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タイトル{情報}史への一考察
記事No2
投稿日: 2004/07/15(Thu) 09:26
投稿者万歳山椒魚(旧BBS)
URLhttp://www8.tok2.com/home2/aramar88/
埋もれさせるにはあまりにも勿体ないので再掲します。

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{情報}史への一考察 〜 万歳山椒魚

[209] 早稲田大学学園祭における研究発表 その1
            投稿者:万歳山椒魚 投稿日:2003/11/04(Tue) 20:23


はじめに

皆さん本日はお忙しい中おいでくださり有難うございます。さて本題に入る前に、基礎的な知識について説明したいと思います。
 インフォメーションとインテリジェンス、このふたつの単語を皆さんは区別して訳しておられるでしょうか。日本では両方とも「情報」と訳されるのですが、実は両者には大きな違いがあるのです。私たちが普段「情報」として認識しているのは前者です。では、後者はいかなる概念かと申しますと、トリスタン・ボイヤー・ビンスという人が子供向けの絵本『CIA』(邦訳なし)の中でこう述べています。

インフォメーションを分析して、政策の決定に反映できる形にしたもの。

つまりスーパーのチラシはインテリジェンスじゃないのですね。
 さて、インテリジェンスを創出(produce)するにあたって、しなければいけないのがインフォメーションの収集です。集める対象は大きく分けてふたつ。公開情報と秘密情報です。公開情報を集めるのは比較的簡単です。新聞やニュースをかき集めればいいのですから。ちなみにCIAはそのインテリジェンスの8割以上を公開情報の分析によって得ているそうです。そして、残りの2割は秘密情報に由来しています。では、彼らは秘密情報をどうやって手に入れるのでしょうか。
 秘密情報を手に入れる手段は沢山ありますが、ここでは代表的なものを挙げるにとどめます。すなわちヒューミントとシギントであります。皆さんにとって馴染みのあるのがヒューミント(HUMINT)でしょう。Human Intelligenceの略で、ずばり人間を用いて情報を手に入れることです。スパイ活動はこの範疇に入ります。次にシギント(SIGINT)ですが、これはSignal Intelligenceの略で、通信を傍受する活動を指します。訳語もズバリ通信傍受です。通信はもちろん暗号化されていますから、暗号解読活動もこの範疇に入ります。
 今回の発表の目的は、このシギントを通して第1次大戦から冷戦までを概観することにありますが、それは結果的にイギリスの情報史の歴史をなぞることになります。なぜなら、イギリスこそ世界に先駆けてシギントを発達させた国だからです。
 第1次大戦期にシギントの重要性が認められたため、イギリスでは、政府関係者の後押しによって陸海両軍の傍受解読施設が統合されます。こうして生まれたのがGC&CS(政府暗号学校:Government Code & Cipher School)です。第2次大戦が勃発すると、ドイツ軍の空襲を避けるため、GC&CSはロンドンから50マイル北西にある広大な土地、バッキンガムシャーのブレッチェリー・パークに移転することになります。この場所で、数多の暗号解読員はドイツ軍の高度な暗号エニグマを解読し、連合国の勝利に大きく貢献します。まさに歴史的な場所であります。
 さて、この写真をご覧ください。写っているのはオックスフォード大学のクライスト・チャーチであります。昨年夏、この場所でエニグマ・カンファレンスなるものが行われました。どのような催しかというと、英米の暗号解読員や軍人たちが一同に会したのです。次の写真をごらんください。カンファレンスのプログラム中には思い出のブレッチェリー・パーク訪問も含まれておりました。さて、このカンファレンスは5日間にわたって行われ、15人の学者によってシギント史に関する研究成果が発表されました。本日の私の研究発表は、このカンファレンスの帰国報告会であります。講演者の発表をピックアップして、GC&CSの歴史をなぞることで、イギリスの情報史を概観し、20世紀戦争史を真の意味で理解する端緒にしたいと思います。

第1章 第一次大戦における前史

第1節 ルーム40

 GC&CSの話を始める前に、先ずその前史であるルーム40のお話から始めることにします。
 話は第一次大戦に遡ります。1914年8月4日に英国は参戦するのですが、それ以降ヘンリー・オリバー海軍少将の元に、一連のドイツ暗号とおぼしきものが集まり始めます。それらは、海軍の傍受基地からのものや、マルコーニ電信会社、それに郵政公社からのものでした。それはイギリス情報機関の知らない暗号でした。ヘンリー・オリバー海軍少将は、そこで海軍教育課に在籍していたアルフレッド・ユーイングに目をつけます。実際には必ずしもそうではなかったのですが、こいつは頭が良さそうだと考えたのですね。そこで彼の元で暗号解読組織を立ち上げることにしたのです。
 従来であれば、海軍の情報活動は偵察船による監視活動が中心だったのですが、機雷という新兵器の登場で、その他の情報収集手段が求められていたのです。英国海軍はドイツの海底通信ケーブルを遮断し、ドイツ軍に無線による通信を強いたのでした。その結果膨大な暗号が海軍の元で傍受されることになったのです。ユーイングは、解読要員を当初ダートマスやオズボーンの海軍大学に求めます。その志願者の中でも最も有能だったのが後に触れるアルスター・デニストンでした。
 彼らの業務はいくつかの僥倖によって大幅に促進します。第一に開戦当初オーストラリア海軍の陸戦隊が、開戦を知らないドイツの商船から、ドイツ海軍の商業暗号を手に入れます。当初オーストラリアは、その捕獲の事実をロンドンには伝えず、10月の末になって英海軍省に届けられました。第二は、ロシアからのものでした。1914年、ロシア戦艦によって撃沈されたドイツの巡洋艦に乗務していたドイツ人水兵の生き残りから「ドイツ帝国海軍暗号表」(SKM)が手に入りました。この暗号表はすぐさまイギリス情報部に手渡されます。しかしSKMで解読できたのは、天気予報だけでした。ドイツ軍はさらなる暗号化を通信に施していたのです。同年、沈没したドイツの潜水艦からイギリスのトロール漁船が金庫を引き上げました。そこには、ドイツの外務省が世界中の大使館にメッセージを送る時に使ったドイツ海軍連絡将校用の暗号表の写しがあったのです。
 これらの非常に貴重な情報に力を得て、ウインストン・チャーチルは、シギントの潜在的な重要性と可能性をはっきりと認識します。そのチャーチルの認識以上に重要だったのが、ヘンリー・オリバーの昇格に伴う新情報部長ウイリアム・レジナルド・「ブリンカー」ホールの就任でした。(実はユーイングが活躍したのは初年度のみに限られ、徐々にルーム40からは追い出されていくのですが・・・。)ブリンクというのは瞬きのことですが、彼は瞬きがとても早かったようです。瞬きをしていない時は、じっとものを凝視しているのだそうです。変人ですね。話を戻せば、彼は手狭だった暗号解読部を海軍省旧館第40号室に移します。これがルーム40のいわれとなっています。さらに彼の元でスタッフも拡充され、膨大な量の暗号が解読されることになります。彼らの業績は英国史上でも類を見ないものでした。まず第1に1914年12月以降、奇襲というものはなくなりました。ドイツ海軍の動向は英国に筒抜けだったのです。しかし問題がなかったわけではありません。シギントで得られた情報を前線の司令官に届けるシステムが完成していなかったので、敵の艦隊をみすみす見逃すことがあったのです。後に問題になる、傍受した情報をいかにして利用するのかという問題がこの段階で生じているのです。とはいえ、ルーム40の優れた業績は、これにとどまりません。1917年春にはルーム40はID25、つまり情報部25課に改組されます。その後それまでは禁止されていた他の海軍情報部のドイツ海軍部門などからも情報を得ることができるようになりました。この改組のタイミングは決定的でした。なぜなら、ドイツ海軍の潜水艦部隊が、無制限潜水艦作戦に乗り出そうとしていた瞬間だったからです。連合国側は、大船団方式で船団護衛を試みますが、ここでも傍受された通信が決定的な役割を果たしたことは言うまでもありません。これ以降ドイツ側の潜水艦の被害は徐々に増加しました。また、1918年には、キール軍港におけるドイツ海軍水兵の暴動もいち早く報告しています。この知らせにより、1919年の皇帝退位と戦争終結が早まりました。
 しかし、彼らの特筆すべき一番の業績は、1917年のツインマーマン電報解読でした。

