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「明日は11時に武蔵境の駅前で待ち合わせな」 「え?」 忙しい中でも、日課となっている官舎裏の逢瀬で、そう約束を取り付けられた郁はきょとんと小首を傾げた。 「提案」という形で、郁が堂上からプロポーズを受けてそろそろ1月半が経とうとしている。 その間に郁の堂上に対するプライヴェートでの呼称は「篤さん」へと変わり、最初はたどたどしかったその呼び名も今ではずいぶんとスムーズにその名が出るようになってきた。 それだけの時間が経つ中で、郁の環境はめまぐるしく変わった。 プロポーズを受けると同時に出向いたジュエリーショップで、婚約指環と結婚指環の下見を行い、翌公休日には郁の左薬指には堂上から贈られた婚約指環が煌めくようになった。 そして、堂上にせっつかれるようにして父親経由で一報を入れていた実家に挨拶に行き、母と娘が硬い表情をする中で、堂上と父の進行によってなんとか恙無くという範囲で結婚の報告を終えた。 それから何とでもなると言っていた堂上の実家に挨拶に伺い、こちらは歓待ムードのまま、ガチガチに緊張していた郁が拍子抜けするほど簡単に話が進み、顔合わせの日程は郁の側に合わせ、店の準備などは堂上側が行うというところまで決まった。 そして、両家への挨拶が終わった後は職場への報告。二人そろって玄田に報告するとすぐに賑やかに(主に堂上が)からかわれながら、隊全体から待ってましたと言わんばかりの祝福を受け、その後は当然のように婚約祝いと称しての飲み会となった。 飲み会は業務の一環か否か、と堂上の呼び名を思案し口数が少なくなる郁に堂上は苦笑し、郁の名を呼んだ。当然それを囃し立てられたが、開き直った堂上は強く、そのまま郁の手を取りさっさと隣合う形で座についた。おかげで困惑は解けたが、恥ずかしさや照れで郁はまともに顔を上げることが出来なかった。 そうしている内に年が暮れ、正月休み明けの慌ただしさがひと段落した先の公休日に結納を兼ねた顔合わせを行った。最近では結納をしないところも多いようだが、しきたりを重んじる郁の母親への配慮がなされた形だ。もっとも、本人たちの仕事の都合もあることから、都内のホテルでの略式となったが、小言もなく郁は密かに胸を撫で下ろしたものだ。 そうした慌ただしい日を送る中では、外で待ち合わせをすることは無くなっていた。 不思議そうな顔を見せる郁の頭をくしゃりと撫でて言う。 「これから式の準備も始まって、また忙しくなるからな。最近デートもご無沙汰だし、久しぶりにゆっくり食事がてら出かけよう」 それからポンと軽く掌を弾ませた堂上が郁の手を引く。 「―――そろそろ戻るか」 「はい」 何はともあれ、久しぶりの「デート」の誘いだ。郁は部屋に戻るなり、ウキウキとワードローブを開いて衣装合わせに勤しんだ。 最近の外出着は華やかさはあるが、フォーマルなもので、どことなく堅苦しさがあった。形式張らない外出は久しぶりだ。 「何着ていこうかな〜」 堂上と付き合い始めてから、少しずつフェミニンなものが増えていったワードローブ。その中身の変化に郁は面映ゆい心地がする。 憧れながらも、似合わないと逃げ腰になっていた服たち。女の子女の子した格好への抵抗がなくなったわけではないけれど。 レースやリボン、スカートと言った甘めの格好をすれば顔を綻ばせて嬉しそうに褒めてくれる人がいる。口先だけの世辞が言える人ではない。 その顔が見たくて、出来る範囲でオシャレにも力が入る。 帰ってくるなり、あれやこれやと店を広げ始めた同室者に、就寝前のスキンケアをしていた柴崎はクスリと笑う。さて、どんな格好を選ぶのやら。 「ねーねー、柴崎!