾」とまで感じるなら、よっぽど酷い虐殺があったのだと捉えてしまうのが現代人なのですね。
 こういう時こそ、当時の人間の立場に立ってものを考えるということが必要になります。
================

松井の陳述を素直に読めば、そういうことになると思います。

松井が「東京裁判」まで「南京大虐殺」なるモノを知らなかったことは、ほぼ確実のようですね。
例えば、「松井日記」には少数の(家具などの)掠奪、強姦などの記載がありますが、「大虐殺」に関する認識は皆無です。
また、松井は「東京裁判」に臨むにあたって「支那事変日誌抜粋」というものを作成していますが、この文書は、松井の弁護方針を探るうえでの格好の資料です。板倉由明氏の分析によると、もっとも力点がおかれているのは、第三国権益の侵害に対して松井大将がとった措置の弁明で、量的に約40%。中国人に対する日本軍の非行として、掠奪や暴行が15%程度。対して、「虐殺」にいたっては全くないとのこと。
「南京大虐殺」なるモノは、松井にとって寝耳に水の話しだったことでしょう。

そのような松井が南京戦の直後になした訓示を、入城早々「涙の訓示」をせねばならぬほどの大量虐殺があったのだ、などと「南京大虐殺」の根拠として扱う人たちがいるわけですが、その誤った所論に誘導されて歴史を歪曲してしまったのが、『国が燃える』の冒頭シーンです。



1)「涙の訓示」論争の発端

南京陥落直後(12月18日)合同慰霊祭の場でなされたとされる松井の「涙の訓示」は、実は時間の間違いがあったのですが、その根拠は後述するとして、南京事件論争史における「涙の訓示」の位置付けについてまずは述べておきましょう。以下は、『本当はこうだった「南京事件」』(板倉由明、日本国書刊行会)に拠っています。

「涙の訓示」論争の発端は、昭和58年5月に日本で行われた「東京裁判・国際シンポジウム」における秦郁彦氏の以下の発言からです。

秦:(南京大虐殺について)「松井は天皇に対して『申し訳ない』といって泣いたということです。」

この発言に対して、田中正明氏が以下のように非難しました。

田中:「とてつもないデマを放ち、南京大虐殺を裏付けようとしている。」


2)『上海時代』(松本重治)

秦氏は、「涙の訓示」の出典を問われて、松本重治氏の著書『上海時代・下』(中央公論社)をあげましたが、該当部分を以下に引用します。同書によると、昭和12年12月18日、南京での合同慰霊祭における最後に起ったエピソードとのことです。

”私はそれで終わったかと思っていると、松井最高指揮官が、つと立ち上がり、朝香宮をはじめとする参列者一同に対し、説教のような演説を始めた。深掘中佐も私も、何が始まったのかと、訝りながら聴いていると、『おまえたちは、せっかく皇威を輝かしたのに、一部の兵の暴行によって、一挙にして皇威を墜としてしまった』という叱責の言葉だ。しかも老将軍は泣きながらも、凛として将兵らを叱っている。『何たることを、おまえたちは、してくれたのか。皇軍としてあるまじきことではないか。おまえたちは、今日より以後は、あくまで軍規を厳正に、絶対に無辜の民を虐げてはならぬ。それが、また戦没者への供養となるであろう』云々と、切々たる訓戒の言葉であった。”

この訓示は南京事件論争において重要視され、その解釈は、(些かの過失も見逃さない)明治時代以後の厳格な日本軍人魂を引き継ぐ松井大将の良心を示す”美談”としてみる者たち(福田篤泰、前田雄二、田中正明)と、「南京大虐殺」なるモノが、大将みずからが入城直後にかかる訓示を涙ながらに行わなければならないほどひどい状態で進行中であったという証拠に他ならない、とみる者たち(秦郁彦、洞富雄、藤原彰、吉田裕)との間で分かれました。