第2節 ツインマーマン電報の解読

 さて皆さん。第1次大戦における協商側の勝利を決定付けたのはアメリカの参戦でしたが、歴史の本を見ると、参戦の動機はルシタニア号の沈没であるとしか書かれていません。しかし、それだけではないのです。ツインマーマン電報の解読も、アメリカの参戦に大きく関わっていたのです。
 ルーム40の対象は、当初は海軍暗号の解読が中心でしたが、外交暗号の解読にも乗り出していました。そして1915年、ペルシアもしくはイランの総督を務めていたドイツ人ヴィルヘルム・ヴァスマスは、イギリス軍に追われてブシールの領事館から逃げるとき、あまりに急いだため、ドイツ外交暗号の写しが入ったトランクを忘れてきてしまいます。これがヒントとなって、以降外交暗号が解読できるようになります。
 こうして解読されたのがツインマーマン電報でした。ツインマーマン電報とは、ドイツ外相アーサー・ツインマーマンからメキシコ大使館に向けて送られた電報のことです。この電報の中では、メキシコを同盟国に加えることが話し合われていましたが、その見返りとしてドイツが用意していたのは、テキサス、ニューメキシコ、アリゾナをメキシコが再領有してもよいということでした。この電報を傍受、解読したイギリス海軍情報部は、アメリカ政府にこの事実を伝えました。その結果アメリカは激昂し、参戦に大きく傾くこととなります。第1次大戦の勝利にアメリカの参戦が大きく貢献したといわれていますが、その背景には、ルシタニア号沈没事件に加えて、かような事実があったのです。

(第2章に続く)

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[210] 早稲田大学学園祭における研究発表 その2
            投稿者:万歳山椒魚 投稿日:2003/11/06(Thu) 02:34


第2章 GC&CSの創立とその戦間期の活動

第1節 GC&CSの誕生

 1919年初頭に、カーゾン卿の情報活動委員会(Secret Service Committee)の推薦により、平時においても暗号解読部隊を維持することが決定され、ブリンカー・ホールの後を継いで海軍情報部長に就任したヒュー・「キュー」・シンクレアは、海軍、陸軍の暗号解読者を集めるよう指示を受けます。両軍の暗号解読機関、すなわち海軍のルーム40と陸軍のMI−1Bが合併して新しい機関が設立されました。GC&CSの誕生です。そしてGC&CSの局長には先程も述べたアルスター・デニストンが就任します。GC&CSは表向きは「各省庁の用いる暗号の安全性についてアドヴァイスし、対策を練る」ことになっていましたが、その真の目的は「外国の用いる暗号通信の方法を研究すること」つまり、海外の暗号を解読しそれを外務省に提出することだったのです。具体的には、アメリカ、フランス、日本、ロシアなどの外交通信を扱いました。特にロシアの革命政権の通信を傍受することは、非常に重要な課題だったのです。

第2節 第1次冷戦

 冷戦というと、我々は米ソの冷戦を思い浮かべますが、イギリスでは戦間期の英露関係が第1次冷戦と呼ばれています。その理由は、表面上の平静とは裏腹に、背後では苛烈な情報戦が戦われていたからです。この第1次冷戦を、デイリー・テレグラフ紙の記者マイケル・スミス氏の主張にそって説明しましょう。この第1次冷戦の経過は、ある意味で、第2次大戦そして戦後の第2次冷戦と比較すれば、機密保持という点では問題の大きなものでした。しかし、その経緯は、やはり後の時代の前兆であったといいうると思います。
 1919年当初のロシア革命政府は、ツァーリの情報機関アクスラーナが用いていた暗号を使いませんでした。彼らはわざわざ、ロシア語の平文の簡単な置き換えから徐々に高度な暗号に発展させていくという回り道をします。なぜツァーリの暗号を使えなかったのかというと、それを考案した人間が、イギリスの暗号解読者のなかにいたからです。その暗号解読者とはエルンスト・フェターレインでした。彼は元々ロシアのキャビネ・ノワールと呼ばれる暗号解読部門で働いており、ドイツやオーストリアのみならず、イギリスの暗号も解読していました。10月革命が勃発すると、彼はスウェーデンの船に乗ってロシアを脱出します。その後、フランスとイギリスが彼をスカウトしに来ましたが、彼は報酬の高いほうに雇用されることを望みました。その結果イギリス側で雇用されることになったのです。1818年に当時のルーム40に配属された彼は、ボルシェヴィキ、グルジア、オーストリアの暗号を解読する仕事に携わりました。フェターレインのチームにはロシアから亡命したロシア女性も加わり、時にはロシアを追放されたイギリス領事が加わることもありました。彼らはいとも簡単にボルシェヴィキの暗号を解読することができました。従って1920年5月、外国交易人民委員会使節団が親善のためイギリスを訪れた際に、イギリスにおいて共産主義革命を準備するという彼らの真の意図は、当時のロイド・ジョージ内閣に筒抜けだったといいます。GC&CSによって解読されたメッセージは、BJ、ブルージャケット、つまり青書として知られていました。このBJによるとレーニンはクラーシンに次のように語っていたのです。

「イギリスとは粘り強く交渉せねばならない。いけすかないロイド・ジョージは我々を欺くに恥も外聞もない奴だ。彼の言うことは信じてはいけない。3回ぐらいは彼を騙すんだ。」

