―――っていうネタを考えてみたの。シリーズその@『郁たんに教官以外の婚約者が出来る話』
あくまでもネタなので間の繋ぎがごっそり抜けてる部分もあります。












それは堂上にとって青天の霹靂だった。


いつものように夜間の呼び出しに応じた郁は、けれど俯いた顔を上げようとはせず、どうしたのかと堂上の手が頬に触れた瞬間、泣き出しそうな震えた声を出した。
「・・・・・・これ」
ぎゅっと両手で握りこまれ差し出されたのは堂上にも見覚えのある小箱だ。見覚えがあって当然のもので、つい先週堂上から郁に贈ったものだ。
「―――どうした」
「あたし、やっぱり、受け取れません」
その言葉を聞いた瞬間堂上の顔が強張る。
―――だって、お前。それは。
知らず、声が震える。
「どうした。デザインが、気に入らなかったか?
 あ、だったら、今度の休みに、もう一回」
全くお前は仕方ないな、となんとか笑おうとする堂上の前で、郁は俯いたままフルフルと頭を振る。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ」
「―――っ。謝るより先に理由を話せ」
「ごめんなさい。お金は、後で、ちゃんと、返します」
「そういう問題じゃないっ!」
思わず肩を掴み、反動をつけ強引に顔を上げさせる。
そこにあるのは、泣くのをぎゅっと我慢して眉を寄せる郁の顔だった。
「あたし、篤さんと、堂上教官とは、結婚できません」
「なあ、郁。理由(わけ)を聞かせてくれ。頼むから」
両家の都合のいい日取りを調整して、早いところ結納を済ませなければと話していたのはそう遠いことではない。それがどうして、いきなり。
郁の言葉が、行動が堂上には俄かに信じられない。信じたくない。
「ごめんなさいっごめんなさいっ」
ついに決壊した涙腺を隠すように、両手で顔を覆った郁がしゃくりあげただ謝罪だけを繰り返す。


「おれのこと、きらいになったか?」
その言葉に郁は首を振って否定する。
「だったら、」
「ごめんなさいっごめんなさいっ」


「―――あたし、やっぱり―――篤さんのこと・・・『教官』としか、思えません」
もう一度頭を下げて謝ろうとする郁の腕を慌てて掴む。
「分った。分った。今は、それでも、いい。それでもいいから。
 いつか、俺のことを『男』だと思えるようになるまで、待つから。
 だから―――」
出逢ってから付き合うまでに8年掛ったのだ。郁の理想の『王子様』から『堂上篤』自身を見てもらえるまで、それだけの時間を掛けた。もう一度、そこから『男』に見てもらえるまで堂上には待つ心積もりがある。というよりも、もう堂上には郁以外の人間を傍に置くことが考えられないのだ。郁の気持ちが追いついていないと言うのなら、一度結婚話を中断するのも構わない。だから『いつか』の未来を約束するだけでいい―――堂上はそう思っていたのに。




「―――すきな、ひとが、・・・できました」





顔をそむけ、切なげに絞り出された郁の言葉に、堂上は足元から崩れていく感覚がした。ズルリと郁の腕を掴んでいた指先から力が抜けていく。
ごめんなさい、と弱弱しい謝罪を繰り返し、郁はパっと身を翻して堂上の前から姿を消した。





「―――すきな、ひと?いくに?おれ、いがいの?」
震える手で口元を覆う。
郁からもたらされた言葉が堂上にはどうしても信じられなかった。
郁から向けられる感情を疑ったことなどなかった。女としての郁からの愛情の10割は自分に向けられていると今の今まで思っていた。


それが、違った。



「だったら、だったら―――・・・ただの、上官に、あんな、顔見せんな、バカ郁っ」




心底安心しきったような、全てを預けきったような顔で寄り添っていた郁。
けれど、それ以上の「女」の顔を郁は持っていたと、そういうのだろか。
その顔を他の「男」の腕の中で、郁は、見せるのだろうか。
堂上だけが知るはずだった、彼女の肌の温もり、柔らかさ、甘さが、これからは自分ではない誰かのものになるのだろうか。
その誰かの名を甘い声で呼び、笑み、手を取り―――『永遠』を誓うのだろうか。


