「ぎゃっ!」 バスルームから短く響く悲鳴が聞こえ「何した?!」と駆け入れば、使用済みの湿ったバスタオルを投げつけられ言外に出ていけと態度で示された。 示されたところでそう簡単に退く俺ではなく、飛んできたバスタオルは右手で叩き落した。 「もう!着替えてるのに入ってこないでください!!」 下着姿ならまだしも、既にワンピースに着替えていて何を恥ずかしがっているかと思えば、郁は「うぅ」っと小さく唸りながら訴えてきた。 「ストッキングが伝線したんですよっ!」 ワンピースの裾から伸びるスラリとした脚に目を向けると、「ぎゃ!そんなジロジロ見ないでください!」と無意味にワンピースの裾を引っ張りながら抗議してきたが、当然無視だ。 なるほど脹脛から足首まで一筋の亀裂がくっきりと浮かんでいる。 「バカ」 「今日おろしたばっかりなのに〜」 えーんと泣く仕草の彼女に、何もこんなところでもうっかりを発動しなくとも溜め息を吐いた。 同時に、こんなモノを身に着けなきゃいけない女ってヤツはつくづく大変だなと思う。 薄くて脆い、ほんの少し爪を引っ掛けただけでダメになってしまう。 脱がしづらいし気もつかう。社会常識とされている理由が今一わからない。 「代わりのは?」 問えば、郁はフルフル、と小さく頭を振った。 それもそのはずで、仕事でスーツを着用する時は別として、そもそも郁は普段ほとんどストッキングを着用しない。 肌を露出することに抵抗のある郁は私服でスカートを着る時もレギンスやタイツを着用することがほとんどだ。 「なんだって、今日に限って」 「―――柴崎チョイスのファッションを否定するほど怖いもの知らずじゃないです。そのワンピには絶対これ!と言われちゃ・・・」 いつまでたっても同室の親友には頭が上がらないらしい。 もっとも、出来るとも思っていないが。 「―――あの。教官?」 「なんだ」 「なんだ、じゃなく。ストッキング脱ぎたいんで、出てって下さい。もしくはせめて後ろ向いてください」 脱ぐところを見られるのは恥ずかしいと言う郁に、確かにそれだけ伝線しているのを履くわけにはいかないよな、と思う。 「―――どうすんだ、それ」 「どうするもなにも、捨てますよ」 「そうか」 ―――じゃあ、破いて良いか? と言いかけたが、チェックアウトの時間までもう時間もないことや、この後彼女希望のカジュアルフレンチレストランで早めのランチをとることを思い出しとりあえず口をつぐんだ。 多分言ったら、簡単に宥め賺すことは出来ないだろう。それどころか自慢の俊足で逃げられて、ここで本日のデート終了だ。 言いたいこと実践したいことは多々あれど、ここは黙っているべきだ。 色々なものを含んだ諦観の息を吐く背後で、さめざめと嘆きながら彼女はゴソゴソとストッキングを脱ぎ出した。 そんな音を聞きながらなんだか勿体ないと思ってしまうのは男の悲しい性だ。 幸いにして、と言うべきか郁を朝一で襲った悲劇はあまり深刻なものではなかったようで、身支度を終え、荷物をまとめ終わった頃には彼女はケロリとした顔をして「ご飯楽しみです」と笑っていた。 「おい、そろそろ出るぞ」 「あ、はーい」 備え付けのフリー雑誌をペラペラと捲っていた郁が立ち上がる。その動きに合わせてヒラリと膝丈のスカートが揺れる。 夏らしい軽やかなシフォン地の裾から伸びる白くしなやかな素足に、一瞬目を奪われる。 気づくはずもない郁は、目の前でニコっと笑う。 「平日だとランチがお得でいいですよね」 「あ、ああ、そうだな」 小高い丘の住宅街に佇む感じのいいレストランは最近の郁のお気に入りの一つだ。カジュアル、とは言え夜はそれなりの値段がするフレンチレストランだが、平日のランチメニューは1000円台と手頃な値段から前菜、スープ、メイン、パン、デザート、コーヒーとほぼコース料理な内容を提供してくれる。 メインとデザートはプリフィクススタイルで、数種類の焼きたてのパンがサーブされ食べ放題という点も郁としては嬉しいシステムだ。 ドレスコードがあるような格式ばったレストランではないが、落ち着いたモダンな雰囲気の店に合わせての格好なのだろう。 大人っぽいライン、薄手の素材のワンピース。生肌とのギャップが、やけに。 「・・・やっぱり素足じゃ寒くねぇか?」 「大丈夫ですよー。そんな季節じゃないですし、冷え性でもないですから」 不幸中の幸いですね、と続ける郁が屈んで、床に置いたままだったバッグを持つ。スカートの裾が上がって、膝の裏の窪みが見えた。 ぐるっと部屋を見渡して忘れ物がないか確認して。ドアに向かいかけている郁に向かって言う。 「―――なんだか、ストッキングないとバランス悪いな」 ことさら独り言のように呟く。予想通り、彼女は過敏に反応した。 「や、やっぱりですか・・・?!」 「―――ああ」 「柴崎にもそう言われたんですよね」 いやでも、伝線したの履くわけには、と泣きそうな顔で「どうしよう」と俯く。 「―――レストランの前にコンビニだな」 ―――そんな脚を晒して歩かせるわけにはいかない。 言えばパッと顔が上がった。 「これに懲りたら、ストッキング履くときは予備を持ち歩くんだな」 「そうします」 神妙な顔で大きく頷いた郁が、細い爪先をパンプスに突っ込む。白い足首が気になるのを、ぐりんと首を回してやり過ごした。 どうやらストッキングというやつは、ただの一アイテムではなく。 結構大事なもんらしい。 |