この組み合わせおかしくない?」 タイミングよく振り返る郁に、思わず吹き出せば、シュンとした顔が返る。 「や、やっぱ、変?」 「ごめんごめん。別にあんたの格好に笑った訳じゃないわ」 郁が選んだのは、ピンクのリボンコサージュの付いたオフホワイトのオフタートルニットにミディアム丈のワインレッドのフレアスカート。足下は黒のタイツとショートブーツを合わせる予定だという。 「アウターは?」 「オーバーコートにしようかなって」 「そうね。せっかくだから、ファー付けていきなさいよ。そっちの方が華やかよ」 フォーマルな場でも使えるようにと新調したカシミアのオーバーコートは、襟元に取り外しが可能なファーが付いていて、フェミニンなコートとしても使えるものだ。 「大丈夫かな?派手すぎたり、可愛すぎたりしないかな?」 「大丈夫よ。ちゃんと似合ってるから」 女性として見られることの歓びを知り、着飾る楽しさを知ったとはいえ、郁の中にある「女の子らしさ」へのコンプレックスは根強く、初めての格好には不安が多いらしい。 着なれていないだけで、決してセンスがないわけではないのに、と柴崎は思わず苦笑する。 今回の格好だって、単純に女の子イメージのあるヒラヒラとした格好ではなく、落ち着いた華やかさのある装いで、幼すぎない可愛さがある。 もう少し自信を持てばいいのに、とも思うが、そうしたともどかしさを与えるところも、郁を可愛く思うところの一つだろう。 たった一人の為に、それまでの自分から変わろうと努力する姿は、どれだけ純で美しく、可愛いのだろう。 「―――ほんと、惜しいわ」 「え?!やっぱり、どっか変?!」 呟きを拾い、泣きそうな顔で慌てふためく郁に、柴崎はまた苦笑し、コスメボックスから取り出したフレグランスミストをシュっと郁の持つ服に吹きかけた。 「それぐらいの“華”はあってもいいんじゃない?」 フワリと薫る花の香に、郁はホッと顔を綻ばせる。 「ありがと、柴崎」 「どーいたしまして。 ほら、あんたも早く寝なさい。 久しぶりのデートに浮かれるのも分かるけど、夜更かしは肌が荒れる原因になるわよ」 「うん」 はにかみ、明日の用意を整えた郁は「おやすみ」の一言を添えて、ベッドに潜りこむ。おそらく就寝前のメールを堂上に打っているのだろう。そんな郁に「ほんと惜しいわ」と柴崎は再度呟いた。 こんな郁の姿を間近で見られるのも、もうあと2カ月半ほどだ。 追いかけ続けたたった一人の男とともに、郁はこの寮を出ていく。 堂上のおかげで、郁はこんなにも可愛くなった。けれど、そのせいで郁はこの部屋を出ていく。 祝福と寂寞と。 らしくない感傷に浸る自分に気付いて、柴崎は苦笑する。 郁の退寮の日、きっと彼女は泣くのだろう。 けれど、見送る自分は呆れた様な顔をして、可愛くないことを言って、送りだすのだろう。 ―――あたしの涙は安くはないの。 柴崎が泣けば、郁はつられる様にして一層の涙を流すだろう。子供の様にわんわんと声を上げるのかもしれない。 まさか退寮を取りやめる、なんてことは言い出さないだろうが、散々に泣き、何度も何度も柴崎を気にして振り返るだろう。 送る側で柴崎の涙以上に、郁に印象を残し。影響を及ぼすものはないだろう。それぐらいの自惚れは許されるはずだ。 涙ながらに、「寂しい、行かないで」と言えばそれはそれで面白いものが見れるだろうけれど。 けれど、それは互いに求める一番の幸せではない。 最善が得られないのに、人前で涙を流すなんて、割に合わない。 それに、と柴崎はそっと笑む。 例え自分が泣かなくとも、郁は寂しがっていることを分かってくれるだろう。柴崎の自慢の親友はそれが分からないほど愚かではない。本当の意味で「柴崎麻子」のことを理解してくれている。 