想像に耐えきれず、堂上は堪らず身を屈める。込み上げてくる嘔吐感を堪え切れず、身を折って何度も嘔吐く。


「―――っ、は、かはっ」



苦しい。
胸が詰まって、息が出来ない。
苦しい。
誰か、助けてくれ。
誰か―――



「―――いくっ」



救いのように、その名前だけが堂上の咽喉から絞り出される。





郁。
郁。
なぁ、郁。
そいつは、その男は、俺以上にお前を必要にしているのか?
俺以上に、お前を必要としてる人間がいるのか?
俺はもう、お前が居ないと息すら上手く出来ないのに。




本当に大切なのは誰が郁を必要としているのかではなく、郁が誰を必要としているのかなのに。
ズルイ心は、自分に都合のいいことばかりを探そうとする。




「好きな人の幸せを願うのは当然」
なんて所詮は綺麗事だと堂上は自嘲をもらす。


そんなこと実際に心から思うことなど、出来るはずがない―――。こんなにも、自分は郁の不幸を願っている。
堂上と付き合うまで今までの恋愛は敗戦ばかりだと言っていた。
だったら、今度もこっぴどく振られて、どん底まで傷つけばいいと思う。
そうしたら、傷ついた郁に慰める態で近づいて、それでもいいと囲い込んで逃がさないのに。
郁が誰を好きになっても、郁を好きになるのが俺だけだったらいいのに。
そしたら郁は独りだ。そしたら、郁は俺に縋るんじゃないのか。
誰かのものになってしまうくらいなら、一生郁の想いなんか報われなくていい。























◆◆◆













「―――郁」





背後から呼び止められる名前に、郁の顔が強張った。
「―――笠原?」
郁を庇うようにして、堂上が先に振り返る。
そこに居たのは、ビジネススーツを着こなす品の良さそうな、堂上の知らない青年だった。
「―――なんで、居るの」
身を固くして言う郁に青年は困ったように笑う。
「仕事の邪魔したからってそんなに邪険にするな。可愛い婚約者に会いにくるのはそんなに悪いことか?」
「―――っ」
「い、く・・・?」
―――婚約者。
その言葉に、堂上の気持ちが揺れ、思わず名が零れおちる。
堂上の声に郁の身体がビクリと跳ねる。



「ああ。その人が―――『堂上教官』か」
「―――あ、」
震える声を出す郁の顔は蒼白だ。


「郁から話は聞いています。いつも私の婚約者がお世話になっているようで」



現婚約者と、元婚約者。
その立場の違いに、堂上は立ち眩みがしそうになった。
けれど、寸前で、蒼白になった郁の表情の方が気になり気を奮い立たせる。
こんな状況で平然としていられるほど、郁が薄情ではないことを堂上は知っている。
自分が傷つく状況に、郁は傷つく。
なんとか『上官』の顔を張り付けて、郁をこの場から離れさせる言葉を選ぶ。
「―――笠原。先に作業に戻れ」
「でも」
「いいから」
所在なさげに視線を揺らした後、郁は頭を下げ、青年の顔を見ないように足早にその場を去った。













「すみません。気を遣わせましたね」
「―――いえ」
返す言葉がどうしても硬質なものになるのを堂上は止められなかった。知りたくもなかった郁の相手が、それも「婚約者」なんて名乗る男が目の前に現れたことを感情が受け入れられない。
たった、数日。そんな短期間で郁の片思いが昇華されたなんて、信じたくなかった。





「ようやく、結婚の申し出を彼女が受け入れてくれたのが嬉しくて、少々浮かれてしまいまして」
聞きたくもない話を青年は繰り出す。
「一目惚れ、って言うんでしょうかね。この図書館で初めて彼女を見て。
 屈託のない笑顔で接する姿や、子どもたちに慕われる姿、それから、館内で事件を起こす犯人や良化隊に立ち向かう凛とした姿に、自分に必要なのは彼女しかいないと思ったんです」
「それは」


―――そう思うのはお前だけじゃない!


