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「あ、オオオニバスだ」 「オオオニバス?」 あれですよ、と郁が指差す先には椀状になった肉厚の緑が浮かんでいる。直径1メートルを超えているだろう大きな葉だ。 「丈夫な葉で、ほら見たことないですか?子供が乗ってたりするの」 「人が乗れるのか?」 「そうですよ。場所によってはそういうイベントあったりしますよ」 ふぅん、と頷いた堂上はおもむろに郁の脇の下に腕を差し込んだ。 え?と驚きの表情が返るより先に郁の足が宙に浮く。 「え?ちょっ?!」 「お前ならいけるんじゃないか?軽いし」 笑いながら、ヒョイ、と腰を浚われる。 「無理です!無理に決まってるじゃないですか! って、足が柵越えてますっ!うわっ!ちょっ、本当無理ですからっ! 落ちる!落ちるっ!!ちょっ!おろして下さい堂上教官っ!」 「―――教官?」 ズル、と水面に向かうように落ちる身体に郁はギョッとして慌てる。 「ぎゃー!ごめんなさいごめんなさい篤さん!」 篤さん篤さんと必死に連呼する郁に笑って、堂上は郁を再度抱え上げ、地面に下ろした。 堂上が郁に自分の事を教官呼びではなく名前で呼ぶように言ってから、まだ数週間。身に付いた習性はそうそうに変わるものではない。どうしたって呼び慣れた方を呼ぶことが多い。 仕方ないとは言え、あと一月もすれば籍を入れて夫婦になるのだ。同居までは更に二月ほど時間を要するが、夫婦になっても「教官」扱いは御免だと、プライヴェートの時間に郁が教官呼びする度に堂上は逐一指摘をし、時にはこうした荒療治のような真似をする。 どこかでそれを楽しんでいる、という訳ではない、はずだ。 思い、いや、どうだろう、と郁は内心で苦笑する。 業務上では難しい顔を見せる堂上が、案外と子供っぽい性格があるところを郁は知った。ただの部下では見られなかった顔を知るごとに嬉しくなり、そうした態度をとられることを実は喜んでいるということは内緒だ。 通路に足を下ろした郁は「信じらんないっ!」とわざと頬を膨らませて堂上を見る。 そんな郁に堂上は「すまんすまん」と軽い謝罪を返し、ほら、と手の平を差し出す。 ムっとした表情を見せていた郁も「仕方ないなぁ」と笑い、その手に左手を重ねる。 その薬指では、キラリと小さな輝石が輝く。 1ヶ月にも渡る冷戦の終戦とともに得た戦利品だ。 柔らかな輝きを放つそれが薬指にはまっているのを見る度に、郁は頬が緩むのを止められない。 視線を指に落とし、ふふ、と郁から零れる笑みを隣で見て、堂上の表情も綻ぶ。 雪が溶け、暖かくなれば、蕾はほころび、やがて大地を満たす。 花はただ咲き、あるがままにある。 不思議なことは一つもない。 それが自然の摂理なのだから。 暖かな空間を、郁と堂上は寄り添い合い、時折顔を見合わせ微笑みあいながらゆっくりと歩いていく。 外はまだ寒風が吹き、吐く息を白く染めるが、この空間は見渡せば、百花繚乱。 鮮やかな色の花々は、自己主張しながら、妍を競っていた。 たまたま寄った植物園は春を思わせるように、色とりどりの花にあふれていた。 12月頭に堂上からの「提案」という態のプロポーズを郁が受けてから、公休は結婚に向けての準備で慌ただしく予定が組まれていった。 両家への挨拶に、顔合わせ。式場の下見に打ち合わせ。そして官舎に移り住む為に必要な物の買い出し。 結婚てこんなに慌ただしいものなのか、と自室で零した郁に、柴崎は呆れたように息を吐いた。 ―――それだけ教官があんたと早く一緒になりたいってことでしょ。 そう指摘され郁は顔を真っ赤にした。 柴崎には堂上が入籍を急ぐ理由がすぐに分かり、郁の公休のスケジュールを知った時密かに苦笑したものだ。 世帯用官舎への入居には入籍の事実が必要になる。 さらに関東図書基地に併設している官舎の入居希望者は多く、異動の時期以外の入居が叶う可能性は低い。 次の異動は4月1日付で下る春の定例人事だが、異動の内示はその一月前に出されるのが通例であり、遠方への異動ともなればそれよりも早い。そして転居を伴う世帯持ちの異動者には官舎の空き状況により入居の打診が行われる。 つまり、4月の異動に合わせ、2月には官舎入居者の選定が行われるのだ。それを逃せば次の異動時期である10月まで官舎への入居は難しい。 勿論、同居自体は郁が「提案」した民間マンションでも実現可能であるが、緊急出動のある立場を考えると、常時基地から離れた場所に居を構えることを堂上、そして郁も良しとはしなかった。