だから、泣かない。 そうしていつも通りの顔で送り出せば、郁は少し拗ねた顔を見せながら、それでも笑って出ていくだろう。 大事な大事な可愛い親友。けれど、一番の幸せを与えられるのは自分ではないことも分かっている。彼女を一番幸せに出来る男の許に憂いなく送りだすのも親友の務めだろう。 「明日は、祝杯に軽めのチューハイでも用意しておきましょうかね」 寂しげに小さく笑った柴崎も、ベッドに横になりゆっくりと瞳を閉じた。 気がつけば、スゥスゥと健やかな寝息が耳に届いていて、人がいるその心地よさを感じながら柴崎も眠りに落ちた。 僅かな緊張感と高揚感を宿しながら、就寝準備を入っていたところに小さく部屋のドアが打ち鳴った。 こんな時間に訪ねてくる人間は知れている。鍵は開いている旨を告げ、堂上は腰を上げた。 訪ね人を招き入れる為ではなく、部屋に常備している乾物を手に取る為だ。 それと同時に部屋の扉が開く。入ってきたのは予想と違わず、同僚の小牧だった。その手には缶ビールが2本携えられている。 「一本付き合えよ」 「一本だけだぞ」 今晩は深酒するつもりはない。 言えば小牧は分かっていると笑う。本当にいったいどこまで分かっているのか。 プルタブに指をかけ引き上げると、プシュっと小気味いい音が抜ける。 小さく掲げ合った後、一口含むと馴染んで久しい苦みが舌の上で弾ける。 どれだけ飲み慣れようと、最初のひと口はやはり格別だ。程良く冷えた炭酸が咽喉元を滑り落ちると、堂上と小牧は揃って緩やかに目を細めた。 「堂上もいよいよ結婚か〜」 感慨深げにそうシミジミと言われ、いきなりどうしたと堂上は小さく眉を寄せた。 「んー。この部屋でこうして酒を呑むこともなくなるんだなーと思ったらさ」 「別に明日出て行くってわけじゃないだろ」 退寮は3月末。あと2月半ほど先の話だ。 「2ヶ月なんてあっという間だよ。 ―――4月からは宅呑みか〜」 「やめろ!転居早々押しかける気か!」 「大丈夫、堂上は文句言いながらも受け入れてくれるって分かってるから」 「分ってんなら、余計に遠慮しろ、そこは!」 「一人呑みはつまらないだろ」 「手塚がいるだろ、手塚が」 「手塚は駄目だろ」 何でだ、と眉を寄せる堂上に小牧は笑って返す。 「柴崎さんの相手をした上に、更に俺に付き合わせるとか可哀想だろ」 「―――俺はいいのか、俺は」 「いいんだよ、同期だから。同期のフォローは同期がするとしたもんだろ」 サラリと自身が郁と手塚の中で機能させたシステムを持ち出されて、堂上は押し黙った。残念ながら、小牧は堂上の同期だ。 「―――呑みのフォローは想定してないぞ」 「円滑な業務遂行のために、呑ミュニケーションも大事だよ」 賢くはあるが、実直なところのある堂上と、クレバーさのある小牧ではその賢さの質が異なる。言い争ったところで、堂上が小牧に口で勝てる勝算は低い。 苦った顔で堂上はビールを傾ける。 「―――お前が退寮した時押しかけてやる」 「その心配はしてないよ」 やけくその様に言い放った言葉に、小牧はケロリとした表情で返す。 そして続けられた言葉に、それもそうか、と堂上は頷いた。 「わざわざ堂上が自分から笠原さんと過ごす夜を潰すとは思えないからね」 頷き返す友人に「お前ほんと、素直だよな」と小牧は笑った。 今更取り繕ったところで仕方ない。 堂上と郁の動向は何からナニまで筒抜けなのだ。とりわけ堂上の心情など弱音を含めた本音まで小牧は握っているのだ。 そうなると後は「悪いかほっとけ」と開き直って押し黙るよりほかはない。 自分とは違った意味で嘘の付けない友人に、小牧はまた笑った。 久しぶりのデート当日は、空気こそ冷たいがそれすらも冬の澄んだ清廉さを思わせる良い天気だった。 