また、使節団の代表でありモスクワ・ソビエト議長のカメーネフが、イギリスで共産革命を起こすべく「行動委員会」をせっせと準備していたことも判明していました。のみならず、ロシアはロンドンに拠点を置く「デイリー・ヘラルド」に資金を送っていたのでした。
 暗号の傍受によって明らかになったソビエトの意図。英国政府関係者の間に動揺が走ります。参謀総長で海軍元帥であったヘンリー・ウイルソン卿は、ロイド・ジョージ宛のメモで怒りを爆発させました。

「カメーネフとクラーシンは赤化革命を起こし、イギリスを崩壊させようとしている」

MI6長官であったシンクレア海軍大将も、解読された電信を公開するように政府を急き立てたのでした。
 かくしてロイド・ジョージは、情報源を「中立国」からのものであると偽ることを条件に、合計8つの電信の公開を承認します。しかしこの条件を無視した無視したタイムズが、秘密を暴露してしまいます。これで、ソ連の暗号を解読していることがソ連に知られてしまいました。しかもロイド・ジョージは、連絡・相談のために帰国しようとしていたカメーネフの出国を暫くのあいだ禁止しますが、その際に、背信行為に関して「動かぬ証拠」があるといって、暗号解読の成果をアピールしてしまったのです。
 とはいえ、これに対して、ロシアはその後も暗号を変えることはありませんでした。事態を正確に把握していなかったためです。クラーシンはリトビノフ外務人民委員代理に次のように語っています。

「イギリスはあなたの送った暗号通信を全て解読している。カメーネフが革命の指導者で、イギリス・ソビエト建設のために派遣されたのではないかという疑念が強まってきている。」

しかしそれでもソ連は暗号を改めませんでした。暗号が変更されたのは、ロイド・ジョージの暴露から3ヶ月も後のことです。クリミアで白ロシアと戦っていたボルシェヴィキ軍総司令官ミハイル・フルンゼがはっぱをかけたのです。その1週間後、新たな暗号が開発されるまで、ロンドンの通商使節団は、通信を無線ではなく密使によって運ぶことにしました。そして1921年1月から、新たな暗号が開始されるのですが、これも、まもなくフェターレインによって解読されることになります。

※機密保持という問題

 原典を訳すにあたって苦労することは、securityの訳語です。この単語は文脈によって「安全保障」と訳されたり「公安」と訳されたりするからです。マイケル・スミス氏もここでsecurityを用いているのですが、これは「機密保持」と訳しております。機密保持とはその名の通り「秘密をばらさない」ことなのですが、より具体的に言えば、「暗号解読をしているという事実それ自体を絶対に秘密にする」ということです。securityが確保されなければ、敵は暗号を変えてしまいます。ですから、先ほど説明したロイド・ジョージらの行動は、「機密保持」の点から言えば非常に安易と言わざるを得ません。しかし当時の政府関係者は総じてこの「機密保持」に無頓着でした。
 GC&CSは管轄こそ海軍省でしたが、その情報を利用していたのはもっぱら外務省です。20年代初頭に外務大臣だったのはカーゾン卿なのですが、彼は困ったことに事実を隠すことにほとんど注意を払いませんでした。1923年、イギリス帝国領に対するソ連の転覆活動が明るみに出た際、カーゾンは「カーゾン最後通牒」を出します。彼はその中において、ソ連・カブール間でやりとりされた情報のほとんどが傍受、解読されていることを伝えたのです。
 ところで、この情報はイギリス本国から傍受するのは不可能なものです。なぜ傍受できたかといいますと、実は当時インドに優れた通信傍受基地が存在したのですね。ここで少し脇道にそれて、インドにおける通信傍受の様子を一瞥しておきましょう。

第3節 インドでの傍受活動

 インドで暗号解読を指揮していたのは、ジョン・ティルトマン大尉でした。第1次大戦時の活躍で、戦功十字勲章を授与された後、GC&CSで1年を過ごし、やがてシムラのインド陸軍本部に派遣されます。彼が到着した時、インドでは傍受局の開設ラッシュでした。バルチスタンとアフガニスタンの国境に位置するピシンにはすでに陸軍の傍受局が存在しましたが、ノースウェスト・フロンティア州のセラトにも傍受局が開設されます。ティルトマンの派遣されたシムラの本部には、わずか5名のスタッフしかいませんでしたが、それでも細々と、モスクワ、カブール〜タシケント間で交わされるロシア外交暗号を解読していたのでした。またインドの通信傍受局はKGBの前身であるOGPUの通信も傍受していました。傍受された情報は中東の部隊に送られただけでなく、ロンドンのGC&CSにも送られ、フェターレインの仕事は増加の一途をたどりました。

第4節 ジョシュ・クーパー

 本題に戻ります。イギリス本国だけでなく、インドなど帝国の辺境からも、ソ連の通信傍受資料は着実に集まりつつありました。当然ながら、ロシアの専門家の需要が増大しました。ロンドン大学キングズ・カレッジに1年間学んだJ.E.S.ジョシュ・クーパーは、小説家チャールズ・モーガンからこのことを聞き、1925年10月に助手としてGC&CSに加わりました。キングズ・カレッジの教員の紹介で、クーパーはすでにフェターレインと面識があったのですが、彼はフェターレインと共にソビエト外交暗号を解読することになります。クーパーが任された仕事は、ソ連外交暗号解読の解法を発見することでした。そして着手してわずか6週間後に、暗号解読に成功するのです。彼の解読したメッセージは、モスクワからワシントンの代表団に宛てて出されたもので、対米債務踏み倒しに関するものでした。
 さて、イギリス国内にも次々と通信傍受基地が開設されていきます。海軍がウィンチェスターのフラワーダウンに、陸軍がチャタムに、空軍がリンカーンシャーのワディントンにそれぞれ通信傍受基地を開設しました。ソビエトの暗号解読の体制は、着実に整えられていったのです。

第5節 ロシアとの断交

 閣僚たちはロシアのスパイ活動に関するMI5と公安局の報告書に影響を受けていました。ボリシェビキが英国とその帝国の転覆を謀っているという確信は、どんどん強まっていきました。報告書によれば、表向きは英露両国の貿易を促進するのが目的の全ロシア協同組合(All-russian Co-operative Society)が、その情報活動の中心でした。それを知った反ボリシェビキの内務大臣ウイリアム・ジョンソン・ヒックス卿は激怒します。彼はときの外相のチェンバレンに、モスクワに対して抗議をするように圧力をかけます。チェンバレンは現状の関係を維持した方が得策と考えていたのですが、1927年1月19日までにチェンバレンはロシアとの関係を見直す必要を認めたのでした。彼は商務省長官に働きかけ、ロシアに対して抗議通達を書かせました。この通達は、強行派である内務大臣やチャーチル大蔵大臣が満足するような出来ではなかったのですが、しかし、これは結果としてソビエトとの断交につながることになります。
 1926年になると新たな情報源が確保されます。MI6はテヘランの郵便局を経由するボリシェビキの電信回線をやっとの事で確保します。この回線によって北京を経由して送られるロシアの電報が手にはいることになりました。お陰でイギリスはロシアの電報の完全解読に成功し、閣内の強硬派に決定的な情報を提供することになったのでした。彼らはさっそくACROSに対して家宅捜索をかけましたが、事前に警告されていたために、何も見つかりませんでした。
 いよいよモスクワと断交する段になって、これを正当化するために、ボールドウインは議会で北京発の電信を読み上げます。その電文の内容はこうです。