良くも悪くも仕事バカな二人だ。 引っ越し先は官舎。ならば目指す入居は3月末。それを逃すと9月末?ふざけんな!そんな待てるか!と堂上が1月末までに入居申請手続きを終えられるよう、怒涛の様にスケジュールを組んだのだった。 あんだけもだついてたくせに。どんだけ急展開よ、とは柴崎の弁だ。 婚約から僅か2ヶ月足らずで入籍を始めとする諸々の手続きを済ませようというのだ。そんな風に急ピッチで結婚準備が進むものだから、ゆっくりとしたデートを愉しむ時間はない。 諸々の準備の合間に、こうしてフラリと散策できるような場所を見つけて寄り道するのが最近の二人のデートのようなものだ。 もっとも、堂上も郁も本音を言えば場所なんて関係なく、ただ二人一緒に居られればそれでいいのだが。 「郁、あれは?」 分かるか、と尋ねる柔らかな声は耳朶に優しい。いつまでも聴いていたいと、思わせる声だった。 堂上の双眸にふと留まったのは、薄紅の花弁の小さな花。 堂上の質問に郁は飴色の瞳を柔らかく細め、微笑んだ。 「聞いたことありませんか?サルスベリ、ですよ。幹・枝がつるつるすべすべしてて、猿も滑るっていうのが名前の由来みたいです。 あと、漢字で百日紅(ヒャクジツコウ)とも言って、100日間赤い花が咲くからってのもありますね」 サルスベリという名を聞くのは初めてではないが、実際にそれと知覚したのは初めてだ。郁の言葉にこれがその花かと知る。 「“教官”でも知らないことがあるんですね」 クスクスと笑みをこぼしながら、郁は堂上に寄り添う。 「花の名前は専門外だからな。習いもしなかったし、調べもしなかった」 その手の事に疎いのは知ってるだろ、と堂上は決まり悪げに、郁から目を逸らした。 その様子が可笑しいやら可愛いやらで、郁はまたクスリと笑った。 「じゃあ、あたしが篤さん専用の草花講師になってあげますね」 楽しそうに笑った郁が、あれは、と指さす。 けれど、伸びた指を堂上が掴む。 どうしたのか、と郁は小さく首を傾げる。 「そんなに一度に言われても覚えきれん」 きょとん、とした表情で郁は堂上を見る。 堂上の記憶力がいいことを郁は知っている。 ―――そして、自分が言ったことを忘れるような男ではないことも。 「だからこれから毎日、一つずつ教えてくれ」 ゆっくりと、その言葉が郁の内部に浸透する。 そうして届いた言葉に、郁はふわりと顔を綻ばせた。 「分かりました。 これからあたしが、毎日、一つずつ、篤さんに花の名前を教えてあげますね」 「ああ。楽しみにしてる」 「はい」 篤の言葉に郁は楽しそうにうなずいた。 天を星が満たすように、地を花が満たす。 数え切れぬほどある花の名を、最後まで教えきることが、覚えきることができるだろうか。 教えきることができなくても、覚えきれることができなくてもいいと思う。 そうしてその日々が尽きることのないことを願う。 「―――なぁ郁、この世で最も美しい花って知ってるか?」 「美しい花?世界で一番大きな花なら知ってますけど」 「なんだ?」 「ラフレシア、ですよ。花を咲かすのに2年くらいかかって、その花は3日くらいで枯れてしまうから咲いてるところを見るのは難しいんですって」 「そうなのか」 「美しい花、っていうのは定義が難しいですよね。人によって感じ方は様々だし。 好きな花、とかならやっぱりあたしはカミツレだし。 でもカミツレだと美しいっていうより、可愛いって感じかな?」 「そうだな」 二人にとってカミツレの花は、特別なものだ。 ―――苦難の中の力。 それは堂上にとっての郁であり、郁にとっての堂上だ。 カミツレを見る度に、二人は互いに隣に居る存在を思い浮かべる。 けれど、堂上にとってこの世で最も美しい“花”はそれではない。 「―――郁」 「なんですか?」 柔らかく微笑む姿に堂上も微笑み返す。 「ちゃんと途中で終わらないよう、たくさんの花の名前用意しておけよ」 「分ってますよ」 郁もまた微笑み返す。 「ねぇ篤さん。 この世界にはたくさんの美しい花があるから、これから二人で最も美しいと思う花が見つけられるといいね」 郁は満開の笑みを見せる。 「そうだな」 その姿に堂上は眩しそうに目を細め、うなずいた。 堂上がこの世で最も美しいと思う“花”の名前。 その花の名は―――郁、という。 そんなこと、口に出して言えるはずもないけれど。 その花の輝きが損なわれることがないように、一生傍で守っていければいいと思う。 |