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毎月、父さんが必ず行く場所がある。 街を見下ろす高台にある霊園。 母さんが眠る墓だ。 俺の母さんは、俺を産むと同時に死んでしまった。 家中に、靴棚の上から、リビングに出窓、父さんの寝室にと至る所に母さんの写真が飾ってある。パソコンには全ての画像データが保存されているし、父さんの携帯電話はどんなに買い換えてもその画像フォルダには母さんの姿がある。 だから、母さんがどんな顔で笑う人だったのかは分かる。 僅かに顔を伏して、恥ずかしそうにはにかむ姿も。 ウェディングドレスを着て、まばゆく幸せそうに微笑む姿も。 子供のように満面の笑みを浮かべる姿も。 そんな母さんを今でも父さんが心底好きでいることも。 全部知っている。 毎月、どんなに忙しくても父さんは必ず月命日には母さんに逢いに行く。 たとえそれが出張中であっても、とんぼ帰りになる日程でも逢いに行く。 そんな父さんの姿をマメだとか、いつまでも妻に誠実だとか言う人もいるが。 本当は月命日だけで我慢していることとか。 本当は毎日でも逢いに行きたいこととか。 本当はそこで一緒に眠りたいこととか。 それを知っているのは、父さんと母さんを本当によく知っている人達だけだ。 身内贔屓を抜きにして、父さんは男前だと思う。 顔だけではなく、なんでもそつなくこなす器用さを持っていて、仕事においても図書隊のエリート部署として知られる特殊部隊で副隊長(そして時期に隊長になることは既定路線だ)を務める実力者で、瘤付きでも損なわれることのない魅力がある男だ。 母さんが居なくなって、父さんに言い寄る女はそれこそ今でもアホほどいるらしい。 けれど、父さんはただの一度もそういう女の存在を匂わせたことがない。 なんとなく、そういう男と女の関係について判るようになった頃、俺の存在がそういう機会を父さんから奪っているのではないかと思ったこともあった。 だけど、そうじゃないことを父さんの親友である小牧さんから聞いて理解した。 どんな折にか、父さんに欲しいものを聞いた女に 「何もいらないから、郁に逢いたい」 と返したと珍しくひとかけの笑みを乗せない真面目顔の小牧さんから聞いた。 「笠原さんや手塚なんかは、笠原さんに堂上が必要なんだって言ってたし本気でそう思ってたようだけど。本当はさ、違うんだよね。堂上に笠原さんが必要だったんだ。笠原さんがいない堂上はきっと面白くもなんともない薄っぺらい人間で、きっと俺は興味を持たなかったはずだ。笠原さんは、本当にすごい人だったよ」 そう言って少しだけ哀しそうに笑った小牧さんに、父さんは本当に母さん以外はいらないのだと思った。 母さんの親友である美魔女たる麻子さんに言わせれば、それは当然らしい。 「そんなの当たり前でしょ。あの子は生きてる時から可愛くて愛らしくて教官を魅了してきて、あの子以上に教官を魅了できるものなんてなかったんだもの。死んじゃったら余計よ。生身の人間が死人に勝てるはずないじゃない。生々しく生きてる人間の記憶と違って、死んだ人間の記憶は綺麗なものに昇華されるのよ。小憎らしいような記憶も、綺麗な思い出になるのよ。大切な人間の記憶なら余計に、ひとかけの思い出すら美しい記憶になるのよ。そんな愛しくて綺麗な思い出ばかりが詰まった笠原に勝てるような人間なんていないの。勝負にすらならない。教官は触れられる生身のそこらの女よりも、触れられないそんな愛しくて綺麗な笠原と生きることを選んだの」 「でも、あの人が生きてるのはあんたがいるからよ。あの人が笠原の思い出とともに生きていけるのはあんたがいるからよ」 「もしあんたがいなくて、仮に先に死んじゃったのが教官だったとしたら、あの子は死にそうなくらい沈んで、でもなんだかんだでしぶとく生きてたでしょうけどね。