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毎月必ず行っている場所がある。 街を見下ろす静かな丘にある、シンプルな墓。 其処には花が絶えることが無い。 ふわりと揺れる花弁は、彼女の笑顔を思い出させる。 「なにが、大丈夫、だよ」 真面目で、清廉な彼女。 俺に嘘など冗談でも言わなかった彼女。 そんな彼女が吐いた最初で、最期の嘘。 幸せだった記憶。 共に、時を刻んでいた記憶。 柔らかな笑顔と柔らかな声で。 彼女がいるだけで、世界はなんと美しいものなんだと思った。 そこに居てくれるだけで、笑いかけてくれるだけで、俺を幸せへと連れて行ってくれた、最愛の女性。 体が弱いわけではなかったのに。 子供を産めば母体は保たないと、医者に言われた時、時が止まった。 止まれば良いと、思った。 この時がこのまま留まってしまえと願った。 今あるこの幸せを願った。 彼女がいなくなってしまう、そんな未来など欲していない。 それなのに。 「構いません」 彼女は、産むと、決意した。 「何、言ってんだ郁」 どんなに俺が反対しても、郁は首を縦には振らなかった。 愛おしそうに腹に手を当てて、目を細めながら穏やかに笑っていた。 「この子は、私とこの人の子供です。大切な、大切な」 「愛しい人の子供です」 「大丈夫。愛しい人を二人も残して死ねるほど、あたしは自己犠牲に溢れた人間じゃないから」 全然大丈夫じゃなかったじゃないか。 生まれたことを知って、嬉しそうに笑った後、彼女は眠るように息を引き取った。 怖ろしく静かな空間の中で、助産師に抱き上げられた赤ん坊だけが、元気のよい産声を上げていた。 俺は、愛さなくてはならないその生まれたばかりの命を、少しだけ、 恨んだ。 彼女が生きてさえいてくれれば、それだけで幸せだったのに。 逝く寸前、穏やかに笑いながらそういった彼女は多分、 今まで見た中で一番幸せそうに笑ってたと思う。 赤ん坊の命溢れる元気な泣き声をBGMにして、本当に幸せそうに嬉しそうに。 「大丈夫、篤さんは、独りじゃない」 「郁!」 握り締めた手が、少しずつ力を失っていく。 医者達が慌しく動く中で、俺たちの空間だけがとても静かだった。 郁の温もりを喪わない様に、しっかりとその手を握る。 その手が、握り返される事はなかったけれど。 全てが終って、机の中から見つけた手紙。 彼女らしい柔らかな字で書かれた手紙。 拝啓、私の愛しい旦那様。 貴方がこの手紙を読んでいる時、貴方は泣いているかな。 それとも、怒っているかも。 私がこの選択をする時に貴方が反対するのは分かっていました。 貴方が私を愛してくれているのを知っていたから。 いつだって、貴方は私を大切に想っていてくれたから。 それでも、最後は私の意見を尊重してくれて、とても嬉しかったです。 篤さん。 私の愛しい人。 私はやっぱり、貴方を愛しているんです。 愛しているから、貴方に幸せになって欲しい。 貴方に幸せな家族を作ってあげたいと、そう思うのは。 やっぱり、私のわがままでしたか? 篤さん。 もし、この子を産んで私が死んでしまっても私の想いは死にません。 ずっと、ずっと愛しています。 私の想いはずっと貴方の傍に居ます。 貴方は独りじゃありません。 篤さん。 私だけを好きだと言わないで。 私以外にも好きな人はきっと出来ます。 “子は鎹” 子供への愛情から夫婦の仲がなごやかになり、縁がつなぎ保たれることをたとえることわざがあるように。 この子があたしの、篤さんへの想いを引き継いでくれるはずだって思ってる。 きっとあたしに似て可愛い子ですよ!―――なんてね。 だから貴方はきっと、この子を愛せるはず。 私達の子どもと一緒に。 幸せに、なりましょう? 「父さん」 「どうした、有馬?」 息子の顔を見るのが辛い時期もあった。 有馬が成長するにつれて顔を見るのが辛いと思った。 快活に笑う姿は、彼女のそれで。 彼女の面影の匂う姿に、何度も何故と心が叫んだ。 「ねぇ、訊きたいことがあるんだけど」 「ん?」 「俺の母さんってどんな人だった?」 「...芯が強くて、優しくて、心から美しい女性(ひと)だよ」 俺に幸せを与えてくれた。 なにより、俺を愛してくれた。 こんな、不器用な俺を、心から体一杯愛してくれた。 「父さん、今でも母さんのこと好き?」 「誰よりも愛してる」 例えどんなに彼女以外に好きな人が出来たとしても、彼女以上に好きな人は現れないだろう。 最期まで、彼女が俺を愛してくれたように。 俺もまた、最期まで彼女を愛するのだろう。 彼女以上に俺を愛してくれる人も、彼女以上に俺が愛せる人はきっと居ない。 「じゃあさ、...俺のこと、憎んでる?恨んでる?」 小さな小さな、消え入りそうな声で問われる、その言葉に小さく笑った。 「郁の次に、愛してるよ」 そう言って、彼女と、俺の、大切な息子を抱きしめる。 彼女のいないこの世界で俺が出来ることは、彼女の愛したこの世界を 精一杯、大切なものを守りながら生きていくことだけで。 だけど、彼女の愛したこの世界があるから、俺は生きていける。 彼女の愛した、俺と彼女との子供を愛していける。 |