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この時ほど、堂上は自分の口下手さを恨んだことはない。 正化35年11月1日。 その日下った昇任辞令で郁は三等図書正へ、そして堂上は一正へと階級を上げた。 それは郁にとって、そして堂上にとって一つのきっかけであった。 カミツレをその胸に付けることは郁の念願だった。それがようやく叶ったこの日は、郁の人生の節目の一つである。 その日は生憎と訓練日であったが、昇任祝いと称したデートに出掛けた。次の公休日にもっとしっかりとした昇任祝いはすることにし、その日はとりあえず近くのカフェで、祝杯代わりにカモミールティーの入ったカップを小さく掲げて乾杯をした。 「昇任祝い何が欲しい?」 そう堂上が尋ねた時は、甘く穏やかな雰囲気だった。 そう、そこまでは間違いはなかったはずだ。 堂上の質問に「堂上教官は?」と返す郁に、今更だからいらない、と。初めてのカミツレの郁の方が先だ、と。郁の希望を促した。 そして、そこで返ってきたのが――― ―――「二人で部屋とか借りたいなー」 という、「同棲」の「提案」だった。 もっと一緒に居たいという思いを郁が持っているのは堂上にも伝わった。 堂上の根底にある思いと変わらない。 けれど、そこにある自分と郁の意識の違いにショックを覚えたのも確かだ。 「同棲」なんて、そんなものではなく。もっと強く、強固な関係を堂上を求めている。 郁との「恋人」という関係が飽きたわけでも、嫌になったわけでもない。 ただ、郁が「初めて出来た恋人」という存在、それだけで満足して、それで終わってしまったらどうしようかという不安があるのは確かだ。 ズルズルとそうした関係を続けている間に、郁がもっと別のモノに苛烈な思いを抱くことになったとしたら―――。 郁はまだ若い。30を超えた自分と違い、郁はまだ20代半ばだ。 その年齢の差も堂上を焦燥へと駆り立てる。 おまけに、自分は郁よりも身長が低く見目がつり合っているとも言えない。女が喜びそうなスマートな言動が出来るわけでもない。 足りない部分を思う度に、堂上の胸は潰れる思いがする。 ―――もし、この先郁の目の前に、彼女の見目にあった、自分よりずっとスマートで優しい男が現れたとしたら。 女性として、郁の魅力は日に日に増している。それは堂上の惚れた欲目ではなく。 もともと郁は女性初の特殊部隊員として隊内でも目立つ存在だった。それが囮捜査からそのスラリとしたそのモデル体形が話題になるようになり、そして堂上と付き合いだしてからプライヴェートの時間には女性らしい、乙女めいた言動や雰囲気が滲みでるようになってことで、一層なにかと囁かれるようになっているのを知っている。 そんな郁の隣に立てる優越感はある。けれど同時にその立場をいつか奪われるのではないかという危惧が日に日に強くなる。 だからもっと、傍に。もっと強く。強固に。 そう思っている堂上にとって、郁の「提案」は嬉しいという思いを呼ぶことよりも、一層の焦燥を煽るものになった。 だから、「それ以上」を求めるあまり、その意識が強いあまり、後先考えずに衝動的に言ってしまった。 「却下」 と。 目の前の郁の表情が強張るのに、自身の言葉の選び方が間違ったことに堂上は気付いた。 けれど、冷静さを失った感情が先走る中で、その言葉をフォローすることはできなかった。 郁の感情を無視して、畳みかけるように、理詰めで、郁の希望を切り捨てていく。 普段ろくに動かない口が、恨めしいほど饒舌に動き、郁を追い詰める。 気が付いた時には取り囲む空気は一変していた。 「もういいっ!」 がちゃん、とケーキのフォークが荒々しく皿に置かれる。 シン、と冷え切った空気が流れる。 「バカバカしいごっこ遊びで悪うございました! もう言いません、昇任祝いも堂上教官からは何も要りませんっ」 財布から取り出した千円札をテーブルに叩きつけるようにして郁は席を立った。 「先に帰ります!」 怒りと、そして悲しみに濡れた郁の瞳に、堂上は動けなくなった。 スっと恐ろしいほど冷たく感情の波が引いていく。 ―――今、俺は、郁に何を、言った・・・? 自身が発した言葉を反芻させて、血の気が引く。 捕まえるタイミングも、謝罪をするタイミングも逸した堂上を、郁は『もういいです』と遮断した。 その日から、郁のプライヴェートな範囲に堂上は立ち入ることが出来なくなった。 視線の先に郁がいる。 「―――郁」 俺の呼びかけに郁が振り返り、顔を綻ばせて駆け寄る。 その様子にほっと安堵し、迎え入れようとした俺の脇を郁は素通りする。 