この論争において、両陣営とも「涙の訓示」の解釈を巡って争ってはいましたが、「この訓示が、昭和12年12月18日、南京での合同慰霊祭においてなされた」という史実(時間)については争われてはいませんでした。せいぜい、田中正明氏が、「松井大将日記」の「往時の如く声詰まり涕涙禁じ能はざる如きことはなく・・・・朗々祭文を読み・・・・」といった記載などを証拠としてあげて、「泣いていない」と反論していた程度です。


3)松本重治氏の錯誤:もうひとつの慰霊祭

やがてこの史実自体に疑問が持たれはじめました。その理由は以下のとおりです。

・上のエピソード記した松本氏自身、この12月18日の合同慰霊祭には参加していない。
・松本氏は、このエピソードを「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」など英字新聞に配信し翌日掲載されたとしていたが、そのようなニュースは見つからなかった。
・12月18日の合同慰霊祭の参列者の記憶や一次資料(「松井大将日記」、「飯沼守少将日記」、「上村利道大佐日記」等)によっても、この訓示は確認できない。

実は、南京における慰霊祭はもう一回行われてたのです。昭和12年12月18日の合同慰霊祭の五十日祭にあたる、昭和13年2月7日に行われた上海派遣軍慰霊祭です。
その時の「松井日記」には以下のようにあります(カタガナは、ひらがなに変換して引用します。以下、同様)。

”曩のものは戦勝の誇と気分にて寧ろ忠霊に対し悲哀の情少かりしも、今日は只々悲哀其物語に促はれ責任感の太く胸中に迫るを覚えたり。蓋し南京占領後の軍の諸不始末とその後地方自治、政権工作等の進捗せさるに起因するものなり。仍て式後参謀諸隊長を集め予のこの所感を披露して一般の戒飭を促せり。”

また、「飯沼日記」には、この訓示の趣旨として以下のようにあります。

”南京入城の時は誇らしき気持にて其翌日の慰霊祭又其気分なりしも本日は悲しみの気持ちのみなり。其れは此五十日間に幾多の忌わしき事件を起し、戦没将兵の樹てたる功を半減するに至りたれはなり。何を似て此英霊に見へんや。”

そして、昭和13年2月8日の「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」と「チィナ・プレス」に、「松井将軍軍紀引き締めを命令 日本軍兵士の行為についての非難に直面して厳命」との、松本氏が「英字新聞に配信し翌日掲載」したという同盟配信の記事が見つかったのです。
後日、松本氏は『上海時代』の記載(日時、等)が記憶違いに基づくものであったことを素直に認めています。


4)松井石根自身の錯誤

まあ、松本氏のみを責めるわけにはいかないでしょう。
なにしろ、当の松井石根自身が「記憶違い」を基に以下のように述べていたのですから(1948年12月9日、処刑を前にした松井が花山老師に語ったとされているものから抜粋したものを再掲します)。

”南京事件はお恥ずかしい限りです。・・・私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などと比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争のときはシナ人に対してはもちろんだが、ロシア人に対しても俘虜の取り扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。
慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。そのときは朝香宮もおられ、柳川中将も軍司令官だったが、折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落としてしまったと。ところが、このあとでみなが笑った。甚だしいのは、ある師団長如きは「当たり前ですよ」とさえ言った。
従って、私だけでもこういう結果になることは当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味でたいへんに嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている。”

「涙の訓示」は上述したように昭和13年2月7日の慰霊祭の直後になされたものですが、この時は、柳川中将など第十軍関係者は参列していませんでした。また、「このあとでみなが笑った」とありますが、そこは朝香宮殿下も恐縮して叱責されている場、とてもみなが笑える状況ではなかったでしょう。

さらに、(「当たり前ですよ」とさえ言った)「ある師団長」とは、陸軍第16師団長の中島今朝吾中将と目されていますが、中島もこの時は既に北支に移動しており、慰霊祭には参列していませんでした。「当たり前ですよ」は、1月24日上海で、中島が転進挨拶のため松井を訪れた際になした暴言と混同しているようです。
中島は昭和11年に憲兵司令官になりましたが、翌年に宇垣内閣の成立を阻止するため宇垣本人に直談判した人物。この時に、「軍人の政治不関与」を巡って中島と激しくやりあったのが、実は松井石根(松井自身は、宇垣内閣支持だったようです)。両者は犬猿の仲だったといってよいでしょう。