自分が抱える気持ちをそのまま現すような言葉に、堂上の胸は張り裂けそうになる。
俺だって。俺だって!郁が必要だ!!先に郁を必要としたのは俺の方だ!!
それが、どうして!どうして!!後から出てきた見ず知らずの奴に奪われなければならない!!
返せ!返してくれ!あれは俺のだ!俺の、大切な、唯一の―――宝物なんだ!!
声にならない悲鳴を堂上は上げ続ける。





「ああ、すみません。ただの『上官』である貴方にする話ではなかったですね」
「―――いえ」



―――ただの『上官』




照れたように笑う青年に、何かの意図はないのだろう。
爪が皮膚に食い込むほど強く拳を握りしめ、堂上は殴りかかりそうになるのを必死に抑える。







「どこか無鉄砲なところがある彼女ですが、今後ともよろしくお願いしますね」
「―――分かってます」
言われなくとも。言われるまでもなく。
郁がどれだけ無鉄砲なのか。郁がどれだけ目を離せない存在なのか。
強い精神を持っていて、だけど優しすぎる心がどれだけ傷つけられやすいのか。
何年、俺が、郁を。どんな想いで見てきたと思っている。




「お仕事の邪魔をすると、また郁に怒られそうなので。私はこの辺りで失礼しますね。
 あ、そうだ、堂上さん」
別れの口上を切りだしたところで、青年が言い忘れていたという顔で付け足した。
「ここでは、普段名前で呼び合うような習慣があるんですか?」
「―――何故です」
「いえ、一度咄嗟に郁の名を呼ばれていたので」
「それは―――」
「すみません。彼女の事に関しては、あまり余裕がないもので。
 申し訳ないのですが、今後彼女の事を名前で呼ぶの、止めていただけますか。
 自分以外の男に、名前で呼ばれるのは、ちょっと」
「―――いえ。こちらこそ、失礼いたしました」
「こちらこそ。お仕事の邪魔して、申し訳ありません」
それでは、と会釈をして、今度こそ男は去っていく。






男の背をぼんやりと見送った後、堂上は広げた掌を虚ろな目で見る。
その手には食い込んだ爪の痕が赤く刻まれている以外、何一つ残っていなかった。



郁の名前を当たり前に呼べる権利も。
笠原郁の婚約者を名乗れる権利も。
それは確かに数日前まで堂上にとって揺ぎ無いものとして握りしめていたはずのものだったはずなのに。
どこで、失くしてしまったのだろうか。零さないように、落とさないように、しっかりと握りしめていたはずなのに。
いつのまにか掌の中に閉じ込めていたはずのそれらは気付かない内にスルリと抜け落ちてしまっていた。



開けなければ良かったのだろうか。触れなければ良かったのだろうか。
大切に仕舞っていた箱の最後に希望なんてなかった。残ったのは絶望だけだ。





自分にはもう何もない。何一つとして―――。
顔を覆う。



「…いくっ」



漏れる声は弱弱しい。


そんな中、ふと郁の声が堂上の脳裏に蘇った。










―――教官!


―――どーじょーきょーかん!





私は堂上教官の伝令ですから。どんな光景も最後まで一緒に見ます。











その声にハッとして堂上は顔を上げる。仕事をしなければ、と思った。
「部下」としての郁の隣は、それだけは、「上官」である堂上の居場所だ。
その場所すら無くなったら、今度こそ本当に郁の中から居場所が消える。


「―――いやだ」


頭を振って、堂上は前を見据えた。
上官としてさえの場所すら失ったら、きっと自分は潰れる。



仕事を、しなければ。
そうしなければ、自分はもう郁の隣に居られない。
その場所だけは、どうしたって、死守しなければ。
「堂上教官」としてなら、自分は郁に必要とされている。






もし、郁が、特殊部隊を、図書隊を辞めると言ったら。
きっと自分はその腕を取って縋るのだろう。
先に郁を辞めさせたがっていたのは自分であったはずなのに。
今はきっと、縋って、そして泣くのかもしれない。

お前は、図書隊に必要な人間だ。だから辞めるな。辞めないでくれ。頼むから。



―――図書隊より何より、郁を必要としているのは俺だ。




郁は堂上の為に生きているのではない。
それなのに、いつだって自分は郁の意思を無視したことを強欲に思う。
自分のエゴの為に最初は図書隊を辞めて欲しいと思い、そして今は辞めるなと願う。





それがどれだけ勝手な願いなのか分かっている。
それでも。
郁を選んだ堂上は、もう郁の居ない世界が考えられないのだ。



上手く息もできない世界は死ぬほど苦しい。
けれど、「郁の居る世界」を手放すこともできず、堂上は死ぬことさえ選べない。












◆◆◆













それから堂上は精力的、というよりも取り憑かれたように仕事をこなすようになった。
任される仕事を断ることなく、業務量は日々増えていく。オーバーワーク気味の同僚の姿を気に掛けた小牧がいくつか引き受けようと声を掛けるが「大丈夫だ」と頑なに断られる。