「―――っ!」 「お待たせ!」 振り返ると郁は知らない男を見上げるようにして笑っている。男の手が郁の頭に伸びる。 それ以上、その光景を見たくなくて堪らず声を上げる。 「郁ッ!」 駆け寄り引き寄せるように男から郁を離す。郁は不思議そうに俺を見る。 「教官?どうしたんですか、こんなとこで」 「なんだ、その男は」 「なにって」 郁がむっとしたように眉を寄せた。 「あたしの新しい彼氏ですけど?」 「何、言ってんだ、お前。お前の彼氏は、俺だろ・・・?」 「教官こそ何言ってるんですか?」 ―――だって、あたしたちもうとっくに別れたじゃないですか。 「もういいですって言いましたよね、あたし」 「それは、あのやりとりが、」 ふぅっと郁は呆れたように息を吐いた。 「じゃあ、言い直します。 教官のことなんて、―――もう どうでも いいです」 そう言って郁は掴んだ俺の腕を鬱陶しそうに振り払った。 血も凍るような思いということはこういうことを言うのだろう。 身体の芯から冷えていく感覚がする。 もうそれ以上興味はないというように、郁は俺から視線を外した。 ゾワリ、とした悪寒が走る。 「行こ」 そう言って郁は男の腕を取って歩きだそうとする。それに慌てて声をかけて引きとめる。 「待て、待ってくれ!違うんだ郁!話を、話を聞いてくれ!頼むっ!」 「なんですか?もうあたしに話すことなんてありません。 だって、教官にとってあたしは“ごっこ遊び”にしか過ぎないんでしょ」 「ちがっ・・・!」 「でも、彼は違うんです」 うっとりと微笑みながら、郁が男を見上げる。 「教官と違って、“本気”であたしのことを好きで居てくれるんです。 実は、部屋を借りたいって言ったら、結婚しようって言ってくれて」 ほら、と嬉しそうに掲げられる左手。その薬指にキラリと光るモノを見て、全身から血の気が引いた。 その薬指に繋がる未来は―――。 カタカタと指先が小さく震える。 「ぁ…ちが、俺も…ッ」 縋る様に手を伸ばし、一歩踏み出す。 踏み出した瞬間にパリン、とまるで薄氷で出来たかのように足元が割れ、俺は暗闇に真っ逆さまに落ちていく。 郁の姿が遠くなる。 「―――郁ッ!!!」 どれだけ手を伸ばしても、声を張り上げても郁は振り返らない。 俺から背を向けたまま、姿を消す。 手を伸ばしたままの格好で目を覚ました堂上は荒い息を吐く。じっとりとかいた額の汗を手の甲で拭う。 枕元に手をやり、携帯を開く。 新着のメールはない。 郁からの最新のメールはただ一言―――『もういいです』 それ以後、郁からのメールはない。 感覚の覚束無い指先でボタンを操作する。 画面には「メールを削除しますか」の文字。 カチっとボタンを押し下げ「はい」の選択肢にカーソルを合わせる。 ―――結局そのまま決定ボタンを押し下げることなくメール画面を閉じる。 メールを削除しても、俺が郁を傷つけたことに変わりはない。なかったことにはならない。 このメールを消せば、きっと少しは楽になるだろう。 けれどこれは、戒めだ。忘れはいけないて。なかったことには出来ない。 同じ過ちを犯さないためにも。 音沙汰のない携帯電話を堂上は沈んだ気持ちで見詰める。 ―――だって、あたしたちもうとっくに別れたじゃないですか。 夢の中での郁の台詞が、頭の中を過る。 振り払うように頭を振る。 違う。あれは夢だ。夢。現実じゃない。夢だ。 荒れる呼吸と鼓動を押さえようとして、懸命に自身に言い聞かせる。 だけど、重ならない休みが増えるほど、郁との距離が離れていくようで怖い。 もしかしたら、本当に―――陥る思考に堂上は頭を振る。 違う。大丈夫だ。そんなことはない。あれは、夢だ。夢だ。 頭から冷たいシャワーを被り、じっとりとかいた脂汗ごと洗い流す。 郁に会えるかもしれない。 そんな期待と。 もし着飾った郁がいたら。あまつさえその隣に他の男がいたら。 そんな不安とともに堂上は共用ロビーに出る。 ―――纏わりつく視線は無視だ。 「はよっす」 ポンと軽く堂上の肩を叩いたのは同期の唐川だ。 「なんだ、今日も一人か」 「―――ほっとけ」 ムっと眉を寄せ、堂上は乱雑に新聞を畳む。 「なぁなぁ、お前笠原ちゃんと別れたってホントか?」 「別れてない!!」 バンとテーブルに新聞を叩きつけるようにして、堂上は唐川を睨む。 それに唐川はひょいっと肩を竦める。 「なんだ。ウチの後輩がお前と別れたみたいだからチャンスだとか言って―――」 「郁に手を出してみろ、殺すぞ」 襟首を掴んで地を這う声を出す堂上に「言ってんのは俺じゃなくて後輩だっての」と唐川はその手を払う。 