「決定的に重要なことは、イギリスとの対談の機会を設けることと、イギリス大使館や公使館の前でデモを起こすことである。」

彼がこの電信を読み上げていたまさにその時、ワシントンのイギリス大使館前では、実際に反英デモが行われていたのでした。しかし、この発表によって、ソ連は暗号が傍受されていることに気付いてしまいます。かくして彼らはワンタイム・パッドを採用しました。それ以降、ソ連の外交暗号の解読は極度に困難になってしまいます。これはシギント情報利用という点からは明らかに失敗でした。以来、イギリスはシギント情報の秘匿に力を注ぐようになります。世に言う「1927年の教訓」です。

第6節 コミンテルン情報

 ワンタイム・パッドの採用により、外交暗号は解読不能になったものの、GC&CSはコミンテルンの通信を介してソ連の情報を手に入れることが出来ました。当時、コミンテルンは世界中の至る所に支部を持ち、秘密活動やスパイ活動を行っていたのです。イギリス共産党のモスクワ向け違法通信が初めてキャッチされたのは、1930年代初頭のことでした。折しも数々の傍受局がロンドン・モスクワ間の非公式無線通信を多数収集し始めていたのです。
 解読された資料が届けられたのはMI6の第5課でした。課長は、以前はインド警察に勤めていたバレンタイン・ビビアン少佐でした。また、この資料はMI5のB課にも伝えられました。というのもこの課がソビエトの破壊工作・スパイ活動を担当していたからです。
 このコミンテルン情報は非常に多岐にわたっていました。プロパガンダの方針から党の政策一般、「デイリー・ウオーカー(労働者の日々)」紙へのモスクワからの資金、クーリエの名前、など多くの情報が得られたのでした。
 このようにしてえられた情報によって、MI6は、フランス、オランダ、スカンジナビアのコミンテルンに多くのエージェントを雇うことができました。しかし最大の情報源はMI6に情報を提供する「内通者」でした。この期間MI6とMI5の関係は良好でしたが、それにもましてコミンテルンに潜入したエージェントからの情報は有益だったのです。

第7節 マスク作戦

 GC&CSとロンドン警察庁傍受員との間の協力関係の有名な例がこのマスク作戦でした。ロンドン警視庁のハロルド・ケンワージーとレスリー・ランバートがロンドンから発せられる共産主義者たちのメッセージの源を探知しようとしたのです。MI6は方向探知器のついたバンを彼らに提供しました。彼らは非常に苦労したそうです。というのも、電波の発信は夜に行われるので、夜な夜なロンドンを徘徊するはめになったからです。彼ら自身警察官であるにもかかわらず、同僚の職務質問を受けることもありました。
 結果が出るまでには、数ヶ月の時間を要しました。最終的に、発信場所はウインブルドンであることが明らかになりました。
 MI5も偵察隊を組織し、共産主義者の監視に乗り出します。ステファン・ジェームス・ホイートンという共産党員を尾行した結果、アリス・ホランドの元で定例会が開かれていることが分かりました。彼女は共産党でも著名なメンバーで、通信内容を受け取っていたのです。さて、通信機はやがて北ロンドンに移されますが、ケンワージーとレスリー・ランバートの尽力によってこれもすぐに場所が割り出されました。
 このマスク作戦は不運なことに1933年に中断を余儀無くされます。モスクワの使っていた無線が英国の郵便本局の無線と混線してしまったのです。郵便本局が親切にもそのことをモスクワに伝えると、モスクワはそうした無線基地があることを否定しました。しかし、ソ連は通信を数ヶ月中断したのです。再開された後は、より複雑なシステムが用いられており、周波数帯もコールサインも暗号もすっかり変っていました。結果として、この作戦は1937年まで何とか継続されますが、ジョシュ・クーパーによると、マスク作戦はGCHQ(戦後にGC&CSがSISの管轄から独立して誕生)の創設にとって非常に重要であったと述べています。

第8節 フランスとの協力

 また、この時期からフランスとの協力も始まりました。この協力関係は後のエニグマ解読の際に大いに役に立つことになります。ティルトマンが、SISの副長官であったスチュワート・ミンギスと共にパリに赴き、協力関係をまとめました。しかしティルトマンによれば、フランスサイドからの暗号解読に関する新たな新情報はなかったようです。

第9節 ソ連軍情報

 シムラとサラファンドにおいてはロシア軍の暗号が制限付きながらも解読されていたとはいえ、戦間期のソ連軍の通信傍受は、外交暗号やコミンテルンの通信ほどシステマティックなものではなかったので、あまり成功したとは言えませんでした。GC&CSが取り組んでいたのは、ロシア海軍の暗号でした。
 ルーム40時代からの古株であったノビー・クラークは、GC&CSの仕事のほとんどが外交暗号の解読に割かれていることを懸念していました。そこで海軍省に対し、GC&CS内部に海軍担当部門を設立するべきであると主張しました。その結果、海軍もロシア、フランス、日本の無線通信に乗り出すことになりました。しかしワンタイム・パッドの使用や技術面での未熟のためほとんど暗号解読はなされませんでした。
 

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[211] 早稲田大学学園祭における研究発表 その3
            投稿者:万歳山椒魚 投稿日:2003/11/06(Thu) 02:35


第3章 戦中のGC&CS

第1節 迫り来るドイツの脅威

 イギリスは次々と暗号解読の技術を発達させていくのですが、その辺の紆余曲折は次の機会に譲りまして、第2次大戦に話を進めたいと思います。さて、連合軍が圧倒的な劣勢をはねかえし形勢を逆転したきっかけは、Dデイすなわちノルマンディー上陸作戦であります。この章では、Dデイにおいて、GC&CSのシギント活動が果たした役割を説明したいと思います。今回の研究発表の、これはクライマックスであります。
 イギリスの国家の存亡は対独戦の勝利にかかっていました。ヨーロッパ全土をほぼ手中に収めていたドイツ。この形勢をいかにして逆転するかが、イギリスの懸案でした。そのためにノルマンディー上陸作戦が練られていましたが、そのためにはドイツ軍の情報を得ることが必要でした。幸運なことにドイツ軍の内情は、戦火を逃れてブレッチェリー・パークに移転していたGC&CSの活躍で、すぐにも把握できるようになります。ドイツ空軍ルフトバッフェの暗号や、西部戦線の最高司令官ルントシュテット元帥とベルリンの無線による通信が、傍受され、コンピュータの原型であるコロッサスによって解読されたのです。
 ですが実は、もっと精度の高い重要な情報が、ドイツ軍の暗号を直接解読するという方法をとらずに、イギリスにもたらされていました。それに貢献(?)したのは、日本でした。