吹き付ける風もなく、いいデート日和だ。 デートの度に抱く高揚感は相変わらずだが、待ち合わせに向かう脚はなんとか落ち着けられるくらいには、デートを重ねた。当日に慌てて服を合わせることもない。遅刻したからと、息を切らして敬礼して、詫びることもなくなった。 待ち合わせ場所に、時間より早く到着することに堂上はあまり良い顔をしないことを覚えたので、郁は時間を確認しながら、歩調を整える。 最近は寮から一緒に出ることが多かったので、なんだか新鮮な感じがする。 時間を見れば待ち合わせの5分前。恋人は10分前行動の男だから、数分前の到着は許容範囲だろう。 足取り軽く階段を昇れば、こちらを見て待つ堂上の姿が見え、郁は小走りで駆け寄る。 「お待たせしました」 笑みを浮かべて正面に立った郁に、「ん」と小さく頷いた堂上が自然に郁の手を取る。 柔らかく目を細めて自分を見詰める堂上に郁ははにかみ笑う。向けられる瞳はまっすぐで雄弁だ。 「昼、あのカフェでいいか?」 「はい」 立川駅にあるハーブカフェ。2年前、郁が初めて堂上に紹介した店は、今ではすっかり定番の店となった。 デートの始まりの食事処にしたり、映画や買い物を楽しんだ後のお茶処にしたり―――プロポーズの場になったり。 あれからもうひと月以上経つのかと、郁は少し不思議な気がする。 そのひと月前は盛大な拗ねを見せていた。 繋がる左手の薬指にある指環がまさか自分のモノになるなど想像もしていなかった。 ―――そう言えばいつ指環を替えるんだろう。 式の指環交換の時からだろうか。けれど、入籍と挙式には数カ月の間が開く。それまで婚約指環というのもおかしな話な気がする。 官舎への入居手続きの為、入籍は2月の頭までには済ませると説明を受けた。 申し訳ないと思いつつ、そうした事務手続きの流れはさっぱりなので、堂上に任せっぱなしだ。それに下手に手伝おうとして邪魔するのも悪い。そのせいで入居が出来なくなっても困る。 だから郁は入籍手続きやそれに続く職場の手続きに関してはほぼノータッチだ。 役所に婚姻届を出す準備は出来ている。と思う。 用紙には既に記載を終え、それぞれの親友から証人欄に署名を貰っている。それぞれの本籍地から戸籍謄本も取り寄せ済みで、必要書類は堂上が一括して持っている。 ―――いつ出しに行くのだろうか。もうそろそろ出さなきゃいけないよね。 1月ももう中旬だ。そんなことを思っていると、堂上に声をかけられ、郁の思考はそこで途切れた。 「今日はあのコートじゃないんだな」 「悩んだんですけど・・・中と合わないかなって、思って」 そのコートはすぐに思い至った。スカイブルーのダウンだ。 2年前の格好の事を堂上は殊更覚えている。 先月の仲直りデートのときにもそのことを指摘され、よく覚えているものだと驚いたものだ。 単純に記憶力の違いと言ってしまえばそれだけの話だが、関係を思えばそれだけとも思えなくなって、郁の中でもすっかり特別なものとしてインプットされてしまった。 「―――ダメ、でした?」 「いや。 その変化も嬉しいもんだからな」 普段はこちらが欲しいという甘い言葉など滅多に言わないくせに、サラリと「女」の部分を褒めてくるのだから困る。 照れ隠しに、郁は話題を堂上に振った。 「あ、篤さんも、珍しいですよね!」 「何がだ?」 「鞄」 普段は荷物が多いことを嫌がる堂上は、日帰りデートの際は財布くらいしか持たず、手ぶらで来ることも多い。そんな堂上が今日は小さなショルダーバックを提げている。 「―――そんな日もある」 「ですか?」 ファッションとしてそういうこともあるだろう、と郁はすぐに納得した。落ち着いた黒のレザーショルダーバックは品よく固めているラインにも合っていて、堅いイメージを程良く和らげている。 