「―――堂上。入るよ」
最初の内はそれでも黙っていられたが、日を重ねると流石に心配が勝る。
小牧が堂上の部屋に入ると、そこはアルコールの匂いが充満していた。
「ちょ、お前。何どんだけ呑んでんだ!」
ビールの空き缶のみならず、日本酒や焼酎の一升瓶が空き瓶が転がっている。いくら酒豪と呼ばれる堂上でも、それは呑み過ぎの域だ。
「―――寝酒だ」
「どこがだ!」
素早く歩を進めた小牧がテーブルの上に乗るグラスを取り上げる。
「お前最近どうしたんだ。笠原さんも心配してたぞ」
「―――郁が」
その名に堂上の瞳が揺らぐ。
「そうか」
「そうだよ。当たり前だろ」
「なら、いい」
小さく呟く堂上に小牧の眉がひそめられる。
「堂上?」
「郁が、心配してくれてるんだろう。なら、いい」
それが、上官に対する心配でもいい。
もう、なんだって良かった。
郁の意識が少しでも多く自分に向けられるのであれば、それが同情であっても構わないと思う。
少しでも、郁の意識に自分の存在が根付いているのであれば、自分はそこに縋ることが出来る。





薄く笑みを浮かべた堂上に、小牧が訝しげに尋ねる。
「―――何があった」
「―――何もない。もう、上官であるしかないんだ」
「堂上?」
郁との婚約が解消されたことを堂上はまだ誰にも話していない。それを口にすれば、認めざるを得なくて出来なかった。
結納の日取りも、当人たちの仕事の都合に合わせると言う両家の両親の意向があり、堂上達に委ねられ、候補日が決まり次第連絡するとしていたのが幸いしたのか、親への連絡も、まだだ。もしかしたら、郁は、もう、しているのかもしれないが。












「―――それは、また、急だね」
堂上の告白に、小牧もまた困惑したような声を返した。
「一体いつの間に」
「時間なんか、関係ないだろう」




一瞬にして奪われる感情と言うものがあることを、他でもない堂上は知っている。
堂上にとっての郁がそうで。



―――郁にとってのそれが、あの男だったいうことだ。









どこかで、それを否定する自分が居る。
目を覚ます度に、あれは悪い夢だったんじゃないかと思う自分が居る。
けれど、机の上に乗った赤いビロード仕上げの箱を見る度に現実を知る。
現実から目を逸らすように仕事に逃げる。プライベートの時間を削るほど「郁の上官」としての時間が増える。その時間だけは、郁が近くに居てくれる。
だから、堂上は仕事をしなければいけない。郁を繋ぎとめるにはそれしかない。
そして酒の力を借りて無理矢理に眠る。そうでもしないともう眠れない。
酒に頼った睡眠の質が良いものではないと分かってはいても、眠らないよりましだろうと過剰に摂取したアルコールで意識を沈めて強制的に身体を眠らせる。少しでも意識があると、あの日の事を繰り返し夢見てその度に飛び起きるからだ。



心身ともに万全でないことは堂上自身が分かっている。それでも、仕事の手を止めることは、もう出来ないのだ。






堂上の不調の原因が、自分にあると知ったら。
あの心優しい郁は自分を責め、そして哀れに思って戻ってくるだろうか。






そんな、昏いことばかり思っていたから、罰があたったのだろうか。






「―――堂上!」


無理矢理に動かし続けていた身体はついに限界を迎えて、堂上は仕事中に倒れた。
傾ぐ世界の中で、真っ青な顔で自分を真っ直ぐに見つめる郁を見つけて、堂上は小さく笑った。