「じゃあソイツの名前吐け」 「いちお?可愛い後輩を殺されるわけにゃいかんからな」 ケラっと笑い、唐川は堂上が叩き置いた新聞を攫う。 「年下の彼女の我儘を聞いてやるっていう姿勢かもしれないけどさ、あんまり余裕ぶってほっとき過ぎるとそろそろ本気でヤバイんじゃねぇの」 「―――余裕なものか」 堂上は小さく吐き捨てる。 初めは「またケンカか〜」なんて特殊部隊内で半ば呆れたように見られていたが、それが次第に隊外にも伝わる様になり「堂上と笠原はケンカしてるらしい」から、時間が経つに連れ「別れたんだろ」という噂になっているのは堂上の耳にも入っている。その度に焦燥が増す。 今まで、堂上がいたから直接的な行動を見せるものは少なかった。 図書隊において、入隊してから徹底的に叩きこまれる階級による上下関係は、プライヴェートにおいてもフラットに考えることは難しい。 入隊時から「三正」の位を拝命した堂上は同期内でも頭一つ抜き出た存在で、現在同じように昇進を重ねているのは図書大を首席卒業した小牧くらいのものだ。 図書大最後の卒業生である自分達以下の者でそれを上回る昇進スピードを持つ者はいない。 「上官の女」である郁に正面から手を出そうとするものはよほど豪胆なものだ。 けれど、別れたとなれば話は別だ。 出来た隙間に、気が付けば誰かが入っているかもしれない。そんな不安が常に付きまとう。 それでも――― 「―――動かないんじゃない・・・動けないんだ」 え?と聞き返す同期を置いて堂上は立ち上がる。 何もする気が起きずに、自室に戻りそのままベッドに身体を投げ出す。 自分と郁を繋ぐ道。けれどそれはか細く容易に渡れるものではない。 自分から渡ってしまえば崩れ落ちそうなそれ。 いや、と堂上は頭を振る。 実際に自分から動けば、その道は脆く崩れるだろう。―――夢の様に。 自分から動けば、きっと郁の態度は更に頑なになる。 郁が己の態度を気にしているのは分かる。引っ込みがつかなくて困惑している様子が漂う。見ていれば分かる。 だからまだその姿が見える業務中は大丈夫だ。まだ、郁の意識が自分にあるのだと知れる。 けれど、姿が見えない途切れたプライヴェートの時間は恐怖がせり上がる。 自分の態度に疲弊して、そのままもういいやと心が離れてしまって、自然消滅の様な気持ちが郁に生まれていたら。 そう思うと、堪らなくなってすぐにでもその姿を見たくなる。駆け寄り抱きすくめて、そんなつもりはなかったのだと弁明したい。 けれど、何を言っても空回りしてしまう気がしてそれもできない。今度間違えれば、決定的な別離を言い渡されそうで怖い。 堂上の手に「別れ」の選択肢はない。けれど、それが郁もだとは限らない。 そう思うとゾクリとした悪寒が堂上の身体に走り、不安に押しつぶされそうになる。 拗ねていたいというのなら、気の済むまで拗ねていていいから。お前がそこに触れて欲しくないというのなら、気持ちが収まるまで、どれだけだって待つから。 「だから、もう一度だけ、チャンスをくれないか、郁?」 携帯を両手で強く握りこみ、堂上は祈る様に額に当てた。 不安な夜を幾度も過ごし。 ようやく訪れた夜明けの兆しに堂上はそっと息を吐いた。 『お疲れさまでした。 郁』 たった一文。 だけど、それまでとは違う署名。 それだけのメールで、俺がどれだけ安堵したかなんて、きっとお前は知らないだろう。 泣きそうになりながら、堂上もまた郁に合わせて返信をした。 『お疲れ。よく休め。 篤』 その日堂上が見た夢の中の郁は、久しぶりに堂上に向けて笑みを浮かべていた。 結局、人の性とはどれだけ反省してもそう簡単に変わるものではない。 郁から誘いを受ける形で再開した公休のデート。 それの日までに、あらゆるパターンのシミュレーションをし、今度こそ間違えないようにと決めていたはずなのに。 内心頭を抱えたまま、不貞腐れた表情で堂上は郁に「提案」という形の「プロポーズ」をした。 「俺から婚約指環を受け取って俺と結婚する意志はあるのか」 もっと言い方というものがあるだろうという感じだが、「あ、あります!」という反射で返った郁の言葉を言質にすることにしたあたり堂上もなりふり構っていられない。 もっともその余裕のなさを郁が知ることはないのだが。 呆気にとられたままの郁の手を取り、そのまま指環の下見へと向かう。 仲直りデートは、一足飛びに堂上と郁の関係を変えた。 そして、それから数日後。 郁の左薬指には輝石がはまる指環が存在を主張するようになった。 その薬指に繋がる未来に、堂上は泣きそうになる。 夢の中とは違う、幸福に。 |