堂上は服飾にあまり興味はないと言うが、場に合わせた格好が上手いと思う。そう思うのは惚れた弱みだろうか。 チラリと見やる視線に、堂上がどうした、と視線を投げ返す。 「―――今日もカッコイイな、と思って」 言えばギュっと痛みが走るほど、強く手を握られた。 「ちょっ!痛っ・・・!照れで人の手、握り潰さないでっ!」 「―――うるさいっ」 受け流せないところも案外可愛いと小さく笑えば、「笑うな」と今度は軽く頭を叩かれる。 関係が変われば、そんな扱いも嬉しいコミュニケーションへと変わるから不思議だ。 行くか、と手を引く堂上に郁も笑って付いていく。 あの日と同じように平日の正午前であったことからカフェは空いていて、窓際の角席に座ることができた。 「あの日と同じですね」 「そうだな」 「メニューどうします?」 「俺は、あの日と同じでいい」 「じゃああたしもそうしようかな」 あの日店員にオーダーしたのは郁だったが、今日店員を呼び止めたのは堂上だ。同じような状況でありながら、それはあの日から二人の関係が変わった証の様で面映ゆい。 「ランチセットのチキン二つ、ライスで。それにケーキセットを付けてください。 ドリンクはカモミールティーで、ケーキは林檎のムースとチーズスフレでお願いします」 テキパキと注文を終え、食事が運ばれるまでの間適当に雑談をして過ごす。 「今年はあんまりニュースになってませんでしたね」 「そうだな。去年はもう少し取り上げられていたが、放射能漏れもなく民間への被害がなかったからな。話題性はもうないんだろうな」 「―――当麻先生のことも触れられることほとんどなくなりましたね」 「ああ」 2年前の今日、福井県にある敦賀原子力発電所が、テロリストと思しき集団に襲撃を受けた。 そしてその敦賀原発テロ事件の参考文献になったと疑惑を向けられた「原発危機」の著者である当麻蔵人は、表現の自由の剥奪されかけた。国際的にも問題視された事件だったが、流行りもあれば廃れもある。当麻本人は、講演会などで講話を行っているようだが、大々的に報じられることはほとんどなくなった。勿論、あの時は各方面から働きかけがあり、話題を集めるようにしていたので目立って当たり前、そうでなければいけなかったのだが。 「―――だからって、検閲の問題がなくなったわけじゃないのに」 「元々、意識が低い問題だからな。 だからこそ、俺たちの様な仕事が必要になるんだろ」 「そう、ですね」 本当なら、図書隊という組織が必要とされない世界であるべきなのだろう。 けれど、図書隊のない世界というものが郁には想像できない。 もし、図書隊がなければ―――。 「―――仮定の話に落ち込むなよ」 僅かに咎めるような声に、郁はハッと顔を上げた。そこには柔らかく苦笑を浮かべる堂上が居た。 「確かに、俺たちの出逢いのきっかけはそうだが、もしそうじゃない世界だったとしても、それはそれで違うきっかけがあっただろう。それぐらい思ってくれ」 なんで分かったのだろう。見詰める郁に堂上はまた柔らかく笑った。 「お前の考えてることなんてすぐ分る」 その顔反則。郁は口の中で呟き、ちょうど運ばれてきた料理に向かう態で、火照った顔を隠すように俯いた。 そんな郁に堂上は「2年前もそんな顔してたな」と笑った。 食事を終え、皿が下げられるとガラス製のティーポットに入ったカモミールティーとケーキが運ばれてくる。 ポットを揺らし軽く花を躍らせて、ティーカップに注ぐとフワリとカミツレの花の香りが舞う。 花の香りを楽しむため、最初の一杯をそのまま飲むのはもうお決まりのスタイルとなっている。 郁に教えてもらったお茶だから、最初の一杯は大事に飲む。 もう2回目だから、そう言った郁に、堂上は当たり前のようにそう返した。 