それは、ほんの出来心だった。
すぐに「ごめん」と謝って、それで終わるはずだった。
少なくとも、堂上はそう「計算」していた。




堂上は郁から向けられる好意を疑ったことはない。
自惚れや自意識過剰と言われるかもしれないが、郁に一番に好かれているのは自分だと堂上は思っている。
ただ、ちょっとした執着を見せて欲しいと思ったのだ。



郁は部下である時にはある程度の我が儘を言ったり、というかわざと尊大な態度(特に初期)を取ったりすることがあるが、恋人になると途端に我が儘を言わない遠慮深い女になる。
堂上としてはようやく(その原因の大半は自分にあるのだが)手に入れた年下の可愛い恋人を甘やかしたくて仕方なく、何をするにもまず郁の意見を聞くのだが、聞けば反対に「教官はどこ行きたいですか?」「教官は何食べたいですか?」と返され、「郁はどうしたい」と再度尋ねるも「堂上教官の好きなところで」と自分の意見は二の次にされる。
おまけに部下として堂上の忙しさも理解していることもあり、仕事でデートが潰れても文句一つ言われたことがない。
彼女としてできた女だと思う。
自身の性格や立場上、仕事となればどうしたって堂上は本心は別としてそちらを選ばなければならず、そこで郁に駄々をこねられたり、泣かれたとしたらそれはそれで困ってしまうのだということも分かっている。
だからと言って、寂しがる様子も見せず(勿論強がりではあるのだと思うが、というかそうであると信じたい)、
「そうですか。わかりました。
 じゃあ、今回の予定は次回に持ち越しですね。
 お仕事頑張ってください」
とあっさりと納得されて、送り出されるのもなかなかに切ないものがある。

―――なあ、おい。寂しがってんのは、俺だけか?残念がってるのは、俺だけなのか?



堂上の負担にならいよう郁は気を張っているのだとは思う。
郁がそう言ったものを内々に溜めこんで、一人で処理しようとするタイプであることは堂上とて理解している。
ただの上司と部下という間柄でしかなかった頃、そうした郁の姿を見るにつけ、中に踏み込むことのできない立場にやる瀬ない気持ちになったものだ。
そういう人に寄り掛かることをよしとしないところも、郁の美点であると堂上は認めているし、だからこそそういう痛みを郁が抱えることのないようにと守ってやりたくなるのだ。
そして、今、堂上と郁はただの上司と部下ではなく恋人という関係に変わったのだから、他の人間には見せない我が儘や甘えをたまには見せて欲しいと思う。
それは自分が郁にとって特別なのだという優越感に浸りたい堂上の身勝手な独占欲の表れでもあるのだが、恋人なのだからそれぐらいの我が儘は許して欲しいところだ。
もうちょっと俺の前では甘えろ。素直になれ。
そう言っても、郁は甘えてるし、甘やかされすぎているくらいだと言ってそのスタンスを崩そうとしない。
ほんの少しでも「淋しい」だとか「残念」だとか零してくれれば、少しは救いもあるというのに、普段思考と直結しているように駄々漏れの口はそう言う時に限って回路がしっかりと閉ざされているようで、そういう言葉は出てこない。
どんなに表情が影っても、本人がそれを認めてくれなければ、次の機会に堂上がこの前の詫びだ埋め合わせだとあれやこれやを与えたところで、「堂上教官のせいじゃないんだから気にしないで下さい!」と却って恐縮されたり申し訳ない顔をされ、堂上としてはますます切ない気持ちになる。
―――お前がもうちょっと素直に寂しがれば、それを口実に俺ももっとお前を甘やかしたおせるってのに!分かれよそこんとこ!
とは堂上側の全く勝手な言い分ではあるが、真実そう思っているのだから仕方ない。




そうであるから、
「郁が可愛いくせに、可愛くない」
なんて同期の前で思わずそう、ちょっと日本語が怪しい愚痴を零すことも珍しくない。




何でもかんでも、堂上の言葉を受け入れて頷く郁。
思いやりがあって、聞き分けのいい彼女は有り難いと思うし、健気で愛しくも思う。
ただ自分の感情より、堂上のことばかり優先する姿に少しだけ不満もあるのだ。