―――本当は、そんな顔させたいわけじゃなかったんだけどな。


それでも、郁が自分を見てくれている事実に、堂上は薄暗い喜びを覚える。











◆◆◆
















色を失くした顔をして眠る堂上を郁は静かに見詰める。
固く目を閉じたまま横たわる身体は明らかに生気に欠け、隠しようのない憔悴がべっとりと貼り付いていた。
本当は自分がこんな風に彼の傍に寄り添う資格がないことを郁は理解している。
思わず医務室に担ぎ込まれる堂上を追ってここまで来てしまったが、自分の立場を思い出して席を辞そうとした。けれどそれはもう一人の上官である小牧に却下された。
「笠原さんは、ここで堂上の様子を見てて。医務員が戻るまででいいから」
「でも」
「俺は班長の代わりにしなきゃならない仕事があるから。
 班長と副班長が抜けるわけにはいかないだろ」
「あ、じゃ、手塚を」
「手塚は俺の手伝いをしてもらうから」
「でも」
「笠原さん」
「―――はい」
咎めるような口調で名前を呼ばれ、郁は目を伏せて頷いた。
小牧の言うことはもっともだ。医務員の居ない状況で堂上を一人残すわけにはいかない。そして班長である堂上が倒れた今、その代理の副班長である小牧が付き添うわけにはいかない。
そしてそれを補佐するには、郁では力不足であることは本人が一番理解している。
かつてより事務仕事ができるようになったとは言え、それは最低ラインで班長の仕事をカバーできるようなものではない。郁の能力は圧倒的に戦闘分野に偏っているのだ。










手にしたタオルで額に浮いた冷たい汗を拭うと、冷たい肌が指先に触れる。
音を立てないように気をつけながら、そっと腕を伸ばす。掛る髪を払うように頬を撫でる手のひらに、冷たい肌の感触が伝わってくる。そのまま輪郭にそって、確かめるように指先を動かしていく。
やつれた肌は乾いていて、血の気を失った唇は白くひび割れていた。閉じたまぶたは落ちくぼんで、目元に濃い陰影を落としている。
その様子に事態の深刻さを改めて突きつけられ、ぽろりと一つ、郁の頬の上を涙が伝い落ちた。
その瞬間、堂上が小さく身じろぎして、郁は慌てて手の甲で涙を拭う。


「―――いく」
ゆっくりと開かれた瞳。薄く隙間の開いたまぶたの奥で、光のない黒目が、何かを捜し求めるように左右に揺れていた。やがて、ゆらゆらと定まらなかった両の目がゆっくりと郁を捉えた。長い間じっと見つめた後、ぼんやりとした表情で乾いた唇が微かに開いて郁の名を紡いだ。
「きょうかん」
胸が詰まる思いで、郁はなんとか声を絞り出す。
「いく?」
「覚えてます?仕事中、いきなり、倒れたんですよ。
 仕事、しすぎです。あんまり、心配かけないでくださいよ」
「いく」
「疲れてるんです。寝ててください」
目元に影を作ろうと伸ばした手が掴まれる。
「きょ、かんっ!」
「いやだ」
「きょうかん。手、はなして、ください」
「いやだ」
「教官」
「寝たくないんだ」
「なに、いって」
「寝たら、目が覚めたら、お前は傍に居ないんだ。だから、寝たくない」
「―――っ・・・・!」



「・・・寝てください。傍に、傍に居ますから」



右手首を掴む堂上の手に、そっと左手を重ねる。



「あたしは、ずっと傍についてます」
「ほんとか」
「居ますよ、傍に。
 だって、傍に居ないと、同じ光景、見れないじゃないですか」
「そうか」
「そうですよ。約束したじゃないですか」
郁の言葉に、堂上が安堵したように小さく笑った。
「なら、いい」
「傍に居ます。あたしは、堂上教官の傍にずっといます。
 だから、今は寝てください」




どうすればいいか、何をしてあげられるかなんて判らなかった。
だからただ、記憶の中で郁は堂上が自分にしてくれた仕草をなぞった。
些細なことで打ちのめされた時、あるいは理由もなく甘えたい時、必ず受け止めてくれた彼のことをひたすらに想った。
かつて彼が自分にくれたような、どこまでも深い安らぎを、その一欠片でも与えてあげられたらいい。
ただ、それだけを切に願いながら。幼子をあやすような動きで髪を撫でているうちに、安らかに繰り返されていく呼吸を聞いた。