たったそれだけ。けれど、それほど自分を大切に想ってくれている堂上のことが益々好きになった。 ゆっくりと一杯目のお茶を楽しみ、それからケーキに手を付ける。 ひと口ずつ互いのケーキを交換し合い、2杯目のカモミールティーをカップに注ぐ。 ふっと落ち着いた穏やかな空気が場を充たす。 そんな中で、柔らかく名前を呼ばれる。 「郁」 窓から差し込む陽光の中で、真摯な色を宿した堂上の瞳がまっすぐに郁を見詰めていた。 コートのポケットを探った堂上が、「左手、出せ」と言ってきた。 小首を傾げながら、差し出された掌に言われるまま手を乗せる。じんわりと移る温もりに郁の心も緩む。大好きな温もりだ。 この手の温もりが、郁を此処まで連れてきた。 改めてそう思うと、じんわり、と幸福に視界が緩む。 そこに慌てた様な堂上の声が降ってきた。 「バカ!なんでココで泣くっ!」 「そんな、こと言ったって・・・!」 「そういうのはもうちょっと我慢しろ!」 何を言っているのか分からない郁の薬指を堂上はギュっと握った。 え?と顔を上げる郁に構わず、堂上がスルリ、とその指から指環を抜いた。 「―――今日からは、コッチな」 替わりにシンプルなプラチナのリングが填められる。―――結婚指輪だ。 「―――まだ籍入れてないが、いいよな」 「篤さん・・・」 照れ隠しの様に笑った堂上が郁の掌を返し、郁のものより一回り大きいサイズのリングをコロン、と乗せた。それから、「ん」と自身の左手を郁に向けて差し出した。 呆然と見遣る郁に「―――早くしろ」と焦れた声が掛る。 その声にワタワタと郁は何度か指環を取り落としかけながら、差し出された手を取り自身と揃いの指環を揃いの指に填めた。 「今日、提出しようと思う」 ショルダーバックから取り出されたのは1封の封筒だ。その中身は聞かなくても分かる。 「なんで、言ってくれないんですかぁ」 ポロリ、と一筋の雫が郁の頬を伝った。 「―――プロポーズが、あんなんだったからな。もっとサプライズ的なことをだな・・・女は、こういうの好きなんだろ?」 「提案」という形のプロポーズは堂上の中では、リベンジの対象だったらしい。 「あたしは、嬉しかった、ですよ?」 どんな形でも、郁にとってそれは掛け替えのないものだ。 大人で、自分をいつだって待ってくれていた堂上は、けれどどこか恋愛には不器用で。けしてスマートな恋人ではなかったかもしれない。 それでも自分のことを慈しんでくれているのはちゃんと伝わっていた。 余裕のないプロポーズではあったが、それすら愛おしいと思った。 だから、本当に気にすることなどなかったのに。 こうして改めて郁を喜ばせようとしてくれるのが嬉しかった。 「今日で、いいか?」 「―――いや、って言ったら・・・?」 「―――どうするかな」 今日以外考えてなかった、と困ったような声に、郁はくしゃりと泣き笑いの顔を向けた。 「本当はあの日、俺の中で交際記念日になる予定だったんだ」 郁が落ち着くのを待って、堂上は語りだした。 「お前はいっぱいいっぱいで気付いてないみたいだったが、俺だって緊張してたんだぞ」 「うそ」 「嘘言ってどうする。 ―――言っただろ。好きになったのは俺の方が先だったって」 「でも、だって・・・そんな、全然」 「まかり間違って早々に“デート”を切りあげられたら堪らんと―――最後に言うつもりだったんだが」 言って堂上はガシガシと頭を掻いた。そうならなかった理由は郁にも分かった。 「―――それであたしに言わせるとか、ずるい」 「ああ」 身を乗り出して、堂上が郁の頭に手を乗せクシャリと撫で引き寄せた。 「だから今日、あの日言えなかった分を、それ以上の事を言うぞ」 「笠原郁さん、俺の妻になってください」 |