第2節 第3国を経由して情報を得る

 外交官大島浩の名前は皆さんご存知かもしれません。ヒトラーと個人的な親交があった人物として有名です。彼は懇意のヒトラーから、ドイツ軍に関する様々な情報を受け取っていましたが、それをパープルという暗号で母国に送信していました。しかし、パープル暗号はすでにアメリカによって解読されていたのです。大島の報告は、逐一イギリスに送られました。
 とはいえ、情報活動にクロスチェックは欠かせません。大島のドイツ軍評価と実際とのギャップを調べなければいけませんでした。そこでブレッチェリー・パークは、ベルリン大使館から本国に向けて打電された日本人武官の報告を傍受、使用されていたコーラルという暗号を解読します。かくして、1943年末にドイツの沿岸警備を視察した日本陸軍武官イトウセイイチの報告と、1944年5月にドイツの防衛を視察した日本海軍部間の報告が明らかになり、フランス北部に展開するドイツ軍の状況が、より正確に把握できるようになったのです。
 この情報は、連合軍が圧倒的な劣勢をはねかえすことになったDデイに大きく貢献します。しかし、これはほんのひとつのエピソードに過ぎません。DデイにおいてGC&CSが果たした役割というのは、より複雑かつ見事なものでした。

第3節 ダブルクロスシステムとシギント

 ダブルクロスシステムとは、2重スパイを用いてドイツに偽情報を流すという欺瞞工作です。流された偽情報は、上陸地点に関するものでした。すなわち、ノルマンディーではなくカレーに連合軍は上陸するのだとドイツに信じ込ませることが欺瞞工作の目的でした。
 しかし、二重スパイがきちんとイギリスに指示された通りの偽情報を流すかどうか分かりませんでした。何より、ドイツが本当に騙されているかどうか、確証は持てませんでした。もしかしたら、騙された振りをしているだけかもしれないからです。頼れる手段は唯一シギントのみでした。そこでブレッチェリー・パークは通信傍受によって、二重スパイを監視し、ドイツの騙され具合をチェックすることになります。
 ここでひとつの問題が浮上しました。20人委員会における、MI6の情報独占問題です。20人委員会とは、ドイツにどのような偽情報を流すか調整するための組織です。偽情報ばかり流して、そのスパイが信用されなくなっては困りますから、時に本物の、それでいてイギリスに害のない情報を持たせる必要がありました。そのさじ加減を調整していたのです。MI5、MI6、3軍の情報機関の代表によって構成されていました。先ほど説明した通り、二重スパイの監視はGC&CSが行っていましたが、GC&CSを管轄していたMI6は、その情報を独占してしまいます。MI6の代表コーギルは非常に猜疑心の強い男でして、少しでも情報を漏らせば危険だと考えていました。かくして、委員会の活動は滞り、ダブルクロスシステムの運命は風前の灯でした。
 とりわけ蚊屋の外に置かれたのがMI5でした。彼らは怒ってロビー活動を開始します。かくしてコーギルは罷免され、後任としてフランク・フォーリーが就任します。彼はドイツ人の思考様式に非常に精通していて、これには20人委員会の議長を務めていたマスターマンも舌を巻いたといいます。感動した彼は次のように述べました。

「この時から本格的なダブルクロスシステムが始まったのだ」

ドイツの情報機関アプベーアは、送り込んだ人員がみな二重スパイになっているとは知らず、次々とスパイを送り込んできました。疑うことを知らないアプベーアを、イギリスはかえって怪しむくらいでしたが、どうやら本当に騙されているらしいということが判明しました。そのきっかけもやはりGC&CSでした。
 アプベーアは高度な暗号を用いていました。それが冒頭に触れたエニグマです。このため、アプベーアが本当に騙されているのかどうかをイギリスははかりかねていました。しかし、このエニグマをGC&CSが解読いたします。後に触れるノックスの貢献でした。彼はこの時癌におかされていましたが、病をおして解読を成功させたのでした。彼はその半年後に他界します。エニグマ解読はノックスの最後の業績だったのです。また、もうひとつのエニグマ暗号機GGGも、彼の部下Mavis Leter女史によって解読されます。Leterは旧姓で、今はBateyさんです。夫も暗号解読員で、おふたりともカンファレンスにいらしてました。ふたりは職場結婚ですが、当時のブレッチェリーでは職場結婚の確率が非常に高かったそうです。
 さて、エニグマの解読で分かったことは、どうやらアプベーアが本当に騙されているらしい、ということでした。
 これらの欺瞞工作が実って、連合軍は上陸作戦を成功させ、形勢を一気に逆転。ドイツを撃ち破るにいたります。

第4節 ひきにく作戦

 20人委員会は、シギントによらない工作も行いました。非常に面白いので触れておきましょう。シチリア方面からドイツ軍を撤退させようと画策された、ひきにく作戦です。
 作戦の概要はこうでした。病院から死体を調達してきて、イギリス空軍の肩書きを与える。そして、いかにも飛行機の墜落で死んだように見せかけて、スペインの海岸にうちあげさせる。腕には鎖で文書をつないでおく。そこには嘘の上陸地点が書いてあって、当時のスペインは枢軸国側に立っていたから、ドイツに報告がいくだろう。うまくいけばドイツをより深く騙すことができる。
 これがなんと上手くいくんですね。ドイツは主力をシチリアからサルディニア島に移します(文書の中にはマウントバッテンからの手紙と称するものもあって、そこには意味ありげに「サーディン」と書かれていたのです!)。結果として連合軍は、シチリア島の攻略に成功し、南ヨーロッパ攻略の足掛かりをつくるわけです。
 アングロサクソンの血なのか分かりませんが、彼らはどうも嘘をつくのを楽しんでいた節があるようです。たとえば、死体の財布には、もっともらしくフィアンセからのラブレターが入っていたのですが、これがなかなかの風合いでした。それもそのはず、死体を調達する2週間前から、ある委員会のメンバーが自分のポケットにそれを忍ばせてくしゃくしゃにしておいたのです。
 

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[212] 早稲田大学学園祭における研究発表 その4
            投稿者:万歳山椒魚 投稿日:2003/11/06(Thu) 02:37