5)「涙の訓示」の意味

松井は独自の対中国(アジア)政略構想を抱いていましたが、「親日中国人を登用して華北とは別の政権を作る」との上申が不採用とされてしまいました。それに軍政の失敗や軍紀風紀の乱れの報が加わり、松井の失望はより大きなものとなっていったのでしょう。松井は、このような挫折感を胸に、司令官の離任を前にして2月7日の慰霊祭に出向き、「涙の訓示」を行ったのです。

ともあれ、「涙の訓示」は、一部兵士による非行(掠奪、暴行)を憂えたものであって、(秦氏や左翼が主張するように)「南京大虐殺」なるモノを叱責したものでは決してありません。
そして、裏を返せば、あれほどまでに軍紀風紀の乱れに敏感だった松井でさえ認識しえなかった「南京大虐殺」なるモノとは、一体何であったのか、という思いが湧いてきさえします。

また、松井をして「涙の訓示」をなさしめた動機は、ひとつには、明治時代以後の厳格な日本軍人魂を引き継ぐ松井大将の良心からでありましょうし、もうひとつには、自ら理想とする「大亜細亜」の実現がこれらの非行によって失敗したという挫折感または怒りからでしょう。

松井岩根の政治姿勢については、以下のHPが詳しいので、是非とも参照ください。

http://www.history.gr.jp/nanking/gmatsui.html


うぇっぶ庵, おちょくり塾/ つれづれ談話室,


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題:左翼による反日活動の”具”としての「南京大虐殺」
氏名:北の狼 /日:2004/10/26(Tue) 07:34 No.1134

繰り返しになりますが、「南京事件」というのも時代によっていろいろな意味合いがみてとれ、時代別に区分した私の視点は以下のようなものです。

・日中戦争:中国による情報戦(プロパガンダ戦)
・東京裁判:勝者(連合国)による敗者(日本)への報復
・戦後:左翼による反日活動
・現在:中国による外交カード


「戦後:左翼による反日活動」と「現在:中国による外交カード」の時期はオーバーラップします。
左翼たちは、国力の弱体化等の理由で(旧)ソ連に見切りをつけて江沢民政権の中国共産党に擦り寄っていったのですが、左翼と中国共産党は反日という一点で投合し、その状況がいまでも続いているわけです。

今回は「戦後:左翼による反日活動」という視点から簡単に。


なぜ、反日左翼たちが「南京大虐殺」なるものにあれほどの執念を燃やすのか?
簡単にいえば、旧左翼(講座派に代表されますが)の「歴史観」や運動原理に従えば、以下のような効果が期待できるからです。

・数十万人規模の大量虐殺
 ↓
・日本人の文化性や精神構造の問題
・日本の政治制度や社会構造の問題
 ↓
・天皇制の問題
 ↓
・革命

というわけで、虐殺の規模が大きければ大きいほど、(間接的にではありますが)革命への意欲・モチーフは高まるわけです。逆にいうと、革命成就(天皇制や資本主義打倒)のキッカケとするためには、虐殺は”できるだけ大きいものでなければならない”のです。
こういう思想的・政治的背景のもと「大虐殺」を宣伝してきたのが左翼、その背景を知らずに未だに左翼の宣伝にのせられて運動の手伝いをしているのが(うす甘い)「サヨク」ということになります。

このように、「日本人の文化性や精神構造」が問題にされえるような規模や内容の”大”虐殺を宣伝することは彼らにとっては意味があるのですし、逆に言えば、そうでなければ彼らの活動には全く意味がなくなるということです。ですから、「南京大虐殺」を捏造・糾弾し続ける反日・左翼学者たちは以下のごとく、「日本人の文化性や精神構造の問題」や「日本の政治制度や社会構造の問題」も当然に取り上げるわけです(『南京事件をどう見るか』、『南京大虐殺と原爆』より)。

