ああ、もう。
「ちょっとこっち向きなさいよ」
という柴崎の言葉に振り返ると、白くほっそりとした指先に唇をなぞられた。
いきなり何っ!という言葉を発する前にきれいに伸びたマニキュアの指に口を押さえられる。
「リップクリーム塗ってあげたの。あんた最近くちびる荒れてるみたいだから。
 有り難く思いなさいよ。こんな細かいところまで気にしてくれる柴崎さんがいるってことに」
そう言ってグッチの化粧ポーチを仕舞った柴崎は「あんたも早く事務室いきなさいよ」と艶やかな黒髪をなびかせて颯爽と図書館に行ってしまった。
残された郁は慣れないべたべたするくちびるの感触が気になって手の甲で拭いそうになるが、柴崎の「荒れてるから」という言葉が気になってそれ以上なにも出来なくなってしまった。
郁も普通の乙女心を持った女の子(反論は認めない!)、そのあたりは微妙に気にしたりしなかったりするお年頃である。
おまけに今の郁にはひとつ気がかりがある。
ほんの数日前に職場復帰した堂上と、もしキスなんかすることがあったらどうしよう、その時くちびるが荒れていたらちょっと興ざめしちゃうんじゃないかなんてことを思う。
だからリップクリームをつけたまま、なんとなく気恥ずかしい思いをしながら事務室に向かうことにした。
事務室につくと真っ先に堂上の席へと目を向けた。
机に積まれた書類に向かってペンを走らせていて、ツンとした黒い髪しか見えない。
―――ちぇっ。
べ、別に期待してた訳じゃないけど!
誰に言い訳する必要も無いのに、慌てて胸中で言い訳をして郁は自分の席に向かう。





席に向かう郁とすれ違う隊員の数名が「おや?」という顔をする。
「笠原?お前、それ」
「え?どうかしました?」
「―――おい、堂上見てみろよ」
声を掛けられ「何ですか」と胡乱気な表情で堂上が顔を上げた。
視線があった堂上にくちびるのことを言われるかと思ったが、相手はちらりと見ただけで、また顔を埋めた。
気づいているのか、わかっているのに言わないのか、郁にはわからないが少しほっとしたのは確かだった。
からかわれたらなんて返せばいいんだろう。と、そこまで考えたところで、周りから向けられる視線にハッとした。




「か、笠原、コーヒー淹れてきます!」




クルっと回れ右をして、ワタワタと事務室を出る。






コーヒーメイカーを前に両手で顔を押さえる。



「うぅ・・・やっぱりムリぃ」



「何が無理なんだ」




背後から掛けられた声にビクリと肩が跳ねる。


「きょ、教官!」
振り返れば、仏頂面の堂上が居て郁は焦る。



「あ、あの・・・?」
「俺もコーヒー」
「あ、淹れます。持って行きますから、席戻ってていいですよ」
堂上の手にあるマグに手を伸ばしたところで、いきなり手首を掴まれ引っ張られた。



「ひゃっ!」
前につんのめったところに、堂上の唇が降ってきた。





柴崎にリップクリームを塗りたくられた時からなんとなくこうなるんじゃないのかという気はしていたものの、実際に起きてしまうと郁もどうしていいかわからない。
それどころかキスした方の堂上もうろたえているようで二人でおたおたしている光景は端から見ればさぞかし滑稽だったろう。
けれど本人たちは必死で、一生懸命で。
「すまん。ついお前の唇がつやつやしてて、美味そうだったから」
教官のバカ!と思わず堂上の向こうずねにケリをひとついれて、クルリと後ろを向いた。



恥ずかしい!恥ずかしくて死にそう!!



それでも郁はご機嫌でくちびるに触れた。




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