第4章 GC&CSの機構

第1節 その組織的特徴

 情報機関の宿命とは何でしょうか。それは他の情報機関との縄張り争いであるといっても過言ではないでしょう。その意味でGC&CSの機構は実に示唆的であったといえます。ルーム40の場合は、海軍情報部の下部機関という扱いであり、陸軍にはMI1bという別の通信傍受部隊が存在していました。両者の関係は良好とは言い難いもので、GC&CSとなって統合される前に、1917年から限定された情報の交換は始まるのですが、両者の反目は相変わらずでした。統合後はSISの管轄下にはいることになりますが、皮肉なことにその名声とは裏腹に、SISは独自の活動能力が大幅に落ち込んでおり、第二次大戦時には、SISの売り物になる情報はもっぱらGC&CSの成果だったほどです。戦後は、GC&CSは、GCHQとしてSISから独立することになり、SISは最良の部門を失うことになるのです。GC&CSが統合された組織として存在したということは、米国における統合された通信傍受活動は1952年のNSAを待たねばならなかったということを考えると、やはりアメリカよりも一歩先んじていたといえるでしょう。GC&CSの興味深い点は、当初は海軍の管轄下に入っていたにもかかわらず、少なくとも平時において、その情報の消費者は圧倒的に外務省の場合が多かったということがあります。これも、イギリスの情報共同体の特徴と言っていいかと思います。

 それにしてもなぜ、英国において通信傍受活動の統合が進んだのでしょうか。それはルーム40以降の通信傍受活動が、やはり目覚ましい成果をあげており、その重要性は当時の政治家達によって十分認識されていたからといえるでしょう。とりわけ、シギントにかけるチャーチルの情熱はかなりのものでした。ウルトラ情報の創出のみならずその活用にも並々ならぬ注意を注ぎました。1924年、ルーム40創設10周年に際してチャーチルは、外交政策、防衛制作にとってシギントが最も重要であるとの認識を示しました。第2次大戦におけるチャーチルのウルトラ活用は、完璧に成功したとはいえません。北アフリカにおいてロンメルと戦った時には、エニグマ情報を過信しすぎて失敗しました。とはいえ、チャーチルの力量はシギントの賜物でした。シギントに着目した点でチャーチルは他のどの戦争指導者よりも、どのイギリスの政治家よりも、抜きん出ています。チャーチルがブレッチェリー・パークを手厚くもてなしたのには、かような背景がありました。そしてシギント活動の重視が、風前の灯火にすぎなかった英国の運命を救ったのです。やはり政治家が、この重要性を認識しない限り、劇的な勝利もあり得なかったわけです。

第2節 GC&CSの奇妙な面々

 GC&CSの特徴の一つは、その人材の多彩さにありました。GC&CSのスタッフのリクルートは多方面からなされたことが知られています。時期に分けてその特徴を説明しましょう。

第1次大戦期

ルーム40は数学者をリクルートしませんでした。実生活とかけはなれた彼らに仕事をこなせるはずがない、という偏見があったからです。ユーイングは、元キングズ・カレッジの研究員でケンブリッジ大学工学教授でした。キングズ・カレッジからアドコック、バーチ、ノックスらを推薦したのもどうやら彼のようですが、彼自身数学の研鑽を積んでいたにもかかわらず、難解かつ複雑な文章を読むには、数学の素養よりも古典、歴史、言語学の素養の方が大事だと思っていたのです。この偏見は戦間期のリクルート活動にも影響を与えることになります。

戦間期

1920年代末、エニグマ解読に数学が必要だと気付いたのはポーランド陸軍情報部でした。こうしてリクルートされたマリアン・ルジェウスキーは初めてエニグマを破った人物として知られています。1938年にデニストンも同様の結論に至ります。こうして数学者が何名か暗号解読に携わることになります。GC&CSが最初にリクルートしたのはオックスフォード大学ブレイズノーズ・カレッジのピーター・トゥインでした。しかし、数学者が「現実の生活からかけはなれていて」「実際の役にはたたない」という偏見はいまだ根強く、トウィン自身は、哲学をやっていただけまだましだと思われたからリクルートされたのでした。

戦中期

開戦後、ブレッチェリー・パークに続々と人員が到着します。その中には聡明なケンブリッジの数学者がふたりいました。キングズ・カレッジから来たチューリングと、シドニー・サセックス・カレッジから来たゴードン・ウェルチマンです。ウェルチマンはチェスの名手でもありました。ケンブリッジ大学のイタリア人教授E・R・ヴィンカ・ヴィンセントは「無限に考えられる順列を我慢強く考えるのにはチェスの名人がうってつけだ」と考えていました。かくしてブレッチェリー・パークは早い時期からチェスの名人を集めることになります。ヒュー・アレクサンダーやスチュアート・ミルナーベリーらです。チューリング、ウェルチマン、アレクサンダー、ミルナーヴェリーの4人は大活躍を見せます。やがて、チェスの技能のあるなしに関わらず数学者が雇用されることになっていきます。

そしてこのような経緯を経てリクルートされた人材には変人が非常に多かったのです。

アラン・チューリング

GC&CSの歴史を語る上で、欠かすことができないのがアラン・チューリングでしょう。彼は戦争が始まったときは弱冠27歳。実際には数学者として、より知られている彼は、同時にコンピュータと暗号解読の研究者でもありました。1937年に彼が発表した論文「数の計算」はコンピュータ科学近代史の古典です。彼は戦時中、エニグマを解読する「ボンベ」の開発主任を務めました。彼は奇行が目立ち、マグカップをラジエーターに縛り付けて盗まれないようにしたり、ガスマスクをかぶりながら仕事をして花粉を吸わないようにしたり、貯金をすべて銀塊に替えて木の根元に植えたはいいが隠し場所を忘れてしまったりしたそうです。

ディルウィン・ディリー・ノックス

チューリング同様、彼も奇行の目立つ人間でした。彼はホワイトホールの海軍旧庁舎(Admiralty Old Building)内にあるルーム53の浴槽の中で、最も仕事がはかどったといいます。いわく「石鹸の泡と湯気の中が最も暗号を解読しやすい」とのこと。フランク・バーチはルーム40の歴史『ID25の中のアリス』でKnoxを次のように描いています。

The sailor in Room 53
Has never, it’s true, been to sea
But though not in a boat
He has served afloat
In a bath in the Admiralty.

ルーム53にお務めの水兵さんは
嘘のような本当の話 海にいったことがないのですよ
でもね 船には乗っていないけど
ちゃんと仕事はしています
海軍省でお風呂に入っているのです

風呂に入りながらの暗号解読はブレッチェリー・パークでも続きました。

これだけをお話しすれば、GC&CS破片人ばかりだったという印象を持たれるかもしれませんが、そうではありません。彼らは、変人であっただけでなく、非常に優秀な人物であったのです。エニグマを解読する際の原始的なコンピュータの元祖であるボンベを考案したのはチューリングでした。開戦前の彼には、むしろ反政府的な言動が目立ったのですが、いざ開戦すると、英国のために働いています。ここに英国人の国民性というものを感じるのは私だけでしょうか。ノックスに関しても興味深いエピソードが伝わっています。ノックスと経済学者のメイナード・ケインズはオックスフォード大学キングズ・カレッジの同窓でしたが、卒業時成績はノックスが主席、ケインズが次席であったそうです。ケインズは世界的に有名ですが、ケインズよりも優秀な人間が情報活動に携わるというのも、やはりイギリスのお国柄というものを明瞭に物語っているという気がします。