限界だった。
大粒の雫がぱたりと落ちた。






「教官。堂上教官―――篤さんっ」





パタパタと膝に落ちる涙を拭うこともせず、郁はただ小さく堂上の名を呼び続けた。











しばらくして、堂上の頭を撫でていた手でぐっと目元を拭い、郁はそっと繋いでいた手を外し、乾いた唇に自分のものを寄せた。






「―――あたしはいっつも、篤さんの意思を無視したキスしかできないよね」


自嘲を洩らし、すぐに郁は表情を引き締める。




「教官はいつも、あたしを守ってくれた。
 だから、今度は、あたしが、堂上教官を、篤さんを守ります」





















「―――いく?」





堂上が目を覚ました時、そこに郁の姿はなかった。
柔らかな温もりの欠片すら、そこには残っていなかった。
堂上はただ一人、残される。





「―――だから、言ったじゃないか。嘘、つくな、バカ郁」


立てた膝に額を付け、覆らない現実に堂上は唇をきつく噛み締める。















◆◆◆
















仕事着の一つであるスーツに着替えた郁は、堂上が見惚れた凛とした姿そのもので前を向き、そして自分の婚約者を名乗る男を射抜くように見据える。


「折角なんだから、そんなスーツなんて堅苦しい格好じゃなくて、ドレスアップしてくれればよかったのに。
 ああ、なんならキミに相応しいドレスを仕立てて今度贈ろう」
「そんなもの、必要ない」





策略めいた駆け引きは自分のもっとも苦手とするところだと郁は知っている。
けれど、苦手だと言って、今此処で逃げを打つわけにはいかない。
此処で逃げれば全てを失うことになる。




―――そんなことさせるか。
強い決意のもと、郁はキっと目の前の男を睨み上げ、対峙する。


さあ、一世一代の見栄を張れ。虚勢を張れ。



―――自分の価値を高く吊り上げろ!











◆◆◆

















「堂上教官。入りますよ」
シャっとカーテンを開けて入ってきたのは柴崎だった。
「どうした」
覇気のない堂上の前で、柴崎が「真実」を告げた。


「遅くなってしまってすみません。ようやく掴めました。今回の笠原の“奇行”の原因が」
「な、に」
その言葉に堂上は目を瞠り、身を起こす。
「どういうことだ、柴崎」
「三島人事部長の息子の横恋慕です」
続きを促すような堂上の視線に、柴崎は一つ頷き仕入れた情報を提供する。


「今回の件は図書隊の外にいる息子が主体だったため、なかなか端緒が見つからず参りましたが、ようやく三島部長がきっかけをくれました。酒の席で「今後、原則派の勢いは弱くなる」旨の発言をしたそうで、そこから手繰り寄せてようやく辿り着きました。
 原則派と明確に言える人間はそう多くはありません。そしてその中で、今一番、新たな層に影響を与えているのは


 ―――笠原です」





歴史的な当麻事件の大舞台の主役を張った郁は、今や特殊部隊堂上班のみならず図書隊全体のシンボルへと祀り上げられている。
女性初の特殊部隊員という看板だけではなく、革命の立役者として広告塔になった郁に共鳴する者は多い。そしてそこには「原則派」や「行政派」という枠組みではなく、単に「笠原側」につく人間も多くいる。もし、郁が行政派につくとまでは行かなくとも、原則派から距離を置くようなことになれば、表見上原則派に見える笠原一派も同時に離れると言うわけだ。




「三島部長から笠原に直接のアプローチした形跡はありませんでしたが、行政派の三島部長ですからおそらく息子の行動は黙認状態でしょう。そうでなかったら、あんな発言は出ないでしょうし。
 同じく原則派の中核である堂上教官との婚約が破棄するとなれば、少なくとも中核である二人にダメージが与えられる上に、笠原を原則派から遠ざけることもできます。
 それから三島の息子の貸出歴を確認したところ、此処数か月の貸出日は全て笠原の館内勤務の日でした。勤務体制の決裁部門として人事部には各部署のシフト表が回りますから、笠原の勤務日を知ることは難しくありません。
 推測ですがおそらくその情報を流してもらった三島の息子は笠原にレファレンスを頼んだりして近づいていたのでしょうね。
 いったいいつ頃から笠原に邪まな思いを抱いていたのかまでは分かりませんが、堂上教官との婚約を知り、今回の強行に至ったのでしょう」
「―――だからって、なんで」
「おそらく、堂上教官と別れて自分と付き合わなければ教官の身分を危うくする、とでも脅しをかけたのでしょう。三島“人事”部長の息子の肩書を利用して」
「―――っのバカ!」
「ええ。バカですね。そこが笠原らしいと言うか。
 ウチの人事評価制度を考えれば人事部長ごときがどうこうできるシステムではないことは分かるでしょうに」



図書隊における業績・能力評価は期首となる4月初めおよび10月初めに各所属長との面談で業績目標を設定し、期末、9月末と3月末に各人が目標に対する自己評価を下し、各所属長の評価を受けることになる。そして各所属長が評価結果を人事部に送付し、人事部から図書隊の長たる基地司令に送付され司令が最終評価者となり各人の評価が決定する。下りてきた評価は各所属長から所属隊員に伝えられる。不当な評価であれば、第一評価者の所属長が気付くであろうし、本人からの不服申立も認められている。人事部といえど隊員の評価を恣意的に操作できない仕組みになっている。



