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「献血お願いしまーす」 駅前で赤十字のプラカードを持った人が足早に通り過ぎていく人々に呼びかけていく。 しゃわしゃわしゃわと蝉の鳴き声が降り注ぐ夏日の中では足を止めてくれる人もそう居ないのだろう。 今日は特にO型が足りないらしい。「かなりピンチ」という文字がマスコットらしきイラストの口元から伸びる吹き出しに書かれてある。 O型は全血液に輸血できるが、O型はO型しか受け付られないというのが慢性的な不足を増長させているという話を聞いたことがある。 まぁ、今はそういうことはほとんど行われていないらしいから真偽のほどは定かではないけれど。 O型以外の血液も全体的に不足しているらしい。やはり暑いと中々外で足を止めるということはしないのだろう。 「献血お願いしまーす」 背中に掛かる声に少しの罪悪感を感じながら、心と時間に余裕がある人がきっと協力してくれるはず・・・!と郁はせっせと足を動かす。 走り出せればまだいいのだろうけど、駅前の人ごみの中ではそれも出来ず気分だけが一層焦る。 思い通りに前に進めない郁を嘲笑うかのように駅前の大きな時計がまた一分針を進める。 怒られたりしないだろうけど、遅刻の言い訳なんてみっともないからしたくない。 だけど、待たせてしまって雰囲気は決して良くないだろう。何か言わないと。 「献血してました」 そう言えば、場の雰囲気は和らぐだろうか。 それよりも、待ち合わせの場所に彼は待っていてくれるのだろうか。 約束の時間より長針が半周ほど回っている事実に郁は顔を歪ませて先を急ぐ。 全く、今日はついてない。 郁は肚裡でごちた。 ぴたりと止まってしまった窓の外の風景に郁はもう何度目とも分からない溜息を吐いた。 ここから歩いていって、いや、走っていって間に合うのなら迷うことなく降りていくのに。 あ〜あ、と吐いた溜息が窓を白く曇らせる。外の澄み切った青さが一層気分を重くさせる。 予定では一時間近く前に待ち合わせ場所に着いているはずだったのに。しつこいキャッチセールスに捕まって乗る電車が予定より一本遅れた。 それでも待ち合わせには十分余裕を持って着くはずだったのに、踏切事故で立ち往生。後二駅なのに。電車で十分の距離なのに。 駅でもない中途半端な線路の上に止まってから三十分以上。その間に待ち合わせの時刻が過ぎる。 意味がないと分かっていながら、腕時計のリューズを引っ張って時間を止めた。 「約束の時間まであと一分」 なんて呟いてみても気休めにもならない。 こんなことならバスを選べばよかった。時間に正確だからと電車を選んだのにこれじゃ意味がない。 今更悔やんでも仕方がないことだと分かっているが悔やまずには居られない。後悔先に立たずとは昔の人はよく言ったものだ。 しかもこういうときに限って携帯電話を忘れてくるし。 今頃机の上で充電ランプが消え、変わりに着信を知らせるランプがチカチカ点滅しているだろう。 あ〜ぁ今売り込んでくれたら即契約するのに。 今のこの状況を待ち人に伝える術が何もない。とりあえず念を送ってみる。勿論声が返ってくるはずもなく、また溜息。 あなたがまだ立っていますように。 「運転を再開します」 車掌のアナウンスに一先ずほっと溜息を吐いた。 ガタンと揺れる車体に合わせて心も不安に揺れる。 あなたがまだ立っていますように。 目的の駅に着いたら、ドアが開き切る前にすり抜けて改札へと急ぐ。 ごった返す人の波を泳ぐように足を動かす。 優しいけれど、決して気は長くない人を想って溜息。 「献血お願いしまーす」 駅前に出れば降り注ぐ蝉の声に負けないように、ボランティアだろうか若い声が木霊する。 「献血お願いしまーす」 O型が足りません、AB型が足りません、B型が足りません、A型が足りません。時間も足りません。 十分なのは蝉のコーラスと人混みくらいだ。 ゆらりと蠢く人混みの中に揉まれながら進んでいけば、たくさんの人の中でも直ぐに分かる。 「教官!」 声を掛ければ、声がもう聞こえる。 「なんだ。献血でもしてたのか?」 と笑い飛ばされた一言に力が抜ける。 「踏切事故とは災難だったな」 ほれ、と渡されたミネラルウォーターに、何故と顔を上げれば真新しい携帯が顔の前に差し出される。 手渡されたミネラルウォーターはひんやりと冷たい。 目の前に映し出された画面には、ローカル番組内のニュースが流れていた。 こちらから向こうの様子は分からなくても、向こうからはこちらの様子は分かっていたらしい。 今まで焦っていた気持ちが、ほっと落ち着く。 「お待たせして、すみません!!本当はもう一本早い電車で来る予定だったんですけど」 言えば、また笑われた。 「乗ってた電車でも本来なら十分間に合うものじゃないか。 どうやら俺は随分と愛されてるようだな」 それはそれは愉しそうに笑うものだから、郁は居た堪れなくなって、「ああ、もう、時間が押してるんだから、早く行きましょ!」と勢いに任せて堂上の手を取った。 普段ならば、自分から手を握ったりすることはないというのに。 指摘すれば、顔を真っ赤にしてパッと手を離すに違いない郁の様子を思い浮かべて、堂上は笑いを噛み殺して黙っていることにした。 |