だから、少し、ほんの少しだけ試したくなった。
そんなつもりは、微塵もなく、ただ郁から否定の言葉が聞きたいと思った。
もしかしたら、泣かせるかもしれないと思ったが、今日一日だけだと僅かな罪悪感に蓋をした。



ほんの少し。ほんの少しだけ、ちっぽけな満足感を得たかっただけなのだ。





もし、今、過去に戻れると言うのなら、そんなことを不遜にも思った自分を殴ってでも思い止まらせたいと堂上は痛切に思う。
今だって十分、幸せだろ。満足してんだろ。だったらそんな馬鹿なことはするな!今の幸せを壊したくないんなら、そんなガキみたいな我が儘は捨てちまえ!!
お前、それで本当に―――郁と別れることになったらどうするつもりだ!!






「なあ、郁。俺が別れて欲しいって言ったら、どうする?」




泣くか?泣かれたらどうしよう。
多少の覚悟はしているとは言え、いざ、本人を目の前にするとやはり身構えてしまう。
どんな理由であれ、やはり堂上にとって郁の涙以上に弱いものなんてない。



だが、堂上の言葉に郁は想定外の反応を返した。



―――おい!待て!なんだ、その表情?!ちょっ、待て!そんな反応シミュレーションになかったぞ!!泣けよ、そこは!いっそ喚き散らす勢いで泣いてくれよ、オイ!!



堂上の言葉を前に、郁はフワリ、と笑ったのだ。―――ホッとした安堵の表情で。



「良かった。教官もおんなじだったんですね」
「いく」
ちょっと待て。待ってくれ。
予想だにしなかった展開に堂上の喉はカラカラに乾いてひりつく。辛うじて出た声も酷く掠れている。
けれど、郁はそんな堂上の様子には頓着せず、胸に手を充ててホッと息を吐く。



「あたしから言わなきゃいけないかな、って思ってたんですけど。やっぱり、ちょっと言い出しにくくて。
 でも、教官もおんなじ気持ちでいてくれて、安心しました」




安心?安心ってなんだ。
俺から、別れを示唆するような言葉を聞いて、笑うな!
そんな安堵の笑みを浮かべるな!



泣き顔を見たかったわけではない。
けれど、そんな顔はもっと見たくはなかった。



胸元で合わせられる郁の手を堂上は乱暴に掴む。
「きょうかん?」
「―――別れないからな」
吐き捨てるように言った言葉は、酷く掠れて、酷く低いものだった。
「え?」
「別れてなんかやらない、絶対にだ!!」
「な…で、だって、さっき・・・!」
ジワっと郁の瞳が緩み始める。



―――ここで泣くのかお前は?!




「―――泣くほど、イヤか」
その事実に胸が締め付けられる。
―――俺と、別れられないことが、そんなに嫌なのか・・・?
堂上の問いに肯定するように、郁が言葉を発した。



「嫌です!あたしは、教官と別れたいです、絶対!!」
堂上の郁の手首を掴む力が一層強くなる。



だって今更、この存在を手離すことなんてできない。
8年。8年だぞ。8年かかってようやくこの想いが昇華されたばっかりだというのに。
あんな、試すようなこと、言わなければ良かった。
堂上の中で後悔ばかりが渦巻く。
言わなければ、こんな場面に出逢わずに済んだかもしれないのに。
そうすれば、郁が別れたがってることも知らず、自分は郁に愛されていると、そう自惚れていられたのに。
偽りの世界でも、それでも今この真実を知るよりは、幸せでいられたはずなのに。



別れたいのだとポロポロと涙を流して訴える郁に、堂上の胸の内で黒い感情が沸き上がる。




―――俺から離れると言うのなら、いっそ・・・
















「―――はぁーい、そこまで〜」



ガサっと背の高い植え込みの陰から現れた突然の声にビクリ!と肩が跳ね、郁に至ってはパニック状態に拍車がかかり、盛大な悲鳴を上げた。
キャーキャーギャーギャー騒ぐ郁を宥めようと郁の肩を抱きながら、堂上は恐る恐る音源を振りかえる。
その声が聞こえた段階で、なんとなく察しはついていたが、振り返った先に居たのはやっぱりというかなんというか、笑いを噛み殺そうとして肩を震えさせている小牧と手で口元を隠しながらもクスクスとした笑いを隠そうとはしない柴崎に、そんな柴崎にがっちり腕を掴まれ、申し訳なさそうな視線を向ける手塚の姿があった。