「人事部なんて、所詮は人事評価や人事異動、給与支払それから採用活動に関する庶務係みたいなものですからね。
 実際には冠がつく様な人事権なんてありはしないのに、そこに気付かないのが笠原と言うかなんというか」
「郁が、どこに居るのか分かるか」
「そう言うと思って、GPS照会済みです」
職権乱用だな、と堂上は小さく笑う。
プライベートな問題で隊員の位置情報照会の許可を出すのは玄田くらいなものだろう。けれど、それが今はとてもありがたい。
「体調が芳しくないようなら、事情を知る他の人間、手塚あたりを向かわせますが」
悪戯げに目を細める柴崎の言葉に、それこそ馬鹿言えと、布団を撥ね退け堂上は床に足をつく。
「俺以外、誰がアレを回収すると言うんだ」
言うやいなや、クスリと笑みを零す柴崎の姿を端に、堂上の身体は駆け出していた。










バカ郁!バカ郁!!
いつ!誰が!お前を引き換えにした地位が欲しいと言った!
俺に必要なものの順位をお前が勝手に決めるな!





俺に本当に必要なのは『笠原郁』ただ一つだと、なんでお前だけが分からない!!






「だからお前は馬鹿だと言うんだ!!」















◆◆◆















「あたしには、見たい光景がある。
 だから、図書隊を、特殊部隊を辞める気はない。
 そして、何よりも大事な人が居る。
 だから、あたしがあんたを好きになることはあり得ない。
 ―――それでも、そんなあたしが欲しい?」

眼光を鋭くする郁に、男は愉快気にクスリと笑った。


「いいよ、それでも。それでキミが傍に居るのなら。
 好きに『仕事』をすればいい。
 けど、帰ってくるのは俺の『家』だ。分かるね」
「―――その代わり、篤さんに、堂上篤に手を出さないと約束して」
「だったら、俺が彼に手を出さないように、キミが俺を見張っていればいい。簡単なことだ。
 お互い、これに誓約すればいい」
差し出された紙を郁は無表情に見下ろす。果たして、自分は賭けに勝ったのだろうか。
郁の頭でそれを判断することは難しかった。
けど、それが郁に出来る精一杯だった。

紙とともに差し出されたペンを取る。
知らぬ間に揺れる視界では、紙に記された標題を上手く読み取ることは出来なかった。
けれど、それでいいと、郁は思った。知る必要はない。
これは、『契約書』だ。
一番大切なものに触れることはできなくなるけれど。
その代わり、一番大切なものを守る番人になる為の『契約書』。
そう。彼を守ると、決めたのだ。



溢れだしそうになる感情を抑えようと、郁は意識的に呼吸を繰り返し、震える右手を抑えるように左手で手首を支えて、ゆっくりとペン先を紙に付ける。




「―――っ」
溜まった涙が零れ落ちる寸前に、後ろから手首を掴み上げられた。
「―――あつし、さ・・・」
振り返った先には、息を切らした堂上が居た。
「な…で」
「そんなもんにサインする必要なんて、ない。まだ、お前が俺の事を好きだというなら、そんなもんにサインなんてするな!」
「だって」
「―――今更、ですよ。堂上さん」
ゆったりと笑う男を堂上は殺気だった目で睨みつける。
「彼女は、貴方ではなく、俺を選んだ。いい加減諦めたらどうなんです。
 ―――郁、分かってるね」
男の言葉に、郁がビクリと身体を跳ねさせる。
―――そうだ、この男は。
ハッとして、郁は堂上を見上げていた目を伏せる。
「―――手を、はなして、下さい」
「嫌だと言ったろう」
「!でもっ!」
「郁を犠牲にした、地位や名誉なんてこっちから願い下げだ」
その言葉に、郁は目を見開き、堂上を見た。堂上は真っ直ぐ目の前に座る男を見据えている。
「降格処分でもなんでもすればいい。それがこいつを手に入れる代償だと言うのなら、俺は甘んじて受け入れる。そんなもので、郁が手に入るのだと言うのなら、好きなだけくれてやる。俺にとって郁以上に価値のあるものなんてないからな。
 ―――もっとも、やれるもんなら、というところだがな」
そうして、視線を郁へ移し、掴んだ手首を引き上げ、郁を椅子から立たせた。
「行くぞ」
「あ」
「待て。―――郁、」
その声を制したのは、堂上だった。