その他の有名人も、少しふれておきましょう。

ハリー・ヒンズリー

まず1人目がハリー・ヒンズリー卿です。1939年夏アラステア・デニストンはオックスブリッジにある10あまりのカレッジの長にそれぞれ手紙を書きました。現役の大学生を紹介してもらうためです。こうして選ばれたのが弱冠20才のハリー・ヒンズリーでした。彼は大戦中はGC&CSと現場の司令部をつなぐ連絡将校を務めていました。戦後、第二次大戦における情報戦という正史を著述したのも彼でした。

アラン・ストリップ

それから、アラン・ストリップです。真珠湾攻撃のあと、ブレッチェリー・パークはより多くの人員が必要になります。大学生のみならずパブリック・スクールの第6学年までリクルートされますが、その中にいたのがアラン・ストリップで、彼はケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに進学が決まった後で入隊しました。彼は非常に優秀な暗号解読者でした。

チャーチルの皮肉

 あまりに若者が多いので、チャーチルは皮肉混じりにこう言いました。

「あらゆる手段を講じてスタッフを探せとは言ったが、まさか文字どおり実行されるとはね。」
 

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[213] 早稲田大学学園祭における研究発表 その5(完結)
            投稿者:万歳山椒魚 投稿日:2003/11/06(Thu) 02:38


第5章 戦後のGC&CS

 さて、戦後の話です。イギリスとアメリカの協力はうまくいっていたものの、アメリカのシギント機関は内部対立に明け暮れていました。ブレッチェリー・パークでシギント特殊ミッションを担当していたアメリカ陸軍テルフォード・テイラーはこう述べています。

「アメリカのシギント機関内部の対立は戦争が終わるまでに解決しなかった」

戦争が終わっても内部対立は解決しませんでした。なぜなら、朝鮮戦争の勃発によって対立が再燃したからです。この問題は、NSA(国家安全保障局:National Security Agency)の創設によって、1952年11月にようやく解決されます。シギント機関の統合を比較的早く実現させたイギリスと、随分と差があります。
 それはさておき、1945年の春に、イギリスとアメリカによる戦時のシギント協力を、平時に移行する最初の試みが行われます。イギリス側で中心となったのは、ブレッチェリー・パークの長であるエドワード・トラヴィス卿、そして先ほど触れたハリー・ヒンズリーでした。彼は当時トラヴィスの助手を務めていたのです。これに、海軍作戦情報センターの人間で、後にGCHQの部長になるクライブ・ロエーニス中佐が加わります。彼らは平時のシギント協力を提案するためにワシントンに出向き、陸海軍ならびに国務省の代表と会います。ときの大統領はトルーマンです。彼はチャーチルやルーズベルトに比べて情報を無視する人で、平時にもスパイ活動を行おうというイギリスの提案に深い疑問を持っていましたが、イギリスの代表団がワシントンに着く直前に、対日戦におけるシギントの有効性を知って感銘を受けるのです。結果として1945年9月12日、彼は平時においてもシギント協力を行うことに同意します。彼のメモランダムが残っています。

「陸軍省と海軍省は、陸軍参謀本部、アメリカ陸軍ならびに最高司令官、アメリカ艦隊、海軍軍令部に対し、コミントの分野における米英の協力を継続することを命じる。また、アメリカの利益に従って、この協力は延長、改変もしくは終了される。」

 戦後のシギント同盟は未だ機密の解けていない英米の協定によって具体化されました。ひとつめは、1946年3月の協定で、ふたつめは、1948年6月の協定です。後者はUKUSA協定として知られています。UKUSAにはオーストラリア、カナダ、ニュージーランドも含まれていました。これら5ヶ国は情報の共有を行います。この協定の中では、イギリスの職員が指導的な役割を果たしましたが、米英のシギント協力が進む中で、その指導力はブレッチェリー・パークからアメリカへと移っていきました。というのも、地球規模のシギント・ネットワークを運営するだけの金銭的余裕がイギリスにはなかったからです。

 トルーマンと異なり、アイゼンハワーは戦時の経験からウルトラの重要性を認識していました。1942年6月のことです。アメリカ陸軍司令官としてイギリスを訪れたアイクは、チェカーズにおいて、チャーチルからウルトラについての説明を受けたのでした。戦中の彼はイギリスとのシギント協力に力を注ぎます。ウルトラ情報を管理するG2(情報主任)をイギリス人から選んだほどです。ですから、戦後になっても、彼が英米のシギント協力に尽力したのは当然のことだったと言えましょう。ところで、先ほどNSAの創設について触れました。NSAによってアメリカは初めてシギント機関の統合を実現するのですが、このNSAにアイゼンハワーは援助を惜しみませんでした。事実、彼の2期にわたる在任中、NSAは途方もない予算を受け取っていました。NSAを維持した彼の動機の中には、先駆けて統合を実現したGC&CSの存在があったのでしょう。その証拠に、彼はブレッチェリー・パークに並々ならぬ賛辞を送っていました。
 こうして、アメリカとイギリスの協力と、アメリカのシギント機関の統合が実現したのですが、冷戦期のシギントを考える上で、ヴェノナ作戦の実態に触れておかなければいけません。冷戦期に利用可能だったソ連に関するシギント情報の量は、第二次大戦のそれを遥かに上回っていました。暗号解読の容易さは、その通信量に比例します。したがって、ソ連の暗号を解読するのは簡単なはずでした。ところがソ連の暗号はワンタイム・パッドを使っていたために、非常に解読しにくいものでした。しかし、ソビエトの通信に対して英米両国の暗号解読員が成功を収めた事例もあるのです。この事実は、1990年代半ばに「ヴェノナ作戦」が機密解除されたことによって明らかになりました。ヴェノナとは、1940年から1948年にかけて傍受された約3000もの情報や秘密電信に付けられたコードネームで、それらはワンタイム・パッドを使い損ねたがゆえに、解読されたものでした。その大半が、1940年代から50年代にかけて、イギリス人の協力を得たアメリカ人によって解読されたのです。
 ヴェノナ作戦によって、イギリスとアメリカは驚くべき内容を把握していました。なんと、第二次大戦中からその後にかけて、アメリカ国内に潜むソ連スパイは200人以上もいたというのです。さらに、アメリカ共産党の指導者たちがKGBと通じていたということも明らかになっていました。最も驚くべきは、ルーズベルト政権下の機関が、ソ連スパイの浸透を被っていたということです。外国にある情報機関やOSSはもとより、核開発プロジェクトに至るまで、ソ連のスパイだらけだったのです。ケンブリッジ大学のクリストファー・アンドリュー教授は、皮肉を込めて次のように語っています。