・笠原十九司: なぜ日本軍が残虐事件を引き起こしたのかというと、日本兵・日本人のアジア人・中国人にたいする蔑視意識があり、女性に対する性差別意識があり、日本軍隊の非人道的特質があり、人間性を喪失させた天皇の軍隊の特質があった。天皇制軍国主義を信奏し、女性差別、民族差別の観念に毒され、何の抵抗もなく大虐殺の加害者となった。日本の近代史上の天皇制と軍隊制度の問題、日本人のアジア人蔑視の問題、女性に対する性差別・人権侵害という現在にもあてはまる問題がからんでくる。

・吉田裕: なぜあれほどの大虐殺が南京でおきたのかという問題の解明には、あの戦争や、あの軍隊を支える背景となった日本社会や国民意識の在り方、国民の精神風土がどういうものだったのかを掘り起こし解明することが、大きな課題になってくる。南京事件との関わりおいては、日本人のアジアの人々に対する蔑視観、あるいは欧米中心的な思考があの戦争や軍隊を支えた根底にあった。

外国の例でいえば、アイリス・チャンもこのことをこそ問題にしているのです(『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』)。

・チャン: 本書が論じたいのは『文化の力』である。その力は、我々を悪魔にすることもできるし、社会の束縛を振りきり、根源的な人間性に立ち返らせることもできる。

プリンストン大学東アジア学科インシー・ユー教授も以下のように述べていますね。

・ユー: 日本の大陸侵略史の延長に南京事件が発生し、日本軍の暴行は、秀吉の朝鮮・明侵略構想にはじまるサムライ精神・武士道が近代的に軍隊に接ぎ木されて発生した。

そして、この目的を達成するためのもっとも効果的な手段が教育とされたわけです。

・本田勝一: 日本人に国際性をつけるためには、南京大虐殺を現行教科書以上にもっと詳しく記述し、青少年を真の愛国者に育てねばならない(「家永教科書訴訟」で提出した意見書の要旨)。

まあ、本田氏のいう「国際性」とは「中共迎合」、「愛国」とは「革命」に他ならないのでしょうが。


1970年代にはいり、日本でも「革命」が不可能なこと(つまりマルクス主義が誤っていたこと)が誰の目にも明らかになるにつれ、時代は脱マルクス主義、ポスト・マルクス主義へと向かったのですが、教育界においては過去の運動の枠組みが根強く生き残ったのでした。といいますか、左翼の退潮・敗色が濃厚となるにつれ、教育関係においては、危機感からか、益々先鋭の度を増していったといえるようです。
井沢元彦氏などのいう「残留左翼」の誕生ですね。「残留左翼」とは「革命(社会変革)」という本来の目的が現実性を失ったのにもかかわらず、「反日」という運動原理がそのまま残存した態様のことです。まあ、見果てぬ夢を捨てきれないでいる状態といっていいでしょう。ですから、「左翼」という言葉を冠することが憚られ、「反日日本人」とも「自虐派」とも称されるようになってゆきます。

この現象の問題性が露呈したのが、教科書問題における「慰安婦」であり「南京事件」であったといえます。
これに結びついたのが、一つには、韓国や中共の反日勢力で、「慰安婦」や「南京事件」が国際的影響力を増していったわけです。もう一つには、(「慰安婦」で顕著なんですが)フェミニズムで、これによって国内的、思想的な影響力を増していったという経緯があります。そして、「自由主義史観研究会」や「つくる会」などがこれらに反攻する過程において、ポスト構造主義的な観点からの「ナショナリズム」批判も同調してきました。

このような流れに、笠原十九司、吉田裕、吉見といった反日学者がのってプロパガンダに精を出してきたという次第です。そして、このような背景も知らずに、これらの人物や中共に”帰依”している連中が(うす甘い)「サヨク」ということになります。