「あらあら。笠原ったら何をそんなに泣いているの?堂上教官にイジメられでもした?」
「―――柴崎ぃ〜っ!」
柴崎の声に郁は、うわーん!と堂上の腕を乱暴に振り払い柴崎に駆け寄る。



―――お前はそれでも此処で柴崎を選ぶのか?!
全力で振り払われた掌をじっと見つめて堂上は溜息を吐く。



溺愛している彼女だからこそ、不満に思うことが細々とあるのだと思う。
条件反射的に柴崎に泣きつく郁の姿に堂上は再度溜息を吐く。



―――そういう態度こそまず俺に見せろよ!!



果たしてあんな風に自分が郁に素直に泣きつかれたことがあったかと考え、堂上の気分は重くなる。
堂上だって郁の泣き顔は何度となく見ている。
けれどそれは郁が泣いている所を堂上が探し出し、あるいは強がっているのを無理矢理泣かせての結果だ。


堂上の入院時、郁が小牧のポジションを羨むことがあったが、堂上にしてみれば、
「俺だって柴崎のポジションが羨ましくなる時もあるわ!」
だ。
絶対的な信頼を置かれる同室者って、何だそれ。
抱きつかれ、甘えられ、頼られて、おまけに仕事から帰ってきたら「お帰り、お疲れ」って郁に迎え入れられるとか羨ましすぎるだろう!!
そんなポジションが売られていたら、言い値で買うわ!
そう常々思っている堂上だ。








「きょっか・・・やっぱり、あたしと別れたいって・・・!!」
「おーよしよし。可哀想に。失恋を癒すには新しい恋が有効よ。そんな笠原にはあたしがとびきりいい男を紹介してあげるわ」
「ちょっと待てぇええええ!」
したり顔で泣きつく郁を宥める柴崎に堂上が吼える。
「俺は別れる気はないし、先に別れたいって言ってきたのはそいつの方だぞ!!」
「もーそんな大きな声出さないでくださいよー。笠原が怯えるじゃないですかー」
いいから返せ!と腕を伸ばす堂上の肩を小牧が叩く。
「落ちつけよ堂上」
「これが落ち着いていられるか!
 郁は別れたいと言うし、そのくせ俺が別れたいとか言ってるし、柴崎は郁に他の男紹介するとかぬかしてるし!!
 この状況でどう落ち着けるかってんだ!!」
「だから、落ち着けって。
 笠原さんが言ってることと、お前が受け取ってる意味は捩れてるんだって」
「あ?」
「だから、笠原さんもお前と同じだったってこと」



―――今日は何の日?



小牧の言葉に、堂上は僅かに考え込み、そして思い出す。
今日は4月1日で、エープリルフールだ。
だからこそ、自分は郁に別れを仄めかすようなことを言ったのだ。
今日であれば、
「嘘に決まってるだろそんなこと」
そう言って、流せると思ったから。



―――というか、だ。


堂上はキっと背後に立つ同期を睨む。
「お前が余計なこと言うから!」
「心外。お前の愚痴に応えただけだろ、俺は。
 実際に行動に起こしたのはお前。
 そして、俺は笠原さんには何もしていない」
その言葉に堂上は、今度は黒髪の魔女に向かって鋭い眼光を向ける。
正面からその視線を受けた魔女はフフンと鼻で笑って、一蹴した。



―――笠原を試そうなんて、何様のつもり?



そう嘲るような魔女の声が聞こえるようで、堂上は小さく呻いた。





「まぁ良かったじゃない。
 エイプリルフールに別れたくないっていうお前の言葉を泣いて否定してくれて」





小牧の言葉に堂上は金輪際エイプリルフールになんて乗ってやるか!と固く心に決め、そして郁にもエイプリルフール禁止令を出すことを決めた。

















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