でも教官はダメだわ。あの人なんでも出来るようで、最後は笠原いないとてんでダメだもの」 「だから、笠原はあんたを遺すことを選んだのよ。人が脳細胞フル活動させて考え込むような問題も、直感レベルで解答を真っ先に選ぶんだもの。お馬鹿だったけど、あの子はそういう一番大切なとこを間違うことはなかったわ。教官が昔、笠原のことをフラグシップって言ったそうだけど、確かにそうだわ。あの子の舵取は見事だった」 「だからね、あたしはあんたに結構感謝してるのよ。ここにあの子がいないことはいつまで経っても悲しいし、寂しいけれど、あんたがいるおかげであの子は生き続けることが出来るんだもの。それはけっして不幸なことじゃないわ」 「死んだ人間は、誰かの記憶の中で生きていくしかないの。そりゃあ?あたしの笠原だってたいそう可愛らしい存在ですけど?でもねそんな笠原が一番愛して、一番愛されてた堂上教官の笠原以上に可愛くて綺麗なあの子はいないのよ」 「だからね、あんたが生まれてきたことに対して申し訳ないとか思う必要は全くないの。少なくともあたしはそうよ。それはあの子の思いを否定することだわ。あんたは誰のためでもなく、自分のために泣いて笑って生きてけばいいの。どんだけ悩んでもどんだけ迷ってもいいけど、誰に憚ることもなく、後ろめたさを感じることもなく、自分らしく自分のために生きればいいのよ。その権利をあの子が与えたの。あの子はね、あんたを苦しめようとしてあんたを産んだ訳じゃないんだから。もしあんたを糾弾しようとするヤツがいたら言いなさい。あたしが許さないから。それがたとえ堂上教官だとしてもね」 「あの子が守ろうとしたものを傷つけるやつはあたしは赦さない」 「でも、ま。安心なさい。あんたはちゃぁんと教官に愛されてるから。そりゃ、あの人の一番はいつまでも笠原だろうけど。あの笠原バカの男が、あの子が本気で懸命に守ろうとした存在を愛せないわけないじゃない」 「あんたは両親に愛されてる。そこは胸張っときなさい」 ねえ、俺は本当に胸を張っていい? 「父さん、今でも母さんのこと好き?」 「誰よりも愛してる」 「郁は、どこまでも魅力的な人間で。きっと俺以外にも郁を大切に思ってやれる人間はいただろう。俺以上に郁に優しくできて、大切に愛して、郁を笑顔にできる人間はいただろう。だけど、俺は郁じゃなきゃだめだった。あいつだけだったんだ。俺の心に触れたのは」 「例えどんなに彼女以外に好きな人が出来たとしても、彼女以上に好きな人は現れないだろう。最期まで、彼女が俺を愛してくれたように。俺もまた、最期まで彼女を愛するのだろう。彼女以上に俺を愛してくれる人も、彼女以上に俺が愛せる人はきっと居ない」 仏頂面がトレードマークなんて言われている父さんだが、母さんのことを語る時はひどく優しい顔をする。 そのたびに俺はどうしようもなく胸が詰まる思いがする。 父さんの愛を感じないわけじゃない。 男手ひとつで人一人育て上げるのは、まだまだ子供で誰かの庇護下にいるしかない俺には想像もつかないほど大変なことだろう。 それでも父さんの手はいつも俺に優しく降り注いでいたし、俺が何か悪さをすれば真剣に怒り道を正してくれた。 それを愛と言わず何と言おうか。 俺はそんな父さんを心から敬愛している。 けれども、思うのだ。 愛しているからこそ、思うのだ。 「じゃあさ、...俺のこと、憎んでる?恨んでる?」 小さな小さな、消え入りそうな声で尋ねてしまった。 その言葉に小さな笑い声が返る。 「郁の次に、愛してるよ」 そう言って、父さんは優しい手つきで俺を抱きしめてくれた。 きっと、母さんにしてたのと同じように。 |