「人の婚約者の名を軽々しく呼ぶのは止めてもらおうか」

冷え冷えとした声でそれだけ言い、堂上は振り返ることなく郁を連れ出した。


















◆◆◆

















「きょ、教官!堂上教官っ―――篤さんっ!」
振り返りもしない堂上に引っ張り出され、もつれるように歩いていた郁が、そう声を出せたのは店から出てしばらくしての事だった。その声に、ようやく堂上の足が止まる。


「―――こっんのっ、バカ郁!!」
振り向きざま落ちてきた拳骨に、郁は堪らずしゃがみ込みそうになるが、それよりも早く堂上に抱きすくめられる。
「あっつし、さ」
骨が軋むほどの抱擁に、言葉が詰まる。
「―――ばかいく」
腕が震えるほど強い抱擁。震えるように落ちてきた声に、郁は言葉を失った。
耳元で、深い呼吸が何度も繰り返されるのを聞く。深く酸素を取り込む音。ホッと息をつく音に、郁は泣きそうになった。抱き込まれ、ほとんど持ち上がらない腕を動かせるだけ動かして、郁は堂上の背中に腕を回す。
「―――ごめんなさいっ」
溢れ出る涙を止めることが出来なかった。




「すき、だいすき!あつしさんのことが、すきです、だいすきです!あつしさんだけっ・・・!あつしさんだけなのっ・・・」



ヒックとしゃくり上げながら縋りつく郁を堂上もまた強く抱きしめる。
「だったら、今度こそ、離れるな。俺には、お前が必要なんだ。郁を犠牲にして欲しいものなんて、何一つないんだ」
「はいっ・・・はいっ」





抱擁を解いた後、堂上がおもむろに郁の左手を取った。
そして、薬指に乗る輝きに、郁が目を見張った。
「それ―――・・・持ってて、くれたんですね」
「当たり前だろ。これはお前にやったもんだ。お前の所有物を俺が勝手に処分するわけにはいかんだろう」
あるべき場所に納まった指環を、郁は右手で覆ってぎゅっと抱きしめる。
「ごめんなさいっ―――ありがとうございます」
「―――もう、勝手に外すなよ」
「はいっ・・・!」
ポロポロと涙を零す郁の頭を堂上は自分の肩口に抱き寄せる。
「―――それで、しっかり繋いでるつもりだったんだがな。まさか自分で外して脱走されるとは思わなかった」
「ごめんなさいっ・・・だって、だって」
「全く困った忠犬だな、お前は」
両頬に手を添えて顔を上げさせ、コツンと額を当てる。
「次からは、主人の危機はちゃんと主人に伝えろ。勝手に行動するな。お前一人野放しにするとか危なっかしくてかなわん」
「・・・ひどい」
「ヒドイのはお前だ。人の一番大事なもんを奪って逃げようとしやがって」
「・・・ごめんなさい」
「もっと逃げ出すのに手間が掛る頑丈な鎖を用意せんといかんな」
「―――え?」
腕を掴み歩き出した堂上に郁は慌てて足を動かす。
「篤さん?」
「とりあえず、先に籍入れるぞ」
「え?え?」
「―――俺と結婚する気はあるんだろ」
「あります!」
「じゃあ問題ないだろ」
「あります!」
だって、結納とか!慌てる郁に堂上は問題ないと一蹴する。
「もともと挨拶自体は済んで、親の了承は得ている。遅かれ早かれ入籍するんだから、多少順番が前後したところで大した問題じゃない」
「いや、でもっ」
「こんなことしでかすお前が悪い。籍さえ入れてしまえば、俺の知らんところで別れるなんてことは出来んからな。第一、別れるとか言っても判なんか押さんから裁判必須だしな」
「もうしませんってば!」
「お前は物覚えが悪いからな。信用できん」
「ちょっ」
「だいたい」


そう言って振り返った婚約者の顔は心底不機嫌そうで、そして言われた言葉に郁は反論の余地もなく頷くしかなかった。




「そういう手続きすっ飛ばして、俺以外の奴との婚姻届に署名しようとした奴の言うことなど誰が聞いてやるか!」


































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