「ルーズベルトの後を継いだのはトルーマンではなくその副大統領ヘンリー・ワラスであった。」

というのも、ワラスの選んだ国務長官ラリー・ドゥーガンも、財務長官ヘンリー・デクスター・ホワイトも、みなソ連のスパイだったからです。それぞれフランクとジュリストのコードネームを持っていました。さらに、ホーマーというコードネームを持つスパイは、イギリスの外交官であり「ケンブリッジのスパイたち」のひとり、ドナルド・マクリーンでした。ホーマーの発見によって他の4人の「ケンブリッジのスパイたち」も判明します。彼らの発見ははっきりいって手後れでした。というのも、その中のひとりカーンクロスは、1942年から43年にかけて、東部戦線に赴いていたからです。さらに、彼はブレッチェリー・パークの内部に侵入していたというのです。
 ヴェノナ作戦を行うにあたっては、最高機密を隠すこと、そしてイギリスとアメリカの協力を守備よく行うことが重要でした。これには戦時中のウルトラを共有した経験が非常に役立ちました。ヴェノナ作戦の成功は、ウルトラの遺産であると言えましょう。例えば、戦後のアメリカ陸軍シギント機関ASA(the Army Security Agency)にいたGCHQの連絡将校たちは、ヴェノナの解読方法についてFBIより前に知らされていました。また、ヴェノナ・プロジェクトに参加していたアメリカの暗号解読員メレディス・ガードナーは、1940年代の後半、ワシントンに駐在するMI6とMI5の代表、ピーター・ドワイヤーとジオッフレイ・パッターソンと会談し、暗号解読の促進に寄与すべく、ソ連の通信に名前のあがった個人についての情報を教えました。CIAとNSAに関する最近の研究によれば、1948年までに、ヴェロナ・プロジェクトに関しては「完璧かつ有益な英米の協力があった」といいます。もちろん、イギリス人どうしでの情報交換もありました。GCHQもMI6とMI5にヴェノナに関する情報を定期的に伝えたのです。

 しかし、ここでもやはり縄張り争いの起こることは避けられませんでした。ASAとその後身AFSA(the Armed Forces Security Agency)は、イギリスの情報機関にヴェノナの進展を報告し続けましたが、その全貌が1947年に創設されたCIAに知らされることはなかったのです。ワシントンに駐在するMI6の連絡将校ピーター・ドワイヤーは、CIA職員との会合の中で暗号解読について触れないよう注意せねばならなかったそうです。この妨害はFBIに長く君臨した独裁者エドガー・フーバーの差金でした。彼はCIAを快く思っていませんでした。1949年に統合参謀本部の議長になったオマール・ネルソン・ブラッドレー大将も、フーバーの影響を受けて、CIAとヴェノナを共有することを拒否しました。彼はCIAの不安定さが情報機関にとって脅威になると考えていたのでした。また、CIAが統合参謀本部の下にないことに憤慨していました。トルーマンもヴェノナについて知らされていなかったひとりです。なぜなら、彼はCIAの長官であるDCI(the Director of Central Intelligence)と毎週会合を行うことになっていたからです。結果として、トルーマンはソ連情報部がどれだけアメリカに浸透しているか分からないまま任期を終えます。彼の回想録にはスパイについて何も書かれていません。CIAがヴェノナについて知らされるようになったきっかけは、やはりアイゼンハワーでした。まずは彼自身がヴェノナに関する説明を受け、それをCIAに知らせたのです。

 ところで、このヴェノナはソ連にまったく知られなかったのでしょうか。答えはノーです。イギリスの首相アトリーと彼の閣僚の数人は、ヴェノナに関して説明を受けていたと思われます。第二次世界大戦中につちかったアメリカとの協力関係のおかげで、イギリスは1952年11月までに、アメリカの対ソ連シギント活動の成果について知ることができたのです。彼らはスパイ活動の実態について、アメリカ大統領やCIA以上に詳しかったそうです。しかし、この報告の内容は、ソ連のスパイだったウェイスバンドによってそっくりソ連に伝えられていました。つまり、ソ連はアメリカ大統領やCIAよりもアメリカのシギント活動の成果に詳しかった、ということになります。さらに、MI6の連絡将校としてドワイヤーの後を継いだフィルビーも、ソ連のスパイであったことが明らかになっています。

 にも関わらず、ウルトラの秘密だけが四半世紀にわたって守り通されたのです。イギリス参謀本部は1945年7月31日に次のように同意しました。

「ウルトラ情報が利用されていたという事実は決して公表すべきではない。」

しかしながら、当のGCHQ自身が、ウルトラの秘密を守り抜くのは不可能であると考えていました。ウルトラ情報の存在は、記録を見れば明らかだからです。それだけに、四半世紀にわたって、歴史家がこの事実に触れなかったことは不思議なことです。ウルトラ情報の真相が公開された1973年までに、第1次大戦と同様第2次大戦においても暗号が解読されていたのだということを話す歴史家はほとんどいませんでした。

 クリストファー・アンドリュー教授によれば、戦後のシギントの影響力について言及する学者がほとんどいないのだそうです。冷戦期のシギントについて言及する歴史書は皆無に近いそうです。冷戦期におけるアメリカの外交政策についての研究は、CIAに言及するばかりで、NSAは無視しています。NSAのシギント活動がブッシュ大統領の政策の「重要な要素」であると判明した後であっても、この姿勢は変わりませんでした。シギントに関する言及は、第2次世界大戦後の言及になるととたんに消えてしまっているのです。チャーチルの伝記においても同様です。彼は戦中のみならず戦後においてもシギントに情熱を燃やしましたが、言及されるのは戦中の情熱のみです。また、アイゼンハワーの伝記を見ても、彼が大統領在任中に見せたシギントに対する情熱は、どこにも書いてありません。スターリンの伝記にもシギントに対する言及がありません。KGBやGRUが戦中そして戦後でさえ西側陣営の情報を首尾よく盗聴していたにもかかわらず、です。

 シギントが無視されている要因はふたつ考えられます。第一に、いまだ機密を解かれない文書が多いということです。そしてより重要な要因は、「認知的不協和」です。すなわち、20世紀の学者たちにとって、シギントによって秘密情報を得るという活動自体が、つかみきれない概念だったのです。
 しかし21世紀になってようやく学会におけるインテリジェンスの無視は少なくなってきています。この動きはますます促進されるでしょう。
 クリストファー・アンドリューは、次のような言葉で、その論考を締めくくっています。

「冷戦を扱う歴史家や国際関係の専門家は、彼らがこれまで避けてきたふたつの課題に取り組まねばならない。すなわち、戦後のシギントの役割について説明すること。ならびに、戦後のシギントの役割を説明しなくてもよいと考えた理由を説明することである。」

おわりに

シギントの歴史から戦争を見るということは、これまでなされてきませんでした。しかし、どうやら歴史の真実はここに隠されているようです。情報史の先進国である欧米においてでさえ、この分野は、まだ注目され始めたばかりです。ましてや、日本においては、その存在すら知らない人がほとんどでしょう。今回の発表はおそらく日本では初めてのものだと思います。そして、非常に意義深いものであると確信しております。それゆえ、この場をお借りして発表したわけでございますが、これを機に情報史に関する興味・関心を深めていただければ幸いです。本日はお